1、作品の概要
2009年に刊行された小川洋子の長編小説。
『文學界』2008年7月号~9月号に連載された。
2010年本屋大賞5位に入賞した作品。
人形を操ってチェスを指す少年の一生を描いた。
2、あらすじ
のちにリトル・アリョーヒンと呼ばれる少年は、生まれつき唇がくっついてしまう障害があり、唇に脛の皮膚を移植する手術を行った。
幼い頃に廃バスの中に住むマスターからチェスを教わった彼は、めきめきと実力を付けていくが、やがてマスターとの悲しい別れがやってくる。
海底チェスクラブで「リトル・アリョーヒン」人形の中でチェスを指し続ける彼は、ミイラという少女の助けを借りて、盤下から様々な相手とチェスを指し続ける。
人間チェスをきっかけに海底チェスクラブを離れたリトル・アリョーヒンは老婆令嬢の紹介で、老人専用マンション・エチュードで働くようになり、眠れない老人たちを相手に人形の「リトル・アリョーヒン」を通してチェスを指すようになる。
そのエチュードで、彼を伝説の存在へと導く一局が始まる。
3、この作品に対する思い入れ
以前は偏狭かつ不熱心な読書家だったのですが、ツィッターの読書垢の方々からの多大な影響で様々な作家さんを読むようになりました。
読書量は全然大したことないのですが、一つ一つの作品が自分の心に刻む込む軛の刺さり方が段々と深くなっているように思います。
そんな中で定期的に読みたいと強く思う作家の1人が小川洋子で、いつも唯一無二のその独特の物語の世界に連れて行ってくれます。
『猫を抱いて象と泳ぐ』も強い印象を残す作品で、読み終わった今でも自分の魂が物語の中に半分ぐらい取り残されてしまったみたいに思えてしょうがありません。
そんなふうに思わせてくれる大事な作品に、またひとつ巡り合えたことに静かな喜びを感じています。
4、感想・書評
幼い頃、絵がとても怖かったです。
子供の頃は何故かよくわかりませんでしたが、きちんと画家が書いたような絵を見ると言いようのない恐怖感をいつも感じていました。
逃げ出してしまうような、おばけみたいな怖さではなくてジワジワと内側から滲み出してくるような、静かですが確かな恐怖。
しかも、そのような恐怖を感じてしまうにもかかわらず、幼い僕の双眸はその絵に注がれて目を背けることは決してできませんでした。
しっかりと記憶に残っているのは、実家にあったカタツムリと汽車の絵と、親戚のおばあちゃんの家にあった祈りを捧げる少女の絵です。
カタツムリと汽車の絵は、蒸気を上げながら走るSL機関車が描かれていて、手前の柵にカタツムリが1匹止まっています。
ただそれだけの絵。
祈りを捧げる少女の絵は、ヨーロッパのどこかの国の少女が雲間から差し込む太陽の光に向かって手を組んで祈っている様子が描かれています
こちらもただそれだけの絵。
リトル・ヒロは何でそんな普通の絵に恐怖を感じてしまっていたのでしょうか?
当時は言語化することができませんでしたが、絵の中の世界があまりに限定されている感じがして恐怖感を感じたのだと思います。
カタツムリと汽車の絵にはいつまでもカタツムリと汽車しか存在せず、祈りを捧げる少女の絵には少女と祈りしか存在せず、何か奥行きに欠いた限定された世界がそこには広がっていてその世界観のあまりの寂しさに恐怖すら抱いていたのだと今ではそう感じます。
小川洋子の作品を読んでいて、僕がいつも感じるのは子供の頃見た絵と同じ印象の限定された世界です。
閉じられた世界、とても美しいのですが、そこに限定された世界ゆえの恐怖や寂しさを感じてしまいます。
今作の『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んでいて、そのような感覚を抱きましたし、リトル・アリョーヒンはあまりに多くのものを失い続けて傷つき続けていたように思えて心が痛む場面もありました。
しかし、彼にはチェスという僕が知覚できるより大きな想像力の海を持っていて、そこで彼のイマジネーションは解き放たれて、象のインディラ、ミイラ、猫のポーンは自由に泳ぎ回っていました。
そして、リトル・アリョーヒンはそのチェスの海で音声で話すよりも多くの言葉を操り、人形の「リトル・アリョーヒン」を通してながら盤上で雄弁に語り合ったのでした。
マスターに教わったやり方で、決して自分のことをべらべらと話すのではなく、相手の存在を受け入れてお互いに響きあう。
そんなリトル・アリョーヒンのチェスに多くの人々は惹かれて、魂の交歓とも言うべきかけがえのない時間を共に過ごしたのではないでしょうか?
生まれ落ちて唇がくっついていた為に手術を行い、両親を亡くし、自分にチェスを教えてくれたマスターも、猫のポーンも、仄かな想いを寄せていた少女・ミイラも・・・。
何もかもがリトル・アリョーヒンの両手からこぼれ落ちていきます。
こんなにも失い続けるのに、リトル・アリョーヒンは決して不幸そうではなくて、チェスを通じて他人と通じ合えることに喜びを見出し続けます。
彼の世界には誰よりも豊かで大きな海があり、そこで言葉以上の多くの魂の交歓とも言うべき触れ合いがあった。
「言葉という不自由なツールに頼らなくても、本当に人と触れ合ったと思える感触が必要だと、チェスを通じて描いてみたんです」
今作についての小川洋子の言葉ですが、ここでいう「触れ合ったと思える感触」とは何でしょうか?
肉体的な接触?
しかし、リトル・アリョーヒンは人形の「リトル・アリョーヒン」の中にいて触れ合うどころか対局の相手にも自分の姿をさらさずに、全く一言の言葉も発していません。
物理的には全く触れ合ってないけれども、チェスを通して相手の心や人生観、物語に触れる。
それが、今作で描きたかった「触れ合ったと思える感触」なのではないでしょうか?
そう考えると本当に触れ合うということは、肉体的な接触がなくても可能なことで、現在のようなコロナ禍においても、インターネットのような実体がない世界でも、相手の心に魂に触れえることができるのではないでしょうか?
少し飛躍しすぎたのかもしれませんが、僕はこの物語を通してそのように感じました。
例え距離が離れていても、お互いに会うことがなくても、「触れ合う」ことができる。
人と人とのコミュニケーションに対して、何かを提示した作品だと言えるのかもしれません。
5、終わりに
コロナ禍になってだいぶライフスタイルが変化しました。
好きだったささやかな家族での1泊2日の小旅行。
ジムでのワークアウト。
マラソン(ハーフ・10キロ)の大会への参加。
飲み会、カラオケ、DJ等々。
感染対策のため、自粛しています。
*これは個人の考え方なので、それらをしている方を僕は批判しません。
ライフスタイルの変化、楽しみにしていたことができなくなるのは悲しいことですが、いつまでも失ったことを嘆いているのはヒロ流ではありません。
本や、映画、音楽へのより深い向き合い方、喜びの感じ方を覚えることもできました。
友達とリアルで会うことも少なくなりましたが、インターネット上での新たな交流が増え、時には上辺だけの浅薄な交わりを超えた深いつながりを感じることも増えてきました。
もしかしたら、リアルには会うことはないのかもしれないし、SNSはアカウントを消してしまえばそれで終わってしまう関係なのかもしれません。
そういった意味では一期一会なのかもしれませんが、今作を読んで僕もリトル・アリョーヒンのようにポーンやインディラ、ミイラと一緒にインターネットの海を泳いでいたのだなと感じました。
願わくば、この画面の向こうのあなたとの触れ合いを感じることができたら幸いです。
リトル・アリョーヒンがチェスを通じて誰かと通じ合えたように。