1、作品の概要
2010年に刊行された中村文則の書き下ろし長編小説。
彼の9作目の作品になり、最長の作品になった。
英訳版がウォール・ストリート・ジャーナルの2013年のベストミステリーの10作に選ばれる。
2018年に玉木宏主演で映画化された。
2、あらすじ
大財閥の久喜家の私生児として生まれた文宏は、父親の捷三からこの世の全てを損ない続ける「邪」として育てられる。
捷三は文宏と同い年の香織を引き取り、「邪」を育てるための贄にしようとするが文宏と香織は愛し合うようになる。
捷三の企みに気付いた文宏は自殺を装って父を殺害するが、大きく損なわれ、香織とも離れ離れになってしまう。
十数年後、文宏は顔を変えて別人として香織を守るために動き出す。
しかし、彼女の背後には得体の知れない何かが蠢いていた。
3、この作品に対する思い入れ
『銃』を始めとする中村文則の初期作品群が好きだった僕ですが、『掏摸』『悪と仮面のルール』を読んでミステリー要素を取り入れた彼の作品の変化を好ましいものと捉えて楽しめるようになりました。
初期作品が好きという方が多いのは理解できるので、作品の楽しみ方や読書のスタイルをどうこういう気は全くないです。
個々人で好きに楽しめばいいし、僕も初期作品の純文学的な世界観や破滅的なラストがたまらなく好きでした。
だけど、『悪と仮面のルール』を読んだ時に純文学的な湿度とテーマを保ちながらも、ミステリー的な物語の面白さも同時に追求し始めた中村文則の進化にも心を躍らせている自分がいました。
中村文則は純文学をアップデートしようとしているのではないだろうか?
「純文学の正統後継者」のような文体、世界観、空気感を持った彼が(平野啓一郎もそうだと思っていますが)あえてミステリー要素を取り入れながらストーリー的にも面白くてワクワクする作品を作る。
そうやって物語としても面白そうなものを作りながら、人間の原罪や存在の不確かさを問うような「深み」をテーマとして据えていることがとても新しく感じました。
そもそも「純文学」って何?っていうのもありますが、ここでは端的に言うと芸術としての文学だと思います。
物語的な面白さではなくて、文字を、言葉を使った文章の芸術。
いや、考えすぎ入れ込み過ぎですかね(笑)
ただ僕にとって『悪と仮面のルール』はそのような作品だし、僕自身の読書に対する姿勢も変化するような影響を受けた作品でした。
以降中村文則の作品にますます傾倒していくキッカケになりました。
映画もなかなか良かったです!!
4、感想・書評
①人を殺すとはどういうことなのか
カミュ、ドストエフスキーが好きな中村文則らしいテーマですが「人を殺すとはどういうことなのか」「人を殺すと人間はどうなってしまうのか」ということについてもこの物語の中の重要なテーマとして取り上げています。
この小説で一旦の区切りをつけたらしいですが、『悪意の手記』『最後の命』『悪と仮面のルール』は「人を殺すとはどういうことなのか」の3部作のような感じで同じテーマで書かれているらしいですね。
僕的にはここに『銃』も加えていいように思いますが。
今作でも人を殺した文宏がどのように変貌していくのか、殺人の意味について繰り返し問われています。
読みながら、何度も『悪意の手記』のシーンが脳裏に浮かびました。
殺人を犯した自分が幸せになるわけにはいかないと感じ続ける「私」の想い。
「資格が、ないのだ」
簡潔で、重い言葉だと思います。
『悪と仮面のルール』の文宏も父を殺めた後も、何人もの人を殺めてその罪に苦しめまれます。
父親は、文宏が自分を殺める可能性も念頭に入れながらそれさえも彼を地獄に、「邪」へとの変貌を加速させる触媒として利用したような気がします。
文宏は、愛する香織を救うためには父を殺すしかないというところまで追い詰められて、「何故人を殺してはダメなのか?」という問いに行き着きます。
人間を殺すことは、どのような場合でも悪だろうか。自分の人生と自分にとって重要な他者の人生を決定的に損なおうとする人間を殺すことは、悪だろうか。これは、僕や香織のエゴイズムなのだろうか。
そこまで追い詰められなければならなかった文宏の状況には同情します。
それにこの物語を読みすすめて思ったのが、本当の彼は知的で思慮深い男性なのだろうということで、僕は彼に対して好感を抱きましたし、探偵や、医師が彼に対して抱いた好意や共感を好ましく感じることができました。
そんなめっちゃええやつな文宏がそれでも避けられなかった、そうせざるを得なかった罪。
自分の中の最高の価値である香織を守るためなら、どのような罪を犯してもいいはずだと思いつめて行った父親殺しは、彼の内面を破壊し一生消えることのない傷を負いました。
僕の中の最高の価値は善でもなく、世界でもなく、神ですらなく、香織だった。自分の人生における最高の存在を守るためであれば、どのような悪をなしても構わない。それは正しいことではないかもしれないが、正しくなくて構わない。最高の価値は道徳や倫理を超えるはずだと僕は思った。
その彼の考えは間違いであったかのように思います。
結局のところ、どのような理由があれ殺人は殺人でその罪を犯した人間の精神をずっと蝕み続けるのでしょうし・・・。
そうやって手に入れた幸福がずっと自分を照らし続けるとは思えません。
事実、香織は彼から離れていきますし、父に似てきた自分の顔が香織を苛むという血の呪いが2人を別かってしまいます。
そして、父を人の命を奪った文宏はその罪の意識に苛まされ続けます。
顔を変えて新しい人生を歩み始めた後も、無意識下で蝕まれ続けている。
例え相手がどのような悪であっても、自分達を、自分が最も大切なものを守るために排除したのだとしても。
人を殺した、という事実は拭い難くその人間の意識の根底からジリジリと飲み込んでいくのでしょうか?。
誰かの命を奪うという行為は大きいのもであるし、その後人生さえも損なってしまうのかもしれません。
まるで自身の分身のような。
もう1人の「邪」である伊藤に出会った時も文宏は人を殺すことの取り返しのつかなさについて語ります。
同じ「邪」だからこそ、染まって欲しくない闇の領域があったのでしょうか?
人間を殺せば、その人間は、その後の美しいものとか、温かいものとかを、真っ白の感情で受け止めることができなくなる。・・・何か人生の美を感じた瞬間とか、人生の温度を感じた瞬間とかに、自分が人間を殺した事実が、自分の内面でうごめいてくる。
俺は自分と同じ人間のその命を損なっているんだ。命からの欲求の中で、その命を損なった自分を感じる。この矛盾で自分がさらに歪んでいくように思う。
②いつまでも乾かぬ泥濘の邪念の種子は、やがてしかるべき無意識と因の反復により、生い育ちながら各地でうごめく
中村文則の作品で大きなテーマの一つである「悪」について。
例えば『掏摸』の木崎ですが、今作の「悪」は血脈に彩られたどす黒い「悪」の連なりで、1人ではなくその一族とその悪意を継ぐものたちを指しています。
その呪いの血は、いろいろな場所に蒔かれて萌芽の時を待っている。
JLの伊藤のような「邪」もその一人でありますし、久喜捷三、久喜幹彦らもそうでした。
父親である久喜捷三は文宏を「邪」にするために生み出し、彼の善意や愛といったものを踏みにじり、人格を破壊することで自らの狂気を継承させようとしました。
この世の美しいもの温かいものから遠く離れて、他人の運命を翻弄し時には命を奪うことで私腹を肥やしていくような「悪」の存在。
自らの狂気、絶望、悪意を血脈を通じて誰かに受け継がせることができたとしたら?
そのような存在が「邪」であり、文宏の体内にも「邪念の種子」がしっかりと埋め込まれて萌芽の時をじっとまっていたのでしょう。
久喜捷三は養女として引き取った香織と文宏を恋仲にして、文宏の目の前で香織を大勢の男達によって犯させることで彼を「邪」にしようと計画していました。
めちゃくちゃイカレた発想ですね(^^;;
しかし、結果的に彼の計画は叶わず文宏は香織を失い生きる気力を失っていきます。
久喜捷三が彼に遺した呪いはそれほど強烈なものでありましたし、人を殺すという行為はそれを為した人間の精神を蝕むのに十分な罪でした。
父が自らを殺そうとする息子に向けた呪いの言葉は成就したのです。
理性や意志で、殺人へと踏み込めば、当然のことながら、その人間は誤作動を起こす。罪悪感、などというものではない。本能的な拒否を消化することができず、いつまでも、その生物の歪みの中で苦しむことになるのだ。
お前はその歪みが意識化した罪悪の感情により、苦しむことになる。人殺しとしての自分に耐えられなくなる。人間を殺した人間は、これから、全ての温かなもの、美しきものを、真っ白な感情で受け入れることができなくなる。何か幸福なことがあった時、その瞬間に、しかし自分は人間をを殺した人間なのだという事実を突きつけられるだろう。
新谷となって香織を悪の魔の手(使い古された表現ですが)から救い出し、やっと2人きりになれた時に文宏の心の奥底から激しい欲情と衝動が込み上げてきていました。
幹彦が言っていた不吉な予言のように、自分が最も大事なもの、大切にしている光のような香織を損なうことで化物へと変わる。
血と因果に満ちた「悪」への強い誘惑。
しかし、文宏を思い止まらせたのは過去の日の香織との美しい光のような記憶でした。
彼は自らの手で悪の因果を断ち切り、新しい人生へと進むキッカケを作り出すことができたのはないでしょうか?
今作での「悪」は単体の「悪」ではなくて血脈と因果によって広がり続け脈打っているもので、文宏の中にも邪念の種子が埋め込まれていてその萌芽の恐怖との闘いでもあったかと思います。
久喜捷三、幹彦を殺すことで逆に彼らの悪意を取り込んでしまい、飲み込まれてしまう危険もあったのかもしれない。
実際に香織を損なうことに強い欲情を覚えてもしまっていました。
パンドラの匣の最後に残っていた希望のように、文宏の心を温め続けた香織との思い出が「悪」や「邪」との因果を断ち切ったように思えます。
捷三にもかつて光となり得た存在があったことを匂わせていて、それが文宏の母親であり愛情と温かさを持った慈愛に満ちた存在だったことが少し描かれています。
もしかしたら、捷三が香織を連れてきたのは文宏の母親に似た何かを感じさせる存在だったからという側面もあったというのは僕の考えすぎでしょうか?
捷三が香織の前で泣いていたというのも文宏の母親や香織のような愛と善意に満ちた存在に縋り、許しを得たかったのかもしれません。
しかし、救われるのには出会うのが遅すぎたし、捷三が持つ地獄は暗すぎたのかもしれません。
『遮光』の感想でも書きましたが、ドストエフスキー『罪と罰』のソーニャの存在を意識するような描写でした。
捷三、幹彦は闇に落ちていき「悪」として生きたのに対して、文宏がそこから抜け出せたのはたとえ一緒にいられなくても彼の心を温め続けた香織の愛があったからなのでしょう。
そして、もしかしたら母親の善良さを遺伝として受け継いでいたのかもしれません。
③純愛。提示される一握の希望。
作者の中村文則はこの小説を「恋愛小説」かもしれないと解説のところで書いていました。
だいぶ一般的なイメージとはかけ離れた「恋愛小説」ですね(笑)
顔を変えて私財を投げ打って、陰ながら初恋の女性を守り続けるなんてところはロマンチックで一途な「恋愛小説」と言えるかもしれませんね。
ただ一途というより、父殺しを通過した文宏は何もかも失って自分の先の未来に何の希望も意味も見いだせなくなっていて、香織だけが唯一この世に大切だと思える存在だったのでしょう。
陰ながら見守るというとカッコイイようですが、堂々と名乗り出るには過去に香織から拒絶されたことや、彼女を守るために父親を殺してしまったことなどがあって彼女の前に現れることができなかったのだと思います。
それだけにラストのドライブのシーンは胸に沁みるものがありました。
香織も最後は新谷が文宏であるということに気付いたのでしょうか?
文宏の香織への愛情は絶対的なものでありながら決して叶うことはありません。
昔読んだ漫画(きたがわ翔『ナインティーン』)で、「純愛とは決して叶わない恋愛のことだ」みたいなセリフが出てきたのですが、文宏の恋情も純愛と言えるのかもしれません。
香織を狙うものたちを排除して、彼女の幸せを願って消えていく。
本当は、文字通り世界から消えてしまうつもりだったのかもしれませんが、文宏は生き続けることを決断します。
殺人による誤作動を起こして生物として歪んでしまった文宏。
世界にある美しいものを以前と同じように真っ白な気持ちで見ることができずに、罪を犯したという事実は彼をずっと苦しめつづけるのかもしれません。
それでも香織と2人で会い、かつての幸福だった自分を思い出すことで、文宏の心に変化が現れたように思います。
同じ「邪」として生まれた自分の分身のような伊藤と関わることで、鏡のように自分の姿を見ることができて自らを顧みることもできたのもその変化の一因だったのかもしれません。
最後に伊藤に語りかけるこの文宏の言葉がめっちゃ好きだし、泣けてきます。
ポジティブかネガティブの単純な二元論を超えて、とてつもない絶望と闇のふきだまりを超えてきた光のような何か。
それは、そういった暗い夜を超えてきた人間にしか持ち得ない強さのようなものかもしれません。
「なんで生きるのか・・・、そんな理由は、人それぞれだろうけど、俺の場合は、消したくない記憶が、あるからなのかもしれない」
「俺達のような存在からしか、生まれないものもある。俺達のような存在でしか、考えられないことも。そうだろう?」
「・・・少なくとも、今俺は、そんなふうに思ったりしてるよ。・・・こういう人生だからこそ生きてみせろというか、老人になって死ぬまで、この世界を経験してみようじゃないかというくらいに」
バッドエンドの作品も好きなんです。
『銃』『遮光』もたまらなく好きだし、あの作品はあれで良いのだけれどこの暗い時代に物語で少しの希望を提示してくれるこの作品のラストがたまらなく好きで泣けてきます。
顔も変えて、持っていたお金も手放して決してこれから順風満帆と言える人生ではないし、犯した罪も償わなければならない。
それでも文宏の戦いは探偵の男や、医者、相田、吉岡恭子を惹きつけて仮面の下にある彼の素顔を肯定してくれたように僕には思えます。
それぞれ歪みや消したい過去を持っている人々だったからこそ文宏の歪みと苦悩に寄り添えたのかもしれません。
どれだけ罪を背負っても、心に深い傷を負って闇を抱えていても、先は明るくなくても。
それでも、ここにいる。
呼吸をして、生きて、存在している。
誇れる人生じゃなくても、歩みは遅くても。
それでも歩んでいきたい。
生きていたいと願う。
そんな中村文則の祈りと願いが込められた作品のように僕は感じました。
5、終わりに
『悪と仮面のルール』は、3~4回目の再読でしょうか。
読み終えるたびに新しい発見や、別の好きなとこに気付いてより好きな作品になっていっている気がします。
ツィッターの好きな小説10選では、『教団X』をあげていますが『悪と仮面のルール』にしようか随分と悩みました。
それまで主人公の内面を丹念に描いてそれほど動きがある物語を描いてこなかった中村文則がドラスティクに方針転換をしたのが、『掏摸』『悪と仮面のルール』からだったと思います。
主人公の内面や、トラウマと向き合い丹念に心理描写をしながらも、「悪」との対峙をスリリングに描くような作風にチェンジしていきます。
登場人物の数も増え続けて、物語も長くなってよりエンターテイメント性が高い作品になっていて、読んだ当初は少し面食らってしまいました。
例えれば、陰キャでアニメばっか観ていた高校時代のクラスメイトが、同窓会で福山雅治似のイケメンになっていたぐらいのインパクトでしょうか?
どんだけ化けとんねん!!
セーラームーンとか見てたやんけ!!
大学デビューかっ!!
と、まぁそれぐらいの変化だったかと思うわけですよ。
しかし、それは僕にとっては好ましい変化で、中村文則の作品を通して僕自身の読書の仕方も変化していったように思います。
どちらかというと、あまり多くの作品は読まずに、流行りの作品などは避けていた傾向があったのですが、そういうこだわりは捨ててもう少し広い視野で読書を楽しめるようになりました。
昔は、SFとかミステリーとかは絶対に読まずに純文学の暗めの作品を好んで繰り返し読んだりしていたんですが、人間変わるものですねぇ。
その後も中村文則はよりミステリー色の強い物語や、総合小説のようなスケールの大きい物語を描くなど進化と変化を繰り返しているように思います。
次作は、原点回帰して短めで暗めの話っぽいですが、それも楽しみです。
今年は作家20周年みたいで、対談集も出るみたいですし、彼の今後にますます目が離せませんね♪