ヒロの本棚

本、映画、音楽、写真などについて書きます!!

【本】村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』~死者とのダンス、自らの影法師と踊り続ける~

1、作品の概要

 

1988年に刊行された村上春樹6作目の長編小説。

上下巻で講談社より刊行された。

装丁は佐々木マキ

風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の「僕」が主人公の続編。

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2、あらすじ

 

羊をめぐる冒険』より4年半後。

雑誌のライターの仕事をしていた「僕」は妻も友達も失い空虚な日々を送っていたが、「いるかホテル」で誰かが自分のために泣いていると感じていた。

仕事で訪れた札幌の街、懐かしい「いるかホテル」は物理的には消滅していたがそこでホテルの精のような女性・ユミヨシさんに強く心を揺り動かされる。

不思議な現象を経て異界の「いるかホテル」で羊男と再会した「僕」は、失った何かを取り戻すために現実の世界で上手に踊り続けるよう言われる。

 

不思議な少女・ユキ、高校の同級生で俳優の五反田くん、消えたキキと謎の6つの白骨死体・・・。

札幌、ハワイ、東京。

物語はめまぐるしく舞台を変えながら、全てのピースが少しずつ繋がり始める。

 

 

3、この作品に対する思い入れ

 

初めて読んだのは20代前半の頃かな?

上下巻の長い物語ですが、展開も早くてわりと読みやすかったような気がします。

ノルウェイの森』みたいにめちゃくちゃ思い入れが強い作品ではないけど、ポップなストーリーの裏に深い喪失感や濃い死の影が感じられる、光と影のコントラストを思わせるような初期の傑作のひとつだと思います。

 

ダンス・ダンス・ダンス』を読んだ時、僕はまだ神奈川で就職したての頃で主人公の感じている哀しみや喪失感を理解していなかったように思います。

いつの間にか、主人公の「僕」の年齢を超えてしまって昔より彼が抱えている喪失感や磨り減ってしまった自分に対する憤りのようなものが感じられるようになった気もしています。

まぁ、僕の思い込みかもしれませんが(^_^;)

 

作中に出てくるカクテルのピニャ・コラーダを飲みたくてバーでよく注文しましたが、めちゃくちゃトロピカルで、どっさりとフルーツが載せられて出てきて恥ずかしかった思い出があります(笑)

味もジュースみたいで、まぁ都会のバーでシックに飲む飲み物ではないなとおもいました。

 

表紙の装丁がとてもポップで尚且つ物語の内容を暗示していて、一番好きな表紙かもしれません。

佐々木マキさんのイラストと村上春樹の初期作品のマリアージュは本当に絶妙で素晴らしいですね!!

お互いが高めあっていて、生牡蠣とシャブリの組み合わせみたいですね。

 

そして、今年発売されたユニクロ村上春樹Tシャツ!!

僕は、『ダンス・ダンス・ダンス』『1973年のピンボール』を買いました。

う~ん、やっぱり秀逸なデザインですなぁ。

Tシャツめっちゃくしゃくしゃですが(笑)

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4、感想・書評

 

①高度経済資本主義への憤り、1970年代が終わるということ

『僕』シリーズ4作で共通していることだと思うのですが、『ダンス・ダンス・ダンス』でもやたらと年代と年齢についての記述がたくさんでてきます。

主人公には名前も与えないくせに、いつの時代でとか、主人公の年齢が何歳でなどにやたらとこだわりまくのるのはどうしてでしょうか?

 

ちなみに『ダンス・ダンス・ダンス』が刊行されたのは1988年で、『ノルウェイの森』が1987年、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が1985年です。

こんな短期間にタイプの違う傑作を3作品も書いていたとは・・・。

勢いとインスピレーションに頼っていた部分もあったかもしれませんが、やはり凄まじい才能と独自の世界観を感じますね。

 

物語の世界では1983年の出来事。

1983年と言えば、「一億総中流」「向こう三軒両隣」と急激な経済成長を遂げながらもどこか慎ましくのどかだった1970年代が終わりを告げて、バブルの狂騒に突き進んでいった時代。

システム、効率、高度資本主義社会・・・。

村上春樹が嫌いそうなワードの連発ですね(笑)

 

1983年。

ちなみにヒロ氏は、7歳でした。

それはもう玉のように可愛い男子でしたよ。

たぶん(笑)

 

音楽の世界でも、レコードからカセットテープへ、そしてCDが出てきて一気にデジタル化へと向かっていきます。

音楽をデータで買う時代になるなんて、30年前には想像もできませんでしたけどね。

アナログレコードが好きで、古き良きなんてワードが似合う村上春樹ですからこのような急激な時代の変化に抵抗やアレルギーを感じていたのかもしれません。

 

でも、そういったささやかな反抗で時代の流れを押しとどめられるわけがありません。

大雨で増水した大河に小石を投げ込むようなものです。

1983年と言えばそういった時代の一つの過渡期で、もうちょっと人々がなぁなぁで(簡単に個人情報が調べられたり、融通がきいたり)情に流されやすい時代だったのでしょう。

しかし、高度資本主義社会においてはシステムが高い壁として立ちはだかり効率が重視されて、人間の情や曖昧さは考慮されません。

 

そういった変わりゆく世界への反抗は『羊をめぐる冒険』とその習作である短編集『カンガルー日和』に収録されている『5月の海岸線』でもその萌芽が見られます。

しかし、村上春樹のそれは反抗というか変わっていくのは仕方ないと諦観した上での悪あがきのようにみえます。

目覚まし時計がなってもう起き上がらないければいけない、けどもう少しだけ現実と向き合うことはしたくない・・・。

僕は預言する

 5月の太陽の下を、両手に運動靴をぶら下げ、古い防波堤の上を歩きながら僕は預言する。君たちは崩れ去るだろう、と。

 何年先か、何十年先か、何百年先か、僕にはわからない。でも、君たちはいつか確実に崩れ去る。山を崩し、海を埋め、井戸を埋め、死者の魂の上に君たちが打ち立てたものはいったい何だ?コンクリートと雑草と火葬場の煙突、それだけじゃないか。

 

それは社会の変化に際して起こるシステムの不具合や、構造的な欠陥を探し出すような批判ですらありません。

変化していくということは理解しているけど、受け入れることが難しいし、個人的にその流れには抗っていたい。

そんな村上春樹の心情が透けて見えるような気がします。

こういった時代や加齢に伴って何かが失われていくといった感覚は「僕」4部作の大きなテーマで、小説を書き始めた村上春樹自身の物語を創作するうえでの、大きなモチベーションであったのではないかと推察します。

 

踊り続けるということは、奇妙で複雑なステップを踏みながらトラブルの隙間を縫うように進んでいくという意味合いだけではなくて、経済や時代の流れにマリオネットのように踊らされ続けるというような意味合いにも感じました。

ダンスに篭められた複数の意味。

バブル時代の狂騒を象徴するディスコ「ジュリアナ東京」みたいに、資本と経済に踊らされ続ける。

有り余るカネと狂乱にまみれながら。

踊るんだ。

踊り続けるんだ。

なぜ踊るかなんて考えちゃいけない

意味なんて考えちゃいけない。

意味なんてもともとないんだ。

 

この文章はたくさんの歯車が噛み合って経済を回転させ続け、消費し続けるこの世界についてのことにも言及しているように思います。

もう古き良き時代には戻れない。

猛烈なスピードで進んでいく経済成長の波に乗って踊り続けるしかない。

そこに意味なんてなくても・・・。

そうしてバブルの狂騒が終わったこの国にどのような福音がもたらされたのでしょうか?

 

②物語のキーとなる存在のユキと女性たち、年齢について

主人公の年齢とかけ離れていて、生まれ持った感性と特殊能力のために「僕」にヒントを与えることになる存在。

13歳のユキは、物語の中でそんな存在でこれまでの作品では出てこなかったトリッキーな登場人物だと思います。

ユキと、「僕」との交流はどこか微笑ましいものがありますし、それだけではなくて物語のほつれを解くカギをユキが握っています。

 

13歳のユキと、34歳の「僕」。

年齢についたの記述は何度も出てきていて、村上春樹が物語においての年齢についてこだわりがあることを窺わせます。

それは「僕」4部作だけではなくて『海辺のカフカ』の主人公・田村カフカが15歳であったり、『騎士団長殺し』の秋川まりえが13歳であって年齢がキーになっている部分が多々あることからもそう考えられます。

では、なぜこの作品でユキは13歳でなければならなかったのでしょうか?

 

理由は大きく二つあって一つは性的対象になりえない年齢であること、もう一つは理性と純粋性が程よくブレンドされた年齢で「僕」との対比になりうること、ではないかと思います。

キキ、ユミヨシさん、メイ、ジューンなど「僕」のまわりには性的な意味も含んで魅力的な女性がたくさん登場します。

時には、金銭が介在してのセックスもありますし、娼婦がたくさん出てきたりしてどこかのフェミニストの団体が卒倒しそうですが、セックスでさえ資本主義社会に組み込まれていくというようなアンチテーゼも込められているように思います。

ちょっと性的なニュアンスが強い『ダンス・ダンス・ダンス』において、性的対象になりえないユキの存在は一服の清涼剤のようなものでもあったのかもしれません。

 

それと「僕」との対比ですが、34歳の「僕」は様々なことをくぐり抜けてきてたくさんのものを失ってしまっています。

自分が失ってしまったものに対して、何かのしるしのように自分のために取っておくべき何かをくっつけてしまう。

そのことで結果的にどんどん磨り減ってしまっている。

問題を抱えているにせよユキはとても美しくイノセントな13歳で、その感情の動きや魂の震えは、無くしてしまった大切な何かを「僕」に思い出させるのかもしれません。

時々彼女のことがうらやましくなった。彼女が今13歳であることが。彼女の目にはいろんな物事が何もかも新鮮に映るのだろう。音楽や風景や人々が。それは僕が見ているものの姿とはまるでちがっているだろう。僕だって昔はそうだった。僕が13歳の頃、世界はもっと単純だった。

 

なくした何か、心の欠損を自覚することで自らが求める何かが明確になっていく。

「いるかホテル」が「僕」のための場所であるならば、ユキもまた「僕」の欠損を埋めて冒険の助けになるように呼ばれた存在なのかもしれません。

 

そしてもしかしたら、『騎士団長殺し』のまりえちゃんのようにある時期を過ぎてしまうと普通の女の子になってしまって、この時期に持ちうる危うさと鋭い直感のようなものは失われてしまうのかもしれないですね。

それだけ13~15歳の思春期の頃は多感で、とてつもなく大きな変化が日々起こっているのでしょう。

 

③五反田くんについて、その光と影、闇と病み

あまり友人が多くない「僕」にとっての唯一の友人の五反田くん。

大人になって、30歳を過ぎてからの友人ってできにくいですし、ましてや「僕」みたいな偏屈な人間であれば余計でしょう。

まぁ、僕も「僕」のことは言えないかもしれませんが(笑)

唯一無二の親友が、金持ちの息子でシニカルで神経質なニートと、シリアルキラーの俳優。

しかも二人共死亡ってどんだけですか・・・。

 

五反田くんって『騎士団長殺し』の免色さんを思い出させますし、ユキはまりえちゃんを思い出させます。

騎士団長殺し』って『ねじまき鳥クロニクル』に似た作品だと思っていましたが、こうしてみると『ダンス・ダンス・ダンス』のニュアンスも継承しているのかもしれません。

免色さんの善悪が入り混じったようなキャラクターは、どこか五反田くんに通ずるところがありますね。

繋がっている。

きっとそういうことなんでしょうね。

『納屋を焼く』の話も五反田くんのキャラクターを作る上での習作になったのでしょうか?

 

五反田くんと「僕」が会うシーンって会話のテンポも小気味良いし、ユーモアに富んでいて楽しい場面ですね♪

僕にも覚えがありますが、若い頃にはお互いそれほど仲は良くなかったけど、大人になって再会してみると不思議なほど馬が合う友達になっていたということもあると思います。

「僕」と五反田くんはまさにそういった関係だったと思いますし、彼の死が与えた打撃は計り知れないものだったのでしょう。

しかし、五反田くんが海に放り込んだマセラティの高価なことと言ったら・・・。

ベンツよりは安価だと思っていましたが、めちゃくちゃ高級車なんですねぇ(^_^;)

あまり車に興味がないものですから・・・。

 

五反田くんが抱えていた闇。

その深さは彼の精神を蝕み引き裂いていくほど深いもので、彼のイメージがひとり歩きするほど抱えている闇の深さ・暗さは増していったのでしょうか?

彼はまさに袋小路に追い詰められていて、誰かが引き金を引いてくれるのをじっとまっていたのかもしれません。

 メイの死が僕にもたらしたのは古い夢の死と、その喪失感だった。ディック・ノースの死は僕にある種の諦めをもたらした。しかし、五反田君のしがもたらしたのは出口のない鉛の箱のような絶望だった。五反田君の死には救いというものがなかった。五反田君は自分の中の衝動を自分自身にうまく同化させることができなかった。そしてその根源的な力が彼をぎりぎりの場所にまで押し進めていってしまったので。意識の領域のいちばん端にまで。その境界線の向こうの闇の世界にまで。

 

光が強ければ、それだけ闇は濃くて深いものになる。

高度資本主義社会、経済成長。

発展と成長の影に巣食っていく闇。

五反田くんの個人的な病みと、社会的に濃くなっていく病みは繋がっていのでしょうか?

 

光と闇。

現実と、そうではない世界。

五反田くんの存在を、その病理を通して村上春樹は何かを伝えようとしていたように思います。

 

何もかも投げ出して「僕」と2人でハワイに行って、スライ&ザ・ファミリーストーンを聴きながらドライブできたらどれだけ良かっただろう・・・。

でも、それは初めから決まっていたことだったのでしょう。

ハワイで車のハンドルを前にマセラティを海に放り込むことが。

呪われたマセラティ

 

④キキと死の影、そして喪失と諦観

村上春樹の作品には濃い死の影が付きまとい、強い喪失感を感じるような作品が多いですが、『ダンス・ダンス・ダンス』はその中でも最たるものでしょう。

死の影ランキング、喪失感を感じるランキング、諦観を覚えるランキングでぶっちぎりの1位で3冠王間違いなし!!

うん、嫌なランキングですねぇ(笑)

 

ダンス・ダンス・ダンス』の冒頭の場面でも「僕」は既に多くのものを失ってしまっていました。

親友の鼠、妻、共同経営者の彼、双子、そして耳のかたちが素敵なガールフレンド=キキは次々に彼の前から去っていき、ある者は2度と戻ってこなかった・・・。

そういった近しく一時だけ心を通わせた人達だけではなくて、以前は感じていたフィーリングや、大好きだった風景、ある種の心の動きなど「僕」だけではなくて誰もがそういったものを失い続けながら生きていっているのではないでしょうか?

 

30代を過ぎて、通り過ぎてきた時間を思い返してみるとどれだけたくさんのものを失ってしまったかのかを感じて僕も愕然としてしまうことがあります。

仕方ない。

何もかもは通り過ぎていくのだし、僕たちが両手で抱えられるものはとても少ない。

それに手にしたと思っていたものも砂のようにサラサラとこぼれ落ちていってしまう。

読者の年齢はそれぞれ違うし、体験する内容も違うと思いますが、過去に失ってしまったものこれから失ってしまうかもしれないもの。

そういった思いに囚われてしまう。

諸行無常

全ては通り過ぎて、いずれはなくなってしまう・・・。

僕が感じたのは諦めだった。広大な海面に降りしきる雨のような静かな諦めだった。僕は哀しみさえ感じなかった。魂の表面にそっと指を走らせるとざらりとした奇妙な感触があった。すべては音もなく過ぎ去っていくのだ。砂の上に描かれたしるしを風が吹きとばしていくように。それは誰にも止めようがないことなのだ。

 

そういった例えようのない哀しみとその予感・予兆。

読者の個人的なそれが物語に漂う諦観と喪失感に呼応した時に、物語の深い深い森に誘われていくのでしょう。

そういった深い諦観を村上春樹が若くして身につけていて、物語に漂っているのも、彼のルーツ・父親が僧侶ということに繋がっているのかもしれませんね。

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死者であるキキに導かれるようにたくさんのものをさらに失いながら、それでも踊り続ける僕。

死者とのダンス。

僕の『ダンス・ダンス・ダンス』にまつわるイメージはこの一言につきます。

しかし、「僕」が一緒に踊っていたのは死者ですらなくて自分の影だったなんて、ゾッとするほど寂しい話じゃないですか?

 

影は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でも使われたテーマですが、今作でも物語の鍵を解く存在になっています。

深い闇を湛えるあちらの世界。

そして6つの死体が置かれた部屋。

物語は終盤に近づくにつれてほつれが激しくなっていきます。

読み終わったあともキキの存在はますます謎ですね。

キキはそこに座って、じっと僕を見ていた。彼女の表情はとても穏やかだった。彼女は光の領域でも影の領域でもない。ちょうどその中間あたりに位置していた。

終盤に突如描かれるもうひとつの奇妙な影の世界。

キキはその中間あたりに位置していたという象徴的な表現。

彼女はどちらの世界にも干渉できるような、どちらにも同時にいるような存在だったのでしょうか?

 

羊をめぐる冒険』でもそうでしたが、キキは何か特別な力を持った触媒のような存在で主人公を導いていきます。

五反田君に殺害される場面もとても不思議で、まるで彼に殺されることが自分の役割だというように彼を導きさえしています。

まるで巫女や人柱のように。

「そうじゃない。あなたを呼んでいたのはあなた自身なのよ。私はあなた自身の投影に過ぎないのよ。私を通してあなた自身があなたを呼び、あなたを導いていたのよ。あなたは自分の影法師をパートナーに踊っていたのよ。私はあなたの影に過ぎないのよ

キキはまるで鏡みたいですね。

潜在意識や深層心理。

誰かのそういったものを投影させるようなプロジェクターのスクリーンのような存在だったのでしょうか?

 

⑤いるかホテルとは何だったのか?羊男の消滅

「で、結局何だったの?」って言われると説明に困るのが村上春樹作品ではないでしょうか(笑)

ラストのほうは何が現実で、何が夢で、何がちがう世界での出来事なのか境界が曖昧になってしまいます。

そこを通り過ぎて主人公が成長して何かを得たとかそんなことをなく、さらにたくさんのものを失ってしまっている。

キキとは?羊男はどこに行ったのか?最後の白骨死体は誰のものなのか?

そういった問いに明確な答えは用意されずに物語は終焉を迎えます。

 

うん、僕は個人的に謎を残したぼんやりとしたラストって好きですね。

文系のO型ですから。

別にはっきりとした答えが欲しくて小説を読んでいるわけではないですしね。

 

いるかホテルは「僕」のための場所で、何かを「僕」と繋げるために(そう配電盤のように)羊男が頑張っていました。

その彼がいなくなったということは、そんな場所や役割が「僕」にとって不要になったということでしょうか?

ユミヨシさんとお互いに求め合うことができたことによって。

いや、あまり自信はないしありきたりな解釈なんですがね(笑)

 

僕がユミヨシさんの手を握って闇の世界を歩く場面。

どことなく黄泉比良坂のイザナギイザナミの神話を思い出しました。

ノルウェイの森』の書評でも書いたと思いますが。

僕の発想はワンパターンで貧困ですね(笑)

でも、あの神話ってヨーロッパにも似通ったオルフェウスの物語がありますし、人間の共通意識に刷り込まれているような何か根源的なものがあると思います。

今作の現実の世界=生者の世界と闇の世界=死の世界の対比という点でもしっくりくる部分があると思いますし、村上春樹の作品デここまで死者と死者の世界について描いたものはなかったように思います。

 

「ユミヨシさん、朝だ」と僕は囁いた。

最後の一文も好きで、夜と闇をくぐり抜けてなんとかこちらの世界に彼女と一緒に帰ってこられた。

大団円。

物語の終わり。

でも、どこか含みのようなものも残したラストで、いつか彼女も消えてしまうかもしれない。

簡単に壁を抜けて、あちらの世界へ。

 

最後に提示されたのはとりあえずの暫定的な希望。

なんだか『1Q84』のラストー虎が逆を向いている別の世界にまた迷い込んでしまったーにも通ずるようにも思います。

問題は全て解決してはいないかもしれないけど、とりあえず朝日が昇って愛する人と強く求め合っている。

闇はどこかに消え失せて朝日が照らしていく。

 

 

5、終わりに

 

何度目かの再読でしたが、読み返してみてやっぱりええね~ってしみじみ読んでました。

深く意味を追求しなくても、単純にストーリーだけで読める感じ。

初期の集大成であり、次の作品につながるモチーフが誕生した作品であったかと思います。

村上春樹自身は、「半年間ねかせて練っていれば、もっと良いものが書けた」みたいに言っているみたいですが、ちょっと勢いで突っ走っているデビューしたてのロックバンドのファーストアルバムみたいな感じも良いんじゃないですかね?

 

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を刊行した後、1986年にヨーロッパに(イタリアとかだっけ?)移住した村上春樹は、続けざまに『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を刊行してしばしのインターバルを置きます。

1990年に帰国した後にプリストン大学に客員研究員として招かれて1991年に渡米して、1992年『国境の南、太陽の西』、1994年に『ねじまき鳥クロニクル』を刊行。

ねじまき鳥は、第2期(中期?)の幕開けに相応しい大傑作。

歴史的事実と、暴力に向き合った作品は海外での生活と、父親の戦争体験の記憶がうまく重なり合って物語として成立したのでしょうか?

 

ダンス・ダンス・ダンス』までは、感性とか直感みたいなもので書いていたのかもしれませんが、海外での生活や、自身が体感した歴史的体験、作家として今後も生きていく上での基本的なリズムを考えて、自分のスタイルとして身につけていったのかもしれません。

もちろん手探りで書いていたセンシティブな初期作品もとてつもなく好きですが、そういった同じ手法で小説を書くことはできないと思ったのでしょうし、20代で書く小説と、30代で書く小説は伝えられるものが違うと思うので、変化続けていく必要があったのでしょう。

 

ある種、自分の青春時代の締めくくりのようにも思える『ダンス・ダンス・ダンス

いや、30代で青春って声も聞こえてきそうですが(^_^;)

勢いで駆け抜けていった10代と20代に失ってしまったもの、決して戻らないもの。

この物語は、そういったものへのレクイエムのようにも感じました。

 

無意味で白痴的なダンス。

現実を生き抜く上での力強いダンス。

そして鎮魂を思わせる死者とのダンス。

そういった何重もの意味をこめたダンスだったのではないかと思います。

 

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