1、作品の概要
2003年に刊行された。
小川洋子の長編小説。
2006年に深津絵里主演で映画化。
2、あらすじ
家政婦の「私」は、記憶が80分しか持たない数学の天才である「博士」の家で働き始めた。
やがて「私」の息子のルートも巻き込んで、3人の穏やかで親密な日々が始まる。
博士は、数字がもたらす美しさや、奇跡を教えてくれて、やがてそれは3人の関係を繋ぐ太い絆になっていく。
博士の江夏への愛情、向かいに住む義姉と博士の不思議な関係、そして博士の記憶の中に閉じ込められた秘密と想い。
どこか物悲しくて、日だまりのように温かな物語。
3、この作品に対する思い入れ
僕が、『薬指の標本』『小箱』に続いて読んだ3作目の小川洋子作品になります。
映画化されたこともあり、以前から知っていて気になっていたけどなんとなく読みタイミングを外していた『博士の愛した数式』
なんか、そういうことってないですか?
気になっていたけど、なんとなくタイミングが合わなくてスルーしてるみたいな(^^;;
いざ読んでみると、とても心が温かくなるような物語でジンときました。
映画も是非観てみたいですね♪
4、感想・書評
僕は「名前のない関係」が好きです。
親子、恋人、夫婦、家族、友人・・・。
色々と名前がついている関係はたくさんありますよね。
もちろんそれらの関係性が疎ましいとは思わないのですが、物語で読む時にはそこらの定義から外れた、名前がついていない微妙なバランスで成り立っている人間関係を描いた作品が好きです。
博士と、私、ルートの3人の関係性が正にそういった微妙なバランスで成り立っている関係で、3者3様にこの関係性を維持するために心を砕いているように見えます。
私と、博士の2人の時はただの雇用者と被雇用者の関係だったかと思いますが、そこにルートが加わることで3人の間に何か親密な感情が生まれて、忘れえない想い出(博士は忘れていくのですが)を共有することとなります。
3人を結びつけていたのは数学であり、江夏と野球でした。
変人の老人と、シングルマザーの家政婦とその子供の温かな触れ合い。
こうして書いてみると、すごく温かな物語ですが、博士の語られない過去が物語に影を落としています。
例えば、なぜ博士はルートのことを過剰に溺愛し、子供という存在に無条件に愛情を与え続けるのか?
この謎は最後まで語られることはありません。
その秘密は、向かいに住む未亡人の義姉の存在に繋がっています。
そもそも、本当に義理の兄妹だったのかも怪しく、もしかしたら2人は夫婦でかつて子供もいたけれど、博士が脳に障害を負うキッカケになった交通事故で子供を失ってしまっていた・・・。
なんて想像もしてしまいます。
そう考えると、義姉が私に向ける執拗な視線。
それには嫉妬も含まれているように思えます。
「私がおります。義弟は、あなたを覚えることは一生できません。けれど私のことは、一生忘れません」
という言葉にも合点がいくように思います。
離れて暮らしているのは、一緒にいると博士が事故の辛い記憶を思い出してしまうからなのでしょうか?
違っているかもしれませんが、何かしらの秘密と過去がありそうです。
そして、その秘密が最後まで語られずにこの暖かい物語に影を落としている点が、小川洋子作品の個性のように思います。
『薬指の標本』でも、謎は語られずどこか宙ぶらりんな感じで物語が終わります。
極端に閉じられた人間関係とその特異性を密に描いて、秘密や後ろめたい過去を仄めかしながらも最後まで語らずに物語を終わらせる・・・。
そんな小川洋子の物語作りの特異さがこの作品にも息づいているように思います。
江夏の背番号と絶対数。
私の誕生日と博士の時計に刻まれた数字が友愛数。
不思議な数字の縁に導かれた物語は、博士の記憶のさらなる破綻をもって終わりへと導かれます。
全ての謎は義姉が抱えたまま、明かされることはありません。
でも、一度は私とルートを拒絶した義姉も(それは恋愛的な嫉妬や、財産を狙うなどの行為への邪推だったのかもしれませんが)態度が軟化していきます。
博士と2人の関係の親密さを理解したとも言えますし、決定的に損なわれた博士の脳が自分たちの秘密を漏らすことはないと思った安心感から寛容になったのかなとも思いました。
博士にもらったグローブを大きくなってもずっと使って、大学まで野球を続けたルート。
しかも、博士の影響を受けて中学の数学教師にまでなって・・・。
博士との出会いが、ルートと私にとっても多くの福音をもたらしたのだと思いました。
5、終わりに
すごく暖かな物語ですが、秘密と後ろ暗い過去の影が見えるような不思議なニュアンスの物語でした。
いつも小川洋子さんの物語を読んでいて、「これはどこで紡がれた物語なのだろう?」と思う時がありますが、『博士の愛した数式』でも登場人物は名前を持たずに、とても閉じられた世界で物語が進行していくように思えます。
巻末の数学者・藤原正彦さんのあとがきも良かったですね。
彼の著書「国家の品格」がとても好きだったので、あとがきを見た時に「あっ!!」と想い興味深く読みました。
数字と運命の不思議さが紡いだ物語。
子供達にも読ませたい素敵な物語でした。
あー、やっぱり小川洋子さん良いなぁ♪