ヒロの本棚

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【本】村上春樹『ノルウェイの森』~どんなに深い哀しみも、やがて全ては通り過ぎて消え去っていく~

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1、作品の概要

 

1987年に発表された村上春樹5作目の長編小説。

短編『螢・納屋を焼く・その他の短編』に収録の『螢』を基にして書かれた作品。

書き下ろしで上下巻2冊で刊行された。

上下巻合わせて1000万部を超えるベストセラー作品になり、村上春樹の作品としても最大の発行部数となった。

2010年に松山ケンイチ主演で映画化された。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: ペーパーバック
 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: ペーパーバック
 

 

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2、あらすじ

 

ワタナベは、高校時代に唯一の親友キズキが自殺したことで心に欠損を抱えたまま東京の大学に進学した。

キズキと交際していた直子と偶然再会して、心を通わせるようになるが、直子はワタナベの前から忽然と姿を消してしまう。

 

直子からの手紙を頼りに、心の病を回復させる施設「阿美寮」を訪れたワタナベはルームメイトのレイコさんとも交流しながら、直子を苛んでいる心の病のことを知る。

同じ頃に大学で知り合った活発な女性・緑と交流を深めて、次第に惹かれあうようになっていく・・・。

 

生と死。

緑と直子、2人への思慕を通して、ワタナベはどこにたどり着いたのだろうか?

 

ノルウェイの森

ノルウェイの森

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 


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3、この作品に対する思い入れ

 

ユーミンが「あなたは私の青春そのものぉ~♪」って歌ったように、村上春樹ノルウェイの森』は僕の青春そのものですね。

もっと、楽観的でパリピな青春だったら良かったのですが、まぁ何だかこんがらがった時代だったのですよ。

 

ともあれ19歳の時に、初めて読んだ村上春樹の作品であり、それ以降何度も読み返していいる僕にとって大事な作品です。

全く色褪せることはないですし、読むたびに新たな意味を持って僕の心の中に立体的に浮かび上がって何かを訴えかけてくるような特別な物語ですね。

 

思い入れが強すぎて、『ノルウェイの森』の書評を書くには少し覚悟が入りましたし、自分の中で機が熟すのを待つ必要がありました。

こんなメガネのオッサンが書くよくわかんないブログに、覚悟とかそんな大げさなと思われるかもしれませんが(笑)

まぁ、生まれた時から大げさな人間なんです。

 

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 BGMはもちろんビートルズの『ラバー・ソウル』♪

 

 

4、感想・書評(ネタバレあり)

ミッシングリンク。なぜ村上春樹は『ノルウェイの森』を書いたのか? 

このブログの主目的は、村上春樹中村文則の小説の書評を時系列的に書くことで時代を遡って時系列的に感想を書くことで作者の変化や成長を辿ることができるのでなはいかと思っています。

とは言っても、村上春樹はエッセイ、翻訳も含めると膨大な量になるので長編小説と短編小説を主に書いています。

そうしてブログで、村上春樹作品の書評を書き進めてみて気づいたのが『ノルウェイの森』の特殊性でした。

 

1979年に『風の歌を聴け』でデビュー(僕はその頃2歳だった)した村上春樹は、『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の『鼠3部作』と言われる作品を経て、1985年にファンタジーサイバーパンク路線全開の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を書きます。

 

そして、2年後の1987年にこの『ノルウェイの森』を書き下ろしで刊行するわけですが、何かこの流れに強い違和感を感じるのは僕だけでしょうか?

ちなみに1年後の1988年に、鼠3部作の続編『ダンス・ダンス・ダンス』を刊行しています。

ノルウェイの森』も『ダンス・ダンス・ダンス』も単行本としては初の上下巻分冊という分量で書かれていますが、異例とも言える短いスパンで書かれています。

 

何か強い動機付け。

どうしてもこの時に『ノルウェイの森』を書かなければいけなかった理由があったのではないでしょうか?

しかも、一切のファンタジー、SF路線を排除した「100%リアリズム小説」です。

国境の南、太陽の西』も「100%リアリズム小説」ですが、『ノルウェイの森』は村上春樹の作品の中でも異彩を放っています。

まるで人類の進化の途中で見当たらないDNAの一部分、「ミッシングリンク」のようです。

 

そして、「鼠」や「僕」といった名前を持たない人々の物語であった村上春樹の小説に初めて名前が出てきます。

主人公のワタナベや親友のキズキはカタカナですが、直子や、小林緑など、物語がリアリズムであることの必然として名前が出てきます。

これは、いささか唐突な変化であるように思います。

 

その疑問に対して、ヒントのようなものが呈されたと感じたのは、最新の短編集『一人称単数』が発売されて『ウィズザ・ビートルズ With the Beatles』を読んだ時でした。

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 この作品で描かれていた体験が村上春樹自身の経験ではないかと、僕には感じられました。

彼が覚えた哀しみー自分がかつて心を許した女性が、自ら命を絶ってしまうという経験ーを『ノルウェイの森』という作品に込めたのでは?

作品中の描写をそのまま現実のものとして信じるなら1965年に17歳の時に付き合っていた彼女と1968年に別れて、1983年に再会した彼女の兄から、彼女の自死を聞かされる・・・。

それから1987年に『ノルウェイの森』が刊行されているわけですから時系列的に辻褄が合いますし、ワタナベが感じていた哀しみは村上春樹自身の哀しみで、彼女への想いを物語にしたのではないかと僕は思っています。

 

『ウィズザ・ビートルズ With the Beatles』の彼女の死は、まるで『ノルウェイの森の』ハツミさんの死を思わせます。

2人とも幸せな結婚をして、家庭を持ちながらある日突然命を絶ってしまいます。

残された人間はその死の理由が思い当たらずに途方に暮れます。

 

②死の香りに満ちた物語。黄泉比良坂。

キズキ、直子、ハツミさん、直子のお姉さんは自ら命を断ち、緑の父親は病気で亡くなります。

改めて読み返してみて、『ノルウェイの森』は「死」の概念に満ちた物語だったのだなとおもいました。

ダンス・ダンス・ダンス』でも「死者とのダンス」という言葉が何度も出てきて死にまつわる作品ですがどこかポップな印象があります。

ノルウェイの森』はそれらの死がもたらす痛みと哀しみを克明に描いた、鎮魂や再生といったキーワードが浮かびそうな物語だと思います。

 

死は、生と別々に存在して、死を迎えるその瞬間まで生と死は交わることがない。

そう考えるのが一般的な考え方かもしれませんが、死は生の対極としてではなく、その一部として存在しているという文章が出てきます。

生の中にも死が含まれていて、少しずつ死の影響を受けながら人は生き続けている。

それは、一つの可能性であったり、観念的なものかもしれませんが、死は生に対して影響を与えてその形を変えていってしまうこともあるのではないでしょうか?

 

しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの17歳の5月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。

 

 実際にキズキの死は、ワタナベ、直子の心に深くて暗い影を落として、時には輝かしい生よりも雄弁に2人の心に語りかけているように思いました。

10代の終わりと20代の初めの、最も輝かしく生命力に満ち溢れた我が世の春とも言うべき素晴らしい時代に死とともに生きて、その影に侵蝕されながらもがき、やがて・・・。

物語の中心には常に死があります。

だからこそ緑の持つ眩いばかりの生命力や、死に捉えられながらももがいて進もうとするワタナベの姿がより輝いて見えるのでしょう。

 

ワタナベの親友・キズキは直子と幼馴染でありお似合いのカップルで、まるでお互いの魂を分かち合っているような、深い結びつきを感じさせるような特別な関係でした。

そんなキズキが理由も告げずに17歳の時に自ら命を絶つ。

直子にとって半身をもがれたような衝撃的な出来事であり、明るく朗らかだった彼女の心を次第に蝕んでいきます。

直子は、生きながらにして死者の世界に片足を突っ込んでいるような状態で、細胞が少しずつ壊死していくように魂が少しずつ死に向かっていっていたのでしょう。

 

ワタナベは、キズキの属する死の世界へと引っ張られていく直子を心から愛するようになり、懸命に引きとめようと奮闘します。

僕はこの本を読むたびに、イザナギイザナミの古い神話を思い出します。

亡くなった妻・イザナミを取り戻すために、黄泉の国に向かったイザナギは彼女を取り戻して地上を目指すが、生者の国に帰り着く前に後ろを振り返ってしまい、醜く変わり果てたイザナミを置き去りに逃げ帰ってしまうというお話。

ワタナベもイザナギのように、死の縄目に捉えられた直子を救おうとしますが、結局うまくいきませんでした。

 

直子にとってキズキは唯一無二の存在で、彼に替わるような存在を彼女はこの世界で見つけることはできなかったのでしょう。

キズキの想い出を共有して、心を通わせたかのように感じたワタナベのことでさえも直子は愛することができずに彼の手を振り払ってキズキのいない世界に別れを告げたのでした。

 

直子はワタナベに何を求めていたのでしょうか?

「私のことをいつまでも忘れないで」

答えは冒頭の場面にありました。

直子は死に向かっていく自分の心を意識していたのかもしれません。

そして、もしかしたらこの言葉は「私たちのことをいつまでも忘れないで」でもあったのでしょうか。

直子とキズキの2人がとても大事に思っていたワタナベに。

いつまでも覚えていて欲しいと願ったのかもしれません。

 

なぜ彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子はしっていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向かって訴えかけなけねばならなかったのであ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

 

死にゆく者にとって、誰かに覚えていて欲しい。

誰かの心の中で生き続けたいと願うことは、いつの時代も変わらないことなのかもしれせません。

お墓にお参りに行って死者を悼むのも、お盆に死んだ先祖の魂を迎えたりするのもそのあらわれなのでしょう。

たとえ、生者にとっての記憶が、徐々に消えていってしまうのだとしても・・・。

 

③直子とワタナベ

高校時代のワタナベとキズキは唯一無二の親友同士で、キズキの彼女である直子も交えて3人で会うことが多く、その奇妙なトライアングルは絶妙なバランスで機能してそれぞれに楽しい時間を過ごすことができていました。

ただ、ワタナベはキズキが持っている座談の才能のようなものに感服し、何故その力を広く他の人間にも使わないのかと疑問を抱いていましたが、直子はキズキがワタナベに対して良い面を見せようとして必死だったことを知っていました。

そして、自分を変えようと、向上させようと努力しながらも上手くいかない現状に自信をなくしてしまっていた。

もしかしたら、そんな傾向がキズキを死へと追いやったのかもしれないと感じました。

 

元々、ワタナベと直子はキズキを介してしか交流はなく、キズキの死後は顔を合わせることもなく東京の街で偶然に再会します。

共通の話題はキズキのことしかないはずだけど、2人はキズキのことには触れずにあてどなく東京の街をどこまでも歩き始めます。

まるで魂の傷を痛みを回復させるような巡礼の旅であるかのように、何か密やかな儀式のように身を寄せて歩く2人でしたが、まるで臆病な野生動物が少しずつ懐いて身を寄せるようにその距離を縮めていきます。

 

彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持ちになった。

 

ワタナベは少しずつ直子に惹かれていき、彼女と過ごす週末の時間を待ち望むようになります。

対して直子はワタナベとの関係に特別なものを感じながらも、人を愛する心はキズキの死と一緒に失われてしまっていたのではないでしょうか?

 

ワタナベは、直子の深い混乱と闇を包んで、もう一度温かい光が降り注ぐ世界へと連れ出そうとしますが・・・。

結局、それは果たされませんでした。

 

④ワタナベにとって緑の存在とは?

緑と直子。

ワタナベの前に現れる2人の女性は、彼の心を深く揺り動かします。

直子が死の象徴だとしたら、緑はまるで生の象徴のように健康的で生き生きと輝いています。

 

緑は緑で母親と父親を介護して最後まで看取り、経済的にも困窮して一般的に考えると随分と辛い想いをしながら生きてきました。

ただ楽天的で、明るいだけの女性ではなくて、とても困難なところをくぐり抜けてきたような力強さとしなやかさがあります。

そして、しっかりと自分の考えと価値観を持っていて、周りに対してもしっかりとそのことを表現できるタイプでワタナベが惹かれていくのもよくわかります。

 

ワタナベにとって、緑と過ごす時間はキズキとの想い出や、直子へのあてどない想い、そして現実から遊離していく自らの魂を現世につなぎとめるようなアンカーの役割をしていたのかもしれません。

 

「君にあったおかげで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。

緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶんとしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこうよいことあるでしょ?

 

直子がいる阿美寮から戻ってきたワタナベに、緑が投げかけた言葉。

阿美寮での直子との時間は、どこか現世離れしていてまるで桃源郷か何かにいるようでした。

どこか遠くに行ってしまっているワタナベの意識を現実に引き戻してくれました。

 

緑と出会った時のワタナベは直子に強く心惹かれていて、緑も付き合っている男性がいました。

しかし、一緒にいる時間が増えていくにつれてお互いの存在は何か決定的な存在になっていきます。

途中で、ワタナベは緑に惹かれていってしまっている自分の心に気づき、葛藤します。

直子と一緒にいる時に感じる「おそろしく静かで優しくて澄んだ愛情」と対照的な、「立って歩き、呼吸し、鼓動して、心を揺り動かす」緑に対しての愛情。

どちらが正しいなんて理屈はなく、ワタナベ自身が直感的に緑へと惹かれていったのだと思います。

 

⑤個性的な寮生の永沢さん

 『ノルウェイの森』には様々な個性的な人物が登場しますが、特に印象的だったのが寮の先輩の永沢さんですね。

独自のシステムを作り上げて、自発的な努力ができて、周りからの評価なんて気にかけずに我が道を突き進む永沢さん。

超エリートで教養もあって、ハツミさんという素敵な彼女がいながらもワタナベを誘って夜の街で行きずりの女性と一夜を共にする。

とても高潔な一面と、下劣な部分を併せ持って自分の歪みさえもシステム化して強さに変えていくような特異な人間ですが、彼もまた彼なりの地獄を抱えながらも生きていたのでしょう。

 

何かに追われているように常に前進して、自らを強化していく・・・。

それは、まるでひとつの呪いのようにも見えます。

 

永沢さんは、ワタナベが『グレート・ギャツビー』を何度も読み返していることを知って彼と親密になります。

あまり控えめで自分の世界にこもりがちなワタナベとは、あまり共通点がなさそうですが、何か自分と共通する感覚を持っていることを嗅ぎ取ったのでしょうか?

確かに周囲の評価を気にせずに、自分の世界にこもって生きているようなところが、実は似通っていたのかもしれませんね。

「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人を切り離して考えることができる。俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ。ただこの男の場合自分でそれがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ」 

 

永沢さんの言葉で僕がめっちゃ好きな言葉が「自分に同情するな」「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」です。

20~30代の時に、何か困難な状況になった時にこの言葉がよく脳裏をよぎりました。

自分を哀れんで、状況を悲観しても何も変わらない。

だから自分に同情せずに問題を解決して前に進む。

頭で分かっていてもなかなか簡単なことではありませんが(^^;;

 

⑥直子との橋渡しをしてくれる姉のような存在のレイコさん

阿美寮の特殊な環境と、レイコさんのキャラクターは直子の心の光と影に寄り添い続けます。

直子の精神状態が良くない時でも、彼女に寄り添いながらワタナベとの橋渡しもしてくれるまるで姉のような存在でした。

彼女もまた永沢さんとは真逆の意味で個性的な人物ですね(笑)

 

表面的には明るく振舞っていて、大人として落ち着いた振る舞いを見せますが、彼女もまた精神を病んで阿美寮に入寮していて、過去に深い傷を受けていました。

幸福な人生の曲がり角に潜む「名前のない悪意」がレイコさんの人生と精神をバラバラにしてしまったでした。

でも、心に傷を持った繊細な精神を持つレイコさんだからこそ、直子の心の機微を汲み取りフォローできたのかもしれませんね。

 

直子の死後、失意のどん底にいたワタナベの背中を押したのはレイコさんで、彼にとってもメンターのような存在で有り続けました。

レイコさんもまた妹のような存在だった直子の死と、自責の念に苛まされるワタナベの存在があって、まるで桃源郷のような阿美寮から出て現実の世界にしっかりと足をつけて歩き出すことができたのでしょう。

レイコさんが、ワタナベにいうこの言葉が僕はとても好きです。

「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい」

 

「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、もうこれ以上何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」

 

縁側でレイコさんと、ワタナベでした寂しくない直子のお葬式。

何かの儀式のような優しいセックス。

再生への希望を感じさせる素敵なシーンでした。

 

⑦何もかもが通り過ぎていく

何か古い歌であったようにも思いますが、心の琴線に触れて、狂おしいほどに胸を焦がしても、涙が枯れるまで泣き続けても、やがて全ては通り過ぎて行き、やがてどこかに消え去ってしまいます。

あとに残るは、淡くかすかな残存記憶のようなもので、あれほどに魂を揺さぶられるよに感じていた喜びも哀しみも気付くとどこにも見当たらない・・・。

僕が感じる『ノルウェイの森』の物語の本質はそのような無常とも言うべきある種の人生への諦観です。

 

もちろん受け取り方は様々であって良くて、100%の恋愛小説であってもいいし、青春小説であっても良いと思います。

ただ僕にとってはこの物語の中に出てくる愛情も、仄暗い死も、結局時の流れに薄まり消え去っていくように感じるのです。

哀しくも残酷な諦念。

直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみをいやすことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしれその学び取った何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

 

どんな哀しみも、結局は全てを受け入れて通り過ぎるのを待つしかない。

そのような哀しみたちに対して僕達はいかなる備えもできないし、嵐の夜みたいにじっと家に閉じこもって通り過ぎるのを待つしかない。

やがて全ては通り過ぎて、自分の中にそんな哀しみがあったことすら消え去っていく・・・。

 

なんか書いてて寂しく絶望的な気分になってもきましたが、これが人生なのでしょう。

①で書いたように、村上春樹が強い哀しみ、過ぎ去った時間について想いをめぐらせて書いた物語だったのではないかと思います。

 

そうやって、哀しみを様々な出来事を通り過ぎたワタナベはどこにたどり着いたのでしょうか?

ラストシーンは、とても印象的です

僕は今どこにいるのだ?

僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。

 

荒波に揉まれ、翻弄されながらたどり着いた場所はどこかわからない場所だった。

ワタナベは何かを手に入れて、栄光に満ちた約束された場所にたどり着いたのではありませんでした。

とても象徴的で、示唆に富んだラストである種の虚無を感じました。

 

 

5、終わりに

 

なんだかまとまらずにダラダラ書いてしまいました。

途中で進まなくなったりして気付けば5月に・・・。

ほぼ1ヶ月かけてこの体たらくですね(^^;;

 

ただ最後に思っていたことは書けたように思います。

僕にとっても特別な作品ですし、これからも何度も読み返すのだと思います。

 

 

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