1、作品の概要
1992年に刊行された村上春樹の書き下ろし長編小説。
講談社より刊行された。
12歳の頃に親密になって、その後離れ離れになった男女が25年後に再会する。
時が過ぎても、お互いの心の中に居続けたのは・・・。
2、あらすじ
一人っ子がコンプレックスだった始は、同じ一人っ子の島本さんが転校してきて懇意になる。
彼女の家で音楽を聴いて、2人で過ごす時間は特別だったが、彼女が引っ越したことで疎遠になってしまう。
高校になってイズミと付き合い始めた始だったが、彼女を結果的に裏切って別れてしまい、東京の大学に単身進学する。
就職し退屈な日々を送る始は、有紀子と出会い心を震わせて2人は結婚する。
始は会社を辞めてジャズバーを2店経営し、経済的にも成功する。
しかし子供も2人生まれ幸福を享受しながら、どこかに違和感を感じ続けていた。
そんなある雨の夜、ひとりの美しい女性が彼の店を訪れる・・・。
3、この作品に対する思い入れ
大学1年生の頃にサークルの先輩からもらって読んだのがこの『国境の南、太陽の西』でした。
「本好きなんでしょ?私買ったけど、結局読まなかったからあげる!!」みたいなノリでもらって読みましたが、19歳の僕からするとオトナな物語に引き込まれました。
それから何度かの再読を挟み、25年後に44歳の僕が読むこの物語は当時は読み取り得なかった深い喪失と悔恨が描かれていました。
始と島本さんが初めて会って再会したのが25年後だったので、なんだか奇妙な符号を感じました。
4、感想・書評(ネタバレあります)
①初恋と淡い別れ
この小説を彩るファクターはたくさんあるのだと思いますが、まずは「初恋」を描いた作品なのだと思います。
作中に「初恋」という言葉は出てきませんが、始が島本さんに頂いた感情は「初恋」であったのだと思いますし、「初恋」は成就しないものというジンクスそのままに2人は離れ離れになっています。
そこには思春期の自我の芽生えや、お互いのすれ違いもありましたし、初恋がそのまま成就してハッピーエンドっていうのもなかなかないのでしょう。
僕も初恋は悲劇的で、あるあるかもですが初恋の相手が転校してしまったのですよ(^_^;)
その当時は地球の裏側に行ってしまったように感じていましたが、実は隣町に引っ越しただけで会おうと思えば会える距離でした。
まぁ、小学生でしたし付き合っているわけではなかったのでなかなか辛かったです。
数年前に、友達が彼女のFBのアカウントを見せてくれてなんだかほっこりしましたが、その後に青山のバーで再会したりすることもなく、今後も会うことはないんだと思います。
たぶん(笑)
と、まぁ僕の初恋の話は蛇足なんですが、ある視点で捉えると初恋の相手とお互いに想い合い続けて、大人になって再会して、恋に落ちるってとてもロマンチックな話ですね。
ただし、始は既婚者で、島本さんには何やら複雑な事情があり結婚しているのかどうかも、どこに住んでどうやって生計を立てているのかも謎という・・・。
いやぁ、一筋縄ではいかない設定はさすがに村上春樹ですね(^_^;)
やれやれ。
僕は島本さんが僕の手を取ってくれたことをとても嬉しく思った。その優しい感触はそのあと何日にわたって僕の心を温めてくれた。でもそれと同時に僕は混乱し、戸惑い、切なくなった。その温かみをいったいどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか、それが僕にはわからなかったのだ。
この手の感触は始の心の中に残り、彼の心を温め続けました。
そして、実は島本さんの方がより孤独でずっと強く真摯に始のことを求め続けていて、どんな時も彼のことが頭を離れたことはなかったのです。
25年。
4半世紀という時間は、途方もなく長い時間で、その間どのように彼女が生きて始を想い続けてきたのか。
まるで宇宙空間を突き進む探査船のような、圧倒的な孤独を感じました。
②バブル期の日本と始の成功
この物語が刊行されたのは1992年、物語はバブル期絶頂の1980年代後期の日本でした。
その影響は作品の世界観にも現れていて、始は村上春樹の作品史上で最も裕福な主人公であり、BMWを乗り回して、家は青山だし、もうとにかくセレブです。
資本主義社会のゲームに囚われそうになり、あえて抗っていく主人公を描く狙いもあったのでしょうか?
まぁ、でもキッカケを掴んで才覚を発揮するとあっという間に成功者になっています。
さすがバブル期(笑)
ちなみに1985年に刊行された村上龍『テニスボーイの憂鬱』も全然違う作品なのですが、大したことしてないのにめっちゃ儲かってどうしようみたいな、バブル期を象徴するような作品だと思います。
村上春樹は決して社会派の作家ではなくて、むしろこの時期はデタッチメント(関わりのなさ)を描いていた時期で、社会から日本社会から遊離しているような世界観が小説の中で描かれていたように思います。
しかし、『羊をめぐる冒険』『ダンスダンスダンス』の作品の中で高度資本主義社会がもたらす環境と人間の変化や、その流れに染まっていくことに対して、はっきりとしたNOが突きつけられていて、高く聳えるような冷たい壁のようなシステムに対する嫌悪も繰り返し表現されていました。
『国境の南、太陽の西』では資本主義社会の中でいわゆる「勝ち組」になっていつの間にかそのシステムに絡め取られて自分を見失っていく主人公の姿が描かれています。
日本的な経営者の典型のようなタイプの義父。
彼はある種ではとても魅力的な人間で、付き合いやすくて始もかれに好感を抱いているところもあるのですが、幽霊会社の名義貸しから、インサイダーの株。
まるでゲームのように増殖していく金と、無限に投下される資本。
③人生のエアポケットと呪い
始の10代の後半~20代の終わりにかけての10数年は「失われた10数年」とも言うべき時代でした。
高校生の時に付き合ったイズミとは始の不実が理由でとても酷い別れ方をして、イズミのことを深く傷つけたあげくに、自分のことも激しく損なってしまいます。
それでも彼は公開も反省もすることなく、仕方がなかったことで、また同じような状況になれば再び同じことをするだろうとも考えています。
イズミ、『ノルウェイの森』のハツミさん、『一人称単数』の『ウィズザ・ビートルズ With the Beatles』の彼女。
昔付き合っていた彼女が自分と別れた後にどうしようもなく損なわれしまった。
そんな村上春樹自身の体験もベースになっているのではないかと思われるこれらのエピソード。
自らのエゴを貫き通して、先に進むことで傷つけて別れてしまったかつて愛した人たち。
しかし、そういった経験はあとに大きな欠落を生むことになってしまいます。
始が経験した人生のエアポケットのような空白の10数年は、あるいは呪いのようなものだったのでしょうか?
しかし、そんな何もなく空白地帯だった頃がより自分らしくギラついていた。
自分がより自分らしく存在していた。
そんあ飢えや自意識が鋭いナイフのように思える時代。
僕にも覚えがあります。
とても苦しくて、余裕がなくて、自分のことしか考えられなくてという時期なのかもしれませんが、何か自分が自分らしくあった時期でもあると思いますし、余裕ができて視野が広くなって、他者の気持ちも思いやれる大人になったと思う現在のほうが自分という存在からかけ離れて、どんどんつまらない人間になっていっている気がします。
僕はもっと若く、もっと餓えていて、もっと孤独だった。でも僕は本当に単純に、まるで研ぎ澄まされたように僕自身だった。そのころには、聴いている音楽の一音一音が、読んでいる本の一行一行が体にしみこんでいくのが感じられたものだった。神経は楔のように鋭く尖り、僕の目は相手を刺すようなきつい光を含んでいた。そういう時代だったのだ。『スダーダスト・ラヴァーズ』を聴くと、僕はいつもその頃の日々と、鏡に映った自分の目を思い出した。
上の若い頃を思い出した文章に対応して、現在の鏡に映った自分を文章がこちら。
皮肉なものですが、BMWも幸せな家庭も、充実した仕事もあって成熟した大人な自分が、どんどんぼやけた自分らしくない人間になっていっていた。
そんな虚無感をあらわした文章だと思います。
始はどんどん自分を見失っていきますし、そのキッカケは島本さんとの再会であったのだのでしょう。
僕は鏡に映った自分の目を久しぶりにじっと覗き込んでみた。でもその目は僕という人間の像を何も映し出していなかった。
④『ノルウェイの森』との相関性、死生観
『国境の南、太陽の西』は『ねじまき鳥クロニクル』より分離された3章(村上春樹が奥様からあまりにも詰め込みすぎていると言われて分離した)からなる物語だそうです。
しかし、テイストとして『ノルウェイの森』に親しいものを感じますし、当初ねじまき鳥にノルウェイの森的なテイストも盛り込もうとして、断念したものをひとつの物語にしたのが『国境の南、太陽の西』であったのではないかと思います。
『ノルウェイの森』との相関性は100%リアリズムで書かれた作品で、なおかつ恋愛小説であり、三角関係を描いた作品であるということ。
そして、そのトライアングルの相手が死(島本さん)と、生(有紀子)を象徴しているということだと思います。
直子の抱える死の影はキズキに繋がっていて、彼女は何かの代償を払うかのように精神を蝕まれていきますが、どこか初雪のような清廉な感じがする印象がします。
しかし、島本さんの抱える死の影は、彼女自身の赤ん坊の灰や、石川県のボウリング場の廃墟の駐車場で彼女の中に見た死の影などとても生々しく、実態を持って始の意識をも乱暴にかき乱します。
僕はその凍りついた暗黒の奥に向かって彼女の名を呼んだ。島本さん、と僕は何度も大きな声で呼んだ。でも僕の声は果てしない虚無の中に吸い込まれていった。僕がどれだけ呼びかけても、彼女のその瞳のおくにあるものは、微動だにしなかった。彼女は相変わらずあの奇妙なすきま風のような音のする息を続けていた。その規則的な息遣いは、彼女がまだこちらの世界にいることを僕に教えていた。でもその瞳の奥にあるのは、すべてが死に絶えたあちら側の世界だった。
一度は島本さんと生きていくことを選んで、箱根の別荘で彼女と愛し合う始でしたが、本当に彼女を選ぶということを理解していたのでしょうか?
彼女がどういう状況下に置かれていて、どのような種類の袋小路にいたのか。
なにひとつ明かされないまま、彼女は去ってしまいます。
もし、彼女を選んでいたら・・・。
それは彼女と一緒に死ぬことを意味していました。
実際に高速道路を走っている時に彼女はハンドルを切って一緒に死のうとも考えていたみたいで・・・。
村上春樹の作品史上、最も闇が濃いヒロインですね(>_<)
それだけにこの一言が重く響きます。
実感を伴って。
「ある種のものごとは一度前に進んでしまうと、もうあとにはもどれないのよ、ハジメくん」
やれやれ。
⑤再生と再構築、欠落は欠落として
身も蓋もない言い方をすると、幼馴染と不倫する物語、です。
ただ2人は悪い星の下に生まれた恋人たちで、まるでロミオ&ジュリエットのように悲劇的に結ばれることは叶いません。
だからこそ、アカンところもたくさんありつつ恐らく純愛小説として認識される要素はその部分なのだと思います。
純愛の定義とは何か?
どれだけ想い合っても決して結ばれないこと。
昔読んだ漫画『19』の受け売りですが(^_^;)
でもこの物語の根底には、あらかじめ結ばれる運命にはない2人がとても強く想い合うという残酷なパラドックスがあるように思います。
それだけにどれだけ生々しく、社会的な倫理から離れようとも恋慕の痛切さが心を打つのだと思います。
まさに『スタークロスト・ラヴァーズ』ですね。
その恋の成就はすなわち心中することでした。
島本さんは、ハジメくんの命を求めてしましたが、やはり彼の幸せを奪うことを考えて思い直したのでしょうか?
結局、家庭へと戻る始。
自らの欠落を埋めてくれる存在がどこかにいると信じていたけど。
その欠落は自分の一部として受け入れていくしかないのでしょう。
それでも、これだけ不実を働いて傷つけても、一緒に歩もうとしている有紀子がいる。
彼女は、赦し、受け入れてくれている。
最後、蛇足のようにも思えた島本さんが消えたその後の描写ですが。
それでも人生は続いていくし、生き続けなきゃいけない。
死から弾かれて、倦んでいた生を再び歩む。
平凡で、欠落を抱えながら生きていく。
そんなある種の希望が提示された物語だったと思います。
「明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけど、君はそれについてどう思う?」と僕は尋ねた。
「それがいいと思う」と有紀子はそっと微笑んて言った。
5、終わりに
あー、やっぱりいい作品だと思います。
僕的には村上春樹の作品で良くない作品を見つけるのはとても難しいことで、きっと「らくだが針の穴を通るより難しい」ことなのですが。
何かとてもリリカルで好きな作品です。
まぁ、もちろん不倫ダメ絶対なのですが。
遠い日々に置き忘れた記憶が呼び覚まされる瞬間の甘酸っぱさを感じました。
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