1、作品の概要
遠野遥のデビュー作。
『文藝』2019年冬季号に掲載。
第56回文藝賞を受賞。
ルッキズムに取り憑かれた青年が、女装し始める。
2、あらすじ
密かに女装をして自らの美しさを高めていくことに耽溺している20歳の青年の「私」
幼馴染のつくねと懇意にして彼女に性的な欲望を感じて、デリヘル嬢のカオリに激しい性的欲望を感じながらも、「私」は自らの美しさに磨きをかけていく。
女装をしてデリヘル嬢のカオリを迎えることを決意した「私」の世界が急速に崩壊し始める。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
新世代の旗手。
太宰治じゃないけど、彼にはそのような呼び名が似合うように思う。
中村文則『銃』のような内省的な一人称で、どこにもいかない個人的な物語。
全てを賞賛できる作品、作家では決してないけど、文章のどこかに眩い輝きが立ち上る瞬間があるように思います。
そんな光を見たくて読みたくなる。
僕にとってそんな作品です。
4、感想・書評
ちょっと前にツィッターで#最強のファーストアルバムみたいなハッシュタグがあった。
バンドのファーストアルバム、そのまっさらで洗いたての白いシャツみたいなグルーヴは1度限りのもので、決して2度と取り戻すことができない。
時間は後戻りできなくて。
そのバンドがその後にどれだけ優れた音楽的成功をおさめても、ファーストアルバムの時のまっさらなグルーヴを取り戻すことは決してできないのだと思う。
例えばストーン・ローゼスのファースト・アルバムは本当に奇跡というしかない何かがそこで融合して、その瞬間でしか現出し得なかったグルーヴがそこにある。
遠野遥『改良』を読んだ時に、そんな初期でしか感じられないような何かを感じました。
それはまっさらではないけど、初期衝動みたいな何かだったと僕は思う。
一人称が「私」で内省的な作品だからかもしれないけど、やはり中村文則『銃』を彷彿とさせたし、文体も近いものを感じた。
淡々と語られ続ける自らの心情。
閉塞された世界で育っていく欲望。
「私」はクロスジェンダーのような存在ではないと思うし、きちんと女性へも性的欲望を感じているのだけれど、ただ美しく在りたいという欲望が強くて性別の壁も超えてしまったような印象がある。
それは、過去に友人バヤシコにある種の性的虐待を受けた記憶があるのかもしれない。
男としての「性」を蹂躙される経験。
同じ男にそれが為されて自分の「性」を踏みにじられた時に散り散りになった自分の性的な自我はどこにいってしまうのだろう?
保てるのだろうか?
正常さを?
「私」はそのように歪んでしまった自分の性を抱えて困惑しながら。
見た目の美しさを追い求めるという行為に埋没していく。
彼はただ美しくなりたかっただけだ。
と、解説文を書いた平野啓一郎は言っていたのだけれど、ルッキズムに取り憑かれた根底には自らの性が蹂躙された彼自身の性の抵抗があったように思う。
カオリとつくね。
性的な欲望を満たしてくれながら遠い存在のカオリと、近しい存在ながら性的な何かや美しさとは遠いつくね。
カオリに自らの女装姿を晒してからがこの物語のカタストロフィの始まりで。
「私」の世界が崩れ始める。
最愛の人に。
同じ歪みを感じていた人に受け入れらると思ったけれど。
拒絶されてしまった。
思わずデリヘル店に苦情を入れてしまうほど、困惑しいるけど、本当は世界に向かって自分に向けられている置かれている境遇に対して感じている何かしらの不満をぶつけたかったのだと思う。
「私」は受け入れられたかったのだと思う。
蹂躙されても、這い蹲るうように自分が追い求める美しさを表現している自分を。
つくねは最後の砦だったのだろう。
彼は受け入れられたのだろうか?
5、終わりに
また面白い作家が出てきたなと思っています。
先に『教育』を読みましたが、なかなかにブッ飛んでいますね。
願わくば、憂鬱の希望のその外側へと連れて行って欲しいものです。