ヒロの本棚

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【本】村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』~デタッチメントからコミットメントへ、ねじまき鳥に導かれて抗いようもなく運命の大いなる渦に巻き込まれていく~

1、作品の概要

 

ねじまき鳥クロニクル』は、1994(第1部第2部)~1995年(第3部)に刊行された村上春樹の長編小説。

第1部『泥棒かささぎ編』、第2部『予言する鳥編』、第3部『鳥刺し男編』の3冊からなる。

第1部は「新潮」1992年10月号~1993年8月号に連載され、第2部と第3部は書き下ろされた。

第47回読売文学賞を受賞。

 

短編小説集『パン屋再襲撃』に収録されている『ねじまき鳥と火曜日の女たち』が『ねじまき鳥クロニクル』が冒頭部分になっている。

短編小説集『TVピープル』に収録されている『加納クレタ』に加納クレタ・マルタが出てくるが、キャラクターは大幅に異なっている。

パン屋再襲撃』にはワタナベノボルなる人物が再三登場し、綿矢昇を彷彿とされている。

ねじまき鳥クロニクル』の初稿を読んだ村上春樹の妻が「あまりにも多くの要素が詰め込まれている」と言い、分離したエピソードが『国境の南太陽の西』になった。

 

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2、あらすじ

 

岡田享は勤めていた法律事務所を辞めて、家事をしながら妻のクミコと2人で暮らしていた。

それは平穏な日々のはずだったが、謎の女性からの電話、加納マルタ・クレタの登場、消えた猫のワタヤノボル、ちょっと変わった女の子・笠原メイとの交流など少しずつ日常が奇妙に変化していく。

そしてある日突然消えてしまったクミコ。

オカダトオルは、クミコを取り戻すために巨大な権力を持ち始めた義兄・綿谷ノボルと対決するが・・・。

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ

 

村上春樹を読み始めの頃はファンタジー全開の作品はちょっと敬遠していて、『ねじまき鳥クロニクル』は長らく未読でした。

19歳の頃に『ノルウェイの森』で村上春樹作品を初めて読み、『国境の南太陽の西』『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』を読みましたが、その頃SFやファンタジーっぽいのはあまり受け付けなかったのです。

でも、友人に勧められて読んでみると、そんなジャンルや物語のスタイルなんて吹っ飛ぶくらいに『ねじまき鳥クロニクル』が面白すぎて、すっかり物語の世界の虜になりました。

純文学、SF、ミステリーとか色々なジャンルがありますが、村上春樹の物語はそんなジャンルを飛び越えて、独自で誰もたどり着けないような世界に存在しているのだなと強く思いました。

何度読んでも、読者を新たな地平に連れて行ってくれるような圧倒的な物語力。

ねじまき鳥クロニクル』は、そんな物語の力を十二分に備えた名作なのだと思いますん。

 

 

 

4、感想・書評(ネタバレ当然あります)

①初めて描かれた戦争と暴力について

ねじまき鳥クロニクル』でこれまでの村上春樹の作品になかった大きなポイントは、戦争と歴史について描かれた作品であり、とても生々しい暴力が描写されているということがまず挙げられると思います。

これはでは歴史どころか主人公に名前もなく、現実世界との乖離が描かれていたようにも思えましたが、ノモンハン日本陸軍の泥沼のような戦争と、その「要領の悪い虐殺」が物語の中に繰り返しかなりの分量で登場しました。

僕も最初読んだ時とても面食らいましたし、正直ノモンハンでの描写が物語にどういう意味を持って書かれたのかよくわかりませんでした。

 

しかし、最近刊行されたエッセイ『猫を棄てる』を読んでノモンハンでの戦争の描写が降って湧いたように出てきたのではなくて、村上春樹の記憶と意識の中でずっと眠り続けていていつか物語の中に表出する日を待ち続けていたのだな、と感じました。

村上春樹の父親の戦争体験を聞かされていたことと、学業が優秀であるという理由で除隊されかつての仲間が死んでいったという負い目を背負いながら日々生きていた姿を目にし続けたことが物語に織り込まれて戦争を生き延びても空っぽになってしまった間宮中尉のようなキャラクターを誕生させるに至ったのではないかと僕には思えるのです。

 

村上春樹の親の世代は、戦争という理不尽で大きな暴力に人生を左右されてしまった世代でした。

そして、その爪痕は戦争を知らずに育った村上春樹の心の中にもいくつもの物語として心に刻みつけられて、その混沌とした運命の流れの末に自らが存在していることを感じながら生きてきたのではないでしょうか?

そのような「2次的な戦争体験」とも言うべき私的体験が『ねじまき鳥クロニクル』の中での理不尽で大きな暴力である戦争と、その戦争が作り出した数々の運命が「ねじまき鳥」を介してクロニクル的に繋がっていくという物語の有り様に影響を与えたように思います。

 

またこれまでの村上春樹の作品で例えば『ダンス・ダンス・ダンス』などでも死や、殺人などについても触れられていはいましたが、抽象的かつオブラートな描写に終止されていました。

しかし、『ねじまき鳥クロニクル』では皮剥ぎボリスの残虐な拷問があり、日本兵たちの「要領の悪い虐殺」があり、ギターケースを持った謎の男と岡田トオルは凶器を用いながら血みどろで戦います。

生々しく血は流れて、骨は砕けて、たくさんの命が消し飛ぶ・・・。

「えっ、どうしちゃったの?今までのクールな僕の物語はどこへ??」みたいな感じで僕も大いに戸惑いました。

しかし、そのような突然の生々しい暴力の描写にも大きな理由があったのだと思います。

 

②「僕」から岡田享へ、家族関係も描かれ、デタッチメントからコミットメントへ

現実の中で生々しく流された血はそれまでの「デタッチメント(関わりのなさ)」から「コミットメント(人との関わり)」への転換を告げる予兆であったのだと思います。

ねじまき鳥クロニクル』で現実の中での暴力と流される血を描くことで、社会の中で起きている問題やそこに存在している悪や暴力について描いていく。

そのことは95年に『ねじまき鳥クロニクル』が刊行されたあとにオウム真理教が起こした未曾有の宗教テロ事件「地下鉄サリン事件」の被害者へのインタビューを描いたノンフィクション作品『アンダーグラウンド』に繋がっていったのだと思います。

マスコミ嫌いで、極力メディアへの露出を避けて、どこか浮世離れした物語ばかり書いていた村上春樹が突然ノンフィクション作品を、それも「地下鉄サリン」事件の被害者のインタビュー作品を刊行した。

これは例えるなら宮崎駿ジブリが王道のジャンプ風バトルアニメを作ったり、ワンピースの作者が突然次回作でちょっとエッチなラブコメを描いたり、松平健がサンバを歌ったり(あっ、これは本当にありましたね)するぐらいの衝撃がありました。

 

このコミットメントへの転換は『アンダーグラウンド』で突然なされたものではなく、『ねじまき鳥クロニクル』でその萌芽が見られ、村上春樹の作家のキャリアの中でも大きな転換点になった作品だったのではないかと思います。

アンダーグラウンド』とその続編『約束された場所』を執筆した体験は村上春樹の中

で熟成されて血と肉になり、やがては『1Q84』に繋がっていったのではないかと僕には思えるのです。

 

作中にある

そろそろ外の世界の現実に触れなくてはなならない時期がやってきたようだ、と僕は思った。どれだけ避けようとしたところで、時期が来れば彼らは向こうから勝手にやってくるのだ。

との岡田トオルの独白は、まるで村上春樹自身の想いのようでもありますね。

 

そして、デタッチメントからコミットメントを語る上での大きな変化が・・・。

な、なんと。

主人公に名前があるのです!!

いや、フツーやろがっ!!って言われそうですが、『僕』の物語に慣れていた読者には衝撃だったと思います。

まあ、『ノルウェイの森』も100%リアリズムで描かれた作品であったので名前はありましたが。

フルネームが連呼される文章にわりと違和感を感じました。

 

それと長編では兄弟や親子関係が描かれることはほとんどなかったのですが、『ねじまき鳥クロニクル』では妻のクミコの兄や父親との軋轢が描かれて、綿谷家の血と因縁も物語の大きなカギになっています。

そして、綿谷ノボルという「悪」・・・。

 

③巨大な「悪」としての綿谷ノボル

これまでも『羊をめぐる冒険』などで悪っぽい存在は描かれていましたが、ここまで巨大な力を持っていて、対決を避けることができない存在として「悪」が描かれた作品はありませんでした。

逆に言うと、『ねじまき鳥クロニクル』以降は巨大な力を持った悪との対峙が繰り返し描かれることになりますし、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーや、『1Q84』のさきがけの教祖らとの対峙は運命的であり、避けようのない闘いとして描かれています。

まるでRPGのボスキャラみたいに。

 

ねじまき鳥クロニクル』での岡田トオルと綿谷ノボルの関係性において面白いのは、全くといっていいほど正反対の性格で考え方から育った環境の何もかもが全然違っていながら、お互いの存在を無視することができずに無関心を装いながら実は深く憎しみあっているところにあると思います。

相手が嫌いなら会わなければ良いのですが、クミコを巡る綱引きなど、2人の間には避けがたい宿痾のようなものがあります。

やれやれ。

クールな主人公が多い村上春樹作品において、これだけ特定の誰かに拘泥し、はっきりと相手が「憎い」と表現したのは異例だったと思います。

オーケー、正直に認めよう、おそらく僕は綿谷ノボルを憎んでいるのだ。

 

暴力と憎悪。

平凡な日常を描いていた序盤から段々と凄惨で目を覆うような場面が続出します。

岡田トオルは自らの血を流してバットを手に入れて、それは彼の暴力の象徴となります。

壁を抜けた先の世界で綿谷ノボルの精神の核のようなものを叩き殺したのも歴史的に継承されたそのバットでした。

 

そのように大した力を持っていなかった岡田トオルが、圧倒的な「悪」である綿谷ノボルの存在を揺さぶり、打ち破る(?)までには彼の力だけではなく、多くの運命的な何かに導かれた人々の存在がありました。

 

④ねじまき鳥に導かれて、抗いようもなく運命の大いなる渦に巻き込まれていく

 

赤坂ナツメグが岡田トオルに語った「まるでどこか遠くからのびてくるものすごく長い手のような」人々を抗いようのない着地点に連れて行く運命。

ナツメグが感じていたようなことを彼の父も、間宮中尉も感じていました。

私のこれまでの人生で起こった説明のつかないいくつかの出来事はーたとえば洋服のデザインに対する激しい情熱が私の中で生まれて、そして突然消えていったり、シナモンがまったく口をきかなくなったり、私がこんな奇妙な仕事に巻き込まれてしまったようなことはーみんな私をここにこうしてつれてくるために最初から巧妙に綿密にプログラムされて仕組まれてきたことなんじゃないかってね。

 

笠原メイ、加納マルタ、加納クレタ、本田さん、間宮中尉、ギターケースを持った男、牛河、赤坂ナツメグ、赤坂シナモン、ナツメグの父のあざのある獣医・・・。

とても奇妙でひとクセもふたクセも人物たちが運命の導きによって、岡田トオルと綿谷ノボルのクミコをめぐる争いに巻き込まれていくきます。

と、いうより岡田トオルが巨大な力を持った綿矢ノボルと渡り合うことができるようにねじまき鳥と、大いなる運命の力の働きかけがあらかじめ決められた2人の対峙の場面をに向けて舞台を作り上げる役割を担っていたように思います。

 

そんな運命の導き手がねじまき鳥だったのでしょうか?

時空を超えて世界のネジを巻くような声で鳴き続けるねじまき鳥。

鳥が導くというと、神武天皇を導いた八咫烏を彷彿とさせますが、ねじまき鳥の姿は見えず、その声は選ばれた人間にしか聞こえません。

 

物語の中でねじまき鳥の声を聞いたのは岡田トオル、バットで中国人を殴り殺した若い兵隊と、赤坂シナモン。

3人に共通することは何でしょうか?

何かの特殊な力を与える代わりに、代償として大事な何か大事なものを奪われた。

そういうことなのでしょうか?

 

50年前の中国(満州)で起こった太平洋戦争末期の混乱と虐殺。

それぞれの登場人物の個人的なエピソード。

それらはクロニクル(年代記)となってねじまき鳥の導きによってひとつの終結点へと導かれていく。

そのスケールの大きさと複雑に絡み合った物語たち。

全く無関係に思えた個々人のエピソードが繋がっていくその物語のダイナミズムは、これまでのどの物語で感じたことのないようなあまりにも大きな波濤のようでした。

その波はそれぞれの想いを飲み込みやがて大きな波となり、力となったのでしょう。

そしてその中心にいたのは岡田トオルはねじまき鳥の声を聞き、獣医のあざを継承して特別な力を手に入れ、中国人を撲殺した暴力の象徴のようなバットを手に入れたのでした。

ねじまき鳥が導いた『ねじまき鳥クロニクル』は、そのようにして彼を導き歴史の闇から生まれた怪物・綿谷ノボルを葬るべく作用したのでしょうか?

 

⑤井戸、バット、壁抜け。夢とメタファー、暗示に満ちた物語。

ねじまき鳥クロニクル』では、夢やメタファーに満ちた暗示的な表現がとても多く、読み終えたあとでもたくさんの謎が残っているように思います。

はじまりは、猫のワタヤノボルの消滅と、謎の女からの電話。

そして、ねじまき鳥の鳴き声を岡田トオルが聞いたこと。

 

物語を読み終えたあとにこれらの出来事を目にすると、そこにこめられたメタファーを感じることができます。

クミコは綿谷ノボルからの悪い影響に絡め取られそうになりながら、内面では岡田トオルに助けを求めていて、二人の結婚生活や結びつきの良いしるしであった猫が失われていた。

なぜクミコがあれほどまでに猫を探すことにこだわっていたのかが今ではよくわかります。

そしてねじまき鳥は歴史の流れの中で岡田トオルから何かを奪い、あざを通じて特殊で大きな力を彼に与えました。

猫が失われたのはもしかしたらその代償であったのかもしれません。

 

加納クレタが夢の中で岡田トオルと交わったのは、クミコとの代替行為だったのでしょうか?

とても暗示的ですし、笠原メイまで「自分がクミコさんであるような気がして」と手紙で書いてきたりしています。

彼を愛することができずに傍らで愛し合うことができないクミコ意識が彼の周りにいる女性と同化したのかもしれません。

 

物語の終盤に終盤にかけて、「バット」「井戸」「壁抜け」が綿矢ノボルのもとからクミコを取り戻す重要なキーワードになってきます。

若い兵隊が中国人を殴り殺したバットと岡田トオルのバットは別のものですし、間宮中尉が落とされた井戸と、彼が自ら進んで入った井戸は別のものですが、時空を超えてそれがもつメタファーが結び付き特別な力を帯びるようになります。

そして、「壁抜け」をすることで現実の世界から夢や精神の世界に移行し、そこで行ったことを現実の世界にも反映することができる。

それはとても危険なことでもありましたが、綿谷ノボルを討ちクミコを彼の支配下から取り戻すためのほとんど唯一のチャンスであったのでしょう。

 

夢の世界で綿谷ノボルの精神の核のようなものを岡田トオルがバットで叩き潰し、現実の世界ではクミコが綿谷ノボルの肉体を殺す。

2人の連携プレーによって綿谷ノボルという巨大な悪を滅することができたのです。

それはもしかしたら、この物語に関わる多くの人達の因縁と宿業を、運命の円環から解き放つことも意味していたのかもしれません。

そしてまたねじまき鳥は歴史の闇へと姿をくらましていったのでしょうか?

 

 

 

5、終わりに

 

いやー、『ねじまき鳥クロニクル』今改めて読むと歴史的な事件と現代の問題が重なり合っていくような特別な瞬間を感じることができ、村上春樹小説でもデタッチメントとコミットメントの転換点になったりで、総合的な意味での起点になった重要な作品だったのだなと感じられました。

とても多くのキャラクターが出てきてそれがとても得意で魅力的な人たちで、物語に爪痕を残して去っていくさまが何ともいえませんでしたね。

 

何かで村上春樹自身のインタビューだか何だかを読んで、実はラストシーンで主人公は死ぬはずだったとか、そもそも第3部は出すか出さないか悩んでたとか書いてたのを読んで、やめてーってなりました(^_^;)

ちゃんと主人公が死なずに第3部が出て良かったです。

 

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