1、作品の概要
文庫版で155ページの中編小説。
1979年『群像』6月号に掲載されて、7月に単行本化された。
第22回群像新人賞受賞、第81回芥川賞候補、第1回野間文芸新人賞候補となった作品。
1981年に映画化されている。
『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』を鼠三部作、『ダンス・ダンス・ダンス』も加えて初期四部作などとも言われて、「僕」と鼠をめぐる作品群となっている。
21歳の大学生の「僕」と友人の鼠をめぐるひと夏の物語を綴った。
2、あらすじ
1970年の夏、大学生の「僕」は地元の海辺の街に帰省し、友人の鼠と毎日のようにジェイズバーに通い、退屈な夏を過ごしていた。
気心の知れたジェイズ・バーのジェイとのやり取り、鼠との行き場のない会話、東京の大学で自殺した「僕」のガールフレンド、何もかもが虚ろに通り過ぎていく。
ある時、ジェイズ・バーで酒に酔った女性を介抱し自宅に送り届けた「僕」だったが、彼女から酔っている間に肉体関係を持ったように疑われて、嫌われてしまう。
偶然、彼女が働いているレコード店で再会した「僕」は、彼女と少しずつ親密な関係になり、彼女が抱えている暗い過去を知ることになった。
一方、鼠も女性との間に何かしらのトラブルを抱えていたが、「僕」に相談できずにいた。
そして、夏は終わりに近づき「僕」が故郷の街を去る日が近づいてきていた。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
村上春樹の作品で初めて読んだのは『ノルウェイの森』で、19歳の時でした。
その後、大学生の時に読んだのが『風の歌を聴け』で、その独特の乾いた感じと、喪失感に満ち溢れた物語に惹きつけられました。
当時は「なんかよくわかんないけど、なんかいい。すごくいい。」って、思いながら読んでました。
今読んでも感想は相変わらず「なんかよくわかんないけど、いい感じ。」って、まるで成長していない感想が飛び出しそうなんですが、せっかくブログを書いているので、なくなりかけのマヨネーズを絞り出す時みたいに、無理やり絞り出してみたいと思います。
出ないって思っても、意外と出たりするものですよね。
文庫本で150ページぐらいってのも絶妙の薄さで手軽に読める感じで良いですね。
村上春樹を初めて読むという方にもすすめやすい薄さですし、気に入ったらそのまま初期三部作を続きで読めるのも良いですね。
今回、再読したのはX(ツィッター)で羊男さんが「この物語は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる。」という文章を引用していたのを目にしたからでした。
他の村上主義者の方も当たり前のように『風の歌を聴け』のことをツイートしていましたが、僕は以前はなんとなく初秋ごろの物語だと勘違いしていました。
何度も読み返しているはずなのに・・・(;^ω^)
そんな村上主義者(見習い)の僕ですが、以前スペースで街壁について話している時に「街壁を読んだあとで、『風の歌を聴け』を今読み返してみるとおもしろいかも」と言われたこともちょっと心に残っていたからでした。
ってなわけで、『風の歌を聴け』は初期にもブログで感想を書いていましたが、せっかくなので今回新たに書き直してみました。
記念すべき初リライトですね。
ちなみに以前のものもせっかく書いたので残しておきます。
4、感想(ネタバレあり)
①文章と会話のテンポ
村上春樹の小説って、なんか好き。
文章が読みやすくて、するする読める。
それでいて、内容は難解だったりするのですが・・・。
『風の歌を聴け』は、捉えどころがない作品という印象で、「何となくなんかいい。雰囲気とか?」みたいな感じでしたが、まずとてもリズミカルで淀みのない文章と、テンポがいい会話があげられるように思います。
デビュー作ながら、のちの作品にもみられるような村上春樹独特な文章が心地よく、展開が早くあっさりしていて、むしろ物語性を排除しているようなクールさが心地よい。
あらすじを書いてみてて、いやこれあらすじなんていらんのんちゃうん?ってなぐらいにおそらく意図的に物語性が排除されていて、それでいて近代純文学作品のような緻密で繊細な情景描写や、登場人物の心理の掘り下げはなく、まさに風のように短い物語は終わります。
このなんか淡々として乾いている感じが良いんですよね~。
それに心理描写に関してはあえて掘り下げずに読者に想像させる余白を作り出している気がします。
会話のシーンも、村上春樹の作品の中でも多い印象で、「僕」と鼠のやり取りなんか良い感じですね。
「何故本ばかり読む?」
僕は鯵の最後のひと切れをビールと一緒に飲み込んでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ」
「生きてる作家の本は読まない?」
「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」
いや、でもこんなすれた21歳っているかな(;^ω^)
40章で構成された断片的な物語の構成も実験的で面白いですね。
デレク・ハートフィールドに関しては架空の作家だということを明記していなかったために、書店に注文が入ったり、図書館に問い合わせが来たりと混乱も生じたようです。
29歳でこの小説を書いている「僕」の視点と、21歳で海辺の街にいる「僕」の視点。
粗削りな部分もありながらも、野心的な試みもあり、当時の文壇に衝撃を与えたようですね。
②「僕」と鼠、ジェイズ・バー
やはり初期の3部作といえば、「僕」と鼠の関係性がメインだと思います。
ただ、実際に2人が(生きて)顔を突き合わせているのは『風の歌を聴け』だけで、2人の出会い(というかコンビ結成)の場面も描かれています。
この場面も好きだし、ああなんかこういう瞬間ってあったかも、わかるかもって思いました。
「100キロだって走れる」と僕は鼠に言った。
「俺もさ」と鼠は言った。
ただ夏休みと春休みに帰省する「僕」と鼠が過ごすのはほとんどジェイズ・バーで、退屈さを紛らわせるようにビールを飲んで、どこにもたどり着くあてがないようなある種不毛な会話を交わします。
21歳なんだから、合コンしたり、旅行したり、ナイトクラブに言ったりしても良さそうなもんですがいつもジェイズ・バーでうだうだしてる感じがなんとも言えず良いです。
まぁ、でも僕が21歳の時は家飲みで、安い発泡酒を飲みながらつまみはうまか棒。
バーでビールを飲んでるんだから「僕」と鼠のほうがオシャレですね。
そういったどこか退廃的で鬱屈した時間もあとから振り返れば、2度と取り戻せないようなかけがえのないものになっていく。
僕も覚えがあります。
時間だけはうんざりするほどあって、たいして金もなくて、あてどなく散歩したり、音楽を聴きながらくだらない話をして笑ったり。
そんな日々があとで振り返ればまぶしく輝いていて、2度と取り戻すことはかなわない。
くすんだ青春ですが、そんな「僕」と鼠が送った日々が僕にも特別のもののように感じます。
そして、2人のデュオは「僕」が帰省している間だけのもので、8月8日に始まった物語が8月26日に終わっていきます。
夏が終わっていくその寂しさと相まって、不器用で「僕」以外に友人もいない(「僕」も同様だったと思いますが)鼠は取り残されるような寂寥感を感じていたのでしょうか。
鼠のこのセンシティブで、どこか気難しくて、それでいて愛すべき弱さを持った個性が好きです。
何か、若いころの自分と重ね合わせてしまいます。
時は、余りにも早く流れる。
③喪失感と死生観
あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。
ラスト近くに出てくる言葉ですが、この作品を言い表すのにとても適切な文章だと、個人的に、思います。
鼠とのアオハル要素もありつつ、それが青春小説とならないのはこの「僕」の強烈な諦観に満ちたまなざしと、喪失感にあるのではないでしょうか。
ジェイからも「どっか悟りきったような部分があるよ」と言われている性格的なものもあるのかもしれませんが、大学のガールフレンドの自死が関係しているように感じます。
『1973年のピンボール』で明かされた彼女の名前が「直子」だったりするわけで、やはり『ノルウェイの森』の直子を連想せざるを得ないのですが、大切な存在が失われてその後の世界を生きるというのは村上春樹の作品で繰り返し描かれているテーマでデビュー作『風の歌を聴け』でも物語の中核として描かれていることが伺えます。
1970年の8月8日から8月26日までの出来事を綴ったこの物語は、「僕」が直子を失っていなければ、違った物語になっていたのかもしれないと僕は思います。
鼠は「僕」に対して、女の子のことを相談できたかもしれない。
指が4本の女の子は「僕」ともっと親密な関係を築けたのかもしれない。
そうならずにすれ違っていくところがたまらずに良いのですが、ただ「僕」が強い喪失感を抱えていなければ、もっと違っていたのだろうなと感じますね。
そしてデビュー作から全力で物語の中に散りばめられる死の影の数々。
『ノルウェイの森』で書かれていたように、爽やかな青春小説にだってなりえた村上春樹のデビュー作に死は塵のように散りばめられて(ダジャレではないですが)、物語に影を落としています。
その影こそが、村上春樹の歴々の作品に昏く妖しい魅力を付加して、多くの中毒者を生み出しているのではないかと思います。
もちろん、僕もその一人なのですが。
そして、それは『猫を棄てる』でも語られた、村上春樹自身の生い立ちとその死生観に一直線につながっているように思います。
④最新作『街とその不確かな壁』を読んだあとに『風の歌を聴け』を読むこと
『街と不確かな壁』を読んだ時に、総集編のような作品かつ村上春樹自身の非常にパーソナル部分を描いた作品のように感じました。
村上龍『MISSING』も、彼にしては異色と言えるほど自身の内面に触れた作品で、ジブリ最新作『君たちはどう生きるか』にしても宮崎駿監督自身の内面に触れつつ、これまでの総集編的な内容でもあった作品だったかと思います。
老境に差し掛かり、キャリアの終盤のクリエイターが相次いでこういった特徴を持った作品を描いたことはとても興味深いことでした。
ただ、村上春樹に関しては『風の歌を聴け』を読んで、実は物語の根底ではずっと変わらずに大事な存在を失ってしまった自身の深い喪失感、魂も損ないかねないほどの欠損が描かれていたのだなと感じました。
長編においては特に変わらずに物語の根底にあったのは「直子的存在を失った強い喪失感」で、『街と不確かな壁』で描かれていたものが、デビュー作の『風の歌を聴け』でも変わらずに物語の核として描かれていたことに、改めて村上春樹という作家が物語を描くことへの源泉、強いモチベーションのもとを感じたように思っています。
『風の歌を聴け』はデビュー直後の村上春樹の自分が表現したい、あるいは書くことで自己の魂を救済したいと願ったとてもパーソナルな物語であったのではないかと思っています。
だからこそ、デレク・ハートフィールドや、ラジオのDJなどの一見物語に不要なエピソードを散りばめる必要があったのではないでしょうか?
そう考えれば、『風の歌を聴け』で描いたことが40年以上の時を経て『街と不確かな壁』でブーメランのように戻ってきたようにも思えてきます。
「もう何も考えるな。終わったことじゃないか。」
5、終わりに
まぁ、なんやかんや書いてみましたが、『風の歌を聴け』は「よくわかんないけどなんと、なくいい感じの小説。」って読むのがいいかなって思いますね。
物語とかテーマとかを排除して、文章のリズムでなんとなく読めてなんかいい作品ってそうはない気がしますしね。
バーでかかっているソウルミュージックみたいな小説。
でもちゃんと耳を澄ませてみるとたくさんの意味がある、深い叫びが、悲しみがある。
46歳になって読み返してみて、21歳である「僕」がこれほどの深い喪失感を抱えて、29歳の「僕」がどうしてもこの物語を書かなければならなかった強い動機付け。
それは、村上春樹という作家が1978年4月1日に小説を書くことを思いついたことに繋がって行くのだと思いますし、それまでも彼の中で行き場のない想い、表現したいマグマのように煮え滾る何かが彼の中で渦巻いていたのだと思う。
比較するのもおこがましいのですが、僕がブログを書き始めたのもそういった外に向かって表現したい、自分の中にとどめておきようがない何かがあったからだと思います。
46歳の僕は『風の歌を聴け』を読んでこう感じましたが、10年後の僕はこの作品をどう表現するのでしょうか?
新しい作品に触れるのも良いのですが、時を経て自分が好きな作品に何度も触れてみることもとても興味深いことだと思います。
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