1、作品の概要
1985年10月に刊行された村上春樹の全9編からなる短編集。
講談社の文芸PR誌『IN☆POCKET』で隔月で連載された作品と、2編の書き下ろしを加えてた。
2、あらすじ
①はじめに・回転木馬のデッド・ヒート
この短編集の前口上的序文。
今作の短編たちは、事実に即した文章であり、それらを小説の容れ物を用いたスケッチである。
ある種の無力感のように春樹の心中にたまっていったおりたち。
回転木馬のデッドヒートのようにどこにも行けない。
②レーダーボーゼン
妻の友人とひょんことから2人きりになった筆者は、彼女から父親と母親が離婚したきっかけについて語られる。
とても唐突な離婚で、母は彼女にも理由を言わずに別れて彼女のことも捨てた。
その理由はドイツの半ズボン「レーダーボーゼン」だった。
③タクシーに乗った男
画廊のオーナーである彼女が今まで一番衝撃的だった絵は、チェコ人の凡庸な画家が描いた「タクシーに乗った男」という絵だった。
彼女はその絵の中の男に彼女自身の失った人生の一部を見出していた。
そして、数年後にギリシャのアテネで、絵の男にそっくりの男に出会う・・。
④プールサイド
70歳で人生を終わることを想定し、35歳を折り返し地点と定めた男。
彼は卓越した肉体と知性を持ち、社会的に成功して感じのいい奥さんと結婚し、年下の彼女がいた。
⑤今は亡き女王のための
容姿と能力に恵まれて、幼い頃から周囲にスポイルされた女の子。
筆者は、彼女と行きがかりから一度だけ抱き合ったことがあった。
十数年後に彼女の夫だと名乗る男性から彼女の幸福とは言えない現在の話を聞く。
⑥嘔吐1979
親友の彼女や、妻と寝るのが好きな男がいた。
彼にある時より奇妙な電話がかかってくるようになり、その後に嘔吐してしまうようになる。
⑦雨やどり
筆者が雨宿りに入ったレストランバーで、以前インタビューを受けた女性にバッタリ出会う。
彼女は、ある時期に男性からお金をもらって寝ていたことがあるという。
彼女が言うには、男性が払うことができるギリギリの金額を当てることができるという。
⑧野球場
大学時代、好きな女の子を覗き見するために彼女のアパートの対岸のアパートに住み始めた男。
彼のアパートの前には野球場があった。
彼女の生活を覗き見し続ける日々、しかしその生活は終わりを告げる。
⑨ハンティング・ナイフ
筆者が妻と2人でバカンスに出かけた時の話。
同じコテージに車椅子の男性と、彼を介助している女性の親子と出会った。
筆者は眠れない夜に、車椅子の男性からハンティングナイフを見せられて、その切れ味を試すことになる。
3、この作品に対する思い入れ
村上春樹の短編集は、どれもテーマがあるものが多く異色のものが多いが、その中でもこの作品は際立っているように思う。
ちょっと『レキシントンの幽霊』と似ているように思うが、実話を基にした短編集である。
4、感想・書評
①はじめに・回転木馬のデッド・ヒート
村上春樹は、奇妙な出来事に出くわしたり、他人から奇妙な出来事を聞かせられたりすることが多いように思います。
そうやって、春樹自身の中に溜まっていったおりのようなものをマテリアルは事実で、ヴィーグルは小説で表現した「スケッチ」が今作の短編集のようです。
思えば、村上春樹の短編集は事実をそのまま小説にしたような作品も多いし、わりとコンセプティブにまとまられた作品群が多いですね。
②レーダーボーゼン
ほとんど、不条理と言って良いほどの意味わからなさで、しかもそのことによって語り手の母は娘と夫を突然理由もなく切り捨ててしまいます。
とても、理不尽な話ですが潜在的に積もり積もっていた憎しみがレーダーボーゼンを通して一気に湧き上がったのかもしれません。
③タクシーに乗った男
絵の中のタクシーに乗った男に自らの凡庸さ、失ったものを投影した画商の女。
絵の中の男と分かりあったような不思議な感覚を抱きます。
そして、数年後にギリシャで絵の中の男だと思われる人物にばったりと出会う。
人生には往々にして、こういったドラマティックで不可解な瞬間があると思います。
人智を超えた宇宙の法則。
人は何かを消し去ることはできないー消え去るのを、待つしかない。
④プールサイド
ちょっと表現するのが難しい短編ですが、どことなく『風の歌を聴け』のような諦観のような乾いた感覚を感じます。
語り手の彼は人生の折り返し地点と自分で定義づけた35歳で、知性も体力もあって社会的に成功していて、感じのいい妻とガールフレンドもいる。
誰もが羨むような人生なのですが、折り返し地点に達した時にどことなく空虚な感じというか、人生の無常のようなものを感じます。
なにか大きな出来事がある物語ではないですが、底が見えない薄暗い谷底を不意に覗き込んでしまったような、ゾッとするような感覚があります。
人生の無常さを感じさせられるような作品だと思います。
⑤今は亡き女王のための
村上春樹自身の体験ですが、その美しさと優秀さゆえに周りからスポイルされ続けた女の子の話です。
なんとなく『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』のシロを彷彿とさせるような女性だと思いました。
時系列的には逆なんでしょうが。
そんな彼女と行きがかりからしっかりと抱き合うことになった春樹。
人生には時折、エアポケットみたいに空白ができ、不可解な出来事が起こります。
そして、彼女の夫という男性に偶然会い、彼女の幸せとは言えない近況を聞きます。
学生時代なんかは今あるヒエラルキーの中で一生が続いていくように思いますが、人生は不可解なもので能力に恵まれて輝いていた人間がどん底に落ちたり、パッとしなかった人間が急にスポットライトを浴びたり、色んなことが起きます。
彼女のようなタイプを逆境を経験したことがなく、跳ね返す力がなかったのでしょう。
⑥嘔吐1979
一盗二卑三妾四妓五妻という言葉がありますが、他の男の女を寝取るのは至上の快楽なのでしょう。
下衆いですが。
村上春樹の短編にまれにある種類の話ですがとても奇妙な話ですし、なにかオチもなく怪異の理由もなく突然終わります。
この靄に包まれなような不可解さがたまらなく良いですね。
⑦雨やどり
編集者をやめた後、ある時期にお金をもらって男と寝ていた女性の話ですが、特にお金が欲しかったわけどもなく何となくフワッとした感じでその行為を続けます。
その女性には男性が自分に対して使うことができるお金を当てる特殊技能があり、男性が払うお金は相手によって違っていました。
これもまた人生のエアポケットのような奇妙な時期だったのでしょう。
今は、真っ当に生きている人間でもどことなく混沌としていて空虚な時期があるのだと思います。
⑧野球場
好きな女の子の部屋を覗くために部屋を引っ越して、一日中望遠鏡で眺め続ける。
とんでもないストーカー行為ですが、今から30年以上前の話で牧歌的に語られている部分もありますが、れっきとした犯罪行為で、変質者ですね。
でも、彼はその行為に囚われ続けてやめることができない。
望遠鏡の向こうには決して綺麗なものだけではなくて、グロテスクとも言えるべきものも写りますが目を離すことができない。
ある種の行為は
⑨ハンティング・ナイフ
村上春樹自身の体験でしょうが、リゾート地の不思議な親子。
母親と車椅子の息子。
金持ちの一族に生まれて、どこで過ごすかを支持されながら漂流するように生きています。
どことなく、『ハナレイベイ』を思い出しました。
深夜に彼がガーデンバーにいるのを見つけた春樹は彼と話をしながら、彼のハンティングナイフの話になります。
ハンティングナイフは彼の精神の中に内包されている柔らかな部分。
隠された狂気を表現したように思いました。
5、終わりに
人生って、思いもしないタイミングで奇妙な出来事が起こって、良い方にも悪い方にも転がっていったりします。
「事実は小説より奇なり」と言いますが、ふいに人生のエアポケットのような瞬間に訪れる奇妙で印象深い出来事は、小説より奇妙なリアリティを持って僕たちの人生を侵食し、思ってもなかったような場所に連れて行くのかもしれません。
事実を基にしながら、小説の技法で表現したこの短編集もそういった奇妙な出来事=ある種の怪異譚のように感じました。
どこにも行けずに村上春樹のマインドの中に降り積もっていった、それぞれの人生の中でリアリティを伴ったスケッチたち。
物語となるには力が足りないけど、単なる事実にしては奇妙で印象的な話。
そんなマテリアルたちを切り取って小説の容れ物に入れたのが今作の短編集だったのでしょう。
どこにも行けないけれど、何かを訴えかけてきている物語の断片たちが、激しくデッドヒートを続ける。
そんな一風変わった、正確な意味では小説の短編集とも言えない奇譚集が『回転木馬のデッドヒート』だったのではないかと思います。