1、作品の概要
中村文則の4作目の小説で、2005年に刊行されて芥川賞を受賞した。
強烈な被虐体験が話題になった。
2、あらすじ
27歳のタクシードライバーの「私」は、実の親に捨てら、引き取り先の親戚に暴力・ネグレクトなどの虐待を受け、睡眠薬を飲まされて土の中に埋められる凄まじい体験を経て、施設に預けられた過去があった。
幼少期に受けた心の傷と恐怖が、自らの身を危険にさらす異常行動に繋がり、実の父親の生存を聞かされた頃から意欲が低下し、精神は均衡を失っていく。
同居人の白湯子も、酷い家庭環境、望まぬ妊娠からの死産など傷を抱え、アルコールに頼りながら荒廃した生活を送っていた。
白湯子の入院で、金が必要になった「私」は、施設で世話になったヤマネを訪ねて借金の保証人になってもらうように頼むが、過去の記憶のフラッシュバックから錯乱状態に陥ってしまう。
「私」は、過去に受けた傷とどう向き合い、世界と暴力を克服していくのか?
3、この作品に対する思い入れ
僕が、初めて読んだ中村文則の作品です。
芥川賞受賞で話題になっていたから読んだのですが、正直読んだ当初はピンときませんでした。
今回読み返して、初期3作品との関連ー世界との対峙ーが引き続き描かれていて、生きづらさを抱えてもがく「私」の物語に魂を揺さぶられる想いでした。
4、感想・書評
①「私」が受けた心の傷、生まれ直すこと、世界との対峙
中村文則の作品は、基本的に暗いトーンが漂っていますが、特に初期の4部作は内省的で、トラウマから精神に歪みを持って異常行動に走る主人公の内面が描写されています。
あまり、安直にこの言葉を使うべきではないかもしれませんが、純文学的な作品で、ストーリーより主人公の心の内面や、心理描写に重きを置いた作品になっています。
両親に捨てられたことによる心の傷と、引き取られた親戚による暴力とネグレクト、トドメは睡眠薬を飲まされて土に埋められて殺されかける経験・・・。
冒頭の場面のように、あえて自分を恐怖、暴力の前に晒して何かを越えようとする行為や、高いところから物を落として安心感を得る行為などの歪みはこれらの体験から生み出されたものなのだと思います。
ただ、今回読み返して思ったのは、過去の3作品に比べて主人公が一番酷い目に合ってて、精神も不安定で、自殺未遂のような行動もあるのですが、世界と暴力と過去の傷から決別しようともがいていることでした。
それは、単純に前向きとか、ポジティブとかの言葉では言い表せない、もっと魂の奥底から発せられる切なる願いのように感じます。
「私」はどうしたら過去を克服できるかわからずに、行きづらさを抱えてもがきます。
それはただの狂気的な異常行動ではなく、彼にとっては過去を克服するための命懸けな行動だったのでしょう。
引き取られた先の親戚に睡眠薬を飲まされて、土の中に埋められて殺されかけた時も、一度はこのまま人生を終わらせたいと思います。
しかし、次の瞬間彼の脳裏に浮かんだのは強い怒りの感情でした。
やはり、納得できない。身体の至るところの筋肉が痙攣し、小刻みに震えて止まらなかった。おかしいのだ。何かが、間違っているのだ。
被虐体験の末に、乏しくなった感情が噴き出します。
作中でははっきりと書いていませんが、怒り、だったのだと思います。
今まさに終わろうとする自分の命。酷薄な運命に対する怒り。
自分を弾いて消し去ろうとする世界への怒り。
理不尽で執拗な暴力への怒り。
「私」は、暴力を振るわれた親戚へとか、自分を捨てた両親へというよりもっと全体的なものへに対する強い怒りを感じたのではないでしょうか?
その怒りを糧に土の中から這い出します。
母親の胎内のような土の中から、外界に出て生まれ直す。
「私」は生きることを選び、もう一度自分の力で生まれ直したのではないかと思います。
②絡み合う双樹のようにお互いの歪みに寄り添う白湯子との関係
白湯子との関係も、この物語のひとつのキーかなと思います。
白湯子も、「私」と同じように家族に恵まれず、家庭環境から母親を憎んでいます。
彼女も、心に傷を抱えていて、以前好きになった男の子供を孕んで、その男は逃げてしまい、結局死産してしまった過去を持っています。
「私」と白湯子の関係はとても微妙で、恋人ではないのだけれど、寄り添う合うにして生きています。
恋愛感情ではなくて、親近感のような感情に近いのですかね。
「私」も白湯子も世界から弾かれた存在で、過去と出自に囚われてどこにも行けなくなっています。
2人とも、ある意味自己破壊的な行為を繰り返しながら、どうにか正気を保っているような印象があります。
「私」が、白湯子がクラブの階段から落ちて入院した際の治療費を工面するのも、愛情などではなく何となくの行為ではあったのでしょう。
2人は、世界から弾かれて歪みを抱えた「同志」のような存在なのだと思います。。
ラストシーンで「私」が事故を起こして白湯子と同じ病院に入院した時、白湯子は自分も怪我をしているのに何かと「私」の面倒をみてお互いの距離が縮まっていきます。
「どこまでも相手するって、言ったじゃない。嘘をついたの?酷いじゃない。こんなの卑怯だよ」
これから私は彼女に対して応えていかなければならない。
初めは寄り添い合うだけの関係でしたが、お互いの傷も痛みも分かり合える大切な存在として一緒に生きていく存在になったのだと思います。
③恐怖と暴力を克服し、生まれ直す
施設から父親の所在がわかったと連絡を受けて以来、情緒不安定だった「私」でしたが、施設でヤマネと会った時に昔の話を聞いたことをきっかけに過去の体験がフラッシュバックし、パニック状態に陥ってしまいます。
「私」は、家族とも過去とも遠く離れましたが、完全に乗り越えることは出来ていなかったのだと思います。
それから「私」は、勤務中にタクシー強盗に遭い、首を絞められて殺されかけます。
いまわの際に、自分の記憶になかった「彼ら」にベランダから投げ捨てられる場面を思い出します。
物を投げ落とす行為は、きっとこの体験が引き金になっていたのでしょう。
強盗に遭い絞殺されそうになる恐怖と、幼い頃にベランダから落とされそうになり死んでしまうかもしれない恐怖が混じり合って、一つの意志が、力の塊のように湧いてきます。
今度こそ、今日を受け入れて「彼ら」を凌駕する。
世界の暴力や恐怖を克服する。
命を懸けた彼の強い決意は、生きる意志を呼び覚まし、窮地を脱することができました。
この世界のあらゆる暴力にも、理不尽にも、恐怖など感じてやりはしない。私は笑みを浮かべようとした。屈服する必要はない。私は笑って死ぬのだ。
強盗から逃げた「私」はタクシーに乗り、猛スピードでガードレールに突っ込みます。
自分が捉えられていた恐怖から逃げ、自分を取り戻すための行為だったのでしょうか?
正気を疑うような自殺行為ですが、自分が自分として生きていくために「私」にとって必要な行為だったのでしょう。
この時初めて、過去の体験や、恐怖、家族への歪んだ想いを断ち切ることができたのではないでしょうか?
退院後、ヤマネに会った「私」はこう言います。
これからどんなことがあったとしても、少なくとも、僕はあの時のことを覚えています。僕は今まで、大事なことに目を向けなかった。
両親から愛情を得られなくても、自分に愛情を注いでくれていた存在が身近にいたことに気づき、素直に感謝できるような心境になったのでしょう。
そして、父親とは合わないことを告げてその場を去ります。
恐怖を克服しましたが、人ごみの中に「彼ら」の姿をみたように思い、少し動揺しますが、しっかりと前を向いて歩いていきます。
この後の人生でも、戸惑いを感じる場面があるかもしれないし、何もかもが上手くいくわけではないでしょう。
しかし、「私」は白湯子と一緒に支え合いながら生きる道を選んだのだと思います。
「銃」「遮光」では、世界に弾かれて、破滅する主人公が描かれました。
「悪意の手記」では最後に罪を償い、生き続けることを願うものの、運命がそれを許しませんでした。
「土の中の子供」では、深い絶望をくぐり抜け、暴力と恐怖に曝されても、「生きたい」と強く願う傷ついた魂の物語なのだと思います。
急に前向きになれるとか、自己実現を果たすとか、そんなことはできずに底辺を彷徨いながら生きていくのかもしれない。
惨めな思いもするかもしれないし、再び悪夢に苛まされる夜もあるのかもしれない。
でも、この世界で生きていく。
「悪意の手記」のリツ子の言葉が再び脳裏をよぎります。
「どこかで、苦しんでもいいから、生きていなさい。私も、同じように、生きているから」
いびつな形をしているかもしれませんが、物語の最後に提示されたのは確かに希望だったのだと思います。
5、終わりに
読んだのは3回目でしたが、過去2回はあまりピンときませんでした。
ただ、初期三部作を時系列順に読み返して、少し中村文則がこの作品に込めたメッセージを読み取れたような気がします。(気のせいかもですが)
暗い作品ではありますが、絶望的な状況をくぐり抜けようとする主人公の痛切な叫びが感じられる、希望に向かう物語なのだと思いました。