1、作品の概要
1994年に刊行された小川洋子の長編小説。
2019年に英訳版が出版され、全米図書賞翻訳部門と、2020年ブッカー国際賞の最終候補に選出される。
文庫版で402ページ。
何かが少しずつ消滅していく島で怯えながら暮らす人々と、消滅を補完すべく権力を振りかざす秘密警察たち。
それでも心の在処を見定めようとする人々の物語。
2、あらすじ
前触れもなく、存在や、それにまつわる記憶が消滅していくとある島。
消滅を完全なものにすべく、秘密警察が権力を振りかざして、人々を蹂躙していた。
彼らは消滅したものを消す「記憶狩り」に飽き足らず、消滅した記憶を抱える人々を捕らえていた。
わたしの母親は消滅した記憶を抱えていたため秘密警察に捕らわれて帰らぬ人となっていた。
小説家を生業としていた彼女は編集者Rが母親と同じ、消滅した記憶を抱えた人間だと知り、おじいさんと協力して自宅にかくまうことを決意する。
こうしてわたしと、R氏との奇妙な共同生活が始まるが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
なんかブックオフの正月セールで100円がさらに安くなって80円とかになっていて、小川洋子の長編で、SNSでよく見かけていた小説だったので買ってみました~。
てへぺろ、って感じでしたがめちゃくちゃ突き刺さるような作品で、見事に魂を打ち抜かれました。
いや、読書好きなんだったらちゃんと書店で買って売上に貢献しろ、と言われるとすみませんなんですが・・・。
今度ちゃんと新刊買うんでお許しを(^_^;)
まぁ、でも読書っていう趣味のコスパの良さは異常過ぎますね。
図書館だったらタダで借り放題だし。
中古でも100円で名作読み放題。
この世にある本なんて読み尽くすのは絶対に無理だし、ってか読み返すのも楽しみだし・・・。
って、感じで読んでみた『密やかな結晶』でしたが、今作でも小川洋子に心臓を貫かれました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①消滅とファシズム
この世界ではない異世界感が漂う物語。
小川洋子の作品のほとんどが、どこかこの世界とは違っている独特の世界観をもっていますが、『密やかな結晶』でもそんな特異な世界で物語が進んでいきます。
周囲から隔絶された「わたし」が住む島で、理由もなく突然何かの存在が失われてしまう「消滅」が前触れもなく起こります。
例えば、ある朝目覚めると、ビールが消滅してしまっています。
ビールそのものが消えてなくなるわけではないのですが、人々の脳裏からはビールという飲み物が何を意味していて、どんな味をしているのかが消滅してしまい、ビールにまつわる記憶さえも消え失せてしまいます。
ですから、目の前にビールがあったとしても、何も感情が動かないし、飲んでみたとしても味も泥酔もないという設定です。
この「消滅」の概念がとても独創的ですし、小川洋子らしいなと思いますね。
何かが突然消滅して、少しずつ心の中から無くしてしまっている人々・・・。
もう行間から喪失感が溢れ出している感じがたまりません。
とにかく物語の最初から最後まで失い続ける人々。
そこにある諦観と、氷点下の冷たい絶望。
そんな消滅に直面しても記憶を失わないのが「わたし」のお母さんであり、R氏でした。
消滅に左右されずに、心を失わないでいることはとても素晴らしいことですが、それを許さない人たちが秘密警察であり、彼らは記憶狩りによって消滅を補完しようとしています。
この秘密警察の存在も物語の暗さに拍車をかけていて、とにかく消滅に従わない人々を連れ去っていきます。
秘密警察が一番敵視しているのは消滅したものの記憶を失わない人間たちで、「わたし」の母親も彼らに連れ去られて命を落としました。
この秘密警察は第2次世界大戦下のナチスのようであり、ユダヤ人狩りのように記憶狩りを行い、多くの人々を連れ去っていきます。
彼らが何を目的に消滅を補完し、記憶狩りを行っているかは不明ですが、強大な権力を持って人々を恐怖のどん底に陥れています。
R氏が隠れ家に隠れている姿は『アンネの日記』を彷彿とさせ、『密やかな結晶』への影響を感じさせられます。
小説が消滅した際の本を焼く場面は、ナチスの焚書を想起させ、ハインリヒ・ハイネの言葉が引用されます。
焚書は序章に過ぎない。本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる。
本を焼く。
人類の叡智の集積と結晶を、暴力的に、無知で無造作に、焼き捨ててしうこと。
「物語の記憶は、誰にも消せないわ」と、叫んだ女性の悲痛な叫びが胸に突き刺さるようでした。
②R氏とおじいさん、親密で温かな小世界
消滅と秘密警察によって脅かされる人々の生活。
何か改善の余地があれば良いのですが、状況はページを繰るたびに崖を転がり落ちるようにどんどん悪くなっていきます。
食料が消えていくことで人々は飢え、冬が続くようになることで食物も育たないようになります。
季節が回らずにずっと冬のままになってしまった閉鎖された世界で、おじいさんとR氏
との3人のささやかで親密な関係と、自らが紡ぎ出す物語が「わたし」の心を励まし、支えます。
既に両親を失い一人ぼっちだった彼女は希望に似た何かを手に入れますが、R氏との関係にはどこか歪んだ支配のようなものを感じます。
秘密警察のせいだとは言え、妻帯者であり、これから子供が産まれる男性のR氏を自分のテリトリーの中に閉じ込める。
はっきりとは描かれていませんが、そういった形でR氏を手に入れて、動物を飼育するように愛でる。
そこには何か強烈なフェティシズムを感じますし、抑圧された淫靡さを感じます。
「わたし」が書いていた物語でも、タイピストの男性が見初めた女性をタイプライターの声を閉じ込めて、塔の1室に幽閉し、様々な人間的な能力を奪いながら彼女を支配していくという内容でしたが、それはR氏と「わたし」の関係性を暗示するような内容でもありました。
何もかも失われていく世界で、自分だけの宝物を、どこか目の届かないところに隠しておきたかった。
少しずつ衰弱していく彼を支配したかった。
そんな歪んだ愛情が垣間見えるような気がするのです。
あの隠し部屋にいる限り、大事な彼を誰にも奪われることはない。
そうやってR氏を飼育し、やがてお互いに愛し合うようになります。
R氏にとって「わたし」しかいないのですから、これはある種の支配であり洗脳のようなものでもあったのだと思います。
「彼はもう、あの部屋だけでしか生きていけないのよ。彼の心は濃密になりすぎているわ。外の世界に出て行ったら、無理矢理水面に引き上げられた深海魚みたいに、身体がばらばらにちぎれてしまう。だからわたしは、彼を抱きかかえて海の底に沈めているの」
こんなふうに海の底に沈められて、何もかも奪われて愛されるのも悪くないような気もしてきますね。(BY ドMヒロ氏)
③心と喪失
この物語で一番核として描かれているのは「心」だと思います。
消滅のたびに、何かが少しずつ心から消えていく人々。
それを食い止めようとすべく、R氏や、「わたし」のお母さんは消滅してしまった物たちを所持し続け、心の空洞に働きかけようとします。
何かが心の中から消えていき、失い続ける自らの生に諦観を感じる人々。
失うこと、奪われることに慣れて、抗うことや希望を持つことを諦めてしまっていますが、再び心を取り戻そうと叫び続ける人たちがいます。
僕は『密やかな結晶』を読みながら村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を思い出していました。
消滅を繰り返す島の状況が、どこか『世界の終わり』の物語に似ているように感じたからです。
雪が降り積もっていて、心を無くして静かに生き続ける人々・・・。
そして、失った心を取り戻そうとあがく。
重なり合う部分が多くあったように思います。
R氏は「わたし」とおじいさんの心を取り戻すべく。
失われたものたちを取り返すように心に強く働きかけます。
しかし、それは深い井戸に小石を放り込むような、どこか頼りない試みだったのかもしれません。
それでも、失い続けて抗うことを忘れた人たちに対して立ち上がり、心を持ち続けることの大事さを示唆するような行為だったのだと思います。
「いいや。そんな心配はないよ。心には輪郭もないし、行き止まりもない。だからどんな形のものだって受け入れることができるし、どこまでも深く降りてゆくことができるんだ。記憶だって同じさ」
結局、「消滅」は心を失くした人たちの存在そのものを消し去ってしまいます。
なかなかに衝撃的で救いのないラストですが、心を失くして失い続けることに対して諦めた人々の運命を辛辣に予言した作品であったのだと思います。
5、終わりに
いやー、素晴らしい小説でした。
ナチスドイツを彷彿とさせるような秘密警察を描きつつ、小川洋子版の『アンネの日記』な作品かと思いつつ、心についても描きつつ、フェティシズムとか色々盛り込んでもうお腹いっぱいです(笑)
唯一無二の世界観。
こんなん小川洋子にしか書けませんね。
読み始めてから、読後数日経った今でも、彼女の物語の檻に囚われ続けているような気がします。
僕はもしかしたらその檻に望んで入ったのかもしれないのですが・・・。
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