ヒロの本棚

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中村 文則『遮光』ー世界からはじかれた存在の物語ー

中村 文則の第2作『遮光』の書評です。

この小説を簡単に言ってしまうと。

 

暗い。

とにかく暗い。

そして、狂ってる。

以上。

 

みたいな小説です(笑)

いや、大好きなんですけどね♪

 

 

遮光 (新潮文庫)

遮光 (新潮文庫)

 

 

 

あらすじ&使用上の注意

 

もし、読書好きの女子とカフェデートなんかして好きな本の話になったとします。

相手の女の子が江國香織さんとか、恩田陸さんとか、小川糸さんとか好きで、彼女が好きな本でひとしきり盛り上がったあとにあなたが好きな本を聞かれたとます。

「○○くんは、どんな本が好きなの?」

「えっ、俺?そうだなぁ。中村文則とか好きだよ」

「あっ、なんか聞いたことあるよ。確か芥川賞とか獲った人だよね?なんかオススメの本とかある?」

「うーん、そうだなぁ・・・。『遮光』とか好きだよ・・・」

「へー、どんな本なの?」

「えっとね。虚言癖がある青年が主人公でね。とにかく自分の自覚がなく特にメリットもない嘘をついて、本当のことと区別がつかなくなるような病的な嘘つきが主人公なんだ。この主人公が子供の時に両親を事故か何かで亡くしてしまって、裕福な人に養子として引き取られるんだけど、両親の爪や髪の毛を大事に箱にしまっておくちょっと歪んだ性癖を持った子供になっちゃうんだよね」

「へ、へーそうなんだね。なんか、友達少なそうな人だね」

「いや、それが演じるのがとても上手で、病的な嘘つきであることないことを面白おかしく言うもんだから、うまく世間に溶け込んで友達も多いし、口がうまいから女の子にもそれなりにモテちゃったりするんだよね。でも、美紀っていう彼女ができて、最初は演技で彼女が喜ぶようなことを言ったり、したりしていたんだけどある出来事があって、彼女のことを本当に愛していることに気がつくんだ」

「あっ、そういう話好きだよ♡真実の愛が、歪んだ人の心を救うんだね」

「いや、ところが物語がスタートした時点で美紀は事故で死んじゃってて、主人公は美紀の遺体から小指を切断して、瓶に入れて持ち歩くんだよ。しかも、周りの友人には美紀は生きててアメリカに留学に行ったって嘘をつき続けてるんだよ。そして、ラストシーンには大きなカタストロフィが待っていて、ついに主人公は美紀の指を・・・」

「わ、私用事を思い出したから帰るね!!それじゃ、また!!(コイツやべー奴じゃん!?)」

 

↑ってなことになってしまうので要注意ですよ(笑)

 

 

 

「太陽(世界)」からはじかれる

 

僕は、正直この作品はそこまで好きではなかったのですが、今回ブログを書くにあたってざっくり読み返していたら、この小説の新たな魅力に気付いて好きになりました。

 

作者の文庫版のあとがきにもありましたが、この後の作品にも共通して流れているテーマ、「逸脱した存在になってしまった個人の生きにくさ」みたいなものの源流があるように思います。

 

この共通したテーマがあるからこそ、近作でミステリー色が強い作品が多くなったり、教団XやR帝国など宗教や国家の陰謀、悪との対峙などスケールが大きな作品になっても、中村文則の文学性は絶えず作品中に流れていたのではないかと思います。

 

あの時私は、太陽を睨めつけていた。太陽はちょうど水門の真上にあり、酷く明るく、私にその光を浴びせ続けていた。私はそれを、これ以上ないほど憎み、睨めつけていた。その美しい圧倒的な光は、私を惨めに感じさせた。この光が、今の私の現状を浮き彫りにし、ここにこういう子供がいると、世界に公表しているよな、そんな気がしたのだった。私はその光に照らし出されながら、自分を恥ずかしく思い、涙をこらえた。 

 

太陽から、暖かく光り輝く「世界」から決定的にはじかれている。

『遮光』というタイトルにもこのはじかれている側の想いが詰まっていると思います。

 

どうせ「世界(太陽)」からはじかれるなら、こちらからも光を遮ってやろう。

誰も自分の核に触れさせたくない。

深い闇を抱えて、安寧の中を生きたい。

 

昼の光に、夜の闇の深さがわかるもんか。

 

村上 春樹が『風の歌を聴け』で引用したニーチェの言葉です。

『銃』『遮光』では、最後にカタストロフィが描かれていますが、『掏摸』『悪と仮面のルール』あたりからはラストにひと握りの希望が描かれています。

中村文則は、太陽からはじかれた側の人間に光をあてて寄り添う作家なのだと思います。

 

hiro0706chang.hatenablog.com

 

 

 

必然的な破滅と永遠の救済

 

この作品に救いはありません。

主人公は破滅することでしか、美紀とひとつになることができませんでした。

ラストのカタストロフィは偶然のものではなく、主人公が美紀が死んで彼女の指を手に入れてから定められていたように思います。

作者の中村文則も、文庫版のあとがきで次のように言ってます。

 

ラストがああいうふうになったのは、今読み返すと、必然だったと感じる。主人公があの瓶と共に完全な世界に入るには、人生からも、完全に離れなければならなかった。

 

今まで2回読んだ時は、ラストシーンの意味がわからず首をひねりましたが、こうなることでしか主人公の魂は救われることはなかった。

愛する人達を2度にわたって喪い、傷ついた彼の魂が癒されるためには「世界」と決別し、光を遮って、愛する人達の体の一部を自分の中に入れるしかなかったのです。

死んだ両親の髪や爪を子供の頃に持ち歩いていた主人公は漠然とこうすればずっと一緒にいられると思っていたのかもしれません。

作中では口に含んだの描写で終わっていますが、間違いなく主人公は美紀の指を食べたのだと思います。

 

 

カニバリズム・永遠に一つになること・ソーニャを亡くしたラスコリーニコフ

 

このくだりを読んで、大学時代に現代国語の講義で、『ひかりごけ』についての講義を受けたことを思い出しました。

ひかりごけ』は未読ですが、難破船事故にあって遭難した乗組員が食料がなくなって死体を食べる話で、その乗組員達が生きて帰ってから裁判になるみたいな話だったと思います。

こんなエグい話をよく取り上げるなと思いましたね。

その先生は、かなりの変人でしたが授業はかなり面白かったです。

その授業の中でカニバニズムについて触れて、「セックスの最中に相手を噛みたくなるのは、相手を食べてひとつになりたいからだ」と言っていてなるほどなーと納得しました。

主人公が美紀の指と一体になろうとしたのもそのような人間の本能的な行動なのかもしれませんね。

 

私はこれから、美紀とずっと一緒にいることができた。他のどんなことも、もう私には関係なかった。私は、自分に訪れた圧倒的な無関心を、快く受け入れた。私の感情は、毛幹のことだけに開かれていた。美紀は私の全てだった。

 

もし、美紀が死ぬことがなく主人公と結ばれていたとしたら・・・。

美紀は主人公にとってのソーニャになり得たかもしれません。

この物語は人生を変えるはずの出会い、かけがえのない存在を失ってしまった人間の物語でもあったのでしょう。