1、作品の概要
2009年に刊行された、中村文則6作目の小説。
主人公は刑務官で、拘置所で収容者たちの世話をする仕事をしている。
自らの心の不安定さと向き合いながら、夫婦を刺殺した未決囚・山井を担当し、徐々にお互い心を開くようになっていく。
2、あらすじ
乳児院の前に捨てられて、施設で育った「僕」は心の不安定さを抱えながら30歳になり刑務官をしている。
かつては自殺も企て、トラウマを抱えていた「僕」だったが施設の施設長である「あの人」に助けられて若干の不安定さを抱えながら、大人に成長していった。
しかし、「僕」は子供の頃から「死んだ全裸の大人の女を海辺で膝の上に乗せている」という奇妙で、現実的にはありえない記憶に悩まされていた。
そんな中、夫婦を刺殺した事件を起こした20歳の未決囚・山井を担当するようになり、次第にお互い心を開いていくようになる。
「僕」は17歳で自殺したかつての親友・真下のことを何度も思い出し、自分の中で処理しきれない想いを抱えていた。
真下は川に飛び込んで自殺し、様々な想いを書き綴ったノートを「僕」送りつけていた。
その中には「僕」の恋人・恵子に対する想いと抑えきれない性欲、両親への強いストレスが綴られていた。
また、かつて拘置所に収容されていた佐久間に同情し、彼の罪を見逃したことで釈放されて、彼が再び強姦の罪を犯したことに罪の意識と、信頼を裏切られた感情を抱いていた。
佐久間と病院で再会した「僕」は佐久間の挑発に理性を失い暴力を振るってしまう。
このまま、心の闇に引きずられてしまうのか?
それとも「あの人」のように生きられるのか?
「僕」は生き方の選択を迫られる。
3、この作品に対する思い入れ
2度目の再読で確か3~4年前に読んだのだと思うけど、内容はあらかた忘れてしまっていてビックリしました。
当時は、ただ暗い話としか認識しませんでしたが、命や、希望の要素もあったのだなと気付きました。
『銃』『遮光』(両作品とも好きですが。)は破滅的なラストでしたが、それ以降の作品は絶望にのたうちまわり、心の闇に呑まれても、それでも混乱の中で生きていく一筋の光が描かれていると思います。
この作品も再読して、僕にとって特別な作品になりました。
4、感想・書評
①私の記憶とトラウマ、「あの人」との関わり
「僕」は「死んだ全裸の大人の女を海辺で膝の上に乗せている」という奇妙で、現実的にはありえない記憶を抱えて生きています。
なんだか村上春樹『1Q84』の天吾の記憶のようでもありますが、子供が大人の女を抱えられるわけもなく、また海を見たこともなかったので不可解な記憶として「僕」の中に残ります。
この古い記憶の原風景は中村文則が幼少の頃に抱えていたイメージだそうで、作者自身の意識・幼少期の混乱と密接に繋がっています。
真下からも、「あれは、お前の父親が母親を殺して、その場面をお前が見ていたんだ」と言われますが、真相は明らかにされずただ幼少期の心の不安定さの象徴として描かれているように思います。
「僕」は子供の頃、施設のベランダの柵の上を歩き、「あの人」に助けられます。
「自殺と犯罪は世界に負けることだから」と「あの人」は言います。
世界は中村文則の初期作品で頻回にでてくる言葉で、世界との対立や、阻害が繰り返しテーマとして描かれています。
世界に負ける。
もし、「僕」が自殺や犯罪を犯してしまえば、孤児で恵まれない環境で育ったせいだと解釈され、それでは世の中に、運命に負けたことになると「あの人」は言いたかったのでしょう。
ベランダの柵の上を歩く行為も象徴的で、この時の心境ははっきりと描写されていませんが、ベランダの内側と外側のどちら側に落ちるのかによって生と死が隔てられる状況がその後の「僕」心の揺れを表しているように思います。
「あの人」がいる光の側と、真下、佐久間がいる闇の側。
「僕」はその両側で揺れ動き、「あの人」に惹かれて憧れる心と、佐久間の悪意に当てられて狂気に走りそうになる心とで混乱しています。
刑務官という立場も象徴的で、この物語は主人公がどちらの「側」を生き方を選び取るのかの物語だと僕は感じました。
②真下が抱えていた闇、佐久間の悪意
真下とは中学からの親友で、お互いに何でも話せる仲でした。
とてもセンシティブで理屈っぽい真下は、親に対する鬱屈した想いから両親を殺す夢を見たりして、いつか自分がふさわしい場所に辿り着く=決定的に破滅する予感に苛まされ、また心のどこかでその瞬間を待ち続けています。
俺が、ちゃんと、俺にふさわしい結果に、人生の中でたどり着けたような感じだよ。それが善であれ、悪であれ、運命というのは、気にしないんじゃないかな。そもそも運命は善とか、悪とか、考えないだろう。これが俺の、俺の人生のふさわしい結果、行くべき結果だったと思う。・・・染み込んでくるんだ。段々、生きている実感が。
真下は、「ふさわしい結果」にたどり着いていない自分は生きていないとも言い、その瞬間を待ち続けています。
「人間の核が現れる瞬間。」
自分の奥深くにある本質が現れ、余計なものが削ぎ落とされより洗練され破滅していく瞬間。
暗い闇の中から何者かが手招きしていて、何もかも駄目になってしまう瞬間を心待ちにしている。
それは、ひとつの予感であり、その瞬間を待ち望みながらも狂気にとらわれて精神のバランスを崩していきます。
両親の不仲や、うまくいかない高校生活などの暗い日常も真下の心を狂わせ、両親を殺す、恵子を襲う、そして「僕」も殺すイメージに苛まされます。
「・・・だめになってしまいたい。美や倫理や健全さから遠く離れて」
混乱し、闇に囚われた真下には美や倫理や健全さは強すぎる太陽の光のように真下には眩しく、その輝きに近づけなくなっていったのでしょう。
こういった破滅願望や心の闇は誰しも心のどこかに持っているものかもしれませんが、真下の弱く柔らかい精神は、深い闇に絡め取られ、彼の肉体を深い水のそこへと引きずり込んでいってしまったのでした。
「僕」も 本来は自分はひどい状況にいるべき人間で、本来は犯罪者の「側」の人間なのではないかと揺れています。
・・・離れてしまいたい、って感じることがある。なんていうか、色々なものから。俺は本来、そうなんじゃないかって。
そんな「僕」の心の揺らぎを佐久間は嗅ぎつけ闇に引き込もうとします。
佐久間は強姦の罪を犯しても全く罪の意識はなく、あくまで利己的に生きている悪意の塊のような人間です。
『悪意の手記』でも、殺人を犯して少年院を出ても、何の両親の呵責も感じずに「感動大作RPG」を買っている少年、「人を殺しても朝日が美しいと感じられる人間」が描かれましたが、同じ種類の人間なのでしょう。
佐久間が秘めた悪意は、青い服の少年も彷彿とさせます。
佐久間は言います。
「倫理や道徳から遠く離れれば、この世界はまったく違ったものとして、人間の前に現れるんです。まるで、何かのサービスのように。」
「あなたはどうなんでしょうね。何かの衝動、というよりは、むしろその先にあるものでしょうか。・・・あなたはどちらかと言えば、こっち側の人間です」
「なぜならこういう存在は、私だけじゃないから。誰か教えてくれませんか!なぜこんな人間が存在するのか!しかし、あなたのおかげだ!あなたのおかげで最後に一人!あなたがあの密書を取り消してくれたおかげた!」
悪意の塊のような存在です。
「僕」は佐久間の悪意に絡め取られるように、彼を暴行し、危うく外国人の売春婦も殺しそうになります。
佐久間の言う「こっち側」に行きそうになります。
③「僕」はどちら側を選ぶのか?山井との関わり
佐久間に暴行を加えたことで刑務官の仕事も謹慎になり自暴自棄になる「僕」でしたが、そんな時も「あの人」の言葉と記憶が「僕」を助けます。
人は、誰か信頼できる人、憧れている人との暖かい思い出や、自分の存在を肯定してくれる言葉があれば生きていけるのかもしれません。
前を向いてなくてもいい、悩んで、混乱していてもいいから、ただ生きていくこと。
生きづらさを抱えて、闇の中を彷徨っていても命を紡いでいくことは何よりも尊い。
中村文則の「生きる」のメッセージは決して前向きに生きることではなくて、ただそこにいて生きていくことを言っているのだと思います。
ネガティブで、生産性に乏しくても、存在し続けて欲しい。
そんな願いが込められているように思います。
そして、世界には音楽、文学、絵画、映画など美しいものがあって、それらに触れて生きることは人としての喜びであると。
太古の昔から繋がっている命。
最初に誕生したアメーバから自分に向かって真っ直ぐと伸びる生命のロープは太く、奇蹟としか言い表せない尊いものだと語られています。
そう考えると、運命に抗う力も湧いてくるのかもしれません。
結局、「僕」が選んだのは「あの人」の側の生き方でした。
恵子の言うように「僕」は「あの人」のようになりたかった。
そして、山井にかつての自分を重ねてあの人のように彼の心に光を灯して、音楽や本を与えます。
その時に山井が聴いた音楽がバッハのオルガン「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」でした。
バッハの音楽は人間の魂の奥底まで届き、慰撫するような深い安らぎと深みを湛えていると感じます。
殺人犯で死刑囚の山井にバッハを聴かせて、控訴させる。
一見意味のない行動かもしれませんが、最後までしっかりと自分のした行動を見つめさせてしっかりと生きさせる。
そういう意味のある行動であったと僕は思います。
僕は怒りが脇、手で壁を打った。
あの人の姿が頭に浮かんだ。
「確かにお前の言うのはそうだ。お前が生きてると、辛い人間がいる。お前が死んだって元に戻らんが、お前の死を遺族が望んでるなら、せめて、残った人間をこれ以上不幸にする必要はない。お前は死ぬべきかもしれない。でも、でもだ、お前は生まれてきたんだろ?お前はずっと繋がってるんだ。お前の親なんてどうでもいい。俺だって親はいない。俺が言いたいのは、お前は今、ここに確かにいるってことだよ。それなら、お前は、もっと色んなことを知るべきだ。お前は知らなかったんだよ。色々なことを。どれだけ素晴らしいものがあるのか、どれだけ綺麗なものが、ここにあるのか。お前は知るべきだ。命は使うもんなんだ」
5、終わりに
いつも、中村文則とか、村上春樹とか自分の好きな作家の感想を書く時は緊張しますし、大体最初は何を書いていいか全く分からず、嵐の海をコンパスなしで進むみたいな頼りない気持ちで書き進めていきます。
当然、時間がかかるしブログのアクセス数だけ考えると非効率極まりないのですが、自分の好きな作品を時間をかけても納得のいく形で書く事はこのブログのアイデンティティなので、続けていきたいと思います。
できれば、ササッとスマートに書きたいのですが、思い入れがある作家・作品ほどそうはいきませんね(笑)
読書感想を書く時、毎回物語の中に「潜る」イメージがあります。
何を書いていいかわからない混沌としたイメージと言葉の海から自分が表現したい言葉をひとつずつ拾い上げていきます。
それは、とても根気のいる作業なのですが、それをすることによって物語の「核」に近づくことができるような気がしています。
気のせいかもしれませんが(笑)
やはり、毎回検討外れなことを書いているような不安は拭えません。
書き上げた後は、最後の一滴まで絞り出したマヨネーズみたいにカラカラになってグッタリしますが得も言われぬ達成感に包まれます。
まだまだ読書感想を書きたい本もたくさんありますし、中村文則と村上春樹の作品の感想を全て書くまでは頑張っていきたいです!!
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