1、作品の概要
1985年に刊行された村上春樹の4作目の長編小説。
初めての書き下ろし小説。
第21回谷崎潤一郎賞受賞。
文庫版では上下巻で刊行された。
物語は「ハードボイルドワンダーランド」と「世界の終り」の2つの物語からなり、全部で40章からなる。
2、あらすじ
「ハードボイルドワンダーランド」
近未来、データを計算しロックをかける計算士として有能な「私」は風変わりな生物学の博士からシャフリングの技術を用いた依頼を受ける。
シャフリングは計算士を統合する「組織(システム)」より禁止された技術のはずだったが、博士は許可を取っており、「私」は言われた通りにデータをシャフリングにかける。
お礼に一角獣の頭蓋骨を貰い受け、それを調べるために立ち寄った図書館で「胃拡張の女の子」と親密になる。
チビと大男の2人組に襲撃され、腹を裂かれて部屋を破壊される私だったが、博士の孫娘から「世界が終わっちゃう!!」と連絡を受け、敵対する「工場(ファクトリー)」の記号士と地下に棲む化物「やみくろ」に研究所を破壊されて逃げた博士に会いに地下に潜る。
博士から告げられる衝撃の事実とは!?
「世界の終り」
壁に囲まれた「街」に入ることになった「僕」は門番に影を引き剥がされて、「夢読み」として特殊な目で図書館で頭骨に閉じ込められた古い夢を読みながら暮らすことになった。
そこには、心=影を捨てた人達が、壁に世界から断絶された「世界の終わり」の街で暮らしていた。
「僕」は、街に入る前の記憶をなくしていたが、大佐や図書館の女の子に助けられながら「街」の生活に馴染んでいく。
夢見として頭骨に込められた古い夢読む仕事を、図書館の女の子の助けを借りていたが心を持たない彼女に対して言葉にできない想いを抱くようになる。
「僕」と別れた影は門番に引き取られていたが、再会して2人きりで話した時に「街」の歪な完全性と、そこに住む人々の異常性を指摘され、「街」から逃げ出すことを提案される。
図書館の女の子に惹かれる「僕」は悩むが、タイムリミットは迫っていた。果たして、僕が下した決断とは?
そして、2つの物語は融合し想像もしなかった境地に到達する。
人間の自我は、精神は。
物語はどこにたどり着くのか?
3、この作品に対する思い入れ
この本を読んだのは確か25歳ぐらいの時だと思います。
もう17年前の話になるんですね。
この本が刊行されたのが、35年前の話ですが全く色褪せずついこの前の話のようです。
初読した時に、脳のシナプスが焼き切れて、意識が涅槃まで吹っ飛ぶような衝撃を受けました。
精神的な意味だけではなく、純粋にフィジカル的な意味でも物語が終末へ向かっていく高揚感で意識が吹っ飛びそうになりました。
本を読んでいて失神するかもって思ったのは、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』と中村文則の『教団X』ぐらいですね。
やったことないですが、多分ドラッグキメたらこんな感じになるのかなって思いましたし、素面でトベる読書の奥行の深さと、物語の凄み、村上春樹の小説の世界観に深い感動を覚えました。
ツイッターや、ブログの読書家の皆様の書評を読むにつけ、僕なんかは真摯な読書家とは言えず、いいとこどりの気分屋だなぁと思っていますが、この時ばかりは本を読むという行為の可能性を十二分に感じました。
何度も読み返した作品で、特に寒い冬のイメージがあるので冬に読み返すようにしています。
日常生活ではこだわりは少なく、O型でめちゃくちゃ雑な性格なのですが、こういう変なところではこだわりをみせるんです(笑)
ツイッターの小説10選で村上春樹の作品の中で選んだ僕にとって特別な作品です。
4、感想・書評(ネタバレ含む)
①それぞれに完結している2つの世界
「ハードボイルドワンダーランド」は当時の近未来の世界で、計算士と記号士、組織と工場の対立する二つの組織がデータを巡って争いを続け、守る側と奪う側に別れて日夜新たな技術を生み出しあっています。
なんだか、パソコンのウィルスとウィルスソフトみたいですね。
データを守る側と奪う側。
情報が力を持つ世界。
ほぼ実世界に基づいたリアリズムの物語ですが、この情報戦争の部分はファンタジー要素があります。
そう言う意味では、近未来サイバーパンクの世界で、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』のテイストをそこはかとなく感じることができます。
実際に前作『羊をめぐる冒険』は龍の同作に影響を受けていた部分もあったようですね。
対して、「世界の終り」の物語は完全にファンタジーで閉じられた世界観です。
のっけから門番に影を切り離されて、影が自我を持って喋っているわけです。
一角獣の存在といい、ファンタジー全開です。
『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の面白い点は、並行する2つの物語が、リアリズムとファンタジーの2つの要素を持っていてバラバラに進んでいくことにあることだと思います。
最初はそれぞれに完結していて、あまりにもかけ離れた世界観で話が進んでいきます。
「世界の終り」の話の方が退屈な感じがします。
閉じられた世界の閉じられた平凡な日々の描写。
でも、それぞれの物語が後の展開へのヒントを少しずつこぼしています。
②自我と無意識の問題、シャフリング
この物語は人間の無意識と自我についての問題を物語化したものだ、と僕は思っていますが、シャフリングの技術はまさにこの無意識を応用して、データを守る技術になります。
まぁ、よくこんな話を思いつくなと思いましたが、村上春樹は人間の意識の核、カオスの海の中でデータに暗号をかけることでシャフリングをした本人にしかロックを解けないようなシステムを描いています。
・何故なら無意識性ほど正確なものはこの世にないからだ。
・我々が意識の変革と呼称しているものは、脳全体の働きからすればとるにたらない表層的な誤差に過ぎない。
・人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか?
組織の科学者たちはこのように「私」にシャフリングと、人間の意識について語ります。
そして、「私」の意識の核から抽出されたシャフリングのためのパス・ドラマのタイトルが「世界の終り」でした。
これまでも、一角獣の頭骨、ペーパークリップ、図書館の女の子など2つの世界は繋がりを匂わせてきていましたが、ここで一気にその関わりが明らかになります。
「世界の終り」はおそらく「私」の内的世界の物語。
しかし、その後2つの世界がどう結びついて関わり合っていくのかは全く見当がつきませんでした。
③暗い地下へ潜る、初めて出現した暴力、やみくろの恐怖
『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』は村上春樹の作品としては暴力が登場した初めての作品だと思います。
初期3部作ではデタッチメント(関わりのなさ)が徹底して描かれて、暴力性は排除されてあくまでクールに物語が進行していました。
初めての長い長編小説「羊をめぐる冒険」でも、悪のような存在がありその存在との軋轢が描かれましたが、直接的な闘争はなく血の一滴も流れませんでした。(爆弾は爆発しましたが)
しかし、今作では主人公は腹を裂かれたあげく、地下で蛭に血を吸われて、やみくろの恐怖に怯えながら泥だらけで走り回り、頭をぶつけたり全身傷だらけになります。
これだけ身体を張っている主人公は村上春樹の作品史上、希かもしれませんね(笑)
ここで初めて描写された暴力がやがて『ねじまき鳥クロニクル』でさらに克明に描かれていくことになります。
そういう意味でも、この作品で初めて暴力が描かれたことは、後の作品を考えても意味があることだったのだと思います。
そして、あちら側とこちら側と、2つの世界の境界を描いて、井戸や、異界へとの移動がこの作品以降描かれますが、「ハードボイルドワンダーランド」においても現実世界から、やみくろが支配する地下世界に降りて博士を探しに冒険をすることになります。
光に満ちた人間社会から、闇と得体の知れない「やみくろ」や彼らの邪教の神が描かれています。
象徴的なのは「やみくろ」の姿自体は一度も描かれず、すぐそこにいるのはわかっていて、とてもおぞましい存在なのは知覚できるのですが、姿そのものは見ることはできずに精神的な干渉を受けて見えない恐怖に怯え続けることでしょう。
姿を現して「俺、やみくろ。今からお前食べる」など言うと、相手の意図が理解できrて恐怖は薄れるかもしれませんが、姿は見えずに存在は知覚でき、隙があれば闇に引きずり込まれる存在というほうが得体がしれず恐怖を覚えるような気がします。
未知は恐怖だと思います。
人間が古来から感じる闇への得体の知れない恐怖の感情こそ「やみくろ」そのものかもしれませんね。
④「僕」が彼女に感じる喪失感、心を失うことで調和を保っているいびつな世界
「世界の終り」では、影を失い、記憶もなくした「僕」が「街」で暮らすようになります。
夢読みをサポートしてくれるのが図書館にいる女の子で、「ハードボイルドワンダーランド」の図書館の胃拡張の女の子を彷彿とさせます。
初対面の時から「僕」は彼女に何かを感じますが、それが何を意味するのかを理解することはできません。
僕は長いあいだ言葉もなくじっと彼女の顔を見つめていた。彼女の顔は僕に何かを思い出させようとしているように感じられた。彼女の何かが僕の意識の底に沈んでしまった柔らかいおりのようなものを静かに揺さぶっているのだ。しかし僕にはそれがいったい何を意味するのかはわからなかったし、言葉は遠い闇の中に葬られていた。
それは、「ハードボイルドワンダーランド」の世界で「私」が図書館の女の子に対して頂いていた想いの飛沫のようなものだったのでしょうか?
しかし、記憶を失った「僕」はそれがなんなのかを理解することはできません。
そして、図書館の女の子の影は死に、彼女は心を失っていたのです。
「街」では影が死ぬことで心も死に、永遠の平穏の中で人々は暮らしていました。欺瞞とも言うべきどこまでも穏やかな世界。
この場所こそが世界の終わりで、これ以上どこにも行けない場所。
行き止まりのような場所だったのです。
心を殺して生きていれば、喜びも悲しみもなくフラットに穏やかに生きていける。
人々の自我を吸収して死んでいく獣たちは、現代だったらインターネットの世界なのかもしれませんね。
ネットの世界で何かをスケープゴートにしたり、不特定の誰かに悪意をぶつけることで、心を殺して平穏に生きていく。
35年前の作品ですが、現在の状況にもオーバーラップするものがありますね。
夢見の役目は獣の頭骨に封じ込められた想いを解き放つアースような役目でどこかシャーマン的でもあります。
⑤世界の終りの真相
「世界の終り」はきっと「私」の内的な世界だろうとは考えていましたが、シャフリングをして第3回路に移行した後に、博士の研究所が破壊されたことによって、「私」は永久に「世界の終わり」の中で永遠に生きることになってしまったのでした。
これには驚きましたし、なんとも酷い話ですよね(^_^;)
この永遠の解釈も興味深いですね。
ある一点の瞬間を意識が分解し続けることで無限になる。
話が逸れますが、僕が読んでる漫画「呪術廻戦」の無限も全く同じ解釈ですね。
でもこうした意識の核が明確なストーリーを持ったドラマになっているということは、意識の核=自我が明確に形作られているということなのでしょうかね?
「私」以外のシャフリングをした人間は皆死んで、私だけが意識の核の照射に耐えられたというのは、そういった耐性を普段から持った「私」だけが生き残った。
ふたつの思考システムを切り替えて使うことができる数百万人に1人の資質。
それは、平素より自分の意識の底まで潜って向き合った人間のみが得られる耐性だったのかもしれませんね。
それ故に自らの意識の中で、完結された「世界の終わり」で永遠に生き続けるのはある意味での悲劇かもしれませんが。
しかし、「世界の終り」の世界で得られるものがあると博士は言います。
「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」
「僕のうしなったもの?」
「そうです」と博士は言った。「あんたが失ったもののすべてをです。それはそこにあるのです」
そうやって、世界の終りへのカウントダウンは始まるのでした。
残された時間は、29時間と35分。
⑥混じり合っていく2つの世界
シャフリングによって、第3回路に切り替わったことで、意識の核との誤差を埋めるべく記憶の混濁が始まります。
それは、まるで2つの世界が混じり合って互いに干渉していくような感覚でした。
それまで緩やかに繋がりを提示していた2つの世界が濁流のようにお互いを侵食し始めつながり始めます。
HOUSEのDJでロングミックスという技術があって、Aの曲を流している間にBの曲をAと同じテンポに合わせてタイミングを合わせてAの曲にかぶせてボリュームを少しずつあげていき、AとBの曲が同時に鳴っている状態にします。
この作業をセンスよくやればAとBの曲がお互いに響き合って新しい世界を作り出すような高揚感を作り出すことができます。
この状態をキープすることを俗に言うロングミックスといいますが、
『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の2つの世界が混じり合っていく様は正にこのロングミックスのようでした。
2つの世界が惹かれあうように自然と混じり合って、同時に鳴っている。
この美しさこそがこの小説が表現した唯一無二の物語の到達点ではないかと思います。
共鳴し合う2つの物語。
リアリズムとファンタジー。
「世界の終り」と「ハードボイルドワンダーランド」の世界の境界はぼやけて滲んでいき、溶け合っていきます。
「ハードボイルドワンダーランド」で図書館の女の子と結ばれた後で、一角獣のレプリカの頭骨が光り始めたのは象徴的な出来事だと思います。
ノンフィクションが、そうであることをやめて現実を侵食し始めた瞬間。
どこまでが現実で、どこまでが非現実/物語なのか?
もしかしたら、その境界線は僕たちが思っているより曖昧なのかもしれませんね。
⑦物語が閉じて音楽が終わる時
もう2つの物語が共鳴して、終わりに向かっていくラスト付近は独特の緊迫感に満ちていて、いつも心を揺さぶられます。
現実は、意識の核の物語を侵蝕し、意識の核は現実の在り方を変えていきます。
残された時間が減っていく中で2つの物語は共鳴し、侵食し合う様は奇跡的なハーモニーを奏でながら最終章へと突入していきます。
「世界の終り」の物語では、「僕」は音楽によって奇跡的に図書館の女の子の心を取り戻し「街」にとどまることを決めます。
心を持ちながら「街」に生きることは終わりのない生き地獄も同然で、終わりのない悪夢を生き続けることでした。
しかし、「僕」は影を逃がし、一人で心を残したまま留まります。
なぜでしょうか?
「僕」は心を捨てたこの世界にあえて心を持ったまま生きることを選びます。
心を殺して「壁」と「街」のシステムに従うことが楽で生きやすいことかもしれない。
しかし、それが果たして生きていると言えるのか?
では、「街」から逃げ出し、生きていくのか?
大切な人を置いて?
生とは混乱と痛みの中にあると思います。
心を殺して生きることはある意味では理にかなったことなのかもしれないけど、そうやって生きていくことが、人の営みと言えるのかどうか。
そう「世界の終り」の物語は訴える気がするし、時代は移ろっても、心をなくした人々が住む「街」のような社会に生きる私たちに生き方を問いかけている気がします。
村上春樹は、この物語を通してともすれば何か大切なものを忘れそうな現代社会に生きる人々の「心」の在り方を問うたのではないかと感じました。
5、終わりに
とても好きな作品だし、自分がこの作品に対して正確に想いを伝えられたか、なにか的場外れなことを言ってないかと気になります。
『羊をめぐる冒険』で鼠は言います。
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや・・・」鼠はそこで言葉を呑み込んだ。「わからないよ」
これが心であるし、どれだけ生産性も効率性もなかったとしても、人が生きていくためには大事な感覚なのだと思います。
1985年はコンピューターが誕生し、マスメディアが力を膨張させて少しずつ世界が息苦しくなっていった時代だと思います。
そして、日本はバブル経済に突入し、狂乱に突入していく時代。
こういう時期にひとつのアンチテーゼとして提示された作品だったのではないかと思います。
たぶん。
だけど、どんな意味があるにせよ、ないにせよ。
僕にとって大事な作品であることは変わりません。
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