1、作品の概要
1996年に刊行された小川洋子の長編小説。
少女と初老の男との間のエロスと支配について描かれた。
2022年2月に監督・奥原浩志、主演・永瀬正敏で映画化された。
2、あらすじ
母親が経営する古ぼけたホテル・アイリスで働く美しい17歳の少女マリは、ホテルでトラブルを起こした初老の男の声に強い興味を惹かれていた。
やがてマリは母親の目を盗んでその初老の男・翻訳家と逢瀬を重ねて愛し合うようになる。
異常に几帳面で紳士的だが、怒り出すと別人のように尊大になる翻訳家は、支配的な方法で若いマリの身体を執拗に嬲り続け、彼女も暗い悦びを覚えるようになる。
亡くなった翻訳家の妻の存在はどこか後暗い秘密の影がちらつき、突然来訪した甥の存在はマリと翻訳家の関係を変質させていく。
そして死と破滅の予感を漂わせながら2人は嵐の夜を過ごすが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
独特の作風と世界観を持つ小川洋子。
彼女の描く物語ではいつも濃い死の影と秘密が描かれていて、物語に陰影をもたらしています。
『ホテル・アイリス』でも死と秘密が常に空気中に充満していて、それを背景に愛と性の倒錯が描き出されていました。
僕がこれまで読んだ小川洋子の作品の中でもとびきり危険で淫靡な作品だと思いますし、そんな危うさに強く惹きつけられました。
全然知らなかったのですが、最近映画化されたみたいですね。
原作とは少し違ったニュアンスで合わせ鏡のような2人を描いているみたいですね。
愛媛はこれから上映するということみたいなので、観に行ってみようかな。
4、感想・書評
①母親の支配と抑圧、父の死
主人公の17歳の少女・マリは、母親からとても強く支配されていて抑圧されています。
理由は明かされていませんが高校は半年で辞めてしまい、1年中ホテル・アイリスで母親の監視下のもとで働き続けています。
休日もなく、友人もおらずいても遊ぶような時間もなく、ただホテル・アイリスで仕事をし続けて、どこへ行くにも母親の許可が必要な日々。
ちょっと普通の環境ではないですが、マリは母親の支配から逃れることができずにホテル・アイリスに縛り付けられているかのようです。
ただ母親は美しいマリのことを溺愛していて、こき使って罵声を浴びせながらも娘の髪を毎日丁寧に梳かし、椿油を塗っています。
とても歪んだ愛情だと思いますし、祖父母も父も亡くなり、母と娘の2人だけの関係になり、しかも四六時中ずっと一緒にいるという特殊な環境が支配的で歪んだ関係を作り出したのでしょう。
ただマリも17歳でそろそろ母親の支配から抜け出そうと自我が芽生え始める頃で、子供の頃と変わらない感覚でマリと接していて、娘のことをまるで自分のモノのように思っている母親の感覚とは大きな乖離が生まれ始めていたのだと思います。
美しい娘を自慢したり、愛でたりするのも、まるで自分の所有物を愛でているような印象があります。
ホテル・アイリスはマリを閉じ込めておく檻であり、家族の思い出と歴史、そして祖父母と父親の死の記憶が塵のように漂っていて、彼女を絡め取っているように思います。
住居であり、職場であり24時間365日ほぼずっと居続ける場所があるというのはちょっと普通じゃない気がしますね。
また、父親の死がマリの心に大きな欠落をもたらしていて、短絡的かもしれませんが、初老の翻訳家を愛したのも父の不在にも一因があるかのように思いました。
そういった父性の欠落を埋めるためにだいぶ歳上の翻訳家を求めたのかもしれません。
飲んだくれの父親だったけど、移動遊園地では母親の決めごとからひとつおまけしてくれた優しい父親で、マリの境遇も彼がもし亡くなっていなかったら違ったものになっていたかもしれないと思わせられました。
母娘の関係、ホテル・アイリスという彼女を閉じ込める檻、父の死と不在がマリの心に歪みと欠落を生み、翻訳家の支配的で異常な愛情を受け入れる下地を作ったように思えました。
②翻訳家との性の倒錯
マリは初めてホテル・アイリスで見かけた翻訳家が母親に対して「黙れ売女」と言い放つその声の響きに魅せられて彼に近づいていきます。
こんな美しい響きを持つ命令を聞いたことがない、とわたしは思った。冷静で、堂々として、ゆるぎがない。「ばいた」という言葉さえいとおしいものに感じられた。
この美しい響きを持った声で、命令されたい・・・。
最初からマリには翻訳家の歪んだ欲求を受け入れるメンタリティーがあり、むしろ自ら彼に支配されることを望んでいたことがわかります。
少し不思議なのですが、母親に支配され続けていたマリがさらに他者から支配されることを求めたのは何故なのでしょうか?
長年支配され続けていると、他者に支配されることを求めて、そうされることによって愛情を感じるような精神構造になってしまうのかもしれないですね。
マリは全裸にされて辱めを受けて、暴力的に扱われることに快感を覚えるようになります。
翻訳家は自宅でマリと二人きりになった時、普段の穏やかな紳士から、尊大で暴力的な支配者へと様変わりします。
初めてマリにその振る舞いを見せた時は、予約していたはずのレストランで軽んじられて辱めを受けたあとで、翻訳家はまるでその怒りを発散するかのようにマリを乱暴に扱いました。
翻訳家の住居は彼以外住む人のいないF島で、その隔離された環境は行為淫靡さと閉塞性を加速させていたのかもしれません。
でも、普通いきなりこんな乱暴な扱いをされたら女性はドン引きすると思うのですが、翻訳家もマリがそういった扱いをされることを欲しているということを見抜いていたのでしょう。
サディストはマゾヒストの素養を持った人間を嗅ぎ分けるという話を聞いたことがありますが、翻訳家もマリのそのような性癖を見抜いていたのかもしれませんし、マリ自身も翻訳家に支配されることを求めていました。
わたしの仕える肉体は、醜ければ醜いほどいい。その方が、自分をうんとみじめな気持ちにすることができる。乱暴に操られる、ただの肉の塊となった時、ようやくその奥から、純粋な快感がしみ出てくる。
自分を貶めて、他者からぞんざいに扱われることで快感を覚える・・・。
僕には理解できませんが、17歳の少女が奥に秘めていたのはこのように昏い欲求でした。
自分の醜さを晒して自分の存在を貶めていくことは、もしかしたら母親への復讐でもあったのでしょうか?
初めて翻訳家と交わったあとに母親を前にしてマリはこう思います。
あなたのかわいいマリは、人間の一番醜い姿をさらしてきたの。
わたしは、胸の中でつぶやいた。
③死と秘密、そして破滅の予感
異常な性愛にまみれながらも、2人は離れていてもお互いのことを想い焦がれます。
翻訳家はマリに対して手紙を書きますが、とても情熱的で一途なマリへの想いが綴られています。
性的な場面を除けばなんだか切ないラブ・ストーリーにでもなりそうですね。
想いが募るにつれて翻訳家がマリに対して行うことも段々とエスカレートしていきます。
愛情が深まって信頼感が増すごとにより先の領域、より危険で官能的な領域へと踏み込んでいくものなのでしょうか?
初めは縛って命令するだけでしたが、ベッドに縛り付けてスリップをハサミで切り裂いたり、口だけで靴下を履かせて失敗したら思い切り蹴りつけてスカーフで首を絞めて失神させたり・・・。
いやいや、死んじゃうよ?
行為がエスカレートして、愛が深まっていくとともに翻訳家が持つ秘密もその影を濃く深く落とすようになり、マリの心を惑わせます。
何故彼の奥さんは亡くなってしまったのか?本当に噂の通り翻訳家が殺してしまったのか?
その秘密を解く鍵は突然来訪した口のきけない甥が握っていました。
翻訳家の妻の死の真相を甥から教えられたマリは彼を誘惑し、ホテル・アイリスの一室で交わります。
この行為は、翻訳家に対しても、母親に対しても大きな裏切りですし、かつて翻訳家が娼婦と交わった部屋で、いつもマリが働いている場所で甥と交わるということは甘美な背徳感が伴う行為だったと思います。
そしてこの行為が翻訳家に露呈し、罰を与えられることを想像し、その官能に身震いしていたのではないでしょうか?
甥が書いたメモ用紙をスカートのポケットに入れていたのも確信犯だったとしか思えません。
自分が愛する人を裏切って落胆させて、罰を与えられることを強く望んでいるマリは歪んだ欲求の持ち主だったのでしょう。
「ごめんなさい。もうしません。ごめんなさい」
わたしは繰り返した。男は何も答えなかった。もしかしたら、彼をアイリスへと誘ったのも、そのためだったかもしれない。
どんどん過激になっていく翻訳家の行為は死の予感を伴うものとなっていき、マリ自身も自らの死を妄想します。
小川洋子の作品につきまとうたくさんの死の影。
『ホテル・アイリス』でもマリの祖父母、父の死。
翻訳家の妻の死。
そして、翻訳家が語る船から転落して溺死した男の子の話・・・。
ラストはマリが殺されてしまうのかと思っていましたが、それらの死に連なったのは翻訳家の死でした。
翻訳家が目撃した船から転落して溺死した男の子と同じような亡くなり方をしたのは偶然だったのでしょうか?
深読みしすぎかもしれませんが、マリがそうなるように演出していたとしたら・・・。
普段は翻訳家にされるがままにされて支配されているかのように見えたマリですが、本当に支配されていたのは翻訳家のほうだったのかもしれません。
愛する翻訳家が目の前で溺死したのに、ラストの淡々とまるで事務的な報告のように事実が羅列している文章を読んでいて、果てしてマリは本当に翻訳家を愛していたのか?そんな疑問も生じてきました。
物語に満ちている秘密と謎。
マリーの物語も翻訳家の空想だったのでしょうか?
5、終わりに
小川洋子の作品の世界ってどこか無国籍でここじゃないどこか違う世界のような不思議な感触があります。
『ホテル・アイリス』でも唯一名前がついている登場人物が「マリ」で平仮名でも感じでもないことから日本人なのかどうなのかもわからないし、何か匿名性が高い人達ばかり登場します。
食べているものもピザや何かで日本っぽくないですし、例えばピザ屋がロイヤル・ハットとかだったりすることもないですし、ホテル・アイリスで焼き魚とみそ汁を食べている客もいません。
もちろん地名も出てきませんし、翻訳家が住んでいるのはF島です。
なんとなくギリシャとか地中海のイメージで読んでいましたが、どことも言えない場所音話のように感じます。
読みすすめていて、『薬指の標本』のわたしと弟子丸氏の関係性を彷彿とさせられました。
支配的な男女の関係。
色濃く漂う死の影。
どこにもない唯一無二の作品の世界観。
読めば読むほど、小川洋子の作品の世界に深く引きずり込まれていくような気がします。