ヒロの本棚

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【本】中村 文則『最後の命』~悪を為し、悪を超えていくのか?それとも世界から消えていくのか?~

1、作品の概要

 

中村文則5作目の長編作品。

土の中の子供から1年以上のブランクが空いて、2007年に刊行された作品。

芥川賞受賞後に発表された作品となった。

 

2014年に柳楽優弥主演で映画化された。

 

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2、あらすじ

 

 主人公の「私」が散歩から帰ると、いつも呼んでいるデリヘル嬢のエリコが自分のベッドで乱暴されて殺されているのを発見する。

警察に連行されて疑われる「私」だったが、犯人が最近数年ぶりに再会した幼馴染の冴木だとわかり釈放される。

 

冴木と「私」には、小学2年生の頃大勢のホームレスの男に同じホームレスの「やっちり」がレイプされるのを偶然目撃し、翌日殺されたことを知る衝撃的な体験をしていた。

それが原因で、「私」は極度の潔癖症になり、時折「やっちり」の叫びが聞こえるようになっていて、冴木もまた自身の家庭環境もあり、歪んだ性癖を抱えることになった。

 

「私」は中学生の時に冴木と、「やっちり」をレイプしたホームレスに再会し、衝動的に暴行を加えて放置してしまい、後にホームレスの死亡を知り罪の意識に苛まされることになる。

 

冴木とは、高校の時に彼のレイプ未遂を止めて以来会うことはなくなっていた。 

「私」は、大学生の時に香里と知り合うが、彼女は精神的にバランスを崩し、離れ離れになってしまう。

 

アパートに戻り冴木を探す「私」に、冴木から過去の罪と自分の歪んだ性癖を告白する遺書のようなメールが届く。

エリコの死の真相とは?「私」は再び冴木に会うことができるのか?

 

最後の命 (講談社文庫)

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3、この作品に対する思い入れ

 

2度目の再読になります。

初読の時は、それほど強くこの作品に惹きつけられませんでしたが、今回再読して様々な発見があり僕にとって大事な作品になりました。

 

レイプを取り扱った作品で、女性の方が読むと生理的嫌悪を感じるかもしれません。

僕も読んでいるうちに生理的嫌悪を感じながらも、ページをめくる手を止めることはできませんでした。

 

初期の4作から次のフェイズに移行する過渡期になった重要な作品だと思います。

『掏摸』『悪と仮面のルール』以降、盛んにテーマとして取り上げられる「悪」について初めて語られた作品でもあります。

 

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映画もDVDで観ましたが柳楽優弥の演技がとても良かったです。

最後の命 [DVD]

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4、感想・書評(ネタバレあり)

 

 ①物語の構造の変化、世界対自分の構図から脱却

 

中村文則の初期作『銃』『遮光』『悪意の手記』『土の中の子供』は主人公が家庭環境や病気などで背負ったトラウマによって起こる「世界」との乖離と対峙を描いた作品であったかと思います。

 

『銃』『遮光』では、最後にカタストロフィが待っていますが、『悪意の手記』では結果にかかわらず生きようとして、『土の中の子供』では混乱の中でも生き続けていくような意志を感じます。

 

同じようなテーマを扱いながらも、そのラストや主人公の意思に変化が見られていたのですが、『最後の命』では過去4作からドラスティックな変化を遂げています。

 

それは、主人公が世界との対峙を通して行きにくさを抱えて生死の狭間で生きる物語から、主人公の「私」と、冴木がそれぞれに背負った傷を通して生きていく物語に変化してきたことが大きいのではないでしょうか。

今までの4作ではあくまで主人公1人が世界との乖離と生きにくさを抱えてたのですが、『最後の命』では、「やっちり」のレイプ事件と、ホームレスの死に間接的にかかわった事件でそれぞれ場に居合わせた「私」と冴木がどういう傷を抱えて生きていったかを描かれています。

 

初期4作の「世界から弾かれた存在」としての登場人物は、これ以後の作品でも頻繁に描かれますが、描写されている世界観は広がりを見せてより複雑で、起伏に満ちた物語が描かれるようになります。

 

『最後の命』はそういった物語の構造の変化の過渡期にある作品だった、と言えるのではないかと思います。

それは、後の作品につながるようなミステリー要素(エリコは誰が殺したのか)や、「悪」の概念などの萌芽が見られ、従来の主人公の内面と世界との対峙にフォーカスした、狭義の意味での純文学的作品からの脱却と進化を試みた意欲作、と位置付けることができるのではないかと思います。 

 

 

 

②「私」と冴木が受けた傷

 

例えば、同じ災害や事故などを経てもそれを受け取る個人によって何をどう感じどのような傷を負うかはそれぞれのパーソナリティーによって違うと思います。

この作品でも、「私」と冴木がこの事件によって負った傷は全く別物で、それぞれが辿る経緯と、連帯がこの物語の主要なテーマだったのではないかと思います。

 

「私」は、2つの事件以降、時折叫び声が聞こえ他者と深く関わる事を避けて公共のドアや電車の吊革などに1枚の布がなければ触れないようになっていました。

精神科では、うつ病と診断されましたが強迫症のような症状を呈するようになっていました。

 

性的にも一時的に勃起不全になり、高校生の時に付き合った彼女ともそのことが原因で別れてしまいます。

大学生の時は、引きこもりのようにようになり学校に行けなくなってしまった時期もありました。

その時期に出会った香里との短い幸福の日々も終わり、「幸福から弾かれている」という感覚を持つようになります。

「私」は、センシティブに事件の影響を受けてしまい自らを損なってしまいます。

 

社会に出て就職するも、長続きせずに希死念慮を抱えて、通常誰もが嫌がるような、線路の真上に建っているアパートに住み始めます。

「死」を連想させる電車と自分との距離を常に測りながら生きていたのでしょう。

 

自分の下へ迫ってくる列車を見ながら、力む身体をほぐすため息を吐いた。身体の力を抜いて感じる恐怖は、いつも圧倒的に私を貫き、私の隅々にまで広がり、私を征服した。閉じていく喉を無理に開け、無理に呼吸をし、さらに身体の力を抜いた。硬く、巨大な力が、すぐ下を通過しようとしていた。私の意志一つで、自分はあれに巻き込まれ、破壊と同化し、死と同化するのだと思った。 

 

 

 

冴木は、事件がきっかけで元からの家庭環境によっても育まれていた歪んだ性的衝動が彼の精神を徐々に支配していきます。

やっちりがレイプされるのを見て強い性的興奮を覚え、それ以後も普通の行為では満足できなくなってしまい、高校の時についに行きがかりの女性をレイプしようとして、偶然居合わせた「私」に止められてしまいます。

 

 

 

③「私」と冴木の繋がり

 

同じ2つの事件を経験した2人の精神状態、受けた傷と心理的影響はこのようにとてもかけ離れたものでした。

「私」は事件によって初期4作の主人公のように「世界から弾かれた存在」になっていったのと違い、冴木は事件をきっかけに「悪」を為すことに惹かれていってしまいます。

 

悪を恐るなら、それを取り込めばいい。悪そのものに、なってしまえばいい。

 

2人は唯一無二の親友と言いながら、共有している事件に対して同じように感じることができず、溝が深まっていきます。

冴木が、暴力的で性的な本を「私」に見せたのも、「私」が同じような性的衝動を抱えているかどうか試した、いやむしろ本当は自分と同じ後暗い衝動を抱えていて欲しいという願望の表れだったのでしょう。

 

しかし、「私」はそのような歪んだ欲望を持つことなく自己の内面に閉じこもっていました。

事件のことを共有できる唯一でかけがえのない存在と、痛みと罪の意識を共有することができなかったのが2人にとっては悲劇だったのでしょう。

特に冴木側から見ると「私」は綺麗な人間で、歪んだ欲望に取り込まれていく醜い自分からすると眩しく見えたのではないでしょうか?

 

読み進めながら、この2人の繋がりは何なのだろうと不思議な感覚で考えました。

単純に友達と言い切るには複雑な関係ですが、お互いの人生の成り立ちを変えてしまった事件を共有できる唯一無二の存在で、お互いのことを本当に分かり合うのはお互いしかいないと思っていたのでしょう。

 

 

 

④初めて導入された「悪の概念」

 

今作で初めて繰り返される「悪」の概念。

以降の中村文則作品の中で重要なテーマとなるものですが、冴木はその「悪」に飲み込まれて歪んだ性的衝動に捉われていきます。

やっちりがレイプされる場面でも、恐怖を感じる私とは対照的に性的興奮を覚え、自らもその輪の中に加わりたいと願います。

 

あの時の、あの状態での俺は、やっちりを気の毒に思うとか、助けようとか、そんなことは、一切考えていなかった。時間がね、どんどん濃密になっていくのを感じた。空気がうずを巻いて、周囲から、あの現場とおれだけが乖離したみたいで、ここだけ、時間が激しく、凝縮していくみたいで、俺はその渦中にいて、身体がどうにかなりそうなほど、興奮して仕方なかった。

 

その後、「悪」を恐るなら取り込んで自分が「悪」そのものになってしまえばいいと、意識し始めます。

父親と、義理の母親の性交の場面を目撃してしまったことと相まって、冴木の歪んだ性的衝動は膨らみ続け、止まらなくなっていきます。

幼少期に、誤って刷り込まれた「性」の概念は矯正できない歪みとなって定着してしまうのでしょう。

 

冴木は、大学の時に騙されて河原で女を襲った時に、「悪そのものに同化し、性の荒々しい塊そのもの」になり自分の欲望を開放します。

その行為によって、自分の歪んだ性的衝動が矯正不能で、ゴミのような死ぬべき人間だと認識するのです。

ただ、「悪そのものに同化した」と言いながらも、自らの行為を省みているのは、「私」という清らかな存在(あくまで冴木目線で)が常に頭の片隅にあったからなのでしょう。

この段階で冴木は、悪を為しますがその行為によって自らを省みて自己嫌悪に陥る存在だったのでしょう。

 

そして、冴木が「私」に会いに来た理由。

それは、このまま「悪」に取り込まれて「悪」を感じない人間になるのか、それとも死を選ぶのかを選択するためだったのではないでしょうか?

『悪意の手記』に出ていた、「人を殺してもゲームで感動し、朝日を美しいと思える人間」がまさに「悪」を感じない人間、悪を超えた存在なのでしょう。

 

冴木にとって「悪を超える行為」を為すためには、同じ体験をしながら清らかな存在である「私」=冴木自身の良心・道徳観・倫理観を殺すことで狂う必要があったのでしょう。

しかし、冴木は「私」を殺すことなく、むしろ自らが「私」の近しい存在の香里の罪を被って死ぬことで「私」を助けようとします。

 

・・・俺は、お前には、幸せになって欲しいんだよ。俺もお前も駄目になったら、何だか、世界に負けてみたいじゃないか。

 

世間一般的な意味での友達と言うには複雑な関係だったのかもしれませんが、

 2人はやはり親友だったのだと思います。

初期4作は1人で世界と立ち向かう物語でしたが、今作は2人で世界と立ち向かう物語だったのだと思います。

 

 

 

⑤私と香里の関係、憂鬱な希望

 

冴木はこの世から去り、「私」は香里と復縁します。

ただの復縁というより、香里を追い詰めている母親から切り離し、自分が保護者のような存在になります。

 

「私」は香里が正気を取り戻し、エリコを殺した罪に苛まされた時も一緒に寄り添う覚悟をしています。

 

俺も一緒に、狂おうかと思うんだ。・・・一人で狂うのは、嫌だろう?」

 

「何かを呪っても何だか負けのような気がするし・・・」と香里に独りごち、色々なことを考えながら生きていくことを決意する「私」

それは、ポジティブかネガティブかみたいな単純な二元論ではなく、深い水のそこから少しずつ浮上していくようなもがいた生き方なのだと思います。

 

希望というにはか細いかもしれませんが、中村文則の作品で最後に提示される仄かな希望が好きです。

 

 

5、終わりに

 

2020年の初読が、この『最後の命』だったわけですが、感想を書いていて強い生理的嫌悪を感じ、苦しみながら書き進めました。

なんで、貴重な正月休みに自分はこんなことしているんだろうとか自虐的に思いましたが(笑)

 

あとがきに書いていましたが、2006年中に出版がなかったのはずっとこの小説を書いていたからだそうで、1年間何も出版がないのは中村文則にとってこの1年だけだったのではないかと思います。たぶん。

それだけ、期するものがあって書いた作品なのだと思いますが、その成果もあって初期4作のテイストを引き継ぎながら、「悪」の概念や、ミステリー要素など今後に繋がる素晴らしい作品になったのではないかと思います。

 

 

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