ヒロの本棚

本、映画、音楽、写真などについて書きます!!

【本】中村文則『カード師』~運命に抗う2枚のジョーカー~

1、作品の概要

2021年5月7日に刊行された中村文則の長編小説。

朝日新聞に2019年10月1日から2020年7月31日まで連載された。

占い師、ディーラーと2つの顔を持つ主人公が、カードに運命を翻弄されていく。

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2、あらすじ

実の父を知らず、母親から虐待されていた主人公は、児童養護施設で育ち職員の山倉の影響を受けて手品師を目指す。

オカルトにのめり込み、悪魔のブエルを呼び出した彼は、やがてタロットを使った占い師と、夜はカジノのイカサマディーラーとして生きるようになる。

ある組織からの依頼で、不可思議で巨大な力を持つ男・佐藤と関わることになるが、彼の運命は激しく変遷していく・・・。

タロットカードとトランプの2つのカード、神と悪魔、生と死。

運命に抗おうともがく人々の物語。

カード師

カード師

  • 作者:中村 文則
  • 発売日: 2021/05/07
  • メディア: 単行本
 

 

 

3、この作品に対する思い入れ

そんなに熱心な読書家とは言えない僕が、発売日に必ず買って読みたいと思える作家の一人が、中村文則です。

 朝日新聞に連載されていたことで近々刊行になることは知っていて、以前から楽しみにしていました。

前作の『逃亡者』がとてつもない傑作で、尚且つ土地や歴史のもつルーツと個人の歴史をリンクさせるようなスケールの大きな作品だったので、もしかしたらギャップで肩すかしを食らうかもしれないとか思っていましたが、全くの杞憂に終わりました。

本当にこの作家は凄い。

どこまで行くのだろう。

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4、感想・書評

①主人公の生い立ちと世界 

中村文則の小説でくり返し使われるテーマですが、 『カード師』の主人公も家庭の愛情に恵まれず、児童養護施設で成長します。

母親はいるのですが、父親はどこの誰かもわからずに虐待されて・・・という痛ましい状況で、家のドアを開けた時に母親とよその男が性交している場面を目撃してしまったことでドアを開けることに恐怖を覚えるようになってしまいます。

ドアを開けた先に自分を傷つけるものが待っているのかもしれない。

初めて施設に来た時に入口のドアを開ける時にも、そんなトラウマから彼は躊躇してしまいます。

ドアを開けるという行為は、今いる場所から新しい世界を繋げることで、ドアを開けるたびに新たな出会いがあったり、自分を傷つけるような災禍が待ち構えていたりします。

カードをめくる行為と同じように作中でドアは象徴的に描かれています。

 

また『ディオニュソスの会』に入会して無数の男女が性交する姿を眺めることで、性的に放埒な母親の行為を正当化しようとします。

世の中の他の男女もこんなに乱れているのだから、自分の母親がああいった振る舞いをするのも至極当たり前のことなのだ・・・。

そう自分の意識に刷り込んでいくようにも見えました。

複数の男女の性行為をじっと眺めているなんて、あまりノーマルだとは思えませんね(^^;;

歪んだリビドー。

 通りすがりの女性や、施設にいる年上の女性を穴に落としていく妄想に苛まされていたのも母親との関係の構築がうまくいかず、女性という存在をどこか空恐ろしい理解できないもとして捉えていたのかもしれません。

彼の妄想の中で突き落とされる女性は顔が消えて、女性そのもののようになっていたのですから・・・。

落とす時、奇妙だったのは、彼女達の顔がなくなっていくことだった。背中を押すときのイメージが後ろ姿であるのが原因かもしれない。穴の中に入った後も彼女たちは個性をなくしたままで、なんというか、女性という象徴的な存在になるのだった。

 

家庭の愛に恵まれずに育った主人公を導いていく「メンター」の存在。

中村文則の多くの作品で登場する「メンター」に当たるのは、主人公にカードの存在を教えた施設の職員の山倉になるのでしょう。

ともすれば殻に閉じこもり、何か得体の知れない欲望に押し流されそうになる彼でしたが、山倉から教えてもらったカードで世界との接し方を学んでいきます。

それはとても歪な形だったのかもしれませんが、きっとそのようにしか世界に触れることができなかったのでしょう。

ブエルに山倉を遠くに追いやって欲しいと願い、偶然とは言えその願いが果たされます。

主人公が山倉という存在から離れたいと願ったのは、いつか自分自身の歪みや暗部が取り返しのつかない事件を起こして、失望されるのが怖かったのでしょう。

 

山倉と主人公が交わす最期の会話の場面がとても好きです。

悲劇や狂気に彩られたこの作品の中での数少ない希望。

山倉は主人公にとってもメンターであり、同志のような存在でもあったのだと思います。

山倉自身も酷い家庭環境に育っていて、主人公に対してもシンパシーのようなものを抱いていたのではないでしょうか?

「成功するって出たよ。凄くいい運勢だった。絶対上手くいくよ」

山倉の目に不意に涙が浮かんだ。僕の頭の上に手を置き、そのまま抱き締めた。彼はこのような身体的接触に躊躇するタイプだと感じていたので、僕は驚いた。別の職員から、山倉は子供の頃、とても酷い環境にいたと聞いた。

「僕が好きな日本の諺がある。ちょっと滑稽な言葉だけど」

山倉は僕の目を見た。

「トンビが鷹を生む」

(中略)

「だから気にするな。君は”自由”だ」

 

たとえ恵まれない環境で、親からの愛情を受けられなくても、可能性は広がっているし自由に生きることができる。

きっと、大丈夫。

ダメな親(トンビ)だって、素晴らしい人間(鷹)を生むことがあるんじゃないか?

そして、山倉から彼に受け継がれたバトンは最終章で受け継がれたように思います。

主人公もあの少女にとってのメンターのような存在になっていったのでなはいかと想像します。

 

②悪魔のブエルとオカルト。あるいは犯罪心理学について。

今作は本当にたくさんのエッセンスが散りばめられていて、ちょっとやりすぎじゃないの!?とも思えるのですが、そのすべてが人間と運命の関係に全て結びついていく感じがゾクゾクしました。

近作では、『教団X』で脳科学、宗教、『R帝国』ではディストピア、戦争、政治、『逃亡者』で歴史と土地と個人の繋がりについてそれぞれ違ったテーマがありました。

中村文則は、物語の作り方や登場人物はそれなりに定型がある作家だとは思いますが、テーマは毎回違っていて楽しませてくれます。

 

『カード師』でも、運命、賭博、占い、神と悪魔、宗教、オカルトなどのテーマが複雑に絡み合っています。

悪魔を呼び出す描写や、錬金術、占いなどのオカルティックな要素も妖しくて良いし、中村作品で今までなかった要素だと思います。

主人公は魔法陣で悪魔ブエルを呼び出し、彼の内面にブエルが棲みつくようになりますが・・・。

 

ブエルの存在。

読みながら、少し困惑してしまいました。

悪魔が実在する?

彼らが人間の内面にすみついて影響を与えるとも?

神戸の猟奇殺人事件の酒鬼薔薇聖斗が生み出した「バモイドオキ神」のような自我を投影したような存在だったのでしょうか?

?マークがたくさん飛び交うところですが、悪魔のブエルは主人公の内面にとても大きな影響を与えてます。

それはひとつに呪いであり・・・。

この作品のキーとなる存在だったのだと思います。

 

余談かもしれませんが、僕は40代のオッサンですがオカルト大好き人間であり、物語に悪魔だとか、神話だとか出てくるとテンション上がります(笑)

子供の頃にファミコンでやったカルト的RPG女神転生』(正確にはうちはゲーム厳禁で友達の家で見てただけですが)の影響で悪魔とか北欧神話とか好きになりました。

ゲームの内容は神と悪魔を味方にしながら敵の神と悪魔たちと戦うという内容でした。

僕はこのゲームで神話に興味を持ち、小学校の図書館で北欧神話ギリシャ神話を読みました。

思えば、小学生の頃が一番本の虫で、片っ端から読んでた気がします。

小学校の時にクラスの友人に「何読んでるの?」って聞かれて「北欧神話だよ!!」って答えるヒロ少年(笑)

『カード師』のオカルト展開は僕的にどストライクでした。

ちなみに当時は、孔雀王に憧れて九字を切ったりもしていました(笑)

 

まぁ、そうやって小学生の頃にオカルト的なことに熱を上げる時期もあるのかもしれませんね。

スプーン曲げに、コックリさん、学校の七不思議・・・。

でも、そういったオカルトにのめりこむ時期は短くてあっという間に忘れ去られていきます。

ブエルが主人公の前から姿を消して意識の奥深くに身を潜めたのもそのようなりゆきからかもしれません。

 

ブエルは、バモイドオキ神のように彼に指令を与えます。

女性たちを深い穴に突き落とすこと、山倉を殺すこと、学校のクラスメイトのKを痛めつけること。

人間が通常持っている理性。

それを超えたところに犯罪行為があるのかもしれませんが、通常は倫理というブレーキがあってその犯罪行為を成すことができません。

 

それでもその何かを、倫理を超えて罪を犯したいと人が願うときに、神や悪魔の力が必要なのかもしれません。

もちろん精神的な架空の存在として。

何か超常的な存在からの指令で倫理を人の道を踏み外していく、人間を超えていく人の皮をかぶったまま獣になっていく。

そうやって猟奇的な犯罪は生まれていくのでしょうか?

犯罪心理学を学んだ中村文則らしい描写だと思いました。

 

正常と異常。

有罪と無罪。

それは本当に紙一重でひとつの細い線の向こう側とこちら側なのかもしれません。

第2章での幼少期の描写ではそういったギリギリのやりとりが描かれいます。

もう少しで、取り返しのつかないほど大きな犯罪を犯していても、誰かを決定的に損なってしまっていてもおかしくなかった。

ブエルが実在したかどうかは別としても、ブエルの存在を呼び寄せたのは彼の不安定に動く心であったわけで。

少年時代から、ギリギリのところを切り抜けて生きていたことが窺えます。

 

 ブエルは、主人公に呪文で痛めつけられたことを根に持っていてたくさんの呪いをかけます。

でも、それは自己がかけた呪いでもあって・・・。

やはりブエルは潜在意識だったのでしょうか?

踏まなければ、私はもっと君を狂わせることになる。できないならもう容赦はしない。君は完全に私の下に入り支配されることになる。君は君を失う。もう君の将来など意味もない。

 

潜在意識とすると成人になってから主人公の夢に現れるブエルの存在は説明がつかない部分があります。

これまで、正しい方向に導くメンターが描かれることが多かったですが、ブエルは負の方向に導くカウンターとしての存在として描かれたのでしょうか?

 

③賭博を描いた物語、占い師とディーラー

ドストエフスキーの作品に多大な影響を受けた中村文則

この作品は『賭博者』のようにギャンブルに人生を翻弄されていく人々が描かれています。

僕は『賭博者』読んだことないけど、村上春樹ノルウェイの森』で永沢さんが「可能性があるのにそれを避けて通ることは難しい」みたいなことを言って引用していました。

この時の可能性とはは、女の子をナンパすることでしたが(笑)

『カード師』でも似た言葉が出てきます。

「言いたいことはわかるよ。でもあのカードを無視する人生を・・・、目の前にあのカードが来て、あそこで降りるような人生を選んで・・・、何が面白い?」

そうかもしれない。あれは抗えない。

賭博の魅力の本質を言い当てたような言葉のように思えます。 

そこに可能性があるのに避けるような人生の何が面白いのか?

 

クラブRの賭博の場面は本当にスリリングで胸がドキドキしました。

ほんの数時間で大金持ちか、破滅か。

コインの表と裏のように運命が残酷なほどに明確なコントラストを描き出していきます。

賭博の魔力。

そういったものに魅せられた人々が集まってくる魔窟のような場所。

 

主人公は自分の命が消え去るかどうかの瀬戸際もカードを用いてなんとかギリギリで切り抜けます。

山倉からカードマジックを教えられて以来、カードの力で世界と相対して乗り切ってきたのでした。

現実がこんな風であるのなら、受け入れられないのなら、嘘で現実を変える。

イカサマ、ブラフ・・・。

ただの真っ当なカードゲームじゃない。

この世界の、人生の縮図みたいに勝つためにはどんな手だって使って生き抜いてみせる。

最終的にイカサマで生き抜いた主人公。

『掏摸』で主人公が盗みをする場面を思い出しました。

特殊な技能を持った主人公が特異な悪に見出されて、命をかけてミッションに挑む・・・。

物語の構図にも共通点があるように思います。

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④「悪」として描かれる佐藤

 『カード師』は、物語の構図として、『掏摸』によく似た作品だと思います。

生い立ちが不幸な主人公が、生き抜くために特殊なスキルを身につけてそれを生業としている。

そのスキルに目をつけた「悪」を為す人物との邂逅で、命を賭けた困難なミッションに挑んでいく・・・。

 

『掏摸』の木崎、『逃亡者』のBのような「悪」としての存在。

他人の運命を圧倒的な暴力で弄び、命を奪いながらそのことに対してさえも飽いているような・・・。

不条理の塊のような、まるで天災のような人間。

それぞれの物語の主人公は、「悪」の存在によって嵐の海の木の葉のように翻弄されます。

 

 『カード師』の主人公も佐藤に運命を翻弄されて、挙句の果てに命さえもその手に握られてしまいます。

しかし、今までの歴代の「悪」としての存在より何かしら毒々しさは薄まっている気がします。

佐藤は主人公の精神にどこかしら壊れているところを感じていて、自分の抱える虚無感や狂気と似たものを感じていたのではないでしょうか?

ストーンズの曲じゃないですが、まさに「Sympahy for Devil」ですね(笑)

 

佐藤がグラスの水を飲む。飲み干す。

「味気すらない。何もない。・・・そして私は前から、君が時々見せる表情が気になっていた。無表情とでも言うか、君が表情を作るときではなく、ふとした瞬間の表情。この世界を虚無的に眺める視線。君はもしかしたら私と同じように、たとえばあらゆる風景を味気ない図形のように見ることがあるのではないか、・・・そしてさっきの声だ。私が能力があるかと尋ねた時、自ら否定した声。無念さがあった。命が惜しいとは別の感情。・・・私はある意味、十年後の君かもしれない」

 

主人公が持っていたタロットカード。

発狂した物理学者が作ったカードが佐藤に結びついていく・・・。

運命の悪戯というか、神の見えざる手を感じてしまうような偶然。

最終章での佐藤の遺書の内容にトリハダがたちました。

 

物理学とこの世界の運命について。

宗教とオカルト。

英子氏。

運命と災害。

そして・・・、COVID19。

 

いや、詰め込みすぎなのかもしれないけど、僕は中村文則の物語終盤のこのたたみかけ方が好きですね~。

脳の快楽物質がドバドバ出まくってるような興奮と快楽を感じました。

物語でこれだけトベるんだから、僕にとってドラッグは必要ないなっていつも思います(笑)

 

⑤運命に抗うということ

この物語の核。

運命と人間との対峙。

それは、古来からの決して叶うことのない人間たちの儚い夢。

無謀な挑戦でもありました。

 

僕が実家で子供の頃に読んでいた「マンガ日本の歴史」では、卑弥呼の時代に鹿の骨の割れ方で吉兆を占うというような描写がありました。

そのような古来から人間は、先にある未来を知りたいと強く願い、様々な方法で占おうとしていたのです。

 

人生は選択の連続だし、未来が見通せたらどれだけ良いだろうと思う瞬間がたくさんあります。

たくさんの運命の分岐点があり選択を迫られたり、知らぬ間に生死を分かつような大きな運命の分かれ道があったりします。

多くの人々がこの物語でも運命の濁流に翻弄されて、タロットカードや占いのような一条の細い光にすがろうとしています。

 

しかし、佐藤の遺書のように天災や事故などによって大切な人々の命は奪われる。

あの時、あの場所にいなかったら。

わずかな選択でおびただしいほどの運命の分岐点が生まれて、世界を形作っていていきます。

阪神淡路大震災東日本大震災、交通事故。

何故なのか?

運命の悪戯で人生が変わっていく。

 

運命と聞くと僕はいつも宇宙に浮かぶ大きな円環を想起します。

運命も生命も、この世界にある様々なシステム全てが何かの円環であり、全ては循環しているようなそんなイメージにいつもとらわれています。

全ては繋がっている。

 その繋がりの法則を読み取って、運命を変えたい。

そのような願いを持って、無謀な勇敢さを持ってドンキホーテのように運命の風車に向かって挑み続ける。

『カード師』はそうやってもがき続ける人々の物語であったのでしょう。

 

Iはように世界の真理を理解することで運命の仕組みを理解しようとしたのかもしれませんが、佐藤は自らが翻弄されて自分の近しい人たちを奪っていった運命に対して怒りの声を上げ続けます。

運命を受け入れて粛々と生きるのをよしとせず抵抗し続ける・・・。

それはもしかしたら「生き方」の問題だったのかもしれません。

「本当に次の天災を占いで知りたいというよりは、・・・彼らの死に抵抗している人間がいると何かに見せたいのでしょう?天災だから人間が亡くなるのは仕方ない、そう納得していない人間もいるのだと。誰かが彼らのために怒り続けなければならないと。だからそうやって、世界の仕組みに対峙しているのではないですか」

 

何に対して「彼らの死に抵抗している人間がいる」と見せたいのでしょうか?

この世界の運命や真理といったシステム、もしくはそのもののような神か・・・?

途方のない話ですが、決して受け入れたくはなかったのでしょう。

私が能力があるかと尋ねた時、自ら否定した声。無念さがあった。命が惜しいとは別の感情。

 繰り返しになりますがこの部分。

主人公もまた運命に対して不条理、強い怒りを感じていて抗おうとしていたのでしょう。

だからこそ運命を、先の未来を見通すことができない自分に対して無念さを感じていたのじゃないでしょうか?

そして、佐藤は主人公のそういった精神に共感を覚えて彼を生かしたのかもしれません。

 

主人公の持っていた「運命に対しての怒り」とは、家庭に恵まれずに愛情を知らずに育ってしまい、歪んだ世界に、悪に自分の人生を翻弄されることに対しての理不尽さ・・・。

こんな世界、運命は到底受け入れられることなんてできない。

その想いが、「現実がこんな風であるのなら、受け入れられないのなら、嘘で現実を変える」という言葉に変わったのでしょう。

主人公が未来を切り開く力を与えられたカード。

その力を使って現実を変革して生き抜いていく。

そういった覚悟と気概を感じる言葉でした。

 

そんな主人公の半身とも言える存在が英子氏だったのかもしれません。

彼女もまた凄惨な環境で育ち、同じ環境で育った姉の意志を汲んで彼女自身がたどった運命とは違った現実を、終わってしまった物語の続きを描こうとした・・・。

到底受け入れられない現実、終わってしまった物語を嘘で変える。

英子氏と主人公はとてもよく似ていて、魂の深い部分で繋がれるような存在だったのかもしれません。

 

でも、彼女はドアの向こうに行ってしまう。

「半分以上がなくなる」

主人公の半身は失われてしまったでしょう。

ブエルの呪いは二人を引き裂いたのでしょうか?

うん。もう今後一切、君の人生には山倉のような人間は現れないと。・・・女性も含めてね。

 僕は茫然とブエルを見た

 

ブエルはもしかしたらこの世界の真理のようなものに繋がる存在だったのかもしれません。

そこには神も悪魔もなくて・・・。

人々の意識の中に、共通の一なる何かに繋がるような存在。

エピローグを読んでそんなふうにも思いました。

 

ブエルは主人公にとって山倉のような導いてくれる存在も、心の糧となるような英子氏のような女性も現れない、と呪いをかけました。

それでも、今度は主人公が誰かにとってのメンターに、山倉のようになれることはできるかもしれない。

また違った形で世界と、人間と繋がって新しいドアを力強く開けることができるかもしれない。

 

自分が育った施設の前で出会った少女とのやり取り。

施設で生活する彼女が地震の夢をみて、耐震に不安がある施設を工事したいという訴え。

天災や運命に対して備える、抗うこと。

かつての自分と同じ境遇にある彼女に、主人公は希望を提示します。

そして、世界は瞬きをする間に変化して、人間は運命に抗うことができることを示唆したのではないでしょうか?

「3つ数えよう3、2」

カードが〈ハートA〉に変わる。少女が短く声を上げた。

〈クラブ8〉と〈ハートA〉の背を貼り合わせてあるのだが、少女からは見えない。僕はひっくり返しただけだ。

「この世界ではこんなことが起こる」

少女はまだ驚いたままカードを見ていた。

「だから大丈夫。もうすぐあの建物は頑丈なものに変わる」

「本当?」

「君の手品は現実になる」

 

『掏摸』での子供とのやり取りを思い出しました。

山倉というメンターに施設で出会って、世界を生き抜く術を与えられてジョーカーになった主人公が、今度は同じ施設の女の子に現実を手品で変えてしまう術を教える・・・。

中村文則の物語で提示される一握の希望。

パンドラの匣から最後に出てきた希望。

主人公から希望を与えられた少女は、これからどんなドアを開けて、運命に抗っていくのでしょうか?

 

 

 

5、終わりに

いや、もうすごく濃密な物語でした。。

何かとても色々なものが詰め込まれていて、最期の点と線が繋がっていく感じが半端なくて魅了されました。

いや、もうただただ『カード師』の物語に魅了されました。

 

物語としてもよくできているのですが、この世界と運命の謎、真理。

とか言うと、何かの新興宗教みたいですが(笑)

そういった「深淵」に触れるような物語でした。

 

印象深い言葉が多すぎて、おそらく書評を書いたブログの中で一番引用が多かったように思いますね(笑)

改めて中村文則のセリフまわしの上手さ、言葉の深さを感じました。

 

運命の、この世界の不条理。

生まれながらにして背負う荷物の重さの違い、辿る運命の残酷さ。

受け入れるか・・・?

それとも・・・、抗うか?

今日もこの世界のどこかで、運命というカードはシャッフルされる。

 

 

 

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【本】村上春樹『ノルウェイの森』~どんなに深い哀しみも、やがて全ては通り過ぎて消え去っていく~

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1、作品の概要

 

1987年に発表された村上春樹5作目の長編小説。

短編『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収録の『螢』を基にして書かれた作品。

書き下ろしで上下巻2冊で刊行された。

上下巻合わせて1000万部を超えるベストセラー作品になり、村上春樹の作品としても最大の発行部数となった。

2010年に松山ケンイチ主演で映画化された。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: ペーパーバック
 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: ペーパーバック
 

 

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2、あらすじ

 

ワタナベは、高校時代に唯一の親友キズキが自殺したことで心に欠損を抱えたまま東京の大学に進学した。

キズキと交際していた直子と偶然再会して、心を通わせるようになるが、直子はワタナベの前から忽然と姿を消してしまう。

 

直子からの手紙を頼りに、心の病を回復させる施設「阿美寮」を訪れたワタナベはルームメイトのレイコさんとも交流しながら、直子を苛んでいる心の病のことを知る。

同じ頃に大学で知り合った活発な女性・緑と交流を深めて、次第に惹かれあうようになっていく・・・。

 

生と死。

緑と直子、2人への思慕を通して、ワタナベはどこにたどり着いたのだろうか?

 

ノルウェイの森

ノルウェイの森

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 


www.youtube.com

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ

 

ユーミンが「あなたは私の青春そのものぉ~♪」って歌ったように、村上春樹ノルウェイの森』は僕の青春そのものですね。

もっと、楽観的でパリピな青春だったら良かったのですが、まぁ何だかこんがらがった時代だったのですよ。

 

ともあれ19歳の時に、初めて読んだ村上春樹の作品であり、それ以降何度も読み返していいる僕にとって大事な作品です。

全く色褪せることはないですし、読むたびに新たな意味を持って僕の心の中に立体的に浮かび上がって何かを訴えかけてくるような特別な物語ですね。

 

思い入れが強すぎて、『ノルウェイの森』の書評を書くには少し覚悟が入りましたし、自分の中で機が熟すのを待つ必要がありました。

こんなメガネのオッサンが書くよくわかんないブログに、覚悟とかそんな大げさなと思われるかもしれませんが(笑)

まぁ、生まれた時から大げさな人間なんです。

 

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 BGMはもちろんビートルズの『ラバー・ソウル』♪

 

 

4、感想・書評(ネタバレあり)

ミッシングリンク。なぜ村上春樹は『ノルウェイの森』を書いたのか? 

このブログの主目的は、村上春樹中村文則の小説の書評を時系列的に書くことで時代を遡って時系列的に感想を書くことで作者の変化や成長を辿ることができるのでなはいかと思っています。

とは言っても、村上春樹はエッセイ、翻訳も含めると膨大な量になるので長編小説と短編小説を主に書いています。

そうしてブログで、村上春樹作品の書評を書き進めてみて気づいたのが『ノルウェイの森』の特殊性でした。

 

1979年に『風の歌を聴け』でデビュー(僕はその頃2歳だった)した村上春樹は、『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の『鼠3部作』と言われる作品を経て、1985年にファンタジーサイバーパンク路線全開の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を書きます。

 

そして、2年後の1987年にこの『ノルウェイの森』を書き下ろしで刊行するわけですが、何かこの流れに強い違和感を感じるのは僕だけでしょうか?

ちなみに1年後の1988年に、鼠3部作の続編『ダンス・ダンス・ダンス』を刊行しています。

ノルウェイの森』も『ダンス・ダンス・ダンス』も単行本としては初の上下巻分冊という分量で書かれていますが、異例とも言える短いスパンで書かれています。

 

何か強い動機付け。

どうしてもこの時に『ノルウェイの森』を書かなければいけなかった理由があったのではないでしょうか?

しかも、一切のファンタジー、SF路線を排除した「100%リアリズム小説」です。

国境の南、太陽の西』も「100%リアリズム小説」ですが、『ノルウェイの森』は村上春樹の作品の中でも異彩を放っています。

まるで人類の進化の途中で見当たらないDNAの一部分、「ミッシングリンク」のようです。

 

そして、「鼠」や「僕」といった名前を持たない人々の物語であった村上春樹の小説に初めて名前が出てきます。

主人公のワタナベや親友のキズキはカタカナですが、直子や、小林緑など、物語がリアリズムであることの必然として名前が出てきます。

これは、いささか唐突な変化であるように思います。

 

その疑問に対して、ヒントのようなものが呈されたと感じたのは、最新の短編集『一人称単数』が発売されて『ウィズザ・ビートルズ With the Beatles』を読んだ時でした。

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 この作品で描かれていた体験が村上春樹自身の経験ではないかと、僕には感じられました。

彼が覚えた哀しみー自分がかつて心を許した女性が、自ら命を絶ってしまうという経験ーを『ノルウェイの森』という作品に込めたのでは?

作品中の描写をそのまま現実のものとして信じるなら1965年に17歳の時に付き合っていた彼女と1968年に別れて、1983年に再会した彼女の兄から、彼女の自死を聞かされる・・・。

それから1987年に『ノルウェイの森』が刊行されているわけですから時系列的に辻褄が合いますし、ワタナベが感じていた哀しみは村上春樹自身の哀しみで、彼女への想いを物語にしたのではないかと僕は思っています。

 

『ウィズザ・ビートルズ With the Beatles』の彼女の死は、まるで『ノルウェイの森の』ハツミさんの死を思わせます。

2人とも幸せな結婚をして、家庭を持ちながらある日突然命を絶ってしまいます。

残された人間はその死の理由が思い当たらずに途方に暮れます。

 

②死の香りに満ちた物語。黄泉比良坂。

キズキ、直子、ハツミさん、直子のお姉さんは自ら命を断ち、緑の父親は病気で亡くなります。

改めて読み返してみて、『ノルウェイの森』は「死」の概念に満ちた物語だったのだなとおもいました。

ダンス・ダンス・ダンス』でも「死者とのダンス」という言葉が何度も出てきて死にまつわる作品ですがどこかポップな印象があります。

ノルウェイの森』はそれらの死がもたらす痛みと哀しみを克明に描いた、鎮魂や再生といったキーワードが浮かびそうな物語だと思います。

 

死は、生と別々に存在して、死を迎えるその瞬間まで生と死は交わることがない。

そう考えるのが一般的な考え方かもしれませんが、死は生の対極としてではなく、その一部として存在しているという文章が出てきます。

生の中にも死が含まれていて、少しずつ死の影響を受けながら人は生き続けている。

それは、一つの可能性であったり、観念的なものかもしれませんが、死は生に対して影響を与えてその形を変えていってしまうこともあるのではないでしょうか?

 

しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの17歳の5月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。

 

 実際にキズキの死は、ワタナベ、直子の心に深くて暗い影を落として、時には輝かしい生よりも雄弁に2人の心に語りかけているように思いました。

10代の終わりと20代の初めの、最も輝かしく生命力に満ち溢れた我が世の春とも言うべき素晴らしい時代に死とともに生きて、その影に侵蝕されながらもがき、やがて・・・。

物語の中心には常に死があります。

だからこそ緑の持つ眩いばかりの生命力や、死に捉えられながらももがいて進もうとするワタナベの姿がより輝いて見えるのでしょう。

 

ワタナベの親友・キズキは直子と幼馴染でありお似合いのカップルで、まるでお互いの魂を分かち合っているような、深い結びつきを感じさせるような特別な関係でした。

そんなキズキが理由も告げずに17歳の時に自ら命を絶つ。

直子にとって半身をもがれたような衝撃的な出来事であり、明るく朗らかだった彼女の心を次第に蝕んでいきます。

直子は、生きながらにして死者の世界に片足を突っ込んでいるような状態で、細胞が少しずつ壊死していくように魂が少しずつ死に向かっていっていたのでしょう。

 

ワタナベは、キズキの属する死の世界へと引っ張られていく直子を心から愛するようになり、懸命に引きとめようと奮闘します。

僕はこの本を読むたびに、イザナギイザナミの古い神話を思い出します。

亡くなった妻・イザナミを取り戻すために、黄泉の国に向かったイザナギは彼女を取り戻して地上を目指すが、生者の国に帰り着く前に後ろを振り返ってしまい、醜く変わり果てたイザナミを置き去りに逃げ帰ってしまうというお話。

ワタナベもイザナギのように、死の縄目に捉えられた直子を救おうとしますが、結局うまくいきませんでした。

 

直子にとってキズキは唯一無二の存在で、彼に替わるような存在を彼女はこの世界で見つけることはできなかったのでしょう。

キズキの想い出を共有して、心を通わせたかのように感じたワタナベのことでさえも直子は愛することができずに彼の手を振り払ってキズキのいない世界に別れを告げたのでした。

 

直子はワタナベに何を求めていたのでしょうか?

「私のことをいつまでも忘れないで」

答えは冒頭の場面にありました。

直子は死に向かっていく自分の心を意識していたのかもしれません。

そして、もしかしたらこの言葉は「私たちのことをいつまでも忘れないで」でもあったのでしょうか。

直子とキズキの2人がとても大事に思っていたワタナベに。

いつまでも覚えていて欲しいと願ったのかもしれません。

 

なぜ彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子はしっていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向かって訴えかけなけねばならなかったのであ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

 

死にゆく者にとって、誰かに覚えていて欲しい。

誰かの心の中で生き続けたいと願うことは、いつの時代も変わらないことなのかもしれせません。

お墓にお参りに行って死者を悼むのも、お盆に死んだ先祖の魂を迎えたりするのもそのあらわれなのでしょう。

たとえ、生者にとっての記憶が、徐々に消えていってしまうのだとしても・・・。

 

③直子とワタナベ

高校時代のワタナベとキズキは唯一無二の親友同士で、キズキの彼女である直子も交えて3人で会うことが多く、その奇妙なトライアングルは絶妙なバランスで機能してそれぞれに楽しい時間を過ごすことができていました。

ただ、ワタナベはキズキが持っている座談の才能のようなものに感服し、何故その力を広く他の人間にも使わないのかと疑問を抱いていましたが、直子はキズキがワタナベに対して良い面を見せようとして必死だったことを知っていました。

そして、自分を変えようと、向上させようと努力しながらも上手くいかない現状に自信をなくしてしまっていた。

もしかしたら、そんな傾向がキズキを死へと追いやったのかもしれないと感じました。

 

元々、ワタナベと直子はキズキを介してしか交流はなく、キズキの死後は顔を合わせることもなく東京の街で偶然に再会します。

共通の話題はキズキのことしかないはずだけど、2人はキズキのことには触れずにあてどなく東京の街をどこまでも歩き始めます。

まるで魂の傷を痛みを回復させるような巡礼の旅であるかのように、何か密やかな儀式のように身を寄せて歩く2人でしたが、まるで臆病な野生動物が少しずつ懐いて身を寄せるようにその距離を縮めていきます。

 

彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持ちになった。

 

ワタナベは少しずつ直子に惹かれていき、彼女と過ごす週末の時間を待ち望むようになります。

対して直子はワタナベとの関係に特別なものを感じながらも、人を愛する心はキズキの死と一緒に失われてしまっていたのではないでしょうか?

 

ワタナベは、直子の深い混乱と闇を包んで、もう一度温かい光が降り注ぐ世界へと連れ出そうとしますが・・・。

結局、それは果たされませんでした。

 

④ワタナベにとって緑の存在とは?

緑と直子。

ワタナベの前に現れる2人の女性は、彼の心を深く揺り動かします。

直子が死の象徴だとしたら、緑はまるで生の象徴のように健康的で生き生きと輝いています。

 

緑は緑で母親と父親を介護して最後まで看取り、経済的にも困窮して一般的に考えると随分と辛い想いをしながら生きてきました。

ただ楽天的で、明るいだけの女性ではなくて、とても困難なところをくぐり抜けてきたような力強さとしなやかさがあります。

そして、しっかりと自分の考えと価値観を持っていて、周りに対してもしっかりとそのことを表現できるタイプでワタナベが惹かれていくのもよくわかります。

 

ワタナベにとって、緑と過ごす時間はキズキとの想い出や、直子へのあてどない想い、そして現実から遊離していく自らの魂を現世につなぎとめるようなアンカーの役割をしていたのかもしれません。

 

「君にあったおかげで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。

緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶんとしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこうよいことあるでしょ?

 

直子がいる阿美寮から戻ってきたワタナベに、緑が投げかけた言葉。

阿美寮での直子との時間は、どこか現世離れしていてまるで桃源郷か何かにいるようでした。

どこか遠くに行ってしまっているワタナベの意識を現実に引き戻してくれました。

 

緑と出会った時のワタナベは直子に強く心惹かれていて、緑も付き合っている男性がいました。

しかし、一緒にいる時間が増えていくにつれてお互いの存在は何か決定的な存在になっていきます。

途中で、ワタナベは緑に惹かれていってしまっている自分の心に気づき、葛藤します。

直子と一緒にいる時に感じる「おそろしく静かで優しくて澄んだ愛情」と対照的な、「立って歩き、呼吸し、鼓動して、心を揺り動かす」緑に対しての愛情。

どちらが正しいなんて理屈はなく、ワタナベ自身が直感的に緑へと惹かれていったのだと思います。

 

⑤個性的な寮生の永沢さん

 『ノルウェイの森』には様々な個性的な人物が登場しますが、特に印象的だったのが寮の先輩の永沢さんですね。

独自のシステムを作り上げて、自発的な努力ができて、周りからの評価なんて気にかけずに我が道を突き進む永沢さん。

超エリートで教養もあって、ハツミさんという素敵な彼女がいながらもワタナベを誘って夜の街で行きずりの女性と一夜を共にする。

とても高潔な一面と、下劣な部分を併せ持って自分の歪みさえもシステム化して強さに変えていくような特異な人間ですが、彼もまた彼なりの地獄を抱えながらも生きていたのでしょう。

 

何かに追われているように常に前進して、自らを強化していく・・・。

それは、まるでひとつの呪いのようにも見えます。

 

永沢さんは、ワタナベが『グレート・ギャツビー』を何度も読み返していることを知って彼と親密になります。

あまり控えめで自分の世界にこもりがちなワタナベとは、あまり共通点がなさそうですが、何か自分と共通する感覚を持っていることを嗅ぎ取ったのでしょうか?

確かに周囲の評価を気にせずに、自分の世界にこもって生きているようなところが、実は似通っていたのかもしれませんね。

「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人を切り離して考えることができる。俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ。ただこの男の場合自分でそれがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ」 

 

永沢さんの言葉で僕がめっちゃ好きな言葉が「自分に同情するな」「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」です。

20~30代の時に、何か困難な状況になった時にこの言葉がよく脳裏をよぎりました。

自分を哀れんで、状況を悲観しても何も変わらない。

だから自分に同情せずに問題を解決して前に進む。

頭で分かっていてもなかなか簡単なことではありませんが(^^;;

 

⑥直子との橋渡しをしてくれる姉のような存在のレイコさん

阿美寮の特殊な環境と、レイコさんのキャラクターは直子の心の光と影に寄り添い続けます。

直子の精神状態が良くない時でも、彼女に寄り添いながらワタナベとの橋渡しもしてくれるまるで姉のような存在でした。

彼女もまた永沢さんとは真逆の意味で個性的な人物ですね(笑)

 

表面的には明るく振舞っていて、大人として落ち着いた振る舞いを見せますが、彼女もまた精神を病んで阿美寮に入寮していて、過去に深い傷を受けていました。

幸福な人生の曲がり角に潜む「名前のない悪意」がレイコさんの人生と精神をバラバラにしてしまったでした。

でも、心に傷を持った繊細な精神を持つレイコさんだからこそ、直子の心の機微を汲み取りフォローできたのかもしれませんね。

 

直子の死後、失意のどん底にいたワタナベの背中を押したのはレイコさんで、彼にとってもメンターのような存在で有り続けました。

レイコさんもまた妹のような存在だった直子の死と、自責の念に苛まされるワタナベの存在があって、まるで桃源郷のような阿美寮から出て現実の世界にしっかりと足をつけて歩き出すことができたのでしょう。

レイコさんが、ワタナベにいうこの言葉が僕はとても好きです。

「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい」

 

「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、もうこれ以上何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」

 

縁側でレイコさんと、ワタナベでした寂しくない直子のお葬式。

何かの儀式のような優しいセックス。

再生への希望を感じさせる素敵なシーンでした。

 

⑦何もかもが通り過ぎていく

何か古い歌であったようにも思いますが、心の琴線に触れて、狂おしいほどに胸を焦がしても、涙が枯れるまで泣き続けても、やがて全ては通り過ぎて行き、やがてどこかに消え去ってしまいます。

あとに残るは、淡くかすかな残存記憶のようなもので、あれほどに魂を揺さぶられるよに感じていた喜びも哀しみも気付くとどこにも見当たらない・・・。

僕が感じる『ノルウェイの森』の物語の本質はそのような無常とも言うべきある種の人生への諦観です。

 

もちろん受け取り方は様々であって良くて、100%の恋愛小説であってもいいし、青春小説であっても良いと思います。

ただ僕にとってはこの物語の中に出てくる愛情も、仄暗い死も、結局時の流れに薄まり消え去っていくように感じるのです。

哀しくも残酷な諦念。

直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみをいやすことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしれその学び取った何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

 

どんな哀しみも、結局は全てを受け入れて通り過ぎるのを待つしかない。

そのような哀しみたちに対して僕達はいかなる備えもできないし、嵐の夜みたいにじっと家に閉じこもって通り過ぎるのを待つしかない。

やがて全ては通り過ぎて、自分の中にそんな哀しみがあったことすら消え去っていく・・・。

 

なんか書いてて寂しく絶望的な気分になってもきましたが、これが人生なのでしょう。

①で書いたように、村上春樹が強い哀しみ、過ぎ去った時間について想いをめぐらせて書いた物語だったのではないかと思います。

 

そうやって、哀しみを様々な出来事を通り過ぎたワタナベはどこにたどり着いたのでしょうか?

ラストシーンは、とても印象的です

僕は今どこにいるのだ?

僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。

 

荒波に揉まれ、翻弄されながらたどり着いた場所はどこかわからない場所だった。

ワタナベは何かを手に入れて、栄光に満ちた約束された場所にたどり着いたのではありませんでした。

とても象徴的で、示唆に富んだラストである種の虚無を感じました。

 

 

5、終わりに

 

なんだかまとまらずにダラダラ書いてしまいました。

途中で進まなくなったりして気付けば5月に・・・。

ほぼ1ヶ月かけてこの体たらくですね(^^;;

 

ただ最後に思っていたことは書けたように思います。

僕にとっても特別な作品ですし、これからも何度も読み返すのだと思います。

 

 

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【回想録】僕はボーイスカウト其ノ壱!!隊長は雨男!!豪雨の中でキャンプしまくった話♪

☆前口上~僕がボーイスカウトに入ったキッカケ~☆

 

実はここ2週間村上春樹ノルウェイの森』の書評を書いていたのですが完全に煮詰まり・・・。

なんだか気軽な記事を書きたくなりボーイスカウトネタを書き始めました!!

ノルウェイの森』は思い入れが強すぎて、なんだか書ききれないっすね。。

6000文字ぐらいは書いてるんですが、サグラダファミリア並に完成が見えませんがなーーーー。

どないしょ。

 

まぁ、元々気まぐれブログ。

開き直ってお気楽に書きます!!

真面目な文章書くのも良いですが、ちょいとおちゃらけた過去の話を書くのも好きですので~。

ちなみに以前、無人島の体験談を書いた時にそういえばボーイスカウトの経験も記事になるかもっておもいました。

 

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あれは、小学校3~4年生の時でしょうか?

学校の配布物で配られた1枚のプリント・・・。

あの1枚の紙が僕の運命を変えてしまったのです・・・。

いや、大げさですが(๑≧౪≦)

 

まぁ、田舎で特に刺激もなく、なんかキャンプとかできて面白そうだからっていう理由で友達数人と一緒に始めました!!

そう、僕の人生は大体ノリです。

大事なことを決めるのもノリです。

ゴハン食べるのは海苔です。

封筒くっつけるのは糊です。

yo(σ゚∀゚)σチェケラッ!

RAPというか、オッサンのダジャレwww

 

まぁ、とりあえずやってみる。

悩むならやってみる。

ってのが、僕の行動規範な気がします。

やらずに後でする後悔はシンドいんで。

 

そんなわけで、現代のロビンソンクルーソー(大げさw)こと私ヒロのボーイスカウト話の始まりです!!

 

 

 

☆はじまりはいつも雨・・・。隊長が雨男!?何故か雨キャンプの連続。。☆

 

ボーイスカウトは、幼稚園・小学1~2年生がビーバースカウト、小学3~6年生がカブスカウト、それ以降がボーイスカウトやらシニアスカウトやらなんちゃら。

と昇級していいきます。

僕は、中学生になる前に部活もあったので辞めてしまったのでカブスカウトとしての活動が主でした。

赤い羽根の共同募金をしている青い服の子供達を見たことはありませんか?

あの子達がカブスカウトです。

今は、昔はボーイとガールで分かれていましたが、今は一緒に活動してます(多分)

 

いざカブスカウト入隊しましたが、僕らの隊はとにかくキャンプ三昧でめちゃくちゃ楽しかったですね!!

近場のチャリで行ける場所が多かったですが、スカウト達が10名とか集合場所に寝袋と米を持って集まってテント立てて、飯盒でゴハンを炊いて、カレー作って、キャンプファイヤーしてとか良かったな~。

大人の隊長の付き添いも1~2人で、今考えるとだいぶカオスでした(笑)

夏場は海とか川の近くでキャンプして泳ぎまくって、素潜りで亀の手とか貝を採ってましたね~。

あっ、貝はニガテで食べられませんでしたが(๑≧౪≦)

 

楽しかったキャンプですが・・・。

ひとつ大きな問題点がありました・・・

それは・・・。

 

 

 

 

異常に雨の日のキャンプが多かったことです。。

 

 

 

 

 

うろ覚えではありますが、僕が参加した30回ぐらいのキャンプ中に雨が降らなかったのが1~2回とかの確率でした。

いや、盛ってるとか思うかもしれませんがそんな感じだったんですよ!!

なので、僕達はキャンプする前にテントの周りに浸水防止に溝を掘ったり、寝る前に靴をテントの下に入れて濡れないようにしたりと知恵がつきました!!

逆境こそが子供を大人にするのですよ!!

いや、でも晴れキャンプが良かった!!

 

あまりにも雨キャンプが続くので、ある噂が生まれました・・・。

僕らの隊のM隊長が雨男なのではないかという噂がっ!!

 

確かに、30回中の1~2回の晴れキャンプの1回はM隊長が休みで、別の体調が代わりに来た時で、そのキャンプの時はずっと晴れだったことを今でも覚えています。

あの時の晴れキャンプの快適さといったら・・・。

靴や靴下が濡れることもなく・・・。

テントをたたむ時に汚れることもなく・・・。

帰り道で、寝袋が濡れて母親に怒られることもなく・・・。

 

 

僕達は明るい光のしたで存分にキャンプを楽しんだのでした☆

 

 

そんな、M隊長の雨男の疑惑が確信に変わり、そして伝説へと昇華した忘れられない瞬間がありました・・・。

動画撮ってたら、TV番組『ザ・ベストハウス123』バリに、「これだぁ~ワン・ツー・スリー」とか言ってるとこですよ!!

 

あれは、年に1回の2泊3日の九州キャンプのことでした・・・。

夏祭りにバザー店を出店してかき氷とかところてんを売りまくり、その資金を元手に愛媛から九州(どこだっけ?大分かな?)に2泊3日の旅行キャンプに出かけるという年に一度の超ビッグイベント!!

それが、九州キャンプでした♪

なぜかはっきりは覚えてないんですが、めちゃくちゃ楽しみだったことは覚えています。

ただ、これから話す場面はしっかりと脳裏に刻み込まれていて、その後も伝説として僕達の間で長らくネタになりました。

 

その年の九州キャンプは僕達のキャンプには珍しく晴れのキャンプでした。

太陽の光は燦々と降り注ぎ、僕たちをのびのびとキャンプをたのしんでいました。

夜はキャンプファイヤーをして『遠き山に日は落ちて』を歌い、肝試しをして雨にテントが濡れることなく(ビニールのカバーはありましたが)キャンプを楽しんでいました。

 

賢明な読者の皆様にはお分かりまもしれませんが、この時もちろんM隊長は不在でした。

用事があるとのことで、2日目からの合流になるとのことでした。

 

どこまでも明るく僕達を照らしていた陽光は、2日目に入って厚い叢雲に覆われていきました。

「もっと光を」

ゲーテの最期の言葉だと言われていますが、僕もそのとき時空も距離も超えてゲーテを同じ言葉を共有していました。

 

しかし。

ゲーテと僕の願いは天に聞き遂げられることはありませんでした。

空を覆う雲は暗さを増していき、湿気を含んだ大気が降雨の予兆を感じさせていました。

「あゝ」

僕は天を仰いで祈りました。

「あんなに楽しみにしていた九州キャンプなんです!!神様!!どうかどうか!!雨を降らさないでください!!」

 

その時。

僕の視界の隅に1人の男が現れました。

「おおおおおいいいいぃいぃぃ!!!!!」

満面の笑顔で、手を振るその男が現れたその瞬間・・・。

天は堪えていた涙を零すように、堰を切ったように地表に雨を降らせました。

それは、ただの雨ではありませんでした。

豪雨。

叩きつけるように雨は降り注ぎ、僕達は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑いました。

激しい雨の中、M隊長は満面の笑みで歩き続けていました。

 

 

 

そして・・・。

M隊長の雨男が・・・。

生まれた!!

 

 

☆って、ブログでイジったけど、M隊長はめっちゃいい人!!☆

 

いや、マジだかんね!?

この『九州キャンプ豪雨事件』で僕達の間での『M隊長雨男伝説』は奇跡や神話の領域へと昇華されたのでした・・・。

どんだけやねん!!

 

でも、スカウト活動の引率と指導をしている隊長達はボランティアで活動していて、貴重な休みもスカウトの活動に使ってくれていて本当に頭が下がります。

また今度書きますが、長男もカブスカウトでお世話になりましたが、隊長さん達にはマジでリスペクトでした。

 

M隊長とは20年後とかにバッタリと地元に帰省した際に友達と寄った場末のスナックでお会いして昔話に花を咲かせましたが、子供達が楽しい想い出を作れるようにと考えてくださっていました。

「他にも色々必要な活動があるけど、やっぱりキャンプが一番楽しいだろ?だから活動のメインはなるべくキャンプにしてたんだよ。」

みたいな会話をして、めっちゃ感動しました。

大人になった今ならわかるけど、やっぱり愛媛の豊かな自然に触れながらキャンプして、みんなで笑いあった経験って僕の中でかけがえのない経験になっています。

隊長にまた会ったら伝えたい。

 

 

 

 

「でも、やっぱり雨男だよね!!」

 

 

 

 

って(笑)

「この野郎っ」て、あの頃みたいに小突かれるかなぁ(๑≧౪≦)

 

 

 

 

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【本】僕の読書歴~あなたが初めて読んだ本はどんな本ですか?~

☆読書との出会い☆

 

そのうち書こうと思っていたテーマなのですが、僕が読書するようになったキッカケや、これまでに読んでいた本なんかをユルく紹介しながら僕の読書歴を振り返ってみます。

いや、おもしろいかどうかはわかりませんが(笑)

まぁ、仮にもブログのタイトルに『本棚』と冠しているわけではあるのでたまには真面目に読書のことを話してみましょう。

 

ただ、ツィッターで読書垢と称されている方々と比べると、僕は読書家と言えるのかどうかわからないぐらいの半端物ですね(^^;;

本も読む時期と読まない時期もあるし、趣味の中のひとつであると思っています。

ただ、読書という行為が特別なのは、たとえ1年に1冊しか読んでいなかったとしても、その1冊が心に深く刺さってその人の人生を変えてしまうこともあるということでしょうか?

映画、音楽、絵画などにもそういった力はあるかと思いますが、読書という行為と本にはより深く刺さって、魂の奥深くまで訴えかける力があるように思います。

エヴァ的に言うと、刺さり方がロンギヌスの槍レベルだと思います(笑)

カヲルくん!!

 

僕が初めてちゃんと読書と向き合ったのは小学1年生の夏休みでした。

読書感想文の宿題が出ていたのですが、本と読むことに乗り気ではありませんでした。

読書より夢中になっていたのは漫画やアニメで、キン肉マンに夢中でしたね(笑)

 

そんな僕に母が買い与えてくれた本がジュールヴェルヌの『15少年漂流記』でした。

7歳の僕にとっては、絵本や漫画ではない初めての本で、読み始めるにはなかなかハードルが高かったです(^^;;

そこで、母がまず自分でその本を読んでみて僕にその本の感想を聞かせてくれました。

母が楽しそうに読んでいたので、僕も読みたくなって読み始めて『15少年漂流記』の虜になりました。

 

物語の先が気になって、延々とページをめくり続けるあの感覚。

読書が好きな方はわかりますよね?

僕はそのようにして初めて「読書」を体験しました。

 

ちなみにその本はまだ実家にあって、同じような手法で息子たちに読ませようとしましたがうまくいきませんでした(^^;;

残念ですけど、今の時代は昔よりゲームや動画などの刺激が多いので、なかなか読書に対して興味を持つのは難しい時代のような気はしますね・・・。

 

 

☆図書館に入り浸ってBOOK WARMだった小学生時代☆

 

小学生時代は、正に本の虫でした。

図書館に入り浸って片っ端から本を借りまくっていましたね。

最初は何故か伝記にハマってました。

戦国武将とか好きで、織田信長とか、徳川家康とか、豊臣秀吉とか、伊達政宗とか色々読みましたね~。

大河ドラマも『独眼竜政宗』がやってて、僕の出身地が伊達藩から来た大名だったこともあって夢中になっていました。

 

それから、ロビンソンクルーソーや、ジュールヴェルヌの『海底2万マイル』みたいな冒険小説。

『ズッコケ3人組』みたいな愉快な児童文学。

シャーロック・ホームズの推理シリーズは図書館の本をほぼ読破したような気がしますね(笑)

夢中になって夜遅くまで読んでしまったこともありました。

高学年の時に『三毛猫ホームズ』にハマって親戚から本を借りたりしていました。

 

まぁ、とにかく片っ端から読みまくっていましたね(笑)

友達とも遊んでましたが、ウチはファミコンを自由にさせてもらえなかったし、テレビもあまり好きじゃなかったので自然と読書の時間が増えていきました。

 

 

 

☆ファンタジーものが多かった中学生・高校生編☆

 

中学生時代は、宗田理の『ぼくらシリーズ』にハマってましたね~。

ぼくらの七日間戦争』が映画で大ヒットしたこともあってハマりまくってました。

 

それから友達に勧められた『ロードス島戦記』を読み始めてファンタジー小説に夢中になりました。

田中芳樹の『銀河英雄伝説』『アルスラーン戦記』『創竜伝』に夢中になりましたね~。

フォーチュン・クエスト』『ルナ・ヴァルガー』シリーズも好きでした。

 

高校の時は、一番読書していなかったかもですね(^^;;

なんかあまり本を読んだ記憶がないですねぇ。

シドニィ・シェルダンとかミステリーを読んでいたような・・・。

あとは、氷室冴子海がきこえる』は好きでしたね~。

本を読むより、この時期めっちゃドラマ観てたような記憶がありますね。

あとは、洋楽のロックにハマり音楽に夢中でした。

 

 

 

☆純文学との出会い。予備校~大学時代☆

 

予備校時代に、出会った友人がUKロックや、純文学が好きなナイスガイでめちゃくちゃ影響を受けました。

彼から、三島由紀夫太宰治川端康成などを進められて深く傾倒していきました。

 

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 なんせ予備校の寮はやることもなくて、図書館から借りてきた本を読みふけってましたね~。(いや、勉強しろよ)

全集で太宰治読んでましたしね(笑)

この時期に村上春樹ノルウェイの森』、村上龍限りなく透明に近いブルー』を読みW村上を愛読することとなっていきます。

山田詠美もよく読んでましたね。

 

大学に進学しても村上龍が一番のお気に入りでした『イン・ザ・ミソスープ』を書いたときなんかはめちゃくちゃカッコよくて、エッセイなども含めて時代のアイコンみたいな存在だったと思います。

 

この時期にドストエフスキーを読んでみたりしてました。

でも、文学を読む自分というアイデンティティを確立しようとしていたというか、「カフェで罪と罰を読んでる俺って尖ってるぜ」みたいな謎の自己アピールなんかがあったりもして難しい時期でしたね(笑)

純文学しか読まねーとか言ってましたし、音楽も映画も偏っていてめんどくさい人間だったと思います。

それでも、花村萬月平野啓一郎田口ランディなんかの作家が出てきて、江國香織をサークルの先輩に勧められて読み始めたりとか読書の幅が広がった時期でもあったと思います。

 

 

 

☆いろいろ読み始める社会人編。実用書、自己啓発本とかも☆

 

社会人になってから電車とバスで片道の通勤1時間半。。

この時期に宮本輝吉田修一重松清なども読み始めました。

ほとんど通勤中に読んでた気がしますね~。

 

20代中盤に村上春樹海辺のカフカ』が発売されてめちゃくちゃハマりましたね!!

職場に村上春樹RADIOHEADが好きな先輩もいて、仲良くしていただいてました。

笑顔が素敵なナイスガイで、カフカの話をしたり、RADIOHEADのライブも一緒に行ったりしました♪

 

30代になって子供も産まれたあたりから実用書、自己啓発本、育児書なんかも幅広く読み始めました。

パリピの介護職で、政治経済や世の中のことに疎かったのですが、子供が産まれて愛媛に帰ってきたりして、環境の変化もあったことで興味を持つ対象が広がっていきました。

藤原正彦国家の品格』、藻谷浩介『デフレの正体』、Dカーネギー『人を動かす』やら色々。

育児本は、明橋大二『子育てハッピーアドバイス』、高濱正伸『わが子を「メシが食える大人」に育てる』などに影響を受けて、今でも自分の育児に対する考え方のベースになっています。

 

小説も30~40代では、中村文則西加奈子平野啓一郎重松清に夢中になり、川上弘美小川洋子、小川糸、川上未映子、今村夏子、村田沙耶香などの作家もお気に入りになりました。

最近になって読む本の幅も広がって、読書するときのインプットの精度もあがってきているように思います。

まぁ、楽しんで読んでりゃいいと思うんですが・・・。

これもブログというアウトプットの場所を作った効果だと思いますので、細々とでも続けていけたらと思います。

 

 

 

☆まとめ。読書という行為を通じて他人の世界観を読み取る☆

 

読書とは何か?

という問いに対して、僕が思うのはその本を書いた人の考え方、知識や、経験を(時には物語を通して)文章を通じて読み取っていく行為だと思います。

文字だけで記されている文、読書している時には想像力が駆使されてその文章、物語の奥に隠されている何かを読み取ろうします。

今は動画とか、視覚・聴覚に訴えかけるものも多いですが、文章で何かを訴えることもとても大事なことだと思います。

 

また、他人の本棚ってすごく興味があって、他人の家に行った時などついつい目で追ってしまいます。

何かその人の人間性の一端が現れているように思えてとても興味深いのです。

興味を持っている相手の好きな本を読むということは、その人の人間性や世界観を理解する一番の近道なのかもしれませんね。

もし、好意を持っている異性が読書家なら、その人が好きな本を片っ端から読むと考え方や感性のあらましが理解できるかもしれませんね(笑)

例え、その本に対して違う感想や意見を持ったとしても、きっと相手は親近感を持ってくれることでしょう。

 

とりとめもない文章ですが、僕の読書歴でした。

改めて文章にしてみると、だいぶ読んでいる本も変化していっていますね。

文章ではないですが、写真集(風景)や、画集も好きですね。

 

今後の人生でどんな本と出会って、どういうふうに人生が変わっていくか・・・。

そう思うととてもワクワクします。

15少年漂流記を初めて読んだあの時みたいに。

 

 

 

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【小説】小川洋子『博士の愛した数式』~日だまりのような優しい物語~

1、作品の概要

 

2003年に刊行された。

 小川洋子の長編小説。

第55回読売文学賞、第1回本屋大賞受賞。

2006年に深津絵里主演で映画化。


映画【博士の愛した数式】 CM 2006年

 

 

2、あらすじ

 

家政婦の「私」は、記憶が80分しか持たない数学の天才である「博士」の家で働き始めた。

やがて「私」の息子のルートも巻き込んで、3人の穏やかで親密な日々が始まる。

博士は、数字がもたらす美しさや、奇跡を教えてくれて、やがてそれは3人の関係を繋ぐ太い絆になっていく。

博士の江夏への愛情、向かいに住む義姉と博士の不思議な関係、そして博士の記憶の中に閉じ込められた秘密と想い。

どこか物悲しくて、日だまりのように温かな物語。

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3、この作品に対する思い入れ

 

僕が、『薬指の標本』『小箱』に続いて読んだ3作目の小川洋子作品になります。

 

映画化されたこともあり、以前から知っていて気になっていたけどなんとなく読みタイミングを外していた『博士の愛した数式

なんか、そういうことってないですか?

気になっていたけど、なんとなくタイミングが合わなくてスルーしてるみたいな(^^;;

 

いざ読んでみると、とても心が温かくなるような物語でジンときました。

映画も是非観てみたいですね♪

 

 

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4、感想・書評

 

僕は「名前のない関係」が好きです。

親子、恋人、夫婦、家族、友人・・・。

色々と名前がついている関係はたくさんありますよね。

 

もちろんそれらの関係性が疎ましいとは思わないのですが、物語で読む時にはそこらの定義から外れた、名前がついていない微妙なバランスで成り立っている人間関係を描いた作品が好きです。

博士と、私、ルートの3人の関係性が正にそういった微妙なバランスで成り立っている関係で、3者3様にこの関係性を維持するために心を砕いているように見えます。

 

私と、博士の2人の時はただの雇用者と被雇用者の関係だったかと思いますが、そこにルートが加わることで3人の間に何か親密な感情が生まれて、忘れえない想い出(博士は忘れていくのですが)を共有することとなります。

3人を結びつけていたのは数学であり、江夏と野球でした。

 

変人の老人と、シングルマザーの家政婦とその子供の温かな触れ合い。

こうして書いてみると、すごく温かな物語ですが、博士の語られない過去が物語に影を落としています。

例えば、なぜ博士はルートのことを過剰に溺愛し、子供という存在に無条件に愛情を与え続けるのか?

この謎は最後まで語られることはありません。

 

その秘密は、向かいに住む未亡人の義姉の存在に繋がっています。

そもそも、本当に義理の兄妹だったのかも怪しく、もしかしたら2人は夫婦でかつて子供もいたけれど、博士が脳に障害を負うキッカケになった交通事故で子供を失ってしまっていた・・・。

なんて想像もしてしまいます。

 

そう考えると、義姉が私に向ける執拗な視線。

それには嫉妬も含まれているように思えます。

「私がおります。義弟は、あなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは、一生忘れません」

という言葉にも合点がいくように思います。

離れて暮らしているのは、一緒にいると博士が事故の辛い記憶を思い出してしまうからなのでしょうか?

違っているかもしれませんが、何かしらの秘密と過去がありそうです。

そして、その秘密が最後まで語られずにこの暖かい物語に影を落としている点が、小川洋子作品の個性のように思います。

 

薬指の標本』でも、謎は語られずどこか宙ぶらりんな感じで物語が終わります。

極端に閉じられた人間関係とその特異性を密に描いて、秘密や後ろめたい過去を仄めかしながらも最後まで語らずに物語を終わらせる・・・。

そんな小川洋子の物語作りの特異さがこの作品にも息づいているように思います。

 

江夏の背番号と絶対数。

私の誕生日と博士の時計に刻まれた数字が友愛数

不思議な数字の縁に導かれた物語は、博士の記憶のさらなる破綻をもって終わりへと導かれます。

 

全ての謎は義姉が抱えたまま、明かされることはありません。

でも、一度は私とルートを拒絶した義姉も(それは恋愛的な嫉妬や、財産を狙うなどの行為への邪推だったのかもしれませんが)態度が軟化していきます。

博士と2人の関係の親密さを理解したとも言えますし、決定的に損なわれた博士の脳が自分たちの秘密を漏らすことはないと思った安心感から寛容になったのかなとも思いました。

 

博士にもらったグローブを大きくなってもずっと使って、大学まで野球を続けたルート。

しかも、博士の影響を受けて中学の数学教師にまでなって・・・。

博士との出会いが、ルートと私にとっても多くの福音をもたらしたのだと思いました。

 

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

 

 

 

5、終わりに

 

すごく暖かな物語ですが、秘密と後ろ暗い過去の影が見えるような不思議なニュアンスの物語でした。

いつも小川洋子さんの物語を読んでいて、「これはどこで紡がれた物語なのだろう?」と思う時がありますが、『博士の愛した数式』でも登場人物は名前を持たずに、とても閉じられた世界で物語が進行していくように思えます。

 

巻末の数学者・藤原正彦さんのあとがきも良かったですね。

彼の著書「国家の品格」がとても好きだったので、あとがきを見た時に「あっ!!」と想い興味深く読みました。

 

数字と運命の不思議さが紡いだ物語。

子供達にも読ませたい素敵な物語でした。

あー、やっぱり小川洋子さん良いなぁ♪

 

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【回想録】大学受験編~絶対に負けられない戦い!?2度目の大学受験と『ノルウェイの森』~ホテルの有料チャンネルは観ちゃダメよ♡

☆1狼の後に大学合格!!そして上京したyo!!☆

 

いっや~、春っすねぇ~~。

桜の花は咲き誇り。

春の花々も彩り鮮やかに咲き乱れておりまするなぁ。

 

まさに、百花繚乱。

若い頃は、花に興味なんてなかったのですが、写真を撮り始めたのと、加齢のためか花々や季節のうつろいに目を細めるこの昨今でゴザイマス。

 

この時期って、学生も社会人も出会いと別れが多い季節で・・・。

新しい環境へのワクワク感とか、キラキラした過去への懐かしさとかが混じり合ってなんだか切ない季節ですね(>_<)

ええ、僕も思い出しますよぉ。

今では「汚れちまった悲しみに」より汚れまくった薄汚いオッサンですが、キラキラしたハイティーンの頃があったんですよ!!

いや、嘘じゃありませんよアナタ!!

どうか信じてくださいませ!!

 

もう24年以上前の話になりますが。。

いやー、随分遠くまできたもんだって感じですねぇ。

 

 

 

☆2度目の大学受験!!絶対に負けられない戦いがそこにはある!!☆

 

いっやー、2度目の大学受験プレッシャーがありましたねぇ。。

いや、まぁ浪人させてくれただけありがたいんですけどね。

yoyo!!

マジ親に迷惑かけた本当にぃ!!

悪そな奴はだいたい友達ぃ!!

 

2回目の受験はたぶん4校ぐらい受けたのかな?

ちなみに全部私立でした。

本命の愛知県にある日本福祉大学

滑り止めのM大学。

ちょっと受けてみた感じの高嶺のH大学とM学院大学。

 

日本福祉大学は1年目も落ちて、次は絶対に受かりたいって思ってたし、僕の学力から言って1年目に落ちたのも不思議な感じでした。

2年目は磐石な感じで絶対に受かる自信がありました。

 

受験地はたぶん東京だったと思います。

僕は単身、飛行機で上京して万全の体制で受験に挑みました。

この1年間の想い・・・。

そして、この大学に入りたいというアツい願い・・・。

愛知県の半島にある田舎のキャンパスということにも惹かれていました。

僕は、都会は嫌いだったから田舎の大学に行きたかったのです。

 

試験前に余裕を持って着席。

2年目の受験。

現役生より経験豊かで落ち着いているはず・・・。

これまでの一年の努力を思い出すんだ!!

僕は、そっと目を閉じました・・・。

脳裏に浮かぶ、アル中の担任、UFO、魔王、オペラ、Aとのロック談義、裏庭で追いかけたサッカーボール、めくるめくエロ本の交換で交歓・・・。

 

って、全然勉強しとらんやないかーいぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃいぃいぃぃぃ(๑≧౪≦)

 

著作権の許しがあれば、漫画太郎先生の「はうあっ」の画像を貼りたいところですね☆

しかし、そのあと真の「はうあっ」が・・・。

 

僕は試験の前に開眼し、集中力は極限へと達していました。

時間はゆっくりと流れて、景色はその色さえも失いそうでした。

「よし、いける」

しかし・・・。

眼前の筆箱を見た時に、僕は蒼白になりました。

 

 

 

 

あれ、鉛筆がないやん????

 

 

 

 

そうです。

なかったんですよ。

鉛筆が。

(記憶があやふやでなかったのは消しゴムかも)

 

次の瞬間、コンビニダッシュ。。

いやいやいや、ありえんやろ過去の俺ぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!!

その後、ハアハア言いながらなんとか受験の開始時間に間に合い受験開始。

 

手応えを感じながら現代国語の受験に・・・。

なんと僕が大好きで予備校時代にハマりまくった村上春樹ノルウェイの森が出題されていたのです!!!!!!!!!!!!!!!!

 

あの瞬間。

運命、巡り合わせという言葉が脳裏を駆け巡りました。

あの瞬間の衝撃を、24年経った今でも僕は忘れません。

直子の20歳の誕生日に泣き崩れる場面で、問題は忘れましたがその時の直子の気持ちについて答えなさいみたいなやつだったのかな?

問題を解きながら、僕は泣いていました。

 

直子の気持ちは、俺が一番分かってるんだ(違う)

もう、受験がどうとかじゃねぇ。

直子はぁ。

ふぐぅ(泣)

 

受験を監督されている方は、とても気持ち悪かったと思います。

この場を借りて深く謝罪します。

その瞬間の僕は強い全能感に満ち溢れて、何も怖くないような精神状態でした。

運命が、神が、僕をこの大学に入れようとしているんだ。

だって、こんなに好きな『ノルウェイの森』が試験の問題に出ているのだから・・・。

 

まさに天啓。

大きな手応えを感じ、新宿でロックの海賊版のビデオテープ(NIRVANAのカートコバーンがガードマンに殴られるテープ、SUEDEマニックスのテープ)を買い漁り意気揚々と愛媛に帰りました。

それらしばらくして・・・。

僕は・・・。

この大学の受験に・・・。

 

 

 

落ちました。。。。。。。。。。

 

 

 

 

んなんでやね!!

おおぅ、なんでやねぇぇぇんんんん。。。。。。

未だにコレはわからんですたい!!

いや、受かっとるやろがぃ!!!!!!!

サッカーやったらVARかます場面やろっ!!

審判んんんんんんんんんんんんん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ってな、感じでセリエA真っ青なぐらい抗議したいところでしたが、ともかく落ちました。

真っ逆さまにオチてDESIREですよぅぅぅぅぅぅうぅぅぅ(>_<)

 

 

 

 

さらに滑り止めのはずのM大学にもなぜか落ちてぇぇぇ。。。

万事休す。

 

 

 

 

しかし・・・。

捨てる神あれば拾う神ありで。

なんと・・・。

 

 

 

ダメモトのM学院大学に合格!!!!!!!!!!

 

 

 

いやー、これは嬉しかったですね!!

M学院大学も福祉科を受験していたので、自分が希望していた道を進むこともできました。

これは未だに不思議で、当時の私立大学受験は問題に個性があったので当たり外れもありましたが、一番可能性が低いM学院大学だけ受かるという結果は予想外でした。

日本福祉大学も絶対に受かったと思ったのになぁ。。。

 

でも、この大学進学が僕の運命を大きく変えましたし、関東に行っていろんな人と出会って、いろんな体験をしたことがプラスになったと信じたいです。

この春。

たくさんの人生の分かれ道があって、運命が交差して、たくさんの出会いと別れがあって。

桜の花だけがいつも見守っていたのでしょう・・・。

 

この春に新たな道を歩み、人生を切り開いていく皆さんに。

その親御さんと、見守る大人たちに。

多くの幸せがありますように☆

切に願います。

 

 

 

 

 

 

 

☆エピローグは、エロローグ☆

 

綺麗にまとまりましたが・・・。

なにかこれで終わるのは罪悪感がありまして・・・。

きっと僕は、晩節を汚すタイプの人間なのでしょう。

あえて、末文を汚してみます。

 

実は、M大学受験以外の時は、ホテルの部屋についていた優良、いや有料エロチャンネルの番組を観て夜更しをしてしまったのです。

・・・。

ああ、軽蔑の視線が・・・。

いや、男性ならわかりますよね!!

絶対見るやん!!

1人でホテルとかに高校生が泊まってぇ!!

1000円とかでAV見放題とかあったらさぁ!!

絶対に・・・。

観るやァァァァァァァァァん!!

 

M大学院受験の時は、何故かエロいのを観ずに早く寝たので、翌日は絶好調ですたっ!!

おあとがよろしいようで・・・。

 

 

 

お題「#新生活が捗る逸品」

鍋です!!

鍋があればパーリーナイト!!

【漫画】『呪術廻戦』映画化決定!!アニメも最終話『共犯』が神回!!野薔薇のイカレっぷりがヤバい☆

☆祝!!『呪術廻戦』が映画化☆

 

いや、噂にはなってたけど・・・。

 

もしかしたらって思ってたけど・・・。

 

OPに乙骨出ててたから怪しいなって思ってたけど・・・。

 

『呪術廻戦』が映画化決定しました!!

 


『劇場版 呪術廻戦 0』解禁映像

 

 

しかも、原作0巻のエピソードです!!

いやー、コレはアツい!!

テンション、アガる~~~~~(๑≧౪≦)

「ゆうだぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」

「りか、あかすきぃぃぃ(ニチャア)」

f:id:hiro0706chang:20210330182829j:image

 

って、コレ百鬼夜行の決行日に合わせて公開日も12/24になるんじゃ・・・。

こりゃ、クリスマスどころじゃないぜ!!

サンタクロース、なんぼのもんじゃァァァァァぃぃぃぃぃいぃ!!!!!!!!!!!!!

 

って、感じで今からテンションマックスなんですが、介護職で職場の規定によりコロナがある程度落ち着かないと映画館に行けないんですよ(^^;;

『花束みたいな恋をした』『鬼滅の刃』とかも観に行けてないッス(>_<)

コロナの収束を切に祈りますよぉぉぉぉぉ。。。。。

 

なまはげバリに自粛警察になって、繁華街を回ろうかなぁ・・・。

「わるいごは、いねえがぁぁ」

「マスクをつけずに、酒飲んでしゃべくってるごはいねえがぁぁ」

「ソーシャルディスタンスを保たずに、キャバクラでおねえちゃんと接待を伴う飲食をしているエロおやじはいねえがぁぁ」

なまはげトロールいいんじゃね?

まぁ、夜の街が何もかも悪いんじゃないと思うけど、節度が大事ですよね(^^;;

僕は、もうずっと夜の街には出ていないので、夜の帝王も引退ですね。

 

というわけで、呪術廻戦の映画にも期待ですね♪

呪術は、乙骨と五条先生が好きで、0巻のエピソードは大好きだったのでワクワクですよ~。

いやー、40過ぎのオッサンになってアニメとかでワクワクするなんて思わなかったなぁ~。

MAPPA(呪術廻戦のアニメの制作会社)さまさまですね♪

 

 

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☆『呪術廻戦』のアニメが最終回!!作画も演出も神レベル!!☆

 

いやー、アニメってほっんとうにいいですね~(水野晴郎調)

まぁ、最近までは大人になってアニメ好きとかキモいとか思ってたのですが、進撃の巨人鬼滅の刃を観て、いや面白いじゃん!!ってなりました。

 

なんか、僕は元々短気なんでアニメとか展開がもどろっこしくて、原作の漫画があるならそっちのほうがいいじゃんって思ってたんですが、最近のアニメは引き伸ばしなしで内容が濃くて作画も演出も映画レベルのものがありますね!!

今考えたら、昔のTVアニメは酷かったなぁ(^^;;

ドラゴンボールとかも、何週間も同じような展開だったり、絵も同じものの使い回しだったり・・・。

最近のアニメは原作を知っていても、こういう解釈があるんだ!!とか、これは漫画では伝えきれない表現だな!!って思える要素が多いですね。

 

呪術廻戦の最終話『共犯』もそんな最近のアニメのクオリティの高さを再認識させてくれる素晴しいないようでした・・・。

原作のエッセンスを凝縮して、さらにアニメ特有の表現で昇華させて。

野薔薇のクレイジーさとか、虎杖の異常な身体能力が際立っていて、迫力とテンポ良いバトルシーンはめちゃくちゃかっこよかったです♪

音楽でいうグルーヴ感が溢れていたと思います。

 


「蝕爛腐術(しょくらんふじゅつ)」壊相(えそう)声 - 檜山修之 呪術廻戦 24話 「共犯」

 


芻霊呪法(すうれいじゅほう)共鳴り 釘崎 野薔薇(くぎさき のばら)声 - 瀬戸麻沙美 呪術廻戦 24話 「共犯」

 


【呪術廻戦】釘崎野薔薇「共犯ね、私たち」

 

アニメは一旦終了ですが、映画と次のアニメが楽しみですね~♪

渋谷編がアニメ化・・・。

あのシーンがどんな風になるのか。

今からワクワクですっ♪

 

 

☆すげぇぜMAPPA!!俺はいつも真っ裸(まっぱ)!!☆

 

呪術廻戦の制作会社MAPPAは、同時期に進撃の巨人のファイナルシーズンも制作しています。

これもまた神クオリティ!!

どんだけ優秀なんMAPPA!!俺もマッパ!!←もうええわ!!

 

鬼滅の刃でアニメにも制作会社があって良し悪しが決まるということを知りましたが、MAPPAスゴイですね~。

しかも、これからあの話題のジャンプ漫画『チェンソーマン』をMAPPA制作でアニメ化するとな!?

アツスギマス!!

 


【FULL】『チェンソーマン』宝島社「このマンガがすごい!」2021オトコ編第1位受賞記念PV

 

呪術廻戦の映画版、アニメ2ndシーズンも楽しみですね!!

そんで、進撃の巨人もファイナルシーズンの続きが今冬に放映・・・。

いやー、ヤバい!!

今後もMAPPAから目が離せませんね!!

俺もマッパ!!

今年で44歳!!

もうええわ!!

 

ありがとうございました~~~~~~。

 

 

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