1、作品の概要
2012年に刊行された10編からなる連作短編集。
「BE・LOVE」連載コミック『最果てアーケード』の原作として書き下ろされた。
世界で小さなアーケードで大家兼配達係りとして働く女性と、風変わりな店主達の物語。
表紙の装画を酒井駒子が担当した。
2、あらすじ
父母を亡くして、遺された小さなアーケードの大家兼配達係として働く「私」。
アーケードの店主たちは誰もからも個性的で、お客さんも一筋縄ではいかない人たちばかり。
濃い死の影に彩られた風変わりのエピソード、人々の想いが篭められた商品一つ一つに宿ったエピソードが紐解かれていく。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
表紙の絵が好きだったのと(川上弘美『七夜物語』も手がけた酒井駒子)、ツィッターでオススメしている方が多かったので、『最果てアーケード』は以前から気になっていました。
『小箱』『薬箱の標本』にも通ずる独特の世界観と生活に溶け込んだ濃い死の影。
今作も小川洋子独特の物語で、彼女にしか作れない物語の地平に導いてくれました。
4、感想・書評
『小箱』でもそうでしたが、物語全体を濃い死の影が包み込んでいるように思います。
かと言って全編暗いトーンかというとそうでもなくて、ほっこりと心温まるようなエピソードもあったりしますし、アーケードの店主達は善良で優しい人が多かったりするのですが。
「死」は生活の中に塵のように溶け込んでいて、アーケードの中に蔓延しています。
そして、生者はその「死」を毎日呼吸をするように身体に取り込み続けて、死者の思い出と共に生きています。
ちょっと村上春樹『風の歌を聴け』のパクリのような僕の文章ですね(笑)
しかし『最果てアーケード』の世界を表現するのにピッタリな表現のような気がしますし、「私」とアーケードの店主たち、お客さんたちは、死んでしまった人達とその思い出にとらわれながら生きているようにみえます。
それでも、物語のトーンが暗いものではないし、登場人物たちが後ろ向きで暗く生きているのではなくて何か欠損や秘められた想いを抱えながらもつつましく生きているのだと思います。
何かこの辺の描写の仕方や世界観の構築の仕方がとても独特で、小川洋子の作品を読む時に僕は軽い混乱と眩暈を覚えます。
現実と物語、生と死。
どこかその境界線が曖昧になるようなところで物語が進行しているように感じるからです。
境界がぼやける。
いつも彼女の描く物語を読んで、その危うさに混乱しながら引き込まれていきます。
小川洋子の創りだす世界は、まるで深い森のようです。
主人公の「私」は幼い頃に母を病気で亡くして、唯一の親友だったRちゃんも病気でこの世を去り、たった1人の家族だった父も映画館の火事で帰らぬ人となってしまいます。
自分の近しい人が次々にいなくなってしまう。
「私」はRちゃんが愛読していた百科事典を読んでいた読書休憩室で、父親が遺してくれたアーケードで、もういなくなったしまった人達との思い出に耽ります。
このアーケードは世界の最果て、失い続けている「私」にとって行き止まりのような場所であったのでしょうか?
そして、アーケードの店主達も、お客達もどこか死の気配を纏っていたり、喪失感を抱えているような人達が引き寄せられるように集まってきます。
『衣装係さん』の話では、誰にも着られることなく部屋いっぱいのマネキン達に衣装を作り続けている衣装係さんが登場します。
彼女が抱いていたほのかな想い、報われなかった愛はレースに受け継がれて誰か相応しい人の手に渡るまで、店の片隅で待ち続けるのでしょう。
そのレースは「私」の親友だったRちゃんの父親の手に渡ります。
『百科事典少女』では、娘を喪った紳士おじさんが、彼女が愛した分厚い百科事典10巻を書き写し続けるという話で、娘が遺した欠片のようなものを淡々と書き留め続ける紳士おじさんの姿が痛々しいです。
まるで写経でもするみたいに、彼は娘の死を悼み続けます。
アーケードの読書休憩室の片隅で。
紳士おじさんと同じように幼いうちに子供を無くしてしまった母親。
『兎夫人』では、そんな1人の女性と義眼屋さんとの交流が描かれますが、兎夫人は我が子を亡くした悲しみのあまり精神を病んで壊れてしまっているように思えます。
誰も乗っていない乳母車を大事に押し続ける兎夫人の姿には狂気を感じましたが、愛するものの死を受け入れられない母親の悲しみに痛々しさを感じました。
『輪っか屋』では、ドーナツ屋の店主と元オリンピック新体操の選手との恋(?)が描かれています。
彼女の言葉は嘘だらけだったのかもしれませんが、「ドーナツの格好ができる」と言ったことだけは嘘ではなかったのでした。
レース屋さんの姉で、隣で文具屋を営む『紙店シスター』店主のお姉さん。
彼女の店で売っている使用済みの絵葉書は何らかの理由で届かなかった手紙たち。
その中の1枚は、「私」の母親と療養所の雑用係さんとの思い出に繋がっている。
「さあ、目を開けて何も怖くないよ」
この言葉は誰に向けての言葉だったのでしょうか?
「私」自身への?それとも雑用係さんへの?
彼女の想いをのせた絵葉書は、1人の若者の手へと受け継がれていきました。
『ノブさん』のお店には、雄ライオンの頭がついた特別なノブがある。
ラストシーンにも深く関わってくる不思議なノブと不思議な内部の窪みですが、まるであちら側とこちら側を隔てる異世界への扉のようです。
ドアの向こうにあるのがいつもの世界とは限らないし、ドアを開けるために必要不可欠なのがノブなのだと思います。
愛した人が残した場所を守りたい。
その場所で思い出に浸っていたいという願い。
『勲章店の未亡人』がお店を手放せないのは、そういった亡き夫への愛情もあったのでしょうか?
図書館からの電話が鳴り続けるこの場面の文章がなんだか好きですし、何かちょっとこわい感じがします。
どこかで呼び出し音が鳴る。誰の耳にも届かない、誰にもたどり着けない呼び出し音が、最果てのどこかで鳴り続ける。かつて電話のあった部屋、読書休憩室の2階はとうにがらんどうになり、そこに暮らした人の気配も消え去っている。
『小箱』でも繰り返し描写されたテーマですが、『最果てアーケード』でも子供を亡くした親たちが描かれています。
『遺髪レース』でも、赤ちゃんの遺髪でレースを編む場面がありますが、胸が苦しくなります。
遺髪を編みレースにすることで、死者を悼む。
何かグロテスクなような、退廃的な美しさのような、とても奇妙な印象のエピソードです。(というか、この短編全てがそんな感じですが)
小川洋子の死生観とは一体どんなものなのか?
とても興味がありますし、他の作家とは一風変わったものを感じます。
そして、遺髪しか扱わない遺髪レース屋に自分が子供の頃に切り落とした三つ編みを持ち込む「私」
先にある行き止まりの未来を感じさせるような不穏な空気が満ちます。
この遺髪レースが表紙の装画に繋がるのかと、表紙を3度見ぐらいしました(笑)
何となくグリム童話の『赤い靴』で踊りながら深い森に入り込んでいった少女を思い出しました。
『ひとさらいの時計』は、アーケードに来たお客さんのあとをつけてその背中に父親の面影を求めてしまう「私」の話ですが、彼女はたくさんの背中を通じて父親の人生が幸せなものだったと確認しようとしています。
どうしようもなく、彼女の心は過去と死に囚われています。
父親が亡くなった映画館の火災が起きた日を描いた『フォークダンス発表会』ですが、「私」が誘った映画が原因で父親が死んでしまって、フォークダンス発表会にメダルを届けるために遅刻した彼女は生き残ってしまった。
そんなやるせない気持ちが描かれているように思いました。
最後に「私」はノブさんの店のあのライオンのノブを回してあちら側に去っていきます。
なにかグリム童話のかわいそうな少女みたいな最後のように思いましたが、大切な人がいなくなってしまった世界で自分だけ生存し続けることに彼女は意味を見いだせなかったのかもしれません。
父親との待ち合わせの場所に、彼女はあの日と同じの取っておきの靴を履いて足早に駆けていったでしょう。
「配達係としてもう充分やったと思うから、そろそろお父さんのところへ行かなくちゃね」
聞こえているのかいないのか、ノブさんはどこか遠くに目をやり、微笑んでいる。
「あんまり待たせると可哀相だもの。せっかくのデートなのに」
私は雄ライオンのノブを回し、奥に隠れた暗闇にそろそろと体を沈めていく。
5、終わりに
とても限定された世界での限定された物語。
いびつに歪んだ時間軸は未来を忘れたように過去と現在を行ったり来たりしているようでした。
いつか行き止まりにたどり着くまで。
本当に小川洋子の作品は独特の世界観を持っていて、読後に形容しがたい感情が胸に去来します。
物語の陰にはいつも「死と喪失」が息を潜めていて、物語が淡い光に
満ちている時でも不吉な影のように光を侵蝕する機会を伺っているかのように感じます。
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