ヒロの本棚

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中村 文則『悪意の手記』

1、作品の概要

 中村文則の3作目の長編。

作者自ら「最もマニアックな長編」と言っている初期の傑作のひとつだと思います。

悪意の手記 (新潮文庫)

悪意の手記 (新潮文庫)

 

 

 

2、あらすじ

15の時、TRPという死に至る大病を患った主人公の「私」が、死への恐怖と青い服を着た奇怪な少年との邂逅から 自らの運命を呪い、周囲を憎悪するようになっていった。

 

奇跡的に回復して高校に復学した「私」だったが、たまたま公園で会った親友のKを池に突き落として殺してしまう。

罪の意識から自死を試みる「私」だったが、死に至ることができず大学で知り合った武彦と、偶然知り合った祥子と親交を深め、徐々に心を開くようになる。

 

しかし、幻覚から青い服の少年が再び現れて「私」の精神は恐慌をきたし、祥子と距離を取り、バイト先の店主リツ子のある計画に力を貸すと約束する。

殺人を犯した人間に救いはあるのか?贖罪とは?

人間の罪の意識に訴えかけた中村文則の初期の傑作です。

 

3、この作品に対する思い入れ

再読して 中村文則の作品の中でも最も闇が深い作品だと思いました。

読んだのは、今回2回目でした。

 

4、感想・書評(ネタバレあり)

 ①病による絶望と憎悪、世界との対峙

主人公の「私」は、15の時に死に至る重い病に罹患します。

虚脱感、高熱、立ちくらみに加えて身体中に紫色の斑点ができ、精神が錯乱して8割は死に至るというとてつもない病気でした。

15歳という自我が未発達な時期に常軌を逸した肉体的苦痛と精神的苦痛が与えられ、加えて死への絶望を感じる状況は精神を歪め、人生観を捻じ曲げて一人の少年を「悪」に染めてしまうことは必然だったのだと思います。

 

美や愛情、道徳や夢、そういった、自分とは無関係になったものを激しく憎み始めた。私は憎悪する存在として、世界に対峙した。こんな仕組みでなりたっているこの世界を肯定してはならないと思った。

 

前作の『遮光』の感想でも書きましたが、ここでも世界からはじかれている人間が描かれています。『銃』では家族環境と銃を拾ったことによって、『遮光』では両親、恋人の死がトリガーとなって世界からはじかれて、繋がりを絶って生きることになります。

『悪意の手記』では、病気が原因で世界と対峙し憎悪するようになります。

病院ではその後たびたび幻覚として現れるようになる、青い服の少年との出会いがあります。少年は病気のために死にますが、「私」の心の中には「憎悪の象徴」として存在し続けたのだと思います。

 

奇跡的に病気は治り、復学する「私」でしたが、一度生を諦めて世界を憎悪し命を憎悪した自分が憎悪した命を得て、憎悪した世界に戻ることが受け入れられませんでした。それほど「私」が病室のベッドの上で感じた「憎悪」は私の中にあった何かをひねり潰していたのでした。

生きる力を無くしてしまった「私」はクラスメイトや周りの人間が紙袋をかぶった顔のない人間に見えてしまうこともあるようになりました。そして死を願うようになります。

 

このあたりのテーマ、家庭環境や、病、被虐体験などをすることで傷を抱えて精神に歪みが生じて世界に馴染めずに乖離していく。この絶望感、世界との距離感が作者の中村文則自身がずっと抱えていたものではないかと思います。『遮光』の文庫版のあとがきにも『銃』から『土の中の子供』は作品の醸し出す雰囲気が近くこの世界との乖離が繰り返し描かれているように思います。

 

②殺人と『罪と罰

「私」は自殺をしようといった公園で、偶然出会った親友のKを池に突き落として殺害します。

この殺人の場面は何かの儀式のようで、通常の殺人という激しいイメージからかけ離れた静かさで「私」は池に落ちたKが溺れ死ぬまでじっと様子を眺めています。

 

この世界の中で最も非常な映像を、平然とやり過ごしてみせろ。そうすれば、お前はこの世界を克服することになるはずだ。このくだらない世界を、心からくだらないものだと思うためにも、まったく無価値だと思いながら死んでいくためにもお前はそうする必要がある。

 

憎悪することで世界と対峙し、そのまま死んでいくはずたった「私」は不幸にも死ぬことができずに生き残って自分が対峙し、憎悪したはずの世界に含まれてしまうことになってしまった。

再び世界から抜け出し、世界からはじかれた場所ー病室や青い服の少年が属する場所ーに戻るためにはKを殺し命を軽蔑しくだらないものと断ずることで世界を克服していく必要があったのではないでしょうか。

 

「私」が感じていた虚無とは、憎悪によって病んで生きる喜びを失った魂を持ったまま生き続けることだったのではないかと思います。

病気は治癒しても魂は深く傷つき、回復が不可能なほど歪んでしまっていたのでしょう。

世界を克服し、生命を愛を幸福を道徳を超越して死んでいくはずだった私が死ねなかった理由は、この虚無がKを殺すことで消え失せてしまった=克服するはずたった世界に含まれるように意識が目覚めてしまったからだと思います。


殺人の衝撃が、圧倒的な悪徳が電気ショックのように「私」の精神を激しく刺激して生きている実感を感じるようになってしまったのかもしれません。

 

③罪は贖えるのか?

18歳になって、大学生になって一人で暮らす「私」は罪の意識に苛まされながら生きていました。世界を克服できず、殺人による虚無の消失で徐々に生の実感が沸くようになったことで「私」の心は殺人をしたことによる良心の呵責に悩まされるようになります。

 

そんな「私」に、自らの暗い生い立ちを重ね合わせて共感した武彦と仲良くなります。2人は悪徳を重ねますがそれは痛みや過去の過ちなどから必死に逃れようとする行為でもあったのだと思います。善悪を越えようとする意識と、自己破壊の衝動の2つの感情の中で激しい悪を望むように行う「私」でしたが、そんな折に祥子と出会います。祥子との出会いは「私」の中の何かを揺さぶり一つの救いを提示することになります。

 

あのような日々の中で、彼女に出会ったことは何かの啓示だったような気がする。神を信じない私がそう思うのは理屈に合わないが、今思い返してみても、やはりそんな気がしてならない。

 

安直かもしれませんが、初期の作品にはドストエフスキーの『罪と罰』の影響がみられ、特にこの『悪意の手記』は殺人とその贖罪・救いという点で非常に近いテーマがあると思います。

今作ではソーニャの役割は祥子が担っていて、「私」の抱えている何かを直感的に感づいて寄り添おうとします。

 

善悪を越えようと悪をなし続ける日々に疲れを感じ始めた「私」は自分に懐いてきた子猫を車にひき殺されたことで怒りに燃えますが、自分にそんな義憤にかられる資格がないことを思い知らされて自死を試みます。

 

資格が、ないのだ。

 

この句読点の打ち方は絶妙ですね。呆然とした様子が伝わってきます。

自殺を試みた「私」ですが、祥子に救われます。無意識的に助かりたいと、ドアを開けていた私。

病院で武彦から誰にも言ったことがない身の上話をされて自分をさらけだしてくれたのに「私」は自分の内面を曝け出すことはできませんでした。

 

退院後に、祥子と結ばれて暖かいものに満たされる「私」でしたが、自分は殺人者だという意識がありどうしても祥子に対して心を開ききれません。

 

そういった意識の葛藤から青い服の少年の幻覚を見て激しい葛藤を覚えるようになります。

何故このタイミングだったのか?青い服の少年は「私」が持っていた世界への憎悪を象徴した存在で、武彦という理解者を得て、祥子というかつて自分が得られないと思った光に触れたことで贖罪をしようとする私に対して現れたのだと思います。

 

幻覚というにははっきりとした存在で、「あそこには、確かに彼がいたような気がするのだった」と書かれていますが、「私」の中の憎悪が青い服の少年の魂と融和し眼前に現れたのだと思います。それは、青い服の少年が死を目前にして放ったひとつの呪いだったのかもしれません。

 

「た、確かに、彼らは君のことを見捨てはしないだろうよ。どちらも変わった人間みたいだからね。と、特に祥子はそうだろうさ。君を救おうとするだろう。でもね、ぼ、僕が聞きたいのは、君自身のことなんだよ。き、君がそんな自分でいることを、許していることができるのかってさ。そうだろう?君は人を殺した。

 

無意識が自己防衛の形を取りKを殺すことで自殺を逃れたという指摘も一つの可能性として「私」の脳裏に繰り返された思いだったのかもしれません。

最も言われたくない言葉を浴びせられながら、幻覚である青い服の少年を消したくないと願っていたのは、このまま幸福に浸り、贖罪を求める気持ちに後ろめたさがあったからなのでしょう。

私と青い服の少年のやり取りは、私の心の中での救済されたい気持ちと、人殺しが救いを求めるべきではないという気持ちの葛藤を表現していたのだと思います。

 

それから「私」は祥子と武彦から距離を取るようになります。

自分の理解者に罪を告白して救われるほど人を殺し罪は軽くはないということでしょうか?

 

④贖罪とは?

大学をやめリツ子の働く喫茶店で働くようになる『私』ですが、子供を殺した少年犯罪者に復讐を試みるリツ子に協力を申し出、奇妙な連帯感を抱くようになります。

リツ子にKの母を重ね、リツ子の子供を殺した少年に『私』自身を重ねることでKの母に殺される自分の潜在的願望の成就を願ったでしょう。

 

少年院から出てきた少年を殺すためにつけ回す「私」でしたが、少年がかつて自分がなろうしていた、人を殺しても朝日を美しいと思い感動できる人間であることを発見します。再び少女を陵辱しようとする少年を止めずに陰から見ていることで、再び善悪を越えようと試みますが、Kの姿が浮かび少年の暴行を止めます。

 

人を殺しても何も感じず何かに感動する感性を持った人間になることを拒んだのです。おそらく罪を犯して生きていくにはそのような深く考えていない人間のほうが楽なのでしょうが、そうすることを「私」はよしとしなかったのでしょう。

武彦も間接的にとは言え、人を死に追いやり私のように罪の意識を抱えることになります。

 

少年を殺すことを失敗した「私」でしたが、母親からKの母が死んだと聞かされ自白することを決めます。

Kの母に殺されることが贖罪であると無意識に思っていたのにKの母が死ぬことで永遠にその機会が失われてしまった。

自分が真の意味で贖罪し、救われる機会を永遠に失ってしまった喪失感だったのだと思います。

 

何かを告白し許しを乞うことが贖罪か?

「私」が最後に選択したのは永遠に失われた贖罪の喪失感を抱えながら、苦しみなが生きるということでした。

最後にTRPを再発する「私」ですが、罪を抱えながら生き続けるために生きようとします。

 

私は、まだ死ぬわけにはいかなかった。Kを殺した、ということを、自分が殺人者である、ということを、意識し続けながら、この人生を生きていかなければならない。こんなところで、簡単に、死んで終わらせることはできない。 

 

罪を犯したことを意識して苦しみながらも生き続ける。これが「私」にとっての贖罪だったのでしょう。残念ながらこの後におそらく「私」は病気によって命を落とすことになるのでしょうが。

 

「どこかで、苦しんでもいいから、生きていなさい。私も、同じように、生きているから」

 

最後にリツ子が「私」に言った言葉。中村文則のあとがきに書かれる「共に生きましょうのメッセージに共通した想いを感じます。

世界は残酷で時に絶望に満ちているけど生きていてほしい。たとえ傍らにいなくても、自分も同じような想いを抱えてこの世界に生きているから。そんな想いが伝わってきますし、中村文則の小説の大きなテーマなのではないかと思います。