1、作品の概要
『海』は2006年に刊行された、小川洋子の短編集。
7編の短編と、自身の著作へのインタビューが掲載されている。
2、あらすじ
①海
結婚の承諾を得るために泉さんの実家を訪れた、僕。
彼女の弟の彼の部屋に泊まることになった僕は、そこで彼の不思議な演奏を聴く。
②風薫るウィーンの旅六日間
20歳の私は貯金して参加したウィーン旅行のツアーで、60代半ばの琴子さんと同室になり、彼女と行動を共にするようになる。
琴子さんは若い頃に付き合って音信不通になったヨハンに会いにこのツアーに参加したとのことだったが・・・。
③バタフライ和文タイプ事務所
バタフライ和文タイプ事務所で和文タイプをする私は、破損した活字を交換してくれた活字管理人に興味を抱くが、彼の姿を目にすることはなく会うことは叶わなかった。
ある日、彼女は活字管理人に再び接触するためにある行動に出る。
④銀色のかぎ針
瀬戸大橋を走り海を渡る電車の中で編み物をしている老婦人を見かけた私。
彼女の脳裏に編み物好きな祖母の記憶が甦る。
⑤缶入りドロップ
幼稚園バスを運転する男は子供たちのために懐に忍ばせている缶入りドロップ。
そこには優しい仕掛けがあった。
⑥ひよこトラック
天涯孤独のホテルのドアマンの男は、祖母と少女が暮らす家の2階に下宿していた。
母親を亡くして言葉を失った少女は、生き物の抜け殻を通して男と交流し始める。
ある日2人の眼前を1台のトラックが通り抜ける。
⑦ガイド
公認観光ガイドのママのツアーに同行していた僕は、ステッキを持った男と隣り合わせになり、交流を持つ。
男は元詩人で、現在は題名屋をしているという風変わりな男だった。
ツアーの途中で題名屋の男が遊覧船に乗っていないトラブルが発覚するが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
ブックオフで100円で売っていたのをゲットしたのですが、そういえば小川洋子の短編小説って読んだことないな、表紙もいい感じだから読んでみようってノリでした。
パケ買い上等(๑≧౪≦)
小川洋子の作品は定期的に読みたくなるので、少しずつ読んで僕が還暦になるぐらいまでには全著作を読み終わりたいですね~。
短編の中にも長編と変わりなく強烈な小川ワールドが炸裂していました。
ご本人が巻末のインタビューで「長い妄想か、短い妄想かだけの違い」って言っていましたが、短い中にも確実に自分の世界観を表現できるってやっぱり稀有な作家だなって思います。
4、感想・書評
①海
泉さんの一家ですが、どことなく変で、何かが歪んでいるような気がします。
泉さんもそのことを自覚していて、だからこそ気詰まりな想いを「僕」にさせているような気がして「ごめんね」と謝ります。
その歪みの中心はやはり泉さんの「小さな弟」なんだろうなと思いました。
22歳ですが、音楽をしているといいながら自分しか演奏していない「鳴鱗琴」なる楽器を演奏していて、その楽器は海の風がないと演奏できないとか言っていて・・・。
いや、音楽が仕事かと思ったら働いてないやろ(^_^;)
母親から冷たいサイダーは禁止されていたり、寝る前に動物のビデオを観ていたりと、とにかく変ですね。。
教師で真人間の「僕」は、しかし彼に自然な興味を頂き、その風変わりな楽器の演奏をせがみますが、海辺じゃないと演奏できないとのことでエアプレイでの演奏を披露します。
ヘンテコな彼ですが、「鳴鱗琴」をエアプする姿はとても神秘的で、知性や社会性などの大きな欠落を抱えながらも、神様から特別なギフトを与えられているように感じます。
口笛とも違う、歌声とも違う、微かだけれど揺るぎない響きが聞こえてきた。それは海の底から長い時間を経て、ようやくたどり着いた安堵と、更に遠くへ旅立ってゆこうとする果のなさの、両方を併せ持っていた。
②風薫るウィーンの旅六日間
旅先でのちょっと変わった思い出。
琴子さんの何とも言えない雰囲気にくすりとわらってしまいます。
ユーモアが散りばめられた話ですね。
ただヨハンに騙されて辛くなかったのでしょうか?
彼を待ち続ける日々に・・・。
冒頭で未亡人と書かれていたから、別の人と結婚はしたみたいですが。
琴子さんは作中でこう話しています。
「とにかく、遠い場所に、たとえ一瞬でも自分のことを思い出してくれる人がいるなんて、うれしいじゃありませんか。そう思えば、眠れない夜も安心です。その遠い場所を思い描けば、きっと安らかに眠りにつけます」
誰かの心に、物語の中に、生き続けること。
そうした感触が心を、魂を温めてくれるのかもしれません。
最後はまさかの展開にまたくすり。
③バタフライ和文タイプ事務所
『薬指の標本』をそこはかとなく思い出させるような閉鎖的で特殊な就労空間。
和文なので日本なのでしょうが、やっぱり現実の日本の感じがしないズレ方。
この微妙な異世界観が、どこでもない場所観が小川洋子の作品の魅力だと思います。
この事務所の名前も何だか良いですね。
「バタフライ和文タイプ事務所」って何だかニヤニヤしてしまいそうな語感のタイトルですね。
タイプライターを感じ打つとか。
しかも糜爛とか睾丸とか性的なんだかよくわからない難しい漢字を打ち込んでいたりとか何かとても奇妙な仕事風景です。
そんな歪な場所で、さらに深くねじれているのが主人公の「私」で。
活字管理人に対して偏執的な興味を抱いて彼に接触するために活字の一字を故意に損ねてしまいます。
彼の指先が傷あとに優しく触れることを妄想して淫靡な喜びにひたる「私」
独特の昏いエロチシズムを感じました。
彼は襞を一枚一枚手繰ってゆきます。複雑な形の隙間に一つ一つ指先を滑り込ませてゆきます。どんなわずかな窪みも隆起も見逃しません。活字管理人の鉛色の指は、何もかも捕らえてさすり、押し当て、くねらせるのです。
④銀色のかぎ針
4ページほどの短い物語ですが、目の前の老婦人の編み物の銀色のかぎ針が、祖母の編み物の記憶を想起させていくさまが良いですね。
折しもその亡くなった祖母の法事に向かう途中での電車内での出来事。
瀬戸内海を渡るマリンライナー。
トンネルを抜けると海が見えて、光を受けた銀色のかぎ針が本物の魔法のかぎ針みたいにきらきらと輝いている。
叙情的でなんか好きです。
⑤缶入りドロップ
もっと短いやつ(笑)
2ページ。
40年間、バスだけを運転し続けてきた人生。
インタビューに書かれていて、ハッとしましたが、小川洋子の小説の登場人物はそういった限定的な小さな世界で生き続けている人たちが多いですね。
そのことがより独特で閉鎖的な小世界を描き出しているように思います。
⑥ひよこトラック
少女と初老の男との心の交流。
インタビューでも作者本人が言及されていましたが、世代を飛び越えた交流が描かれていますが、父親が出て行って、母親と死に別れて言葉を失ってしまった少女と、身寄りがなく天涯孤独なドアマン。
この2人の心の交流とかいうだけでだいぶ心惹かれます。
少女が生き物の抜け殻に執着し続けるのはどうしてなのでしょうか?
中村文則『遮光』で母親の髪の毛や爪を主人公が大事に持っているという話がありましたが、失ってしまった大事な存在を悼んで、少しでもその存在の、命の残り香を手元に置いておきたいという寂しい欲求によるものだったのでしょうか?
彼女なりに生と死を理解するための鍵のような存在でもあったのかもしれませんね。
かつては生命だったものの残滓。
ついさっきまで生き物だったのに、今では空っぽの器になり、見捨てられてしまった抜け殻。中には沈黙が詰まっている。
2人の絆が確かなものになったのはひよこトラックを一緒に目にしたからでした。
何か特別な瞬間を、体験を共有できた時って絆が深まるように思います。
それは理屈ではなくて、その場にいた人間にしかわからない魔法。
それだけ特別なことで、2人が共有したのは色とりどりのヒヨコだったから尚更特別な瞬間を共有できたのだと思います。
その瞬間、二人の間に、身振りでもない、もちろん言葉でもない、ただ、ひよこ、という名の虹が架かった。
ただそんな美しい奇跡のような瞬間を演出してくれた虹色のひよこ達も、待ち受ける未来は無残なものでした。
客に買われても、売れ残っても生きられる時間は短く、惨めに死んでいく未来が決定づけられています。
しかし、そんな残酷な真実も少女が言葉を発しないために伝えずにすむ。
十全で自由闊達なコミュニケーションが幸福を生むとは限らない。
そんなことを感じました。
ラストシーンでトラックが横転して、ひよこたちが解放されるシーン。
どこか映画的で視覚的に訴えてくるものがありました。
そこに響き渡る少女の声・・・。
彼女の声は、男の人生にとって得難い宝物となったのでしょう。
⑦ガイド
ヘンテコな題名屋と少年の交流。
小川洋子の小説で異世界観を際立てている要素の一つとして、それ絶対に成立しないだろっていう超絶ニッチな職業や商売にあります。
『最果てアーケード』でもだいぶよくわからないお店がたくさん出てきてました。
『ひよこトラック』と同様に世代を超えた交流。
何か心がじんわり温まるような短編でした。
「『思い出を持たない人間はいない』」
5、終わりに
短編であっても迸る異世界観、垂れ篭める死の香り、しめやかなエロティシズム・・・。
長編と等しい奥行を短編でも遜色なく表現できるっていうのは、彼女が物語の世界観を脳内に明確にイメージできているんだろうなと思いました。
とても良い意味でのブレなさ。
彼女の短い妄想の世界にもドップリと浸かることができましたよ。
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