1、作品の概要
2014年に刊行された村上春樹の短編集。
全6編からなる。
女性に去られてしまった男たちを描いた。
『ドライブ・マイ・カー』『イエスタデイ』『独立器官』『木野』は『文藝春秋』に、『シェエラザード』は雑誌『MONKEY』に掲載されて、表題作の『女のいない男たち』は書き下ろされた。
『ドライブ・マイ・カー』は2020年に監督・濱口竜介、主演・西島秀俊で映画化されている。
2、あらすじ
①ドライブ・マイ・カー
俳優の家福は、20年連れ添った妻を癌で亡くしてしまう。
彼女は夫以外の複数の男と寝ていたが、家福は彼女にそのことについて言及することができなかった。
目の病気のため運転が困難になった家福はドライバーに若い女性のみさきを雇う。
彼はみさきにかつて友人であり、妻の不倫相手だった男の話を始める・・・。
②イエスタデイ
大学生の谷村は、風変わりの浪人生・木樽と友人になり、彼が歌う奇妙なイエスタデイ(日本語おまけに関西弁の歌詞)を聴く。
木樽には栗谷えりかという幼馴染の可愛らしい彼女がいたが、なかなか2人の関係性は進展せず、木樽の提案から谷村は彼女とデートすることになる。
16年後偶然に栗谷えりかと再会した谷村は、彼女自身の近況の話と、木樽の話を聞かされる。
③独立器官
谷村は同じジムに通う渡会とスカッシュのパートナーをきっかけに友人となり、彼の奇妙できらびやかな生活の話を聞くようになる。
渡会はクリニックを経営している美容整形外科医で、50歳を過ぎても独身で、パートナーがいる複数の女性と交際していた。
渡会はある時16歳年下の家庭を持った女性に人生で初めて深く恋焦がれる。
谷村は、ジムから渡会が姿を消して数ヵ月後に、彼の秘書から訃報を聞くが・・・。
とある事情で「ハウス」に閉じこもって生活している羽原。
買い物など彼の身の回りの世話をしにやってくる女性・シェエラザード(羽原が名づけた)は、彼と交わり寝物語で彼女自身の奇妙な話をしていた。
前世がやつめうなぎだった話、高校生の頃に好きな男子の家に何度も空き巣に入った話。
羽原は、千一夜物語のような彼女の話が聞けなくなることを何より恐れていた。
⑤木野
スポーツメーカーに勤務していた木野は、妻を同僚に寝取られて離婚し、会社を辞めて叔母さんがやっていた店を改装しバーを開いた。
少しずつ客が増えてきた頃に常連客になっていたカミタが他の客とのトラブルを収めてくれ、そして木野は客の女性と懇意になりセックスをする。
蛇が現れて猫が消える、異変が続く木野の店を訪れたカミタは、彼に店を離れるように助言する。
⑥女のいない男たち
真夜中に電話が鳴り。
かつて付き合っていた女性の夫を名乗る男から、彼女の自死を告げられる。
14歳の時に巡り合って恋していたような幻想。
彼女をさらった水夫たちと、世界でいちばん孤独な男。
女のいない男たちの代表として、僕は一角獣の前で祈り続ける。
3、この作品に対する思い入れ
えっ、もう8年前に刊行された作品なのですね・・・。
発売日に本屋にダッシュして読みふけったのを昨日のことのように思います。
短編集としては、『東京奇譚集』より9年越しの作品。
その後に刊行された『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』にも通ずるような深い痛みを抱えた作品だったように思います。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①ドライブ・マイ・カー
今作の出発点となった作品ですが、ぼんやりとした喪失感ではなく、錐で突き刺されるような明確で肉体的な実感を伴ったような、強い心の痛みと喪失感が表現されています。
最愛の妻を早くに亡くしてしまい、彼女の不貞は家福にとって大きな謎のまま残されてしまう。
とてつもない痛み。
悼み。
本来憎むべき相手。
自分の妻を寝取った高槻に対してある種の緩やかなシンパシーを感じていたのも、高槻がこの鋭い痛みを自分と同じように感じていることを理解したからなのかなと思いました。
村上春樹の作品で時々成立する男同士の奇妙な友情。
『ダンスダンスダンス』の「僕」と五反田くん、『騎士団長殺し』の「私」と免色さんのような。
普段は底が浅い男であるはずの高槻はこんな言葉を家福に投げかけて、一瞬かもしれませんが、2人は本当に深く交流し、1人の女性の死と不在をいたんだように思います。
女のいない男たちとして。
でもどれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃいけないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。
過去を回想しながらドライバーのミサキに想いをぶつける家福。
なぜ愛し合っていたはずの妻は、自分を裏切るようなことをしたのかと。
ミサキはそのようなことはよく起こることで、病みたいなものだと言います。
諸行無常にも程がありますね(笑)
何一つ変わらないもの、確かなものなんてない。
全ては移ろい変わっていく。
どれだけの痛みを感じようとも、受け容れるしかない。
そんな風にして物語は閉じられます。
②イエスタデイ
東京生まれ東京育ちなのに、完璧な関西弁を操る木樽。
とても風変わりな男で、彼に歌う替え歌の『イエスタデイ』はなんと関西弁の歌詞でした。
これには、ポール・マッカートニーもビックリですね(笑)
幼馴染のカップルというと、『ノルウェイの森』のキズキと直子を彷彿とさせますが、木樽と栗谷えりかもお互いがずっと昔から一緒にいることで先に進めなくなっているように思います。
そして木樽はとても風変わりな男ながら、とても繊細な男で栗谷えりかと寝なかったことには彼なりの理由があったのかもしれません。
ただ、木樽は不器用な男でその理由を言語化して栗谷えりかにうまく伝えることができずに、彼女から「本当に自分のことを好きなのか?」と疑念を抱かれてしまいます。
木樽が、栗谷えりかに谷村と「文化交流」するように勧めたのも本当は彼なりの焦りやもどかしさがあったのかもしれませんし、自分の胸の内をうまく伝えられないもどかしさもあったのでしょうか?
この時、栗谷えりかから語られた氷の月の夢の話、とてもロマンチックですが同時にそんな幻想的な世界でただ木樽と2人きりでいるというのはいつか終わってしまう恋であることを暗示しているように思えます。
氷はいつか溶けてしまうものですし、夢は覚めてしまうものなのですから。
③独立器官
主人公の名前が『イエスタデイ』と同じ谷村ですが、繋がっているのでしょうか?
そして村上春樹自身の体験のようにも描かれています。
どこか奇妙な話ですが、人間が自らの意志で緩やかに自らの命の灯火を吹き消すことは実際にもあります。
僕が体験したのは高齢者の方の話ですが、50歳ぐらいの心身共に健康で働き盛りの男性がそいういったことをするのはやはり異常なことですし、渡会医師が受けた心の傷がどれほど痛烈なものであったかを物語っています。
渡会医師の恋愛観、人生観は少し変わっていて、結婚もせずにパートナーがいる複数の女性たちと交際しています。
経営する美容整形外科病院も成功していて、経済的にも恵まれている。
ジムで体型を維持して、身だしなみも良くてセンスも良い、ピノノワールの美味しいワインだって選べるし、とても人あたりが良く振舞うことができる。
ある種の完結された完璧な人生ですが、1人の女性に強く惹かれて自らの存在を無にしたいと思うまでの傷を受けたのは、それまでスムーズにいっていた人生の帳尻を合わすかのように、悪魔が彼の魂のいくらかを代償として持ち去っていったのかもしれません。
払い忘れていた税金みたいに。
彼が寝ていた女性には夫なり彼氏なりのパートナーが必ずいたわけですし、女性たちは自分のパートナーを裏切って渡会医師と寝ていました。
渡会医師が恋に落ちた女性からそのような辛辣な仕打ちを受けてしまったのは因果応報ですし、まぁその女性の夫のほうが辛いはずですよね。
渡会医師はそれまでの人生で恋愛に関して真剣な喪失や絶望を抱えたことはなく、耐性がないままに自らの身を滅ぼしてしまったのでしょう。
もやわれた2艘のボート。
渡会医師の心は彼女にしっかりともやわれていましたが、彼女の方はそうでなかったのでしょう。
彼女の心が動けば、私の心もそれにつれて引っ張られます。ロープで繋がった二艘のボートのように。綱を切ろうと思っても、それを切れるだけの刃物がどこにもないのです。
見た目は普通の35歳の主婦で特に美しいわけではない女性、シェエラザード。
でも彼女の話は、羽原がそう名付けたように、千一夜物語のシェエラザードのように魅力的で続きが聞きたくなるような話を彼とベッドをしたあとにしてくれます。
やつめうなぎの話もなんだかとても不思議な話だし、水底から彼女が観ていた光景もとてもリアルでイキイキした描写で引き込まれます。
そして、やつめうなぎの話が前世の話になり、胎児の時の記憶の話になり、興味をを惹かれたところでまた次回・・・。
といった具合に話のヒキが絶妙でした。
ちなみに、やつめうなぎって、実在の生物みたいですね。
そして彼女が高校生の時に好きな男の子の家にこっそり侵入していた話をし始めますが、とても奇妙で出口のない話ですね。
現代ではストーカー認定間違いなしです。
それは結局思春期にかかる熱病のようなものだったのでしょうか?
彼への思いが覚めると共にシェエラザードは空き巣に入るのもやめます。
羽原はそんな彼女の話の続きが聞けなくなることを恐れ、さらに他の女性とも親密になることができずに『女のいない男たち』になることについて哀しみを覚えます。
羽原が置かれている状況は作中では説明されていませんが、そのような状況に陥ることになる可能性は十分にあるようで、彼はそんな状況に不平を言うことも難しいようです。
羽原は、女性たちとの関わりについて、性行為以外での心の交流についてこう述懐します。
しかし羽原にとって何よりつらいのは、性行為そのものよりはむしろ、彼女たちと親密な時間を共有することができなくなってしまうことかもしれない。女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。そしてシェエラザードは彼にそれをふんだんに、それこそ無尽蔵に与えてくれた。
現実の中に組み込まれながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間。
セックスのあとにお互いのぬくもりを感じながら過ごす親密な時間は、男たちのささくれだった心を慰撫して、心をとらえている様々な問題や苦しみを解体していくような、特別なものなのかもしれません。
それを失うかもしれない可能性について考えることはとても薄ら寒く、岸壁から深淵を覗き込むような心境なのかもしれません。
⑤木野
映画『ドライブ・マイ・カー』で家福が言うセリフで「おれは傷つくべき時に十分に傷つかなかったのだ」というものがありますが、『木野』の終盤で出てくる木野自身が妻を失った時のことを振り返ってそう考えます。
そうおれは傷ついている、それもとても深く。
家福も妻が他の男と寝ていることを知りながら、彼女と向き合うこともせずに、傷ついている自分をどこかに遠ざけながら、心で血を流しながら演技することを選びます。
木野も、どこか初期の村上作品の主人公のようなシニカルさで少し投げやりに身に振りかかった妻の不貞行為を「仕方ないさ」と受け入れてしまいます。
そうやって心に蓋をして生きていく。
自らの感情を押し殺して何もかも許してしまう。
結局は木野自身のそんな心の歪みが蛇たちを呼び寄せてしまったのかもしれません。
蛇や、ドアをノックする得体の知れない存在。
消えた猫。
耳元で彼を責め立てる声。
全てが不気味で、『一人称単数』に収録された表題作『一人称単数』に繋がる不穏さがあります。
誰かが執拗に窓ガラスを叩き続けていた。彼をほのめかし深い迷宮に誘い込もうとするように、どこまでも規則正しく。こんこん、こんこん、そしてまたこんこん。目を背けず、私をまっすぐ見なさい、誰かが耳元でそう囁いた。これがお前の心の姿なのだから。
*余談ですが『ドライブ・マイ・カー』で家福と高槻が訪れていた「根津美術館の裏にあるバー」は木野の店だったのですね。
⑥女のいない男たち
実話を基にした話なのでしょうし、エムとはあまり褒められた関係ではなかったことが推測されます。
突然女性の夫から電話がかかってきて彼女が永遠に失われたことを一方的に知らされる。
『1Q84』『騎士団超殺し』でも同じような場面があったと思いますが、作者自身の体験を基にしたものかもしれませんね。
心にどこか誰にも言えないような暗い部分を抱えていて、分かり合いたいのではないけど、ただ同じ時間を共有することで救いのようなものを求めたい。
エムにはそういった気持ちがあって作者と心を通わせたのかもしれません。
付き合った女性が3人自死しているというのは、そういった因子を持った女性たちにとって彼がひと時でも救いになりうる存在だったからなのでしょうか?
暗闇の中の誘蛾灯のように、引き寄せられていったのかもしれません。
最愛の女性を失う。
その笑顔と肌のぬくもりと親密な時間を永遠に失ってしまう。
僕も世界中の水夫たちと一緒に彼女の喪失を悼みたいと思います。
5、終わりに
おそらく3度目ぐらいの再読だったかと思いますが、新たな発見が色々とありましたし、この短編集に流れる強い痛みを伴った喪失。
最愛の女性を失い、暖かで親密な時間を2度と取り戻せなくなってしまった哀れで惨めな男たちの物語を、幾分かの共感を持って読むことができたいように思います。
にしても、この短編集でもそうですが村上春樹の物語ではいわゆる不倫関係が描かれることの多さに改めて気付きました。
えっ、今更かよ!!とか言われそうですが、今作もそういう家庭を持ちながら別の異性と関係を持つ人々が描かれていますし、そこに何の躊躇も罪悪感もなく、背徳の甘美さも一切ないですね。
何の罪悪感もなく登場人物たちは体を重ねますし、これはなんなのだろうと改めて思いました。
誰か解説してください(笑)