1、作品の概要
『レキシントンの幽霊』は1996年に刊行された村上春樹の短編小説集。
『レキシントンの幽霊』『緑色の獣』『沈黙』『氷男』『トニー滝谷』『7番目の男』『めくらやなぎと眠る女』の7篇からなる。
『トニー滝谷』は2005年に市川準監督・脚本で映画化された。
2、あらすじ
①『レキシントンの幽霊』
友人のケイシーが住んでいる古い屋敷。
「僕」はロンドンに1週間出張をするケイシーの代わりに留守番をすることに。
最初の晩の夜中に目を覚ました僕は奇妙な物音を耳にする。
②『緑色の獣』
夫の不在時に地の底から這い出してきて、家の中に侵入してきた緑色の獣。
獣は「私」のことが好きで堪らずに会いに来たとのことだった。
③『沈黙』
飛行機の待合いの時間に「僕」は大沢さんからこれまでの人生で一度だけ他人を殴った話を聞く。
中学2年生の時に毛嫌いしていたクラスメイトの青木を殴った大沢さんは、高校生の時に手痛い仕返しを卑劣な方法で受けた。
④『氷男』
「私」はつららのような目を持つ氷男と結婚した。
彼はすべての過去を知っているが、自分の過去を持っておらず、生まれた場所さえわからなかった。
2人は深く愛し合っていたが、「私」は1人で過ごす時間の反復性を疎むようになっていた。
⑤『トニー滝谷』
トニー滝谷は孤独な男だったが、売れっ子のイラストレーターとして資産を築いて不自由なく暮らしていた。
15歳年下の女の子に一目惚れをした彼は、結婚をして幸せな生活を送っていた。
洋服を買いすぎるのだけが難点だった妻だったが、彼女の存在はトニー滝谷の孤独を埋めて心を温かいもので満たした。
しかし、交差点で大型トラックが彼女の運転する車に突っ込み・・・。
⑥『7番目の男』
7番目の男である「私」は、10歳の頃に彼を捉えようとした巨大な波の話を始める。
台風の日に砂浜で言葉に障害を持っていた友人のKと遊んでいた「私」は、大きな波にさらわれたKを助けることができずに自分だけ逃げ助かってしまった。
呆然とする「私」を再び大きな波が襲い、彼は信じられないものを目にする。
⑦『めくらやなぎと、眠る女』
25歳の「僕」は5年ぶりに会った、14歳の難聴のいとこの病院の付き添いをしていた。
いとこの診療の間、「僕」は高校生の時に友だちと2人で、バイクで友だちの彼女のお見舞いに行ったことを思い出していた。
彼女は自分の夢をもとに夏休みの宿題にめくらやなぎと、その花粉で眠り込んでしまった女の長い詩を書いていた。
僕の意識は強く過去にとらわれ始める。
3、この作品に対する思い入れ
『レキシントンの幽霊』は短編集の中でもわりとシックで控えめた印象の話が多く、僕の中では地味な印象が強い短編集です。
『パン屋再襲撃』『TVピープル』なんかはタイトルや装丁もだいぶ攻めてる印象がありますが、『レキシントンの幽霊』はタイトルもまぁ幽霊っていうぐらいだしどことなく影が薄い感じで・・・。
しかし、わりと軽い気持ちで読み返してみたのですが、何か心に沁みるようなどこか切なくなるような話が多く、良い短編集だなと思いました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①『レキシントンの幽霊』
おそらく村上春樹本人が体験した話を基にした話。
村上春樹の短編の中には「これは実際にあったことだ」みたいな書き出しで始まるものも数篇あって、もし本当なら村上春樹はまぁまぁ色んな奇妙は体験をしている人なんだなと思います。
『レキシントンの幽霊』は金持ちの友人のケイシーの家の留守番を頼まれて、夜中に幽霊であろう物音を聞いてしまう話ですが、日本風のおどろおどろしい幽霊と違って、外国の幽霊はなんだかパーティーをしてたりして楽しそうな感じですね。
この話も恐怖体験というよりは奇妙な体験と言ったほうがしっくりくる感じがします。
しかし、膨大な数のレコードを聴きながらゆっくり過ごせて、ワインまで用意されるんだったら僕も泊まり込んでみたくなるかもしれないですね(笑)
幽霊は勘弁ですが(^_^;)
そんな印象的で奇妙な体験を、しかし「僕」はケイシーには話さずに別れます。
そして半年後に驚くほど老け込んだケイシーに再会しますが、同居人(おそらくゲイ・カップル)だったジェレミーが母親の死で変わり果ててしまい自分のもとに帰ってこないからでしょうか?
幽霊の祟り(日本的ですね)ではなく、「孤独」がケイシーの心を蝕み、短い期間で外見まで変えてしまったのかもしれません。
どことなく『トニー滝谷』や、『女のいない男たち』の『独立器官』にも共通するような話のようにも感じました。
「孤独」がどれぐらい人の心を蝕んで、その見目姿までも劇的に変えてしまうか・・・。
孤独だった人間が手にした愛情がどれだけその人の心を温めて満たすのか。
しかし、それは再び失ってしまった時のリスクとも隣り合わせのものになるのだと思います。
父親が、母親が死んだあとに長い間眠り続けたように。
そして、その絶望を継承するようにケイシーも父親が死んだ時にこんこんと眠り続けました。
ある種の出来事は別のかたちをとるんだ。別のかたちをとらずにはいられないんだ。
ケイシーの容貌の変化も「別のかたちをとった出来事」のひとつだったのでしょうか?
最後のケイシーの言葉が、孤独が心に突き刺さります。
「僕が今ここで死んでも、世界中の誰も、ぼくのためにそんなに深く眠ってくれない」
②『緑色の獣』
短くて奇妙な話で、地中から人間でしかも人妻の「私」に緑色の獣が求愛しにくるというお話。
愛は障害が多ければ多いほど燃え上がるとはいいますが、これは障害が多すぎますね(^_^;)
この緑色の獣なぜか他人の心まで読めます。
キモすぎです。
前半は緑色の獣のペースで進んでいますが、後半は「私」が反撃に出ます。
相手の心を読むことはある意味でとても危険なことなのでしょう。
③『沈黙』
「これまでに喧嘩をして誰かを殴ったことがありますか?」と、何気ない質問をした「僕」に、物静かで温厚な大沢さんが語り始めた話。
村上春樹の作品でたまに嫌な奴が出てきますが、大沢さんが殴ってしまったという青木は、嫌な奴ランキングで上位を占めそうですね(笑)
青木は成績は良くて、他人にも好感を抱かれるようなタイプの人間でしたが、大沢さんから見ると要領の良さと、本能的な計算高さが鼻につく、自分っていうものがない男。
何か『ねじまき鳥クロニクル』のワタヤノボルを彷彿とさせるような人物ですね。
中学2年生の時に青木を殴った大沢さん。
青木は恨みを忘れておらず、高校生の時に周りの人間に風説を流布することで大沢さんを陥れます。
卑劣な人間です。
しかし、一時は激しく青木を憎んでいた大沢さんもあまりの彼の浅薄さにむしろ憐れみを感じるようになります。
この男にはおそらく本物の喜びや本物の誇りというようなものは永遠に理解できないだろうと思いました。体の奥底から湧き上がってくるようなあの静かな震えを、この男は死ぬまできっと感じるとはないのだろう、と。ある種の人間には深みというものが決定的に欠如しているのです。
村上春樹の作品の中で出てくる嫌な奴って大体こんなタイプの人間ですよね。
まぁ、実際に社会の中でたまに出くわすタイプの人間。
表面だけはよく見えても中身はなくて深いところから湧き上がってくるような感動を味わうことができないような人たち。
おそらく現実に村上春樹もそのような人間に人生の中で出くわしている種類の人間で、天敵のような存在なのでしょう。
憎いあんちくしょう。
『ねじまき鳥クロニクル』の中でも岡田トオルが「僕は綿谷ノボルを憎んでいる」と言ったのも、そういった村上春樹自身が天敵として認識している種類の人間を悪として物語に登場させたからなのかもしれませんね。
しかし、大沢さんが、村上春樹が本当に一番怖いと思っていて嫌悪しているのは、そういった青木のような人間に踊らされて、特定の誰かに集団で石を投げつけるような人たちでした。
マスメディアに踊らされて、自分の意見をくるくると変える人びと。
無自覚に踊らされて、悪意もないままに特定の個人を攻撃するそんな彼・彼女らこそが大沢さんを夢の沈黙の中で損なっていくのでした。
④『氷男』
唐突に「私は氷男と結婚した」の一文で始まるこの短編。
氷男って何?
人間?怪物?
どこで生まれたの?
そういった疑問は解消されないまま、「私」は氷男と出会い、恋に落ち、結婚します。
氷男の素性がわからないのは、彼が秘密主義だからではなく、彼自身に過去というものがないから。
しかし、自分以外の全ての過去は知っているのに・・・。
なんだか難解ですね。
過去が存在しないということはどういうことなのでしょうか?
通り過ぎたそばから、記憶も時間も、全て濁流の中に呑まれていくような感じなのでしょうか?
まぁ、しかし細かいこと(?)は置いておいて2人は結婚し、愛し合います。
過去が何だというのでしょうか。
愛さえあればいいんです。
しかし、「私」はそんな生活の中で氷男と一緒にいない日中の時間を持て余すようになりました。
彼女が苛まされたのはその反復性でした。
私を苦しめたのは退屈さではなかった。私が耐えがたかったのはその反復性だった。そんな反復の中ではなんだか自分自身が反復された影のように思えてきてしまうのだ。
退屈さと反復性の違いはなんでしょうか?
退屈ではないけど、繰り返される日々の中で自分自身が意思を持って行動して生きているという実感が薄れてしまう。
そうした生活の影に自分がなってしまったような気がしたのでしょうか。
そういった退屈さを抜け出すために旅行に行った南極で、氷男はかつての氷男ではなくなり、「私」はすべての力を失い心を失っていく・・・。
とても寂しく独特の終わり方をする作品だったと思います。
南極は氷男が生まれた土地だったのでしょうか?
それはわかりませんが、その地に彼が求めていたものがあり、今まで住んでいた社会へ馴染めなかった彼は自分の本当の心を取り戻して、その代わりに凍てついた南極の冬の中で私は損なわれいってしまったのでしょう。
お腹の中にいる子供も、氷男で彼女は子供の存在によってもこの土地に縛り付けられて閉じ込められてしまう未来を想像します。
とても寂しいラストでしたが、独特の世界観がある作品でした。
⑤『トニー滝谷』
そんな印象的なフレーズで始まるこの短編。
なんかバカバカしいような文章ですが、インパクトがありますね。
父親が奔放なトロンボーンの演奏者で、母親とは死別しており、親子関係も仲は悪くないけどどこか希薄。
やっぱり『レキシントンの幽霊』のケイシーを彷彿とさせられますね。
トニー滝谷はまわりとうまく馴染めずに孤独でありましたが、とくにそれを苦痛とは思っていなかった。
しかし37歳の時に15歳年下の女の子に恋をして結婚をしてから、妻の存在に依存するようになり、自分がいままでいかに孤独だったのかを強く思い知らされるようになったのだと思います。
この作品のテーマは「孤独」だと思うのですが、自分がどれだけ孤独なのかは、1度孤独ではない状態になって誰かと一緒に生きることでより強く思い知るのかもしれない。
『トニー滝谷』を読んでそう思いました。
実際に彼女は妻を失い、あとに残されたのは大量のサイズ7の服とサイズ22の靴。
トニー滝谷は結婚する前に戻っただけのはずなのにとても強い喪失感と孤独を感じます。
そして、それをどうにか埋めようと亡き妻の服を着て仕事をする事務員を雇おうとしますが、結局彼は採用が決まっていた女性を断ってしまいます。
そして、あとに残されたのは亡き妻の影のような洋服たち。
結局、だれかの不在でできた心の空白と孤独は埋めることができない。
そんなメッセージがこめられているように思いました。
そしてやがて妻の顔さえも思い出せなくなり、欠落だけが残る。
父親も亡くなり、トニー滝谷は本当にひとりぼっちになってしまったのでした。
⑥『7番目の男』
何かの座談会のような場での話だったのでしょうか?
数人の人間の前で話し始めた「7番目の男」は自分をかつてとらえようとした波についての話を始めます。
台風の日に砂浜で1度目の大きな波にさらわれたK。
「私」はKを助けられなかった悔やみ、2度目の大きな波の中にKが禍々しく嗤い「私」を引きずり込もうとした。
その出来事は彼の精神を蝕み、どれだけ故郷の地を離れて、海から離れたところで暮らしても忘れることはできませんでした。
果たして彼が波の中に見たKは本当にKだったのでしょうか、それともKに似た姿をしたなにかだったのでしょうか?
あるいは波の中には何も存在しなかったのかもしれません。
人の目や記憶は時に真実でないものを作り上げるのだと思います。
彼が波の中に見たものはどんなものだったのでしょうか?
恐怖に背を向けて目を閉じてしまうことが恐怖そのものより怖い。
逃げ続けることでその恐怖を司る何かにー彼の場合は波だったー大事なものを譲り渡してしまうことになる。
40年の月日をかけて恐怖と向き合うことで彼はあの日波が攫っていった大事なものを取り戻すことができたのでしょう。
⑦『めくらやなぎと、眠る女』
『蛍』と対になる短編で『ノルウェイの森』にまとまっていく系統の作品とのことですね。
『蛍』がまんま『ノルウェイの森』の冒頭であることに対して、『めくらやなぎと、眠る女』は『ノルウェイの森』とは全く別の作品になります。
しかし、『ノルウェイの森』の作品中でキズキが直子のお見舞いに行くシーン(ワタナベと2人でも行ったっけ?)がありますし、高校時代の「僕」「友だち」「友だちの彼女」は、ワタナベ、キズキ、直子のプロトタイプのようにも思えます。
そして、友だちはその少しあとで死んでしまいます。
物語は二つの時間軸で展開し、耳の悪いいとこの病院の付き添いをしている「僕」が高校時代の友だちの彼女のお見舞いに行ったエピソードと、彼女が書いた『めくらやなぎと眠る女』という奇妙で長い詩について思い出しています。
僕は、25歳で仕事も辞めて、彼女とも別れて、祖母の葬儀のために実家に帰ってきました。
そして、そこから動くことができなくなる。
まるで人生のエアポケットのような瞬間。
僕にも覚えがありますし、そこから抜け出すにはなにかのきっかけが必要だったり、きりとなる出来事が必要だったりします。
いとことの会話は淡々としていて「僕」の想いは断片的にしか表現されていませんが、いとこと一緒にバスに乗って病院に行って、食堂でランチを食べて帰ってきただけの話が行間に想いが満ちて、記憶のひとつひとつが「僕」の心をどこか遠くにさらっていくようです。
過去の記憶にひかれて「僕」は地に足がつかないようになっているように思います。
いとこは、「僕」になにか親近感のようなものを持っていて、彼にこのままいてほしいと思っているようにみえます。
やらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない。でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ。
淡々と描写していますが、「僕」の地元には過去に付随し彼の心を揺さぶるものがたくさんあって、それが病室での不思議な詩の記憶だったり、友だちの汗の匂いだったり死だったりするのでしょう。
少し立ち寄っただけのはずの地元に「僕」を縛り付けているのは過去の記憶だったのでしょうか?
しかし、彼は立ち上がらなければなりませんでした。
この短編のラストはどこか『ノルウェイの森』の冒頭を想起させます。
僕はそれからほんの数秒かのあいだ、薄暗い奇妙な場所に立っていた。目に見えるものが存在せず、目に見えなものが存在する場所に。でもやがて目の前に現実の28番のバスが停まり、その現実の扉が開くことになる。
過去から生じた意識のゆらぎ。
彼は何にとらわれていたのでしょうか?
過去の記憶?感情?
しかし、それでも過去でも死者でもないのなら。
現実を生きる生者なのであれば、立ち上がって現実の扉を開き、また歩き出すしかないのでしょう。
5、終わりに
いやー、なにかじわじわと心に沁みるようなよい短編集でした。
孤独や、過去をテーマにしたような内省的な作品が多かったですが、うらぶれたオッサンの心と五臓六腑に染み渡りました。
『めくらやなぎと、眠る女』は80枚の原稿だったものを、神戸と芦屋での読書会の前に45枚に削ったそうですがその時の読書会になんと川上未映子が来ていたそうですね。
『みみずくは黄昏に飛び立つ』で触れられていました。
『トニー滝谷』の映画はめっちゃオススメです。
短いけどとてもよくまとまっていて音楽も映像も良い映画でした。
宮沢りえの演技も印象的でした。
さてさて、そろそろ村上春樹の新刊を読みたいですね。
短編集→長編→長い長編(2~3冊)のサイクルで刊行されることが多いので、次は1冊の長編ですかね。
しかし、それまでに村上春樹作品の書評をコンプリートしなきゃですね。
時系列的に書評を書いているので次は『スプートニクの恋人』になりますね。
村上春樹と中村文則の書評をメインで立ち上げた当ブログですが、3年経つのにまだ全作品網羅できていません(^_^;)
ちょっとペースを上げていこうかなぁ。
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