ヒロの本棚

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【本】中村文則『教団X』~共鳴し合ういくつもの物語~

1、作品の概要

 

『教団X』は中村文則の長編小説。

2014年12月に刊行された。

中村文則にとって15冊目に刊行された作品。

単行本で567ページ。

第一部が『すばる』2012年5月~6月号に、第二部が2013年8月~9月号に連載された。

謎の教団「X」をめぐり、翻弄される人々の運命を描いた。

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2、あらすじ

 

〇第一部

楢崎は、彼の目の前から姿を消した女性・立花涼子を探してとある宗教施設に足を踏み入れる。

内面に歪みを抱えていた楢崎だったが、おおよそ教祖とは言い難い松尾の気さくな人柄や懐の深さ、屋敷に出入りしている人たちの温かさに惹かれていく。

しかし、彼は松尾に詐欺を働いた謎の宗教団体「教団X」に拉致されてしまう。

楢崎は松尾へのスパイとして教団から解放され、不穏な空気の中講演会が始まるが・・・。

 

〇第二部

教祖には内緒でテロを企てる教団幹部の高原。

計画にアクシデントが生じる中、彼を慕う峰野、再び拉致された楢崎、高原と義兄妹の立花涼子の4人の男女の運命が複雑に絡み合いながら加速していく。

松尾は病で亡くなるが、彼の遺した言葉は4人の心に刻まれ、存在の根幹を揺さぶり続ける。

様々な思いが交錯する中、高原はテロを決行し、「教団X」のマンションが機動隊に包囲される。

すべてを操る教祖・沢渡の目的とは?

そして、避けがたいカタストロフィに向かって運命の歯車は回り始める。


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3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ

 

個人的に中村文則の最高傑作なんじゃないかと思っているのがこの『教団X』です。

思い入れがありますし、発売当時に読んで衝撃を受けまくった作品でもあります。

『銃』で衝撃を受けて中村文則という作家に興味はありましたが、当時はあまり本を読んでいない時期で、他の作品はそこまで読んでいませんでした。

ただ、『教団X』の刊行前に中村文則の作品を読む機会があり、どんどん惹きこまれていき、『教団X』が話題になっていたので単行本で購入しました。

 

そこまで熱心な読書家でない僕にとって、その当時村上春樹の作品以外で新品の単行本を購入するというのは革命的な出来事。

まるで聖書のような(あるいは性書であったかもしれません)分厚いこの本を見た時、この本は今すぐに読まなければならないという強い磁力のようなものを感じました。

ちょいちょいこういう磁力を感じるのですが、まぁ錯覚でしょうね(笑)

でも、そういった文学、音楽、映画、アートなんかが僕の存在の在り方に少なからず影響を与えているのは事実ですし、『教団X』という作品との出会いも僕の人生にとって物語のトピックスのひとつなのだと思います。

 

ただ、好き嫌いは分かれる作品だと思いますし、特に初期の純文学テイスト全開で、主人公の暗い内面を描いた作品が好きな人にとってはいまいちかもしれませんね。

いや、僕ももちろん初期作品好きなのですが・・・。

3人称で、俯瞰で描かれている感じがする作品で多くの登場人物の内面を描いているので感情移入はしずらいかもしれないですし、さまざまな要素が詰め込まれていてめまぐるしく展開していく物語に閉口してしまう方もいるかもしれません。

ただ、僕は『教団X』という作品が好きですし、作家・中村文則にとっても大きなターニングポイントとなった作品だったのではないかなと思います。

 

 

 

4、感想(ネタバレあり)

 

①『教団X』が中村文則の集大成的作品である所以

 世界と人間を全体から捉えようとしながら、個々の人間の心理の奥の奥まで書こうとする小説。

 こういう小説を書くことが、ずっと目標の一つだった。これは現時点での、僕の全てです。

いきなり、あとがきから入っちゃいますが、中村文則自身があとがきで語った言葉です。

これまで断片的に描かれていた物語の範囲を一気に広げて、主人公の心理を掘り下げるより、多くの人間の心の奥底まで描き、それぞれの物語の交錯から生まれる残酷な運命を描いた『教団X』ですが、やはり作者自身も並々ならぬ意欲で書いた作品であることがわかります。

 

『教団X』がこの時点での中村文則の集大成的な作品であったその理由は、それまでの作品でキーになっていた「罪と罰」「生い立ちによる内面の歪み」「悪」「神」「運命」「メンター」などの要素がすべてこの『教団X』に詰め込まれているからです。

『銃』『遮光』『土の中の子供』でみられたような不幸な生い立ちによる歪み。

『悪意の手記』『最後の命』での罪と罰

『何もかも憂鬱な夜に』でのメンターと継承。

『掏摸』『悪と仮面のルール』での悪の存在、運命。

『掏摸』『王国』での神。

『迷宮』『去年の冬、きみと別れ』でのミステリー要素。

 

それらのすべての要素を物語に盛り込みながら、多くの登場人物の心情の奥深くまで描いていき、そこに最新の脳科学量子力学を用いてこの世界の成り立ちにまで触れていく・・・。

いや、とんでもないスケールです。

よくこれだけ詰め込んだなぁ。

まさに集大成。

 

脳科学量子力学、仏教論などの知識をもとに世界の成り立ちを考えていくというのは新しい試みで新鮮かつ刺激的でした。

『私の消滅』でも脳科学の知識を用いてますし、『列』では生物学、今後書かれる作品では原始神道のことを書きたいと言っていた中村文則

興味深い試みだと思います。

 

戦争、テロをここまで血なまぐさく描いたのも初めての試みでしたし、『R帝国』『逃亡者』にも繋がっていったのだと思います。

この国のシステムや政治を辛辣に批判したのもこの作品がはじめてのようにも思いましたし、このへんから中村文則の発言に政治的なものが多くなっていったように思います。

 

こうして考えると『教団X』という作品が、集大成的な作品であったのはもちろん、のちの作品の布石にもなった重要な作品であったように感じます。

 

②歪んで生きずらさを抱えた人たち

中村文則の物語の核。

ミステリー路線の作品でも、もれなく主人公は歪んで生きずらさを抱えていますし、これまで明るくハッピーに生きている主人公は皆無でしたね。

そして、登場人物もほとんど精神が病んでいる人ばかり。

当然物語のトーンは暗いものになっていきます。

 

そして、そんな歪みは幼少期の体験からきていて親から見捨てられたり、異常な体験をしたりしたことからもたらされています。

『教団X』での主人公(?)の楢崎は母親からの愛情を受けられず他人との間に膜を作って生きていくようになります。

よちよち歩いて手を伸ばして、それを母親にかわされたのが僕の最初の記憶だよ。目があったんだ。自分を邪魔に思っている目。その目が怒鳴る声と重なって、この世界から消えろと言われ続けてるように思えた。

手を伸ばして、母親にかわされるとかヤバすぎますね・・・。

そりゃ歪むわ。

そんな最初の記憶とか嫌すぎます。

 

楢崎の他にメインで描かれた高原、立花、峰野もそれぞれ歪みを抱えていますし、教団Xの信者も元々社会に適合できずに入信した人間が多いようです。

『教団X』ではそんな多くの人間の歪みを心の奥底に光を当てながら、もがき苦しんでいる「病んだ魂」たちを描いているように思います。

暫定的な主人公みたいな位置づけの楢崎の影が薄いのも致し方ないところで、多くの人たちの歪みと、そこからの再生を描きたかったのかなとも思いました。

 

脳科学量子力学、仏教論、自意識とはなにか?

松尾の講話という形で脳科学量子力学、仏教論を経ながら自意識とは何かを語っていますが、これが本当に興味深く、ある意味では背筋が凍るような驚愕の内容でした。

人間には自意識というものがあって、デカルトが言ったように「我思うゆえに、我あり」というのが実は真実ではなかった。

意識は脳の動きを遅れてなぞらえているだけというのは本当に衝撃的でした。

 

それでは過去に僕が保育園でスカートめくりをしまくっていたのは、僕の自意識がエロかったのではなくて、脳がエロかったということなんですね?

僕の自意識に罪はないと?

意識は、もしかしたら他の次元に存在するもので、人生を眺めている観客のような存在に過ぎない。

自己決定したと思わされている存在に過ぎない、とか怖すぎる。

もちろん、あくまで仮説ではありますが。

 

最近、中村文則が口にしていたホログラフィック原理とも重なるところがあるのかな?

この世界が多次元で重なり合って存在しているというのも、暗黒物質などの存在と並行して、神隠しや、異世界などの話も科学的に証明できる日が来るかもしれないというなんだかワクワクする話でもあります。

 

だからこそブッダ「われは考えて、有るという迷わせる不当な思すいの根本をすべて制止せよ」という言葉はより説得力を帯びてきます。

われは考えて有るというデカルトの考えを2000年前にバッサリ否定しているブッダ

それは、自己決定したと思わされている自意識の嘘を、人間は考えることで自我を獲得し、存在しているという考え方の過ちを指摘しているのだと思います。

 

物質的には入れ替わりながら、それでも「我」という自意識を構成している素粒子の集合体。

なんのためにそのような複雑精緻なシステムがあるのか?

そして、まるで生命が誕生するためにどこまでも都合よく作られた宇宙。

それらすべてが物語を生むためだったとしたら?

 

この世界そのものが、あるいはこの世界を観測する高次のオブザーバー的存在が物語を欲していたとしたら?

人生は物語だというけど、どこまでも主観の呪いの域を脱しえない我々の自意識は意図せずに物語を生み続ける。

無自覚に、無軌道に、無尽蔵に。

 

なんのために?

それは生きることがすなわち物語を生み続けることだからだと思います。

主観で語られる人生はどこまでも物語化していく、現実も真実も飛び越えて。

どのような客観的事実も、物語の前では全くの無意味。

 

僕は、介護職という仕事柄よく高齢者の方のお話を聞かせていただきますが、それはすべからくこの世界に求められて紡がれた物語のように感じます。

圧倒的なダイナミズムと強い感情の揺れを感じるその物語たちは、まるで古い図書館の片隅で眠っている冒険小説みたいにみずみずしく、僕の心を捉えます。

 

④性と解放

『教団X』は中村文則の作品の中で最も性的な作品だと思います。

性描写もとても直接的で、エロ小説顔負けの過激な性描写にページをめくる手が止まりませんでした。

団鬼六もビックリです。

 

しかしなぜここまで過激な性描写をしなければならなかったのでしょうか?

それは、中村文則が、エロいからだと思います。

・・・。

ではなくて、「鬱屈」と「解放」がキーになっているように思います。

 

過激な性行為が行われているのは「教団X」で、もはや「教団SEX」状態で三文AVレベルでヒロ氏大喜びでした。

しかし、そもそも「教団X」の教義とかあまり触れられていませんし、どんなことをしている宗教なのかも明かされておらず、謎に包まれているように思います。

有能な人間が集められていたり、キュプラの女のような性的な存在も集められていますが、その他の信者は基本的に一般社会で適合できなかった人間たちが集められています。

 

一般社会で適合できなかったその「鬱屈」を「性行為」によって解放する。

なにかしらそのようなイメージが湧いてきます。

楢崎が教団Xに連れてこられた時も、精神の解放を求められ、彼は性行為を通じて自己の解放を為します。

楢崎も、親の愛情を受けられずに、周囲とうまく馴染めず、音楽と文学で防御壁を作りながら生きてきて、その壁が崩壊してしまった存在。

性を通じて自己を解放した楢崎はこう言います。

「僕は、自分の人生を侮蔑するためにここに来ました」

最高です。

絶対に就職の面接のわが社を希望した理由とか、大学のサークルの自己紹介でこのサークルに入った理由で言っちゃいけないやつです。

 

⑤神の不在と、罪と罰

『教団X』は宗教の話だけあって、神についての論議も多くなされています。

中村文則の作品では主に神の不在や、不完全さが描かれているように思います。

この作品以外でも何度も中村文則の作品で触れられているグノーシス主義

このような欠落だらけの世界を創造した神は不完全な存在に違いないという考え方。

 

沢渡は神の存在を感じるために危うい行為をしますが、神は沈黙し続けます。

キリスト者であった遠藤周作による『沈黙』も神の不在がテーマでしたが、『教団X』でも様々な角度から神の存在をまたはその不在を検証しています。

 

またYGの神Rや、靖国のように死を恐れない勇敢な兵士を造り出すために用いられる神。

そのように権力者にとって都合よく利用され、洗脳の道具にされている神についても語られています。

 

そして、高原が捉われていた罪と罰

ヴァルナよ。私の主な罪はなんだったのですか?

という、冒頭に引用されていたリグ・ヴェーダの一説。

まるでその言葉に重なるようにつぶやかれた高原の最後(まだ死んでないけど)の言葉。

「・・・おれのつみは、なんだったのかな」

この世界から貧困をなくすために理想を掲げて突き進んでいたはずの高原。

それなのにYGに捕らえられテロ行為に加担し、『教団X』では詐欺にも関わり、最後は公安の男に銃で撃たれる。

実の親からも一度は見捨てられ、極限の飢えを経験した彼の人生は悲惨すぎます。

 

運命の残酷さを感じさせられますし、彼が目覚めて救いを感じさせられることがあるのか・・・。

昏睡状態でありながら完全な死ではないところに『掏摸』のラストのような淡い希望を感じなくもないですが。

 

⑥善悪を越えた存在、世界に弾かれた沢渡

松尾と沢渡。

2つの教団の教祖であり、因縁深い間柄なのですが、反目しあっているようには思えずどこか奇妙な関係だと思います。

作中であえて2人の対峙は描かれていませんが、沢渡が松尾を招聘しようとしていましたし、何を語ろうとしたいたのか気になります。

 

教祖としてはで真逆な感じで、気さくで一見カリスマ性は感じないけれど相手の魂の奥深くまで届く言葉を投げかけることできる松尾と、一見してオーラ出まくりで千里眼のように相手の人間性を見抜いて思いのままに操ることができる沢渡は、対照的な存在として描かれています。

ただ、この2人はどこかでつながりあっているようなそんな奇妙な縁も感じました。

それは高原に対して2人が期せずして「身体に力を入れておけ」という同じ言葉をかけた場面などで感じましたし、ブッダの2面性を松尾と沢渡に分けて表現してるようにも思いました。

 

「広々としておちついた態度をもって異端をさえも抱擁してしまう」というブッダに関する記述は松尾を彷彿とさせられますし、「欲望を持とうとも思わず、また欲望を捨てようとも思わない状態。つまりそんなことは考えないくらいの『無』」という解脱の境地に近い精神状態にあったのが沢渡だったように思います。

今までの中村作品で『掏摸』『王国』の木崎をはじめ多くの「悪」としての存在が描かれましたが、沢渡はとても異質な存在。

なぜなら彼は善悪を越えた(あるいは疎外された)存在で、善か悪かという2元論を越えた人間だから。

 

「悪」ではないにせよ、沢渡の行動は常軌を逸していますし、一般の人間の倫理観かすると到底許すことができないような人の倫を外れたことをしています。

しかし、ブッダもキリストも自らの信じた教えを説く過程で家族を捨て、現代の倫理を越えた行いもしていますので、道を究めて超越するには時に倫理を善悪を超越していかなければいけないのかもしれませんね。

ナイラを生かして殺して、苦しめて快楽を与え、善悪の彼岸へと辿り着いた沢渡。

世界が色彩を失ったのは、脳の警告だったのでしょうか?

これ以上進めば戻れなくなってしまう、と。

沢渡が辿り着いたのは、本来人間が到達するべきではない領域だったように思います。

 

世界がどこかなめらかでなくなっていた。私が何かにふれれば、ふれている感触を覚え、私が何かの物体を移動させれば、その物体は移動する。だがそのどれもがぎこちなかった。まるで私が本来の世界のありよう、物たちがそこに存在するありようを、無理やり変化させているかのように。弾かれている、という言葉がもう一度浮かんだのもその時だった。世界と、私がしっくり合わさっていない感覚。

世界から弾かれている。

『遮光』の主人公が強く感じていたように、これまでの中村作品では内面に歪みを抱えた主人公が世界から弾かれているように感じる描写が多く見られました。

ただ、沢渡が感じているこの「弾かれている」感覚はもっとフィジカルな実感を伴った強烈なものであったように思います。

 

⑦メンターと継承、そして災厄の果てに残された希望

松尾はメンターとして多くの人間の心の支えになっていますが、その中でも楢崎とのやり取りがとても好きです。

自暴自棄で自らの価値を、可能性を信じることができない楢崎に対して、戦争で生き残った体験を通して自らの存在を恥じた経験を持つ松尾は彼の力になりたいと願ったのではないでしょうか。

『土の中の子供』『何もかも憂鬱な夜に』でも描かれた主人公とメンターとの関係性。

不幸な生い立ちから自らの存在を大事に思うことができない主人公に対して、再生へと導いていくメンターの存在はどの作品でもキーとなっています。

 

「俺のこれまでの人生?そんなものに何の価値がある?」や「自分の人生を侮蔑しにきた」などの陰キャも真っ青なネガティブ発言をしていた楢崎も、松尾の人間性、ことばに触れるうちに少しずつ変化していきます。

その変化はただいきなり「人生って最高!!俺最高!!」みたいなポジティブな変化ではなくて、「迷っていて苦しみは消えないけど、とりあえず生きていたい」といったものだと思います。

峰野が呟くように言う。

「なぜ生きなければならない。なぜ生きる必要が?」

楢崎は答えられない。ただ怒りに襲われていた。この世界に対する怒り。自分の卑小さへの怒り。

楢崎は何も答えられないまま峰野の手を引いていく。

 

まだ峰野の問いに応えられないけど、それでも生きるべきだと彼女の手を引いていく。

ラストのカタストロフィの災厄は多くの人間の人生を破滅の際まで追いつめますが、それぞれが再生への兆しを見出すような結末だったように思います。

芳子の「共にいきましょう!!」の言葉は、中村文則自身の言葉と重なって胸を打つ熱いソウルを感じました。

 

災厄の果てのパンドラの匣に残った希望。

たとえ前向きじゃなくたって、周囲から疎外されていても、なにか生きる糧を見つけて生きていたい。

他人から称賛されなくても、幸福でなかったとしても、この世界に存在していたい。

そんな願いを感じました。

 

「そっちはすすむのが大変だから」

少女が振り返る。広大な大地の上で、日の光が少女に当たる。

「平気だよ」

少女が微かに笑ったように見えた。もし彼女が笑ったなら、それは出会ってから初めてのことだ。

楢崎は駆け寄る。確かにそうだ。楢崎は思う。多少道がぬかるんでいても、歩いてはいける。

「ちょっと待って」

楢崎は追いつく。少し日が落ちてくる。

「なら一緒に行こう。一緒なら大丈夫」

楢崎は少女に手を差し出す。少女がその手を、そっと握った。

道が平坦でなくてぬかるんでいても、歩いていける。

一緒ならきっと大丈夫。

松尾の遺言の事業で、海外で売られた少女たちを保護する活動をする楢崎。

松尾の想いは楢崎に継承されて、やがて楢崎も誰かに寄り添い、共に歩いていくのかもしれない、そう思います。

誰かを救い導くことは難しくても、寄り添い共に生きていくことはきっとできるはず。

そんな未来を想像させられるようなラストでした。

hiro0706chang.hatenablog.com

 

 

 

5、終わりに

 

いやー、『教団X』の感想なかなかまとめるの難しかったです。

ってか、全然まとまんなかったし、なんか書ききれなかったことがたくさんあるように思います。

次読む中村文則の本は、これに決めていたのですが、感想書くの絶対に大変だと思っていたんでなかなか読み始められませんでした(笑)

 

難解でいろんな要素が詰まった作品ですが、傑作だと思いますし、個人的にとても好きな作品です。

奇しくも、僕のブログの900記事目の節目だったのですが、なにか区切りとなる記事を書けて良かったです。

中村文則の全作品書評コンプリートまであと4作品。

今年中くらいまでには全作品書きたいですね~。

 

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