村上春樹の最新の短編集が発売しましたっ!!
ワッショイワッショイ└(゚∀゚└) (┘゚∀゚)┘
好きな作家の新刊はワクワクしますね~。
1、作品の概要
2020年7月18日に刊行された村上春樹の短編集。
8編からなり、7編は文藝春秋に掲載され、『一人称単数』は書き下ろして収録された。
私小説的な雰囲気を醸す短編。
2、あらすじ
1、石のまくらに
『僕』は大学2年生の時に、行きがかり上からアルバイト先の女性と一夜を共にすることになった。
彼のアパートで交わる時に、彼女はオーガズムに達する時、他の男性の名前を呼んで良いか聞いてきた。
感じる時に大きな声を出してしまう彼女にタオルを噛ませながら一夜を共にした僕のもとに彼女から自費出版らしき短歌集が送られてくる。
『僕』は彼女の短歌から漂う死のイメージに囚われる。
2、クリーム
浪人生の「僕」は、高校時代に一緒にピアノを習っていた女の子からコンサートの招待状を受け取る。
良好な関係ではなかった彼女の招待を訝しみながら会場を訪れるがそこは無人の施設だった。
困惑し、近くの公園で過呼吸になる「僕」の前に老人が現れて「中心がいくつもあって、外周を持たない円」の問いかけをする。
老人は「クリームの中のクリーム。人生で一番大切なエッセンス」の話をしていつのまにか立ち去ってしまう。
3、チャーリー・パーカー・
「僕」が大学生の時に「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」という架空のレコードレビューの原稿を描き、レコード雑誌に掲載された。
15年後に「僕」はNYの中古レコード屋で「チャリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」というタイトルが付けられたレコードを見つける。
そしてつい最近、夢の中でチャーリー・パーカーと邂逅し、彼の演奏を聴くことになる。
4、ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles
「僕」が高校生だった1964年に、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」のレコードを持ってすれ違った女性にずっと憧れを抱いていた。
1965年にサヨコという同級生のガールフレンドと付き合うことになった「僕」だったが、ある時約束のすれ違いで彼女が不在の家に訪れて、彼女の兄と一緒の時間を過ごすことになる。
彼女の兄は、記憶が時々すっぽりと抜け落ちてしまう精神的な疾患を抱えていた。
サヨコとは別れたが、18年後彼女の兄と渋谷で偶然出会い、サヨコに関する驚きの事実を聞かされることになる。
5、『ヤクルト・スワローズ詩集』
子供の頃から野球好きの「僕」は、東京に引っ越した時に一番近い神宮球場をホームグラウンドにしていたヤクルト・スワローズを応援し始めた。
チームは弱く負け続けたが、「僕」は外野に寝そべってビールを飲みながら試合を観続けた。
「ヤクルト・スワローズ詩集」も自費出版で出版したがほとんど売れ残った。
6、謝肉祭(
コンサートで友人から紹介された女性「F*」は、「僕」が出会った中で一番醜い女性だった。
しかし、「僕」と彼女の間には感性的に通ずるものがあり、「僕」が一番好きなピアノ曲「謝肉祭」を一緒に聴くささやかな同好会のような関係が半年続いた
彼女は、服装や音楽も含めてとても趣味が良く、その醜さが却って強い吸引力のようなものを彼女に宿らせていた。
しかし、ある日突然そのような関係は終わりを告げてしまう・・・。
7、品川猿の告白
「僕」は、群馬県の鄙びた温泉宿で、従業員として働く猿と出会う。
猿に興味を持った「僕」は猿を部屋に呼び、一緒にビールを飲んだ。
そこで、猿の生い立ちと、人間の女に恋をして犯してしまった罪を告白する。
次の朝、猿の姿はどこにも見当たらず釈然としない想いを抱えたまま東京に戻った「僕」。
数年後に再びあの品川に住んでいた「品川猿」のことを想い出すことになる。
8、一人称単数(書き下ろし)
「私」は普段あまり着ることのないスーツを稀に着てみたくなり、そのまま出かけてみることがある。
この日もそのようにして気持ちの良い春の宵に街を歩き、行き慣れないバーでウォッカギムレットをすすりながら本を読んでいた。
しかし、バーで見知らぬ女性から不当な糾弾を受けてしまう。
「・・・三年前にどこかの水辺であったことを。そこで自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなったかを。恥を知りなさい」
「私」はバーを出るが、目に見える景色は一変していた。
3、この作品に対する思い入れ
村上春樹の最新の短編集で、昨年から短編集を文藝春秋に連載していたので短編集が刊行されるのを待ちに待っていました。
私小説的な雰囲気を持ちながらどこまでが事実なのか、それとも創作なのか?
そういった現実と物語の狭間にある夢幻とも言うべき村上文学の妙に翻弄されながらも読み進めました。
特に『ウィズ・ザ・ビートルズ』は僕の中でとても特別な作品になりました。
『一人称単数』のカバーの女性は、おそらく『ウィズ・ザ・ビートルズ』に出てくる、ビートルズのレコードを抱えた美しい少女なのでしょう。
しかし、このカバーを外すと少女はいなくなり、風景だけが描かれています。
物語の中の少女は幻だったのでしょうか?
4、感想・書評
①石のまくらに
一瞬だけ身体を重ね合わせて、すれ違っていくオーソドックスな村上春樹の短編だと思います。
短歌に込められた哀切な想いと、繰り返し出てくる死のイメージ物悲しく感じられます。
名前も覚えていない「彼女」は、恋人がいる男に恋をしていてたまに「出前でも取るみたい」に「彼女」とセックスをします。
彼に「お前は顔はブスいけど、いい体をしてる」とか言われて、本命じゃないわかっていたながら抱かれる。
それでも彼に抱かれたいと思っている。
そんなどこにもいかない関係を、感情を短歌に込め続けている。
「僕」は名前も覚えていない「彼女」のことを、彼女がくれた短歌のことを覚えていていくつか諳んじることができる。
そして、死のイメージに連想される「彼女」は今現在生きているのだろうか?
どこかの時点で自死しているように思うができれば生きていて欲しい。
人は生きているとたくさんの人間とすれ違い、2度と会うこともなかったりしますがそれでもどこかで生きていると思うことで心のどこかが温かくなるような気がします。
ある地点で交わってそのまま離れていく。
お互いに2度と会うこともないまま離れて生きていく。
その無常とも言える出会いと別れ。
目を閉じ、もう一度目を開けたとき、多くのものが既に消え去っていることがわかる。夜半の強い風に吹かれて、それらはー決まった名前を持つものと持たないものもー痕跡一つ残さずどこかに吹き飛ばされてしまったのだ。あとに残されているのはささやかな記憶だけだ。いや、記憶だってそれほどあてになるものではない。僕らの身に本当に何が起こったのか、そんなことが誰に明確に断言できよう?
すれ違い続ける人生で、多くのものが消え去って心の奥底に熾火のようささやかな記憶が残ったとしても、それさえも主観に切り取られて変容してしまっているかもしれない。
僕らの身に本当に何が起こったのか?この短編集のテーマに沿った文章でとても印象深い部分でした。
②クリーム
とても、不思議な印象の短編でしたし、よくわからない謎が残り解決されないまま『僕』の中に残ることになります。
ありもしないコンサートのハガキを送りつけて騙すようなことをしたピアノ教室の女の子は『僕』に一体どのような感情を抱いていたのか?
しかし、世の中にはこういったよくわからない悪意としか言い様のない感情が潜んでいて、わけもわからないうちに囚われてしまうことがあると思います。
不可解で、不条理な悪意。
混乱したまま公園のベンチでパニック症状を引き起こしている僕の前に現れた1人の老人。
まるで、『僕』のことを理解した上で謎かけ問答をするように、『中心がいくつもあって外周を持たない円』について考えるように促します。
考えることで、『人生のクリーム』一番大事なエッセンスを手に入れられる。
老人はメンターのように『僕』の本質を見抜いて、人生にとって大事な何かを伝えようとします。
覚えがない悪意にさらされてパニックに陥った後に、偶然居合わせた老人に自分の人生にとって大事な問いかけをされる。
捨てる神あれば拾う神ありじゃないですが、失意の後に不思議な啓示を得たような話だと思いました。
③チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
とても奇妙で興味深い話です。
この短編に収録されている話は多くが村上春樹自身の実話を基にしているのかなと思いますが、どこまでが起こったことなのか?絡み合った複眼で観た世界のひとかけらなのか?
何か煙に巻かれているような不思議な印象があります。
若い頃に架空のレコードレビュー「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」を書き、数十年後にレコードショップで同名のタイトルのレコードを見かける。
これだけでも不思議な話ですが、さらにその数十年後に夢の中でチャーリー・パーカーが『僕』が書いた架空のレコードレビューの曲を演奏する・・・。
長い時間の中でただの架空の創作だったレコードレビューが形を成して現れて、ついにチャーリー・パーカー本人が夢の中に現れて演奏をします。
時空を超えた不思議な繋がり。
現実と虚構の狭間で起きた不思議な邂逅。
最後にこんな一文で結ばれています。
あなたにはそれが信じられるだろうか?
信じたほうがいい。それは何しろ実際に起きたことなのだから。
④ウィズ・ザ・ビートルズ
この短編集の中で一番好きな作品で、村上春樹の短編作品の中でも5本の指に入るくらい好きな作品です。
春樹自身の体験を基にした作品で、『ノルウェイの森』を彷彿とさせるような話でした。
というか、僕的には村上春樹の実体験を基にした話で、直子やハツミさんはこの作品のサヨコから生まれたのだと思いますし、年代的に考えてサヨコのお兄さんに『僕』が再開したのはノルウェイの森を刊行する数年前の話でタイミング的にもピタリと当てはまります。
幸せな結婚をして家庭も築いていたのにある日突然自分の命を絶ってしまう。
サヨコとハツミさんの最期はとても似ていて、『ノルウェイの森』でワタナベが夕陽を見ながらハツミさんのことを思い出す場面があって、かけがえのない人を失ってしまったことに愕然としながら涙を流します。
春樹もきっとサヨコという存在が失われてしまった痛みをやるせない想いを『ノルウェイの森』に籠めたのではないでしょうか?
『ノルウェイの森』は僕にとってとても特別な作品です。
1995年僕が18歳の頃に始めて読んだ村上春樹の作品で、その当時予備校の寮に住んでいた僕はワタナベにシンパシーを感じました。
年齢も近かったし、恥ずかしながら「これは僕の物語だ」みたいな厨二病全開のハマり方をしました。
しかし、村上春樹の作品を時系列的に読んでいくと突然リアリズム100%の恋愛小説な『ノルウェイの森』はとても異色に感じました。
春樹の長編はファンタジーとリアルを交互に繰り返していると言われますが、前後に『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』を刊行していることを考えるとちょっと振れ幅が極端で『ノルウェイの森』の異質さにずっと疑問を抱いていました。
村上春樹は、「100%リアリズムの小説を書いてみたかった」みたいなことを言っていたかと思いますが、もっとコアな理由がこの短編「ウィズ・ザ・ビートルズ」に描かれているエピソードだったのではないでしょうか?
もちろん村上春樹は、この短編に描かれていることが実体験だとは言ってませんし、タイトルと帯自体が煙に巻くようなことを書いています。
でも、僕は長編の中でも異質なリアリズムと強い喪失感を持った作品を書かせたのがサヨコとの別れと、その後の彼女の運命、そして彼女のお兄さんとの関わりにあったと思いたいです。
妄信かもしれませんが(笑)
冒頭に語られるビートルズのLPを抱えた少女。
現実と夢想の狭間に存在しているような不思議な存在感と美しさ。
何か『一人称単数』の概念を象徴するような存在のように感じます。
だからこそ表紙の少女に成り得たのかもしれませんが(笑)
そして、表紙をめくると彼女は存在せず、ただ風景なだが描かれています。
彼女が実在していたのか、それとも想像の産物だったのか?
答えは藪の中?
『一人称単数』の世界の中で現実と夢想の狭間は溶け出し、あらゆる観念の中で溶け出していきます。
名もない怪物の胃袋の中でどろどろに溶解していきます。
⑤ヤクルト・スワローズ詩集
なんだかほぼエッセイみたいな短編ですね(^O^)
スワローズ愛を色んな角度で伝えていますね。
⑥謝肉祭
男性が書く小説で「醜い女性」が出てくることはあまりないような気がします。
登場するにしても、ハッキリと「醜い」と書くことはほとんどないですが、『謝肉祭』でが敢えて女性の容姿に対して「醜い」と表現しています。
「猫を棄てる」と言い、きわどい表現が続きヒヤヒヤします(^-^;
しかし、あえて「醜い」と表現した理由は、その要望の醜さが故に生じる彼女の魅力の吸引力にありました。
「あまり綺麗じゃない」などの婉曲的な表現では追いつかない彼女の要望の醜さと個性が相まって強烈な魅力が生じていました。
なぜなら彼女の力強い個性ーあるいは「吸引力」とでも称すべきものーはまさにその普通ではない容貌があってこそ有効に発揮されるものだったからだ。つまりF*が漂わせる洗練性と、その要望の醜さとのあいだの大きな落差が彼女独自のダイナミズムを立ち上げるのだ。そして彼女はその力を意識して調整し、行使することができた。
服装の趣味も音楽も知性も兼ね備えて魅力的な内面と、個性的とも言える強烈に醜い外見を持った彼女。
なんとなくスイカに塩をかけて食べることを思い浮かべましたが、相反する存在はお互いの要素を極限まで高め合うのかもしれませんね。
F*と「僕」を強く結びつけたのは、シューマンのピアノ曲「謝肉祭」でした。
このブログを書くにあたって初めて聞いてみましたが、「なんか楽しそうな曲やんけ♪」ぐらいしにか思えませんでした(^-^;
しかし、F*はシューマンをその後蝕んでいく悪霊達の存在を、まだそれらに囚われる前に作った「謝肉祭」の中に見出します。
シューマンを破滅に追い込んでいく悪霊たちの予兆・・・。
それらの禍々しい気配が、祝祭の華やかな雰囲気の中に見え隠れします。
謝肉祭=カーニバルは元々宗教的な意味を持つ祝祭で、仮面を被って祝うお祭りです。
その仮面の裏に蠢く何か・・・。
F*自身の醜い外面と、洗練された内面。
華やかな生活と、法を犯して人々を騙している行為。
ここに二つのペルソナが存在し、謝肉祭の音楽が内包する意味と共鳴し彼女の魂を深く惹きつけたのでしょう。
「僕」がシューマンの「謝肉祭」を無人島に持っていくたった一つのピアノ曲に選んだ時の彼女の興奮は、自分の暗い内面に同じ深さで寄り添ってくれる存在を見つけた喜びだったのかもしれませんね。
そしれ、そのような祝祭と悪霊の2面性を持った音楽に魅せられた春樹もまた分裂した2つの魂を抱えているのかもしれません。
それもまた、『一人称単数』の世界に於いての複眼なのかもしれません。
どなたが書いた感想だか忘れましたが、『一人称単数』を呼んで川端康成の「魔界」を想起されられたとおっしゃっていた方がいらっしゃいました。
『眠れる美女』『みずうみ』で表現される心の奥底にある深い闇。
村上春樹もまた、老年に差しかかりその「魔界」の扉に手がかかったのかもしれません。
そういった彼自身の闇を予兆させるような作品でした。
僕にはF*が深い泥濘から、手招きしているように感じました。
その醜い顔に、感じの良い微笑みを貼り付けたまま。
⑦品川猿の告白
短編集「東京奇譚集」の続編(?)です。
牛河とか、羊男とか。
語感も奇妙です。
品川猿とか。
文章と情景描写なんかがリアルでうっかり人間に恋して名前を盗んでしまう猿が実在しているように思えてきますね(笑)
『騎士団長殺し』の時から強く感じていますが、文章の密度がとてつもなく濃くて情景が立体的に浮き出してきそうです。
温泉宿で働いている猿と、サッポロビールを飲むことがリアリティーを持って訴えかけてくるほどに。
品川猿の生い立ちと、悲哀と罪が鄙びた温泉宿で哀切に語られます。
んー、沁みるねぇ(笑)
最近、仕事をしていて「あれ、なんで自分の名前がわからない。なんで??」という場面に出くわしました。
最近、猿を見たかどうか?IDを紛失していないか?の質問をしたい欲求にかられたことは言うまでもありません。
品川猿は実在して、愛媛にまで出張していたのかもしれませんね。
⑧一人称単数
紫色のイメージの短編です。
この短編集で唯一書き下ろしの短編。
『謝肉祭』で「魔界」について触れましたが、この作品でその魔界は春樹をより深い暗闇に引きずり込もうと顕在化しているように感じます。
前半のとても気持ち良い春の日にポール・スミスのスーツを着て、あまり行き慣れないバーに行く展開から後半は突然の暗転をします。
その落差がとても激しくとても不吉な感じがします。
覚えのない悪事を見知らぬ女性から並べ立てられて、謂れのない批判を浴びる。
まるで後ろからナイフで刺されるような唐突で激しい凶事です。
しかし、それは有り得たことかもしれない。
想像力と感受性の豊かさは時に邪なもまで受け入れて、自分の精神の奥底まで到達させてしまうのかもしれません。
どこかの水辺で起こったかもしれないことを一笑に付せない。
言葉に込められた悪意と毒を自分の心の内にまで引き込んでしまう。
数年後に書かれる「単行本にして一冊の短い長編小説」が、老年に差し掛かった村上春樹の心の闇に、「魔界」にどういった影響を受けているのか今から楽しみでなりません。
もしかしたら、僕たちが今まで目にすることができなかった深い闇と苦悩がそこに横たわっているかもしれませんね。
そして、最後の文章ですがこれまでの村上春樹の作品の中でも異質とも言うべき不吉な文章です。
もしかしたら後年、この文章が後の村上春樹の作品の深い闇を予兆していたエピローグ的な文章であったとされる未来があるかもしれませんね。
階段を上りきって建物の外に出たとき、季節はもう春ではなかった。空の月も消えていた。そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。街路樹にも見覚えはなかった。そしてすべての街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻き付き、蠢いていた。彼らの鱗が擦れる音がかさかさと聞こえた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍りつくように冷え込んでおり、私はスーツの上着の襟を立てた。
「恥を知りなさい」とその女は言った。
5、終わりに
いやー、今回は何だが書くのにめっちゃ時間がかかりました。
その理由は文学的考察とその奥にあるイデオロギー対する深い憶脳があったからだと思います。
いや、毎日暑くて呑みすぎて寝ちゃってただけだよ。てへぺろ٩(๑><๑)
初期のドライな感じが好きだった方もたくさんいらっしゃると思いますし、僕もその気持ちはよくわかります。
「風の歌を聴け」のあのクールな感じとか堪りませんし、あんな文体はとんとお目にかかっていません。
初期、中期の作品は物語が持つ意味などは全く触れられずにただただ通り過ぎて失っていく感じが好きでした。
しかし、近年は物語が幾分かウェットになってきていて、『1Q84』では繰り返し「愛」が語られ、『騎士団長殺し』では子供も誕生します。
暑苦しい時代にドライな物語を描いていた村上春樹は、ドライでともすれば物語自体が失われようとする今の時代に意味を持ったウェットな物語が必要だと考えているーあるいは本能的に感じているーのではないかと勝手に思っています。
そして、老年を迎えた村上春樹自身のライフステージの変化もきっと関係しているのではないでしょうか?
最近の『職業としての小説家』『猫を棄てる』などのエッセイを読んでも、パーソナルな内面を語った作品が書かれるようになりました。
今ままで、どこかベールに包まれていた村上春樹からは考えられないし、自分が感じていることや考えていることを読者にもわかりやすく率直に語るようになってきているように感じています。
世界的に評価されている「作家・村上春樹」としての役割を認識して責務を果たそうとしているようにも感じます。
文章から、どことなく不器用な誠実さを感じるような気がします。
『一人称単数』もパーソナルな体験を基にしたであろう作品が多くあります。
高い密度の文章と、巧みな表現と緩急で「品川猿の告白」のようなファンタジーな作品ですら本当に有り得たかもしれないと思わせられます。
F*が光線のトリックスターであったように、村上春樹もまた物語と文体のトリックスターとして仮面を被って読者を現実と夢想の狭間に誘っていく・・・。
僕にとってそんな短編集でした。
今週のお題「読書感想文」