1、作品の概要
『1973年のピンボール』は村上春樹の中編小説。
1980年に刊行された。
村上春樹の2作目の小説。
第83回芥川賞候補作。
タイトルは、大江健三郎の『万延元年のフットボール』をもじったとのこと。
『風の歌を聴け』から始まり『羊をめぐる冒険』につながる『鼠三部作』の第2作。
700キロ離れた、「僕」と「鼠」の1973年の9月~11月の出来事を綴った。
2、あらすじ
「僕」は、東京で友人と翻訳事務所を設立し、翻訳の仕事をしながら繰り返しの毎日を送っていた。
そんなある日、ひょんなことから双子の女の子と3人で暮らすようになり、奇妙だけど穏やかな日々を過ごしすようになる。
一方、鼠は大学を辞めて「街」で暮らしていました。
土曜日の夜の彼女との逢瀬、馴染みのジェイズバーで飲むビール。
繰り返しの日々の中で鼠の心は沈んでいき、変化を求めるようになっていく・・・。
僕は、大学生の時に自殺してしまった彼女を思い、不要になった配電盤を弔い、過ぎ去った人々に想いを馳せる。
結局全ては通り過ぎて、時代の流れの中に消え去っていく・・・。
そんな中、1970年に僕を熱中させたピンボール台が自分を読んでいるように感じ、そのピンボール台を探し始める。
1973年という時代の流れが加速し始める時代に、自我の確立が覚束無い「僕」と「鼠」が閉塞感を打ち破ろうともがく物語。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
大学生時代、社会人になってからも何度も読んだ作品です。
当時はリアリズムの作品に強く惹かれていて、『1973年のピンボール』は繰り返し読んでいました。
今回、Xでフォロワーさんが読まれていたこともあり、再読してみようかと思いましたが、ちょうど物語の9~11月の時期でもありました。
秋の物語ですね。
4、感想(ネタバレあり)
①僕と鼠の停滞
「鼠3部作」と呼ばれる作品のうち、「僕」と鼠が直接顔を合わせているのは実は『風の歌を聴け』だけで、『1973年のピンボール』においても一度も顔を合わすことななく、700キロ離れた距離で2人の物語は別々に進行していきます。
ただ2人が感じている停滞感や、どこか呼応するかのように繋がっていて、お互いが心の隅に抱えている薄暗い何かを引きずるようにして、懸命に先へ進もうとしているかのように思えます。
特に時間に関してのそれぞれの記述がとても印象的で、全く異なった状況にいて別々の問題を抱えながら、時間がその均一性を失い、時間という感覚そのものが薄れていっているという点で2人の状況はとても似通っているようにも思えます。
まるで出口のない迷路に閉じ込められたみたいに、ぐるぐると同じような空間をさまよい続ける。
「僕」と鼠にとっての1973年9月~11月という時期はそのような時期だったのだと思います。
「僕」は双子たちと暮らし始めてから時間の感覚を失い限りない日常の繰り返しの中に身をうずめていきます。
まるで大切な人を失った悲しみから逃れるように。
彼女たちと暮らし始めてから、僕の中の時間に対する感覚は目に見えて後退していった。
鼠は定職にも就かずに親が用意してくれたマンションで一人暮らしを続けています。
大学からもドロップアウトして、社会のどことも繋がっていない存在。
金持で生活には困りませんが、ボンボンのお坊ちゃん生活を続けて親の脛をかじり続けるには鼠は繊細で考えすぎる人間だったのだと思います。
そこから脱却するためには、街を出るという選択肢しかなかったのでしょう。
女と会い始めてから、鼠の生活は限りない一週間の繰り返しに変わっていた。日にちの感覚がまるでない。何月?たぶん10月だろう。わからない・・・。
24~25歳で通常なら社会人として働き始めて数年のキャリアを積んでいる時期。
社会に出て、大人になるまでのモラトリアムは終わりを告げて成熟していかなければならない時期。
しかし、そんなプレッシャーから逃れて、もう少し自分の内面の殻に閉じこもっていたい。
そんな想いが、「僕」と鼠のそれぞれの時間を停滞させているように思います。
②「僕」にとっての双子の存在
xでやり取りさせて頂いている方が「双子は僕が作り出した存在のようにも思える」みたいなことを言われていて、なるほどな~と思いました。
なぜなら双子はこの時の「僕」にとってとても都合のいい存在だからです。
大切な存在を失くしてしまって心の欠損を抱えながら生きている「僕」にとって、誰かを再び愛することは少なくとも今は難しいし、かと言って1人で生きるのも寂しい。
そばにいてくれて、なおかつ自分の行動に過度に干渉しない双子のような存在が僕にとって都合のいい存在だったのでしょうか。
こういう書き方をすると僕が身勝手な人間のようですが、双子との3人の日々はどこかホッとするような、優しい時間が流れていたようにも思います。
秋の美しい自然を眺めながらゴルフ場を散歩したり、配電盤のお葬式をしに湖に行ったり。
どこか滑稽でままごとのような日々ですが、「僕」にとって時間を忘れて人生のエアポケットのような時期に出会ったかけがえのない日常だったように感じました。
xで村上春樹についてのスペースをしている時に、「『1973年のピンボール』で突然自死したガールフレンド直子についての話したが出てくる」と聞き、そういえば『風の歌を聴け』では名前がついていなかったガールフレンドに直子という名前が付いたのが『1973年のピンボール』で、直子という名前はやはり『ノルウェイの森』の直子に繋がっていきます。
この作品で初めて大切な誰かを失くしてしまった喪失を描き始めた村上春樹は、次作の『街と、その不確かな壁』において、その喪失を再び描こうとして失敗。
『街と、その不確かな壁』は出版されることなくお蔵入りとなり、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の原型となる幻の作品となります。
そして、今年出版された『街とその不確かな壁』に繋がっていくのですが、これら一連の作品で中核として描かれていたのが「大切な誰かをなくしてしまった強い喪失感」でした。
帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終わっちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女が死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終わっていなかったからだ。
この「誰かをなくしてしまった喪失感」というひとつのテーマから、モチーフを変えてたくさんの物語を生み出しているのが、村上春樹という作家の本質ではないかと思います。
過去にきっと村上春樹も魂をも損ないかねないような激しい喪失を経験したのでしょうか?
その経験が繰り返し同じテーマを用いた作品を生み出し続ける原動力になっているように感じます。
しかし、なくしたものは2度と戻ってこない。
時間は逆には進まない。
喪失はどこまでいっても喪失でしかない。
そうであるなら、再生とは?
その答えがピンボールマシンとの再会にあったように思います。
④ピンボールマシンへの想い
1973年。
徐々に高度資本主義の波がこの国に押し寄せ、片っ端から森は切り開かれて住宅地やリゾートホテルが建ち、海は埋め立てられて工場が建つようになっていく。
人々が生きるスピードも加速していき、つぶれたゲームセンターのあとにできたドーナツ屋の店員は前にあったゲームセンターのことなんて覚えてもいない。
めまぐるしく、システムチックに変化していくことが求められる時代の入り口。
古き良き時代の象徴がピンボールマシンの3フリッパーのスペースシップだったのだと思います。
「僕」が特別な何かを感じた3フリッパーのスペースシップというピンボールマシンですが、このマシンに呼ばれているように感じて惹かれたのは「僕」にとって過去をもう一度取り戻す行為の象徴だったように思います。
大切な存在を失い、古い光のような温かい日々は過去に過ぎ去ってしまった。
先に進むために、もう一度歩き出すためにどうしても古き良き過去の象徴である3フリッパーのスペースシップを探し出す必要があったのではないでしょうか?
それは大切な何かをなくしてしまった「僕」の再生への歩みでもあったのだと思います。
僕たちはもう一度黙り込んだ、僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。
思い出や、過去はあくまで過ぎ去ったものにすぎないけど。
そのあたたかな記憶の残滓はぼくたちの心を温め、勇気づけてくれるかもしれない。
先に進むために。
未来を照らすための古い光がピンボールマシンであり、僕の再生だったのだと思います。
5、終わりに
いやー、何回目の再読でしょうか。
秋の作品ですし、透明な秋の空気を感じながら読み進めるのはとても心地よかったです。
死のメタファーについても触れようかと思ったけど、なんか入れられなかったんで誰か書いてください(笑)
鼠の墓地デート、配電盤のお葬式、「何かのお葬式みたいだ」という言葉が出た鼠とジェイの会話とか。
作中の季節に合わせて読むのも良いですね。
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