ヒロの本棚

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村上 春樹『1973年のピンボール』

今回は、村上 春樹の『1973年のピンボール』を取り上げたいと思います。

ちょうど最近読み返しました。

この作品は秋になると読み返したくなります。

 

 

1、作品の概要

 

1973年のピンボール』は、1980年に出版された村上春樹の2作目の長編になります。

「僕」が主人公の初期3部作の2作目になります。

 

1969年から1973年の出来事を時系列をバラバラにして語った物語で、離れ離れに過ごしている「僕」と「鼠」の物語を描いています。

基本的には1人称で、リアリズムの物語ですが、「僕」の物語はポップで会話も多く軽快な印象がありますが、「鼠」の物語は内省的で重々しい感じがします。

 

芥川賞の候補にもなった作品でしたが、受賞は逃しています。

 

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

 

 

2、あらすじ

 

「僕」は、東京で友人と翻訳事務所を設立し、翻訳の仕事をしながら繰り返しの毎日を送っていました。そんなある日、ひょんなことから双子の女の子と3人で暮らすようになり、奇妙だけど穏やかな日々を過ごしていました。

 

一方、鼠は大学を辞めて「街」で暮らしていました。

土曜日の夜の彼女との逢瀬、馴染みのジェイズバーで飲むビール。

繰り返しの日々の中で鼠の心は沈んでいき、変化を求めるようになります。

 

僕は、大学生の時に自殺してしまった彼女を思い、不要になった配電盤を弔い、過ぎ去った人々に想いを馳せます。結局全ては通り過ぎて、時代の流れの中に消え去っていく・・・。そんな中、1970年に僕を熱中させたピンボール台が自分を呼んでいるように感じ、そのピンボール台を探し始めます。

 

1973年という時代の流れが加速し始める時代に、自我の確立が覚束無い「僕」と「鼠」が閉塞感を打ち破ろうともがく物語です。(たぶん)

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ

 

ノルウェイの森』、『風の歌を聴け』を読んでそのあとに『1973年のピンボール』を読みました。

大学1、2年生の時だったかな?1997年~1998年あたりです。

当時はファンタジー色が強い物語は敬遠していて、春樹のリアリズムの物語から読んでました。

そしてこの物語が持つ喪失感に深く心を奪われました。

 

 

4、感想・書評

 ①「時代」と「年齢」という2つのキーワード

前作の『風の歌を聴け』の続編ですが、「僕」と鼠の二人の視点から前作よりも二人の内面を深く描写しながら物語が展開していきます。

僕と、鼠が遠く離れた街で暮らしながら、お互いに繰り返す日々から抜け出せずに閉塞感を感じて、繰り返しの円環から抜け出そうと試みる物語。

 

ここで重要なキーワードが2つあります。

1973年という「時代」と、20台中頃という「年齢」の2つです。

この物語を書いた時の村上春樹は31歳で、1980年に刊行しています。

つまり自分が実際に体験している・渦中にいることではなくて、少し前に起こったことを書いているのです。

それは、おそらく春樹自身も体験した20代半ばで感じた閉塞感と未来への不安。

そしてその閉塞感からの脱却。

徐々に変化が激しくなり、様々な物が過去になっていく時代の変化への戸惑いを喪失感という感情で表現したのではないかと思います。

 

「僕」が物語の冒頭で感じていたのは・・・。

違和感・・・。

そういった違和感を僕はしばしば感じる。断片が混じり合ってしまった2種類のパズルを同時に組み立てているような気分だ。とにかくそんな折にはウィスキーを飲んで寝る。朝起きると状況はもっとひどくなっている。繰り返しだ。

 と、こんな感じでした。

その後に双子が登場するのですが、双子との関わりが僕の違和感を取り去り、あまり良くない状況から抜け出すある種の触媒のような存在になっていったのかもしれません。

 

 

②鼠の焦燥と決断 

一方、鼠は。

鼠にとっての時の流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える。なぜそんなことになってしまったのか、鼠にはわからない。切り口をみつけることさえできない。死んだロープを手にしたまま彼は薄い秋の闇の中を彷徨った。 

 彼もまた、迷いを感じ彷徨っていました。

ただ、性格もあるかもしれないし、鼠には「僕」が出会った双子のような存在はいなくて、「僕」よりとまどいと悩みは深かったように思います。

 

ジェイズバーでビールを飲み、週末の土曜日だけは彼女と会う繰り返しの毎日。

とても孤独で、内省的な毎日を過ごし、昔のことを思い出したり、彼女の部屋の光を眺めたりして無為に時間を過ごしていきます。

 

さあ考えろ、と鼠は自らに言い聞かせる、逃げないで考えろよ、25歳・・・、少しは考えてもいい歳だ。12歳の男の子が2人寄った歳だぜ、お前にそれだけの値打ちもない。・・・よせよ、下らないメタフォルはもう沢山だ。何の役にも立たない。考えろ、お前はどこかで間違ったんだ。思い出せよ。・・・わかるもんか。

 

自分の年齢を意識して、自分の現状に焦りを感じる鼠。

やがて鼠は、彼女と連絡を断ち、ジェイに別れを告げ街を出ることを決意します。

 

 

③「僕」が心の中に宿した光

書きながら思いましたが、「時代」のタスクは「僕」に、「年齢」のタスクは鼠にそれぞれ割り振ったのではないかと思います。

僕は、双子との繰り返しの日々の中で自分の中を通り過ぎて去っていった過去の人・物に想いを馳せます。

ー配電盤、自殺したガールフレンド、同じアパートで電話を取り次いでいた女の子ー

そして、1970年に熱中していたピンボールマシン。3フリッパーのスペースシップが突然「僕」の意識を捉えて、呼び続けていました。

 

時代の波に埋もれてなくしていったものを通り戻そうとするかのように、僕はピンボールマシンを探し続けます。

しかし、探していたピンボールマシンをやっと見つけた「僕」はマシンをプレイすることなくその場を立ち去ってしまいます。

 

 ゲームはやらないの?と彼女が訊ねる。

 やらない、と僕は答える。

 何故?

 165000、というのが僕のベスト・スコアだった。覚えてる?

 覚えてるわ。私のベストスコアでもあったんだもの。

 それを汚したくないんだ、と僕はいう。

 

僕たちもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今もさまよいつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでのつかの間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。

 

探していたピンボールマシンを見つけたことで、ずっと昔に死んでしまった時間の断片の暖かい古い光を自分の中に感じ、その光とともに歩んでいくことを決めた「僕」。

過ぎ去った過去と決別するのではなく、暖かく親密な形で自分の中に取り込んで、ようやく前に進んでいくことができると考えた瞬間だったのだと思います。

どうしても振り切れず囚われていた過去の想いを、決別するのではなく違った形に浄化するようにして共に歩んでいくことで新たな強さを獲得したのだと思います。

 

そして、自らの空白を埋めた「僕」の元から、まるで役目を終えたように双子たちは去っていきます。

双子の存在も、「僕」の心の中の古い光となってともに歩んでいくのでしょう。