○村上春樹『街とその不確かな壁』の考察&詳細な感想を書いてみた[ネタバレ注意!!]
村上春樹『街とその不確かな壁』についての紹介と、簡単な感想を先日書きましたが、濃厚な感想&考察編も書いてみたいと思います。
ゴタゴタ感想を書く前に『街とその不確かな壁』について大筋の僕の感想を書くとすると、「めっちゃ良かった」です。
好きや嫌いや、良かったや良くなかったや、いろいろな感想があると思いますが、個人的には好きな作品だし、文章に無駄がないというか、成熟を感じさせれました。
今回も示唆的な内容や、暗示的な内容が数多くみられましたね。
壁や影が何を意味するのか?
街とは何だったのか?
など、読後もあれこれと考えてしまいます。
僕の心も半分ぐらい「街」にとらわれてしまっているのかもしれませんね(笑)
①なぜ村上春樹は『街とその不確かな壁』を書いたのか?
1980年に『文學界』に掲載された『街と、その不確かな壁』は、村上春樹自身が「あれは失敗だった」と言っていて、単行本に収録されることはありませんでした。
『風の歌を聴け』で鮮烈なデビューを飾り、『1973年のピンボール』で芥川賞の候補になったあとの作品でしたが、前2作とは違って難解な内容になり、結末も納得のいくものを書けなかったとのことでした。
『1973年のピンボール』が芥川賞の候補になって、何か書けと言われたんです。『群像』には受賞第一作を書いたから義理を果たしたし、一つ書けるかなと思ったし、あの話は書きたい話だったんです。
(中略)ただ、あれは失敗だったんですね。というのは、ああいうことはやるべきじゃなかったんです。僕はいまでも後悔してる。受賞第一作用なんて書くべきじゃなかった。これは声を大にして言いたい。
(中略)あれはむずかしい話なんです。あのころの僕の実力ではとても歯が立たなかったんです。文藝春秋、1991年4月増刊号「村上春樹ブック」より
失敗作だった『街と、その不確かな壁』をもとに生み出したのが1985年に刊行された『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でした。
「街」の設定と「世界の終わり」の部分の話はほとんど同じものでしたが、全く違った2つの物語が最後にひとつに交わっていくスリリングな展開は村上春樹の最高傑作のひとつにもあげられるほどでした。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は僕も大好きな作品なのですが、そんな作品が存在しながらもう一度村上春樹が『街と、その不確かな壁』を書き直したいと思ったのにはどういった経緯があったのでしょうか?
村上春樹はあとがきに「『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はそのひとつの対応であったが、それとは異なる形の対応があってもいいのではないと考えるようになった」と書いていて、『街と、その不確かな壁』の作品の未熟成にまだ決着がついてないと考えるようになり、作家として成長し文章を書く力が向上した今なら『街とその不確かな壁』を違った形で完成させられるのではないかと考えたようでした。
それだけ『街と、その不確かな壁』という作品を作り出した何かが村上春樹の中で重要なモチーフであったということでしょう。
②『街とその不確かな壁』と他の2作品との関連性
以前のブログの内容の予想では、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『街とその不確かな壁』の2作品を「『街と、その不確かな壁』という同じ材料から作られたカレーとシチュー」に喩えましたが、『街とその不確かな壁』を読んでみてその解釈はちょっと違うかなと感じました。
むしろ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は『街と、その不確かな壁』をもとに大きく改変された亜流のような物語で、『街とその不確かな壁』は『街と、その不確かな壁』をそのまま肉付けして膨らませたような本流にある作品だと思います。
それぞれ「高い壁に囲まれた街」をモチーフにしていますが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では街や壁、そして夢読みである「僕」を手伝ってくれる図書館の女の子に対してそれほど深い意味づけはないように思います。
これは批判ではなくて、物語のスタイルの違いのようなものだと僕は感じていて、対して『街とその不確かな壁』ではそれらのモチーフを深く掘り下げて、村上春樹の作品で繰り返し描かれている「大事な誰かをなくしてしまった」あとの世界を丁寧に描いています。
③『街と、その不確かな壁』はどこが失敗作だったのか?
『街と、その不確かな壁』を読んでみて「えっ、これが失敗作?なんで?」と思えて個人的には魅力を持った作品のように思えました。
ただ今回『街とその不確かな壁』と読み比べてみて、「きみ」が「今あなたの目の前にいるのは本当の私じゃない」と言う言葉の裏に、どんな気持ちが隠されていたのか、この世界に存在し続けることへの違和感と苦しみのようなものが十分に描写されていなかったのだなと気づきました。
そして、そんな「きみ」に「ぼく」がどれだけ強く惹きつけられていたのか。
「きみ」が「ぼく」の前から姿を消してしまったあとも心の中の空白となって存在し続けました。
第一部において描かれている16歳の「きみ」と17歳の「ぼく」の甘酸っぱくプラトニックな恋愛物語はそういったのちに空白の大きさを描くために必要な描写であったと思いますし、「きみ」が家庭に何かしらの問題を抱えていて精神的にもトラブルを抱えていたことをほのめかすような描写も繰り返しなされていました。
『街とその不確かな壁』第一部は『街と、その不確かな壁』の内容をそのまま肉付けしたような話になっていますが、「きみ」と「ぼく」の関係性が丁寧に描かれていて、いかにして「ぼく」にとって唯一無二の存在になって、その後の人生においても埋めようのない空白と喪失感を彼の中に生じさせてしまったのかが痛いほどわかりました。
42年前に『街と、その不確かな壁』で村上春樹が描ききれなかった部分であったのだと思います。
結末の部分でも『街と、その不確かな壁』では、影とともに脱出して「街を捨てる」決断をして「何もかも失われていく」けれど、「きみ」のことは忘れないよ・・・、みたいにどこかあっさり風味でその結末は村上春樹としては納得のいくものではなかったのでしょう。
自分の心の奥底にある物語の原石をうまく磨いてイメージしたように描くことができなかったのかもしれません。
そしてその原石は村上春樹にとってダイヤにも勝る物語の原石であって、今回はしっかりと磨き上げて眩いばかりの光輝を放つことができたのではないでしょうか?
この作品(『街と、その不確かな壁』)は僕にとってずっと、まるで喉に刺さった魚の小骨のような、気にかかる存在であり続けてきたから。
それは僕にとって(僕という作家にとって、僕という人間にとって)大切な意味を持つ小骨だったのだ。
④「きみ」が抱えていた生きづらさと「街」
自分の存在の不確かさに、「ここは自分の生きる世界ではない」と思い続けていた「きみ」は、自分が本当の自分ではなくて影なのだと「ぼく」に打ち明けます。
特異な能力を持ちながらこの現実の世界ではうまく生きていけないイエロー・サブマリンの少年も、大切な「きみ」をなくしてしまって誰かを真剣に愛することが難しくなってしまった「私」も、現実の世界から逃れて「街」へ行きたいと強く願っていて生きづらさを抱えていましたが、「きみ」が「街」を創り出したのもそういった生きづらさがあったのだと思います。
「街」を目指す人間は一様に「この世界は自分の居場所ではない」と感じています。
そういった人間が強く望むことによって「街」に辿り着くことができるのでしょうか?
ただし、現実の世界の多くのものを捨てなければなりませんが・・・。
現実の世界の「きみ」が抱えていたトラブルが具体的にどのようなものであったのでしょうか?
複雑な家庭環境や、不安定な精神の状態は語られていますが、「きみ」がなぜ「ぼく」の前から去ってしまったのか?は物語の中で詳しくは語られていません。
不安定でセンシティブな美しい少女。
どこか『ノルウェイの森』の直子を彷彿とさせるような女の子だなと感じたのは僕だけでしょうか?
だとすると、緑役はコーヒーショップの女性になりますかね。
そう考えると、最終的に「君」がいる「街」から現実の世界へ帰還する構図は『ノルウェイの森』の結末にも似通っている部分もあるように思えてきます。
「きみ」は生死さえ不明なまま、「ぼく」の前から永遠に姿を消してしまいます。
謎は大きな謎のまま残されて、「私」は大きな心の欠落を抱えてしまいます。
皮肉にもその心の欠落が「私」を街へと導くことになりました。
28年経って、心に空白を抱えたままそれでも強く「きみ」との再会を、街へとたどり着くことを夢見ていたのでしょうか。
「ただ望めばいいのよ。でも心から何かを望むのは、そんなに簡単なことじゃない。時間がかかるかもしれない。その間にいろんなものを棄てていかなくちゃならないかもしれない。あなたにとって大切なものをね。でも諦めないで。どれほど時間がかかろうと、街は消えてはなくなりはしないから」
「きみ」とコーヒーショップの女性は「アンネの日記」について触れていたり、「あなたのものになりたいけどそうすることができない」という点でどこか共通しているところも見受けられます。
長編小説でセックスシーンがないのも『アフターダーク』以来だと思いますが、2人の女性との関係がとてもプラトニックな印象があります。
⑤街と壁について
「高い壁に囲まれた街」というのはどういう場所だったのでしょうか?
「きみ」が思いついたものを「ぼく」が一緒に細部まで考えて作り出した共同幻想のようなものだったのでしょうか?
ちょっと日本のバンド「ブランキー・ジェット・シティ」を思い出しちゃいました。
バンド名の由来の街「ブランキー・ジェット・シティ」は、ボーカルの浅井健一ことベンジーが作り出した架空の街。
「空虚な街」であり、「不良たちが集まる架空の都市」だそうです。
まぁ、村上春樹の物語の「街」とは似ても似つきませんが、架空の街ということでちょっと思い出しました。
そんな架空の想像のなかでしか存在しなかった街が、想像力を養分にして高い壁を持った独自の街として独自のシステムを持つようになる。
2人が考えた「街」よりももっと複雑なシステムを持ち生き物のように有機的な存在へと姿を変えて。
まるでAIのシンギュラリティのようですね。
人間が作り出したはずのAIがやがて人間の想像を超えた巨大な存在へと変貌していきやがて・・・。
「街」が例えば国家などのひとつの共同体を象徴するなら、「壁」はシステムを象徴しているのでしょうか?
もともとは「街」を守るために作られたシステムに過ぎなかった「壁」のシステムが膨張し、有機的に人々に干渉するようになる。
壁の有機性、不穏さはシステムの暴走にほかならないように思います。
ただ国家を守り、国民の利益を守るためのはずだった法律や国家権力が、いつの間にか国民に牙を剥くように。
それでも現実の世界に生きづらさを抱えて、ここが自分の居場所ではないと思うときに、何かの扉が開いて「街」へとたどり着き高い壁の内側に入ることができる。
あちら側の現実の世界に居場所を見つけられない人々の想いを受け止めるような場所であったのかもしれません。
しかし、その「街」に入るまでには多くのものを捨て去る必要があり、「街」に入るために影を、自分の不安定の心の動きや感情を捨て去って無機質でフラットな存在になることが求められる。
それが「街」のシステムである「壁」が求めることであり、ルールだから。
村上春樹がエルサレムで行った伝説的なスピーチ、「壁と卵」の内容を想起させる内容でもあります。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、単角獣の頭骨に古い夢が入っていましたが、『街とその不確かな壁』では卵に古い夢が入っていました。
壁と卵!!
示唆的ですね。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
さて、このメタファーはいったい何を意味するのか?ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。
⑥夢について
夢は、村上春樹の作品で、(特に近作において)重要な意味を持っています。
何かを暗示していたり、何かしら神秘的な力を帯びて現実を改変してしまったりとか。
今作でも「きみ」が夢日記をつけるほど自らがみる夢の内容に夢中(夢だけに)になっていたり夢が現実にも大きな影響を与えうる存在としてクローズアップされています。
ちなみに「きみ」が手紙に書いていた夢はどのようなものだったのでしょうか?
身篭っていたのは「街」そのもので、両手の目は夢読みのことを顕していたのでしょうか?
フロイトさん解析をお願いします(笑)
ちなみに裸の自分を誰かに見られる夢は・・・。
本音で付き合える人物との出会いを暗示します。
異性であれば、恋愛関係に発展する可能性が高いでしょう
とのことでした。
「私」が「街」から戻ってきてみた夢は予言的な夢でした。
彼はその夢に導かれるように、その図書館の館長の職に就きます。
夢の啓示というと神秘的な気がしますね。
夢は、自らの深層意識がみせる何かであったり、何か他のチャンネルとつながるような、意識が無防備な状態であると思います。
夢の中では様々なものと繋がり、精神が影響を受けやすいようなデリケート状況にあるのでしょうか?
⑦影について
影とはどういう存在なのでしょうか?
光があたると、できるのが影。
影法師。
通常、それ以上でもそれ以下でもない存在です。
しかし、『街とその不確かな壁』をはじめ一連の物語において影は大きな意味を持っています。
「街」に入るためには影を剥がされなければなりませんし、本体から剥がされた影は別人格のように喋ったり、思考したり、行動したりします。
この影については作中でも様々な考察がされていて、街では「暗い心」と蔑まれますが、心にとってかけがえのないものであったり、本体と入れ替わりうるような存在としても言及されています。
影とはある意味でALTER EGO(もう1人の自分)のような存在でもありえるのかもしれない、と僕は思います。
他我として、自我を補完しうる存在。
それが故に本体とも入れ替わることがありうる存在とも言えるでしょう。
「街」を脱出するときの「私」と影のやり取りを考えてみても、どこか相談したり、ディスカッションしながら行動している感じがあって、影はもうひとりの自分を表現しているんだなと感じました。
分身であり、パートナーやバディのような存在とも言えるでしょう。
物語の最後に、本体である「私」が街から脱出し、現実の世界に落下するのを受け止めてくれるのは影であるということが描かれていました。
子易さんのこの言葉もその来るべき時のことについて触れていたのだと思うと鳥肌が立ちました。
なにかを強く深く信ずることができれば、進む道は自ずと明らかになってきます。そしてそれによって、来るべき激しい落下も防げるはずです。あるいはその衝撃を大いに和らげることができます。
⑧子易さん、イエローサブマリンの少年、継承するものされるもの
第二部で描かれているのは、ひとつに三世代に渡る継承であったと思います。
この継承というキーワードは『猫を棄てる』の時に感じたものでありましたが、老年期に差し掛かって村上春樹が意識し始めたワードなのではないかと思います。
『猫を棄てる』では父親の戦争体験が村上春樹へと受け継がれて、それがやがて『ねじまき鳥クロニクル』に繋がっていくというものでしたが、『街とその不確かな壁』では子易さんから「私」に図書館が継承され、「私」からイエローサブマリンの少年に夢読みが継承されるという内容でした。
たとえ血が繋がっていなくても、心を通わせた存在に何かが継承されていく。
「私」、子易さん、イエローサブマリンの少年は独自の感性と価値観を持ちながらそれぞれに孤独です。
しかし、運命的な何かが3人を結びつけてそれぞれに継承を行っていきます。
村上春樹の小説において継承は初めて出てきたキーワードで、もしかしたら今後の物語のキーと言葉になるかもしれません。
子易さんは、キリストを導く洗礼者ヨハネのようであり、メンターでもありました。
でも実は幽霊だったっていう衝撃の事実が(笑)
幽霊にしては存在感ありすぎですね。
とても魅力的なキャラクターです。
イエローサブマリンの少年は、「街」で「私」の後継者となりますが、イエローサブマリンの少年は「私」と元々はひとつの存在だったのだと語ります。
???
ちょっと驚きましたが、2人はツインソウルのような関係だったのでしょうか?
もともとひとつだった魂が、前世で2つに分かれます。そして、現世でお互いが成熟したあとに出会う運命になっている、それがツインソウルです。
スピリチュアル全開の解釈になりますが(笑)
⑨時間について、壁が何から人々を守っているのか?
この作品でひとつの大きなテーマとなっているのが、「時間」だと思います。
「街」の時計には針が存在しておらず、住む人々も時間を意識して生活していません。
時間がないというよりは、「時間が意味を持たない」という表現をされています。
子易さんの腕時計にも針がなく、こちらは「街」との関連や、影を持たない人間であることの隠喩であるかもしれませんが、死=永遠というイメージにも繋がるような気がします。
イエローサブマリンの少年は言います。
「そのとおりです。この街には現在という時しか存在しません。蓄積はありません。すべては上書きされ、更新されます。それが今こうして僕らの属している世界なのです」
思い出や、経験、そんな積み重ねが人の心を温め、時には変革を促す契機になる。
そんな蓄積された別名保存の時間の連続が人のこころを作っていく。
しかし、「街」では現在が連続していくことで変化していくことはありません。
それが「街」の時であり、求める秩序の形なのでしょう。
「街」はときの蓄積による人の心の変化を嫌っているのでしょう。
疫病のから壁が人々を守っているという話も、「終わらない魂の疫病」というのは外部から魂が感じる痛みや悲しみの象徴のようにも思えてきます。
元々「きみ」と「ぼく」が作り上げた「街」ですが、その「街」の住人たちは現実の世界で生きにくさを抱えていた人たちばかりで、「壁」はそういった生きにくさの原因となっていたネガティブな感情(あるいはそんな感情を生み出すものたち)から人々を守っているのでしょう。
時間が現在のまま蓄積されずに留まっていて、心が外部のネガティブなことに刺激されなければ、ずっとフラットで穏やかに暮らしていける。
たとえ、その生活が胸躍るようなものではなかったとしても。
それが「街」の考える究極の安寧なのかもしれません。
まるでRADIOHEADの名曲『No Surprises』の詩のような世界。
この詩には強烈なアイロニーが篭められていますが、メロディーはどこまでも美しいです。
まるで「街」の価値観そのもののようだと、僕には思えます。
なんの不安も驚きもいらない
心配も苦しみもうんざりだ
なんの不安も驚きもいらない
ただ静かにいさせてくれ
⑩壁のあちら側とこちら側、マジックリアリズム
「私」が図書館の館長になり暮らしている町は、どこか「街」に似ているように思います。
川、図書館、薪ストーブ。
そんで、子易さんの針のない腕時計とか。
村上春樹の小説の点と線がちょっとずつ繋がっていくこの感じがとても好きです。
そして、段々と現実と夢想が混じり合い、境界線がぼやけていきます。
あちら側とこちら側。
壁を隔てたあちらとこちら。
どちらが内側で、どちらが外側なのでしょうか?
ガルシア・マルケス『コレラ時代の愛』が作中に出てきて、参考文献にもあげられています。
読書家の僕としては、もちろん全然読んでいない作品でしたが、幽霊のような非現実的な存在を現実と同じように描くマジックリアリズムは面白い発想だと思いました。
子易さんの存在も正にマジックリアリズムなのでしょうか?
それと第二部の終盤にかけて16歳の「きみ」との場面と現実がオーバーラップする場面がなにかが混じり合っている感じがしてゾクゾクしました。
またもやオカルト解釈ですが、例えば多次元世界というものは全く別に存在するのはなくて、重なり合って存在するものだといいます。
ですから、異世界というのは今僕たちがいる世界と重なり合っていて、何かの拍子にお互いの世界を行き来することができるという解釈です。
現実の世界と、壁の向こう側の境界がだんだんと曖昧になっていく様は、そんな多次元世界を思い起こさせました。
たとえ成り立ちが異なっている世界でも、実は重なり合って存在しているのかもれしませんね。
⑪心と再生
なんだかぶつ切りで断片的にだらだら書いてきましたが、⑪が最終章です。
僕が思うに、『街とその不確かな壁』の一番大事なテーマは心と再生だと思います。
魂を損なうほどの深い喪失。
これまで繰り返し描かれているテーマでしてが、再生の部分はそれほどしっかりと描かれていなかったように思います。
喪失と再生というとなにか安直な気がしますし、ハンバーガーとポテトのセットぐらいに安直なセット。
村上春樹は、そのような安直なセットでの解決をよしとしなかったのか、あまりに巷に溢れているので忌避していたのかわかりませんが、これまで明確に描いてこなかった気がします。
しかし、『街とその不確かな壁』では深い喪失からの再生。
希望が力強く描かれていて、それは福島という土地にもつながっていっているように感じました。
東日本大震災で人生を狂わされた人々。
美しい郷里の自然を失い長き避難生活を余儀なくされたその深い喪失。
かけがえのない大切なものをなくしてしまって、どうしても立ち直ることができない「私」と重なりある部分があるように思います。
「私」の再生への道のりは福島の再生と繋がっていきます。
世界的な作家の村上春樹が、新作で「FUKUSHIMA」と書く時に、世界中の人たちに多くのメッセージを届けることができるのではないでしょうか?
そして、人間の心は竹のようにしなやかで弾力に冨んでいて折れにくいもの。
自らが完全に制御することは難しいれど、人が生きていく上で不可欠なもの。
そんな心に関して繰り返し描かれていたと思います。
私の意識と私の心との間には深い溝があった。私の心はあるときには春の野原に出た若い兎であり、またあるときには自由に空を飛びゆく鳥になる。でも私にはまだ自分の心を制御することができない。そう、心とは捉えがたいものであり、捉えがたいものが心なのだ。
どんなに巨大な国家や権力が圧しようとも、深い闇や喪失が脅かそうとも、私たちの心は決して折れない。
心は、空を羽ばたく鳥のように自由で、どれだけ高い壁も飛び越えてしまう。
だから自分の心の動きを願いを、どうか感じて、あなたは生まれてからずっとこれからも自由なのだから。
そんな村上春樹のメッセージが篭められているように感じた物語でした。
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