村上 春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の書評です。
初夏がくると読み返したくなる大好きな作品の一つです。
僕が『風の歌を聴け』を読んだのは確か大学1年生の時でした。
予備校時代に『ノルウェイの森』を読んで次に手にしたのが『風の歌を聴け』で『ノルウェイの森』ほどのインパクトは受けませんでしたが、独特の乾いたクールな世界観の虜になりました。
当時、横浜に住んでいましたが、なんとなく元町あたりの町並みをイメージしてました。
ストーリーがどうとか、テーマがどうとか言うより文章のリズム、会話のテンポの良さに惹きつけられた気がします。
「何故本ばかり読む?」
僕は鯵の最後のひと切れをビールと一緒に飲み込んでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ」
「生きてる作家の本は読まない?」
「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」
この会話のシーンもテンポが良くて、シニカルな感じがします。
こういうセリフ回しをさせる作家はあまりいないように思いますね。
鼠、ジェイ、左手の指が4本しかない女の子。
それぞれ何かを抱えた人達が主人公の「僕」と交わり、すれ違っていきます。
長い一生からしたらわずかの一瞬ですが、何かを共有し、少しだけ分かり合いながら離れていきます。
そしてお互いの距離は開いていき、会うこともなくなっていく・・・。
何というか独特の物悲しさが全編に漂っていて、手にしたものが全部自分の手をすり抜けてこぼれ落ちていくみたいなイメージを受けました。
『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』で登場する(後半の2作では死んでますが。。)「僕」の相棒的存在の「鼠」ですが、実は直接会って会話してるのは『風の歌を聴け』だけだったりします。
なんだか意外な気がしますね。
この2人の関係性も好きです。
僕の大学時代の親友と僕との関係性みたいだなと思って読んでました。
センシティブで思い込みが強い鼠は、大学時代の僕みたいな奴です。フィアットには乗ってなかったけど。
この本を読んだあと、読後にはいつも言いようのない喪失感にとらわれます。
村上春樹の作品(特に初期)全般に言えるかもしれませんが、気付かないうちに何かを失ってしまって2度と取り戻せないみたいな気持ちになることがあります。
あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。
そう、あらゆるものは通りすぎていきます。
どんなに愛し合って分かり合って許しあっても、たくさんの時間や思い出をを共有しても、どんなに情熱を注いで何かを成し遂げたとしても。
傍らにいた人は気がつくとどこかに離れていってしまう。
あとには、行き場のなくなった思いや感情が何かの傷跡のように生々しく残るだけかもしれません。
なぜこんなにも喪い続けて、すれ違い続けていくのか?
ボブ・ディランの歌じゃないですが、答えは風の中でしょうか。
いつもそんな想いに囚われながら本を閉じます。