1、作品の概要
2011年に刊行された中村文則の長編小説。
彼の10冊目の作品。
『掏摸』の姉妹編。
『文藝』の2011年夏号に掲載された。
『掏摸』でも登場した木崎と対峙しながら、運命に翻弄される1人の女性を描いた。
2、あらすじ
施設で育ったユリカは、難病に苦しむ友人の子供の翔太を助けるために矢田から紹介された裏社会の仕事に手を染めるが、翔太は息を引き取ってしまう。
生きる目的を見失いながらも、組織の仕事をこなすユリカは、得体の知れない化物のような男・木崎に出会ってしまう。
絶対的な死を目前にして、ユリカはあがき、木崎と矢田を騙して生き延びようとする。
運命から逃れようともがく彼女の叫びは届いたのだろうか?
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
『掏摸』の姉妹編と聞いて手に取りました。
『掏摸』の衝撃が強すぎて、最初に読んだ時は物足りなくも感じましたが、『王国』で初めて神と宗教について描き、また『掏摸』『悪と仮面のルール』から連なる『悪』の描写がここにいよいよ洗練されて、木崎は絶対的な『悪』としてここに描かれていたように思います。
『悪三部作』とか言うと、とても頭の悪そうなネーミングになってしまいますが、まぁそんな感じだったのかもしれませんね(笑)
4、感想・書評(ネタバレあり)
①神と運命、あるいは悪について
中村文則が彼の作品で繰り返し描いている『悪』
犯罪心理学を学んでいた彼がイメージする『悪』とは何か?
それは全ての快楽と刺激に飽いて、他人の人生に干渉して、その運命を規定しうる神の如き存在になり、その存在を弄び唾を棄きかけること。
木崎はイエス・キリストと神の関係を例に取り、キリストがゴルゴダの丘で十字架に梁付けられて叫んだ言葉について言及します。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ぶキリストはそれまで神の子として奇蹟の力を与えられて、護られながら最後の瞬間で見捨てられる。
ただ、キリストがその後の自身の復活を知っていたのにそのように取り乱したのか?
それは、ユダの裏切りも、その後に人類の痛みと苦しみも背負って死に、あまつさえ神にも見捨てられてこの上なく惨めに見えるその姿を、キリスト自身も知っていたからなのではないでしょうか?
そのように惨めに死ぬということがポイントであり、その後のキリスト教の布教にも大きな影響を与えているのだと思います。
それに何しろ結末がわかっている物語であくまで悲劇的に演じること。
人生は、運命は、所詮何か大きな存在に規定された舞台であるということを感じさせるような物語だったのではないかと思います。
そう考えると、イエス・キリストとは神という大きな存在に与えられた舞台を全力で演じた役者であり、世が世ならアカデミー賞の主演男優賞をもらえたのかもしれませんね。
監督賞と脚本賞はジーザスで、作品賞は「ジーザス・クライスト・スーパースター」でしょうか(笑)
元来そのような大きな存在。
神や因果律のようなものに司られるべき運命。
それを1人の人間が規定して、その舞台で他者の人生をコントロールしたなら・・・。
それは、『悪』という言葉では収まらない大逆のようにも感じます。
神と運命への冒涜。
すなわちそれが中村文則の『悪』であり、木崎が犯している罪のように思います。
木崎はもちろんそれがわかっていて自覚的に『悪』を為している。
もし神やそれに近い存在が木崎自身を断罪するのなら、彼はその罰を歓喜に震えながら受け入れるのでしょう。
まさに化物。
世界を味わい尽くして、禁忌を冒すことでさらにその先の何かに触れようとしている存在。
そんな圧倒的な存在にユリカは見初められてしまいます。
そんな天災のような、運命そのもののような彼の存在から逃げ出すのか?それとも対峙するのか?
『王国』はそのような物語で、『掏摸』と比して木崎と運命の存在が大きくクローズアップされていたように思います。
②ユリカを見守る月、狂気としての熱
『掏摸』の主人公の人生に風景の中に峻厳とそびえ立っていた「塔」
「塔」はシステムであり、彼を拒絶する世界そのものであったのではないでしょうか?
村上春樹が言うところの「壁」に似ているようにも思います。
ユリカにとっての「月」は「塔」に近いようにも思うのですが、もう少し彼女にとって近い存在で、彼女の感情に寄り添っている存在のようにも思えます。
「月」は女性の体のリズムと関係していて、女性に近い存在のように思いますし、満ち欠けや、色などで変化してユリカの心や感情にいるように感じました。
光の下を歩けない、夜の闇が好きで太陽に目を背けるような存在を照らす月。
『遮光』でも描写される世界(太陽)からはじかれた存在。
頭上にはネオンの光さえ照らす、月の輝きがある。太陽が沈んだ後も、その光を盗み、私たちのような存在を照らすー、月。
ユリカは重要な場面に差し掛かると月を仰ぎ見ますが、彼女の心理状態に寄り添うように月はその形、色、光の強さを変えていきます。
月の光が赤くなるのはユリカの狂気に呼応しているのでしょうか?
西洋では月にまつわる「lunatic」という言語は「精神に異常をきたしている、狂っている、狂気の」という意味があるようですね。
狼男が満月を見ると変身してしまうのも、ひとつ象徴的な事柄のように思います。
狂気を司る月の光が、赤く妖しく光る時にその光の下にある人間を狂気へと導いてしまうのかもしれません。
月の光が強い。わたしを揺さぶるほどに強い。その月の赤に、わたしは疼くような懐かしさを感じている。『・・・あなたに』わたしは自分に力を与えるように、月に向かい、心の中で呟こうとする。
『・・・あなたに、わたしの狂気を見せよう』
木崎と最後に対峙した時に月は彼女に選択を突きつけます。
木崎を受け入れるのか、それとも・・・。
狂気を抱えて支配されて生きるのか、それともここで死を覚悟するか。
ユリカは支配を拒んで木崎と対峙することを選びました。
男の背後に、満ちた月がある。それは赤く、なぜかどうしようもないほどに赤く、輝いている。不意に以前、彼の唇がふれた自分の唇が、もがくように熱くなる。その熱がわたしの身体に強く広がっていく。
月が強い光を出し続けている。月が、本当に、どうしようもなく強い光を出し続けている。この男の子供を、お前の中に。
「熱」も月と同じように重要な場面で繰り返し描写されていて、性的な欲望と彼女の生命の危機に呼応しているように思います。
木崎はユリカの命を助ける代わりに彼女自身の人生を奪い、改変してしまいました。
しかし、それでもユリカは再生を願い、生き続けることを選びます。
「・・・おまえは、これまでのお前の人生の全てを失うことになる。命だけを残し」
③運命に抗って生きること
この小説は、1章の「一番欲しいものは手に入らないと気づいたのは、いつの頃だったろう」というユリカの独白で始まり、16章で再び「一番欲しいものは手に入らないと気づいたのは、いつの頃だったろう。今もわたしは欲しいだろうか。もしも手に入れたら何をするだろう」という文章が出てきて、ユリカが自らの狂気に目覚めた少女時代の回想の場面が描かれています。
そんな彼女の心を見透かしたかのように木崎は「お前が一番欲しいと思っていたものが、必ずしもお前が一番欲しいものであるとは限らないということを。・・・人間とはそういうものだ」と、言います。
あらゆるルールを超えて、人生さえも変えてしまうような何か。
それは何かの力だったり、運命そのものであったりするのでしょうか?
もしかしたら木崎が目指して手に入れつつあるものはそのような「何か」かもしれないですね。
そして、彼はそれを手に入れた後の虚無を知っていたからこそ、ユリカにそんな言葉をかけられたのかもしれませんし、たくさんの人の命を弄ぶ木崎の本心が少しだけ透けて見えたような気がしました。
翔太を救えなかったことを悔いながらも自らの命に執着するユリカに対して、「お前が騒いだことであのくだらない子供は一時回復した」「第三者から、お前の存在はこの世界においてどうしても必要なのだと告げられたのだろう。回復の希望すら手に持ちながら」と、彼女の行動を肯定し、遠まわしに励ますようなことすら言っています。
あれ、木崎さん実はめっちゃ良い奴?
初読した時は、ユリカは『掏摸』の主人公と似ているように思っていましたが、実は木崎が自分に似た部分を彼女の生い立ちや、欲しがっているものに見つけてかすかなシンパシーを感じているようにも感じました。
木崎のように巨大な存在にとってユリカは殺すまでもない存在ではあるかと思いますが、最後に交わした会話や態度から何かを感じましたし、彼は善悪の彼岸に存在する
あの時の月は何だったのだろう。わたしはぼんやりと考えていた。わたしの妄想だろうか。恐怖と疲労に覆われた身体に、不意に訪れた幻想。それとも何かがわたしを訪れ、わたしはそれを、拒否したのだろうか。わたしが、ずっと見続けた月。それの光は、善か悪かわからない。恐らく、そのどちらでもないのだろう、とわたしは思う。ただ月は、混沌の光を出しているだけだ。妖しく、強く。それはきっと、善や悪でもない。この世界の法則が、善だけではないのと同じように。
木崎が去っていく背中に幼い頃の記憶を重ねるユリカ。
中村文則の小説の主人公の多くがそうであるように彼女は親に捨てられて施設で育ち、世界に絶望するようになっていました。
ナイフで、自らの存在と世界に黒い線を引いて、他者を拒絶しながら。
そんな彼女がこの世界でただひとつ大切だと感じたかけがえのない存在が翔太であり、彼にかけた言葉は、実は彼女自身が誰かにかけてもらいたかった言葉だったのではないでしょうか?
「あなたが、必要なの。・・・わたしはあなたが必要で、だから、わたしはあなたのために何でもやるの。・・・この世界はあなたの誕生を歓迎したの。少なくともわたしはそう。ようこそって。・・・あなたは無愛想だし、可愛げもないけど、別にいいじゃない。誰がどう思うと、わたしが好きなんだから」
中村文則の作品において主人公の救いになるはずだった存在はいつも失われてしまいます。
ソーニャを失ったラスコリーニコフ達。
でも、それでも。
この世界に自分が愛せるものが何もなくても、生きていたいと思う。
たとえユリカの生への執着が理不尽さへの抵抗であったとしても、消えてはまた満ちていく月のように再生することができたらと願います。
去っていく木崎の後ろ姿に親に捨てられた幼い頃の自分の姿を重ねたユリカでしたが、彼女はもう子供ではなくて、捨てられるということはひとつの自由を得ることだと悟ります。
「わたしは生きるしかなかった。残ったのは、もうこの命だけだ」
彼女の再生は、翔太のようにこの窒息しそうな不条理な世界でもがいている誰かを助けることとでなされるのでしょうか?
それは、誰かを救うようでかつて絶望の淵にいた幼い彼女自身を救済することなのかもしれません。
『掏摸』で主人公が虐待されていた少年にかつての自分を重ね合わせて、救いの手を差し伸べたように。
彼が最後に投げたコインのように、『王国』でも仄かな希望と再生が提示されたように思います。
パンドラの匣に最後に残っていたのが希望だったように。
5、終わりに
運命はとても理不尽で、この世界は不平等に作られていると思います。
まだ人間に生まれることができて、日本に生まれることができたのは幸運なのかもしれませんね。
もし神や運命があるとして、木崎は自分を損なった不完全なそれらに復讐しようとしているでしょうか?
自らがそのような理不尽な運命そのものになることで。
『掏摸』の主人公や、『王国』のユリカはそのような理不尽さに巻き込まれてしまり、どうにかそこを切り抜けようとします。
巨大で得体の知れない何かに対して抗う非力で頼りない存在。
それでも自らの生に縋って生きていたいと願う。
絶望を超えた先に再生はあったのでしょうか?
今回再読して、『王国』も好きな作品になりました。
『掏摸』『悪と仮面のルール』を経てより洗練された悪と運命の不条理さへの描写と考察。
それは『逃亡者』『カード師』などの作品などにも見られる不条理さと自らの運命との対峙に繋がっていったのだと僕は感じました。