ヒロの本棚

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【本】村上 春樹『猫を棄てる』~父親について語るとき~

☆前書き、父親との関係を語る内容☆

 

村上 春樹の新刊が出ました!!

 

「文藝春秋」2019年6月号に掲載されていた『猫を棄てる』ー父親についてかたるときーというエッセイです。

そろそろ短編集が刊行されるかなと思っていたら、エッセイのほうが先でしたね。

薄くて小さい本で100ページぐらいです、

挿絵も多くてさらっと読めますが、内容はなかなか濃くて満足でした。

 

エッセイ『職業としての小説家』でも感じましたが、随分と村上春樹自身の内面、考え方やパーソナルな部分について語っている内容だなと感じました。

元々、そんなにオープンな性格の方(いや、会ったことないけどw)ではないし、海外で暮らす時期も長かったので、なるべくメディアの露出を避けているような印象があったので。

 1987年の『ノルウェイの森』の爆発的なヒットと、狂乱から逃れるようにヨーロッパに渡り、アメリカの大学で講師をするなど社会と距離を取って作品もどことなく浮世離れした「デタッチメント」を描いた作品が多かったと思います。

 

しかし、1994年の『ねじまき鳥クロニクル』で世界的な作家となり、また作中に突然第2次世界大戦末期のノモンハンでの血なまぐさい戦争が描かれ、1997年に地下鉄サリン事件の被害者のインタビューを扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』を執筆することで、次第に村上春樹自身の作家としてのイメージが変化していきました。

 

「デタッチメント(かかわりのなさ)」から「コミットメント(かかわりあうこと)」への変化。

過度に政治的・社会的な内容ではありませんが、彼なりに世界に満ちる「暴力」について考え始め、暗喩として物語に含めるようになってきたのです。

 

そして、『海辺のカフカ』ではこれまでなかった大きな変化の一つとして主人公・田村カフカ少年の「父親」が描かれました。これまでの作品で、不自然な程「家族」について描かれてきませんでしたが、初めて父親が出てきたのでビックリしました。

家族、特に父親との関わりには何か特殊な事情があるのではと思っていましたが、僕の知る限りではほとんど語られてきていませんでした。

 

そんな中、今作『猫を棄てる』のサブタイトルが「父親について語るとき」だったのでかなり興味をそそられました。

村上春樹の父親は僧侶で、そのあたりが喪失感や死生観を感じさせる作風につながっているのではと言っている方もいましたね。

と、長い前書きになりました(笑)

 

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☆幼少期の素朴な思い出☆

 

もっとドラマチックな出来事があった特殊な家庭だったのではと想像していましたが、思ったより普通の少年時代で、ご両親も教師をしていたとのことでした。

ただ、父親が京都の大きな寺の生まれで、僧侶の資格を持っていたこと。

その時代にしては珍しく、一人っ子だっという点は少し変わっていたのかもしれませんね。

 

表題の『猫を棄てる』も、幼少期に父親と一緒に猫を海辺に捨てにいった想い出を描いています。

「(猫を棄てることは)昔は、それが普通だった」と書いてましたが、動物愛護団体に非難されるんじゃないかとヒヤヒヤしています(笑)

でも、捨てた猫が先に家に帰っていて、父親と2人でビックリしたという微笑ましいエピソードだったので良かったですが(^-^;

 

捨てた猫が先に家に帰っていた時の父親の「呆然とした顔が、やがて感心した顔になり、そしてほっとしたような顔になった」という表情が印象に残っているとも語られていますが、それは父親がよそのお寺に小僧として出される=親に捨てられるという体験に重ね合わせていたのかもしれません。

父親が子供の頃に親に捨てられたことはきっと心の傷として残っているのだろう、と村上春樹は想像しています。

 

家にはたくさん猫がいて、「猫と本が友達だった」とあり内向的で猫好きな村上春樹の幼少期が想像できます。

また、父親が映画好きで毎週のように映画館で映画を観ていたのも感受性豊かな作家になる土台を作った一つだったのかもしれませんね。

 

そして、このエッセイでは台湾の新進気鋭のイラストレーター、高妍(ガオ・イェン)さんがイラストを担当しています。

とても素朴で優しい色遣いのイラストで、昭和初期の日本の風景によく合っている感じでとても良かったです♪

幼少期の素朴で温かな思い出に素敵に寄り添うようで絶妙は組み合わせだったように思います。

 

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 ☆父親と、戦争☆

 

 父親の村上千秋さんのことを語るには、戦争については避けては通ることができなかったようで、出来うる限り克明に父親がどのように日中戦争と第2次世界大戦に関わったのかを調べています。

「おそらくは不運としか言いようのない世代だ」と言っているように1917年生まれの父親は、否応なく戦争という大きな時代のうねりに飲み込まれていきます。

それは、暗く死の香りに満ちた重々しいもので、その時代に生きた日本人はすべからく戦争によって運命を変えられて、人生の一部あるいはその全てを徹底時にすり潰していったのでしょう。

 

日中戦争では輜重兵として従軍し、敵の中国兵の首を刎ねて処刑する場面を幼い村上春樹にも語って聞かせていたようで、そういった歴史的事実と個人的な体験、そしてそれによってもたらせる心の傷などがひとかたまりになって息子に継承されていったのでしょう。

また、そういった「継承」が歴史の持つ意味だと書かれています。

このあたりの経験も『ねじまき鳥クロニクル』での血なまぐさい描写に繋がっていたのかと納得しました。

 

当時は、突然戦争の血なまぐさい暴力的な描写が物語に組み込まれたことに戸惑いを感じ何だか唐突に戦争の話が出てきた印象がありましたが、村上春樹の意識の根底には父親から継承された歴史的な体験、暴力が彼の中に深く根付いていたのだと思いました。

 

第2次世界大戦では再び軍隊に召集されるも、上司の意向で唐突に招集免除になりそのことで一名を取りとめます。

父親が所属していた部隊はマニラでほぼ全滅するという悲惨な結果に終わりました。

仲間たちと運命を共にできず、自分だけ生き残ってしまった後ろめたさからか、父親は毎朝読経を欠かさなかったと、書かれています。

一生、そのわだかまりを抱えて生きていたのでしょう。

 

しかし、そのお陰で自分はこの世に生を受けることができた。

父親が生き延びて、母親と結ばれたから今の自分があると書いています。

 

 戦争は人々の運命を翻弄して、破壊し、どこか遠くまで押しやってしまいました。

バラバラに引き裂かれた絆も、届かなかった想いもありました・・・。

でも、その中で巡り合って繋がれた命があります。

村上春樹の命もまたそのようにして繋がれた命でした。

 

 

 

☆親子の葛藤と一滴の雨水☆

 

勉強家だった父親は子である村上春樹に勉強をして良い成績を取ることを望んでいたようですが、興味があることとないことがはっきり分かれていてお世辞にも良い成績ではなかったとのことでした。

まぁ、よくある親子間の断絶かもしれませんが、なかなか親の期待通りには子供は動いてくれませんね(^-^;

 

おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。

 

世代間での意識のギャップもあるでしょうし、時代の流れが早い近現代においては特に親と子が成長する上で目にする風景が全く違うのでギャップが生まれやすいのだと思います。

 

村上春樹が成長して自我が発達するにつれて親子間の溝は決定的に深いものとなりお互いに思いをまっすぐに語れず、ゆずることができない性格だったため最後には絶縁に近い状態となってしまったと書かれていました。

それでも、父親が死ぬ前に会うことで和解し、お互いを繋ぐ線のようなものが作用して親子の、血縁の持つ繋がりを感じました。

 

親子でも考え方や生き方は全然違っても、同じ家で暮らし、何かしらエピソードを共有体験する(例えば猫を棄てに行ったり)することでゆるやかで、しかしそれでいて決して切れることのない絆のようなものを感じることができるのではないかと思います。

それが親子であり、家族なのかもしれません。

 

この作品のコアの部分だとおもいますが、自分たちは1滴の雨粒で、集合的な何かに置き換えられていくとしても、だからこそ想いを受け継いでいく必要があると、村上春樹は言います。

僕たち1人1人の意識は矮小で、集合的で大きな意識の奔流に飲まれて消えてしまうのだとしても。

 そのための継承であり、誰かの物語を覚えていて、語り継いでいくことで大河は流れていき、やがては母なる海に還っていくのでしょう。

 

村上春樹はきっとこの本を書くことで、父親の物語を共有し継承していくことをイニシエーションのように通過していこうとしたのではないでしょうか?

血縁があるからといって、父親の思い通りに子供が(特に男子)が育つわけがなく、エディプスコンプレックス(ギリシャ神話で父親を殺して母親を手に入れていという欲求)なんていうのもあって父親の支配からの脱却というのは、自我の形成にとって必要なことなのだと思います。

 

僕も、父親とは全く違うパーソナリティーですが、話し方とか、背格好とか、ふとした瞬間に気持ち悪いぐらい似ているところがあるらしく、そういった血縁が持つ力というか連綿と繋がっていく継承と遺伝について思いを馳せます。

 

肉体が滅んで、この世から消えてなくなっても、語り継いでいく存在がいる限り物語は続いていくのだと思います。

 

 

 

 

 

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