1、作品の概要
2002年に新潮社より、上下巻で刊行された。
翻訳版が『ニューヨーク・タイムズ』紙で年間のベストブック10冊、世界幻想文学大賞に選出された。
蜷川幸雄の演出で、2度舞台化されている。
この作品が刊行されるタイミングでホームページが作られ、村上春樹自身が読者との交流の場を設けた。
現在はホームページは閉鎖されたが、メールのやり取りは『少年カフカ』に掲載されている。
運命の呪いに翻弄される15歳の田村カフカと、導かれるように四国へと旅する不思議な老人・ナカタさんの物語。
2、あらすじ
田村カフカは、15歳の誕生日に家出をすることを決意し、四国の高松へと向かう。
彼は世界的に有名な彫刻家の父親と2人暮らしだったが、温かみのない家庭で損なわれ続けていた。
「お前は父を殺し、母と姉と交わるという」受け入れがたい予言を父親にされたカフカ少年はその呪いから逃れるべく旅を続ける。
子供の頃の昏睡事件がもとで字を読むことができなくなり、知的に障害を持つ老人・ナカタは猫と会話をすることができる特殊な能力を持っていた。
猫探しの途中で出会った、猫殺しのジョニー・ウォーカーを刺殺したナカタは、猫と話す能力を失ってしまうが、何かに導かれるように西へと向かい始める。
ナカタがジョニー・ウォーカーを刺殺した同時刻に田村カフカは意識を失い血まみれで倒れていて、ニュースで自分の父親が何者かに刺殺されたことを知る。
旅の途中で知り合い、まるで姉のような存在のさくらを頼った田村カフカだったが、自らがいるべき場所である甲村記念図書館に住めるように司書の大島に相談をし、館長の佐伯と出会うことになる。
一方ナカタはトラック運転手のホシノと四国へと向かいとある不思議な石を探し求めていた。
別々に張り巡らされていた2つの物語はやがて一つに交わっていく・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
『海辺のカフカ』は、僕が村上春樹の新刊を初めて(ほぼ)リアルタイムで読んだ作品になります。
19歳の時に『ノルウェイの森』を初めて読んで村上春樹という作家が好きになったのですが、それほど熱心な読書家でもなく、新刊の発売を心待ちにするほどではありませんでした。
しかし『海辺のカフカ』の時は2002年当時(サッカーのワールドカップが初めて日韓で開催された年だ)としては画期的なホームページが作られて、盛り上がっていたような記憶があります。
ホームページを開くと「猫の話らしい」「15歳の話らしい」「中野区の話らしい」と物語の内容を断片的に伝える言葉が浮き上がってきて、ワクワク感がありました。
友人数人が発売当初に買っていて、「やべー、今度の村上春樹の主人公は15歳でジムでプリンス聴きながらトレーニングしたり、レディオヘッドの『KIDA』聴いたりしてる!!」とか教えられて、「なんだそれ!?めっちゃ読んでみてーわ」とかいう会話をした記憶があります。
発売後少しあとに、ブックオフで中古本をGETし読みふけりました。
思えばこの『海辺のカフカ』からより深く村上春樹の物語の世界にハマっていったように思います。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①『海辺のカフカ』の魅力と登場人物について
先日新刊の『街とその不確かな壁』を読んでから脳みそが村上春樹モードになってしまっていて、以前から再読の機会を伺っていた『海辺のカフカ』読みました。
数年ぶりの再読で細かい内容はだいぶ抜け落ちてしまっていたのですが、読み終わって僕の中での村上春樹の作品ランキングで1位に輝く作品となりました。
いやー、面白かった!!凄かった!!
今までは『世界の終わりハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』が上位を占めていましたが、今は『海辺のカフカ』がぶっちぎりですね~。
お前のマイランキングなんかどうでもええわ!!って言われそうですが、まあそれだけ読み返して深い感銘を受けたということです。
余談ですが、本を読み返す時期というのは好きな本ほど慎重に伺っていまして、なんか馬鹿みたいですがどれだけ前に読んで時間が経ったのかや、作中の季節や、自分の今の気分にフィットしているかどうかなどを仔細に検討して再読します。
ワインの熟成を待って、正しいタイミングに適した状態でサーブして飲むように、物語も寝かしておいてポテンシャルが100%活きる時期に味わいたいと思うのですよ。
まあ、ワインは大体買ったらすぐに飲んじゃうんですがね(笑)
ワイン・セラーも持ってませんし。
海辺のカフカの魅力は登場人物の多彩さとその魅力がまずあげられると思います。
主人公の田村カフカくんと、ナカタさんをはじめ、大島さん、佐伯さん、さくら、ホシノさん、たくさんの猫たち、ジョニー・ウォーカー、カーネル・サンダーズ、大島さんのお兄さんなどなど。
これまでになく幅広い年齢層と、それぞれに濃いキャラクターにとても惹きつけられますね。
主人公はこれまで大体20~30代の男性でしたが、15歳の男の子と老人という組み合わせも新鮮でしたし、カフカ少年とナカタさんの物語への絡み方が絶妙でした。
大島さんはLGBTを感じさせるような性的にだいぶマイノリティな存在の上に、難病を患っています。
しかし、とても知性が高く卓越したユーモアの持ち主で、彼(彼女)とカフカ少年のやり取りは示唆に富んでいますし、カフカ少年を導くメンターのような役割を担っているように思います。
物語の最後にはお兄さんも出てきますが、全然似てないわりには、自分が認めた相手以外には簡単に心を開かない注意深い野生動物みたいな兄弟だな、と思いました。
佐伯さんは村上春樹の作品中おそらく最高齢(実年齢では)のヒロイン。
カフカ少年が恋するのは、彼女の中にいる15歳の少女ではあるので、話は複雑ですが。
とても謎めいていて、最後までその謎は明かされることなく、残された自らの人生の記録も、ナカタさんによって焼き捨てられます。
ホシノさんはナカタさんを現実的に助けるような存在でありながら、逆にナカタさんに導かれるように自分の存在を変化させていく興味深いキャラクターです。
トラックの運転手で本にも音楽にも親しみがなくて・・・、みたいなあまり村上春樹の小説に出てこないタイプのフツーの感じの若い男なので、だいぶ新鮮でした。
大島さんとカフカ少年のやり取りも好きですが、ナカタさんとホシノさんのコンビもくすっと笑えて良いですね。
最終的にナカタさんから不思議な力を継承されるホシノさん。
そういう意味では、洗礼者ヨハネとイエス・キリストみたいな立ち位置でもあったのかもしれませんね。
さくらは、メタファーとしてのカフカ少年の姉で、登場回数は少ないものの物語の役割としては重要な役割を担っています。
予言を成就し、呪縛から自由になるためにカフカ少年の夢の中で交わりますが、現実の世界では姉ではなく、親切な歳上の女性といった存在でしょうか。
『ノルウェイの森』での直子=死の象徴、緑=生の象徴という解釈に準ずると、佐伯さんが直子で、さくらは緑というと極端な意見でしょうか(^_^;)
現実の世界での生を象徴するような存在でもあったのではないかと感じています。
「変な言い方だと思うけどさくらさんは現実の世界に生きていて、現実の空気を吸っていて、現実の言葉をしゃべっている。さくらさんと話していると、自分がとりあえず現実の世界にちゃんと結びついているんだということがわかる。僕にとってそれはけっこう大事なことなんだ」
②父親と予言
村上春樹の作品において、『海辺のカフカ』まで主人公自身の家族について語られることがほとんどなくて、父親との葛藤が描かれた今作はそれだけで革新的な作品だったと思います。
カフカ少年の父親が彼に投げかけた言葉、「父親を殺して母と姉と交わる」というのは、ギリシャ神話の「エディプス(オイディプス)王」の物語そのもので不吉な予言として機能しています。
いや、どんな父親やねんって感じですが・・・。
エディプス王の物語はフロイトによりエディプスコンプレックスと名付けられ、息子が母親を手に入れようと、父を憎むようになる心理状態のことを示してもいますね。
カフカ少年はこの予言から逃れようと家出をしますが、距離的なものには関係なく、メタフォリカルな意味合いにおいても実際的な意味合いにおいても、父親の予言は成就することになります。
この辺がだいぶ難解なのですが、現実の世界と夢やメタファーの世界が重なり合って、入り交じるような物語の構成になっているようです。
父親を殺すという予言は、実際にカフカ少年が殺したのではなくても、カフカ少年の代わりにナカタさんがジョニー・ウォーカーをナイフで刺し殺すことによって成就されます。
ジョニー・ウォーカーは父親の創作のインスピレーションの源泉であり、彼の作品を特別たらしめていた何かをもたらす存在だったのでしょうか?
僕のイメージは、自分の魂と引き換えに契約した悪魔がジョニー・ウォーカーで、父親とは一心同体のような存在だったというものです。
佐伯さんが入口の石を使ってどこか遠くの部屋に眠っていたとかげのような2つの特別な和音を見つけ出したように、何か超常的な力を用いて自らの創作を特別なものとしていたのでしょう。
ナカタさんという存在を通してなされた父殺し。
なぜそこで流された血が返り血を浴びたナカタさんではなく、カフカ少年に付着していたのか?
空白の数時間や、左肩の痛みが何を意味しているのかはわかりませんが、父親が仕掛けた呪いは距離を関係せずにナカタさんという他者を介してカフカ少年を捉えたのでしょう。
村上春樹作品で父親については『1Q84』でもNHKの集金人の父親が語られていますが、良い存在としては描かれていません。
村上春樹自身も父親とは作家デビューした時にもめて、長く絶縁状態だったとのことでしたが、近年になって故人となった僧侶である父親との思い出をエッセイ『猫を棄てる』で語っています。
彼の作品でたびたび出てくる死生観や、どこか諦観に似た無常観。
そして、『ねじまき鳥クロニクル』で突如として降って湧いた(ように思えた)戦争体験の話は、父親からの継承であったことが作中で明かされています。
そしておそらく現実の母親である佐伯さんと交わり、夢の中でメタファーとしての姉であるさくらと交わることで、父親の暗い予言は成就してしまいます。
なぜ父親は息子であるカフカ少年にこのような呪いをかけなければならなかったのでしょうか?
自分と息子を捨てて出て行った佐伯さんに対しての怒りがそうさせたように思えます。
彼女がしたことがどれだけ残酷なものだったのかを、自分の息子にインプットした悪意と暴力性を示すことでわからしめようとしたのかもしれません。
カフカ少年が父親としての生活で「損なわれた」と表現したのは、、母への当てつけの道具として育てられている、自分の人生や人間性だったように感じます。
③一人称と三人称
『海辺のカフカ』では、カフカ少年が一人称の「僕」で語る章と、ナカタさん(途中からホシノさん)を中心に展開していく三人称の章が交互に展開していきます。
異なる主人公が語る物語を交互に展開させながら、ひとつに混ぜ合わせていく手法は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『1Q84』などでもみられたもので、村上春樹が得意としている手法でもあります。
短編小説では『神の子どもたちはみな踊る』を三人称で書いていましたが、長編小説で三人称が用いられたのは『海辺のカフカ』が初めてでした。
村上春樹の作品といえば一人称の「ぼく」の物語が主流でしたが、より幅広い物語を、総合小説のようなものを書くために三人称を用いるなど様々な試みをしていたようですね。
『海辺のカフカ』では、一人称で語られていた田村カフカの物語が突然「君は○○する」と二人称に切り替わったりして、突然視点が切り替わるところが興味深かったですね。
そして『海辺のカフカ』の次に刊行された『アフターダーク』ではより俯瞰の視点で描いた実験的な作品と変化していきます。
何かのインタビューか何かで「三人称への宿命的な移行」みたいなことを村上春樹自身が語っていましたが『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』で再び一人称に戻した理由は、過去の作品で描ききったように思われたパーソナルな課題が描ききれていなかったからではないかと思います。
それはすなわち、『ノルウェイの森』の作中の直子的存在と阿美寮的な存在について語る物語を描くというところです。
余談ですが、『街とその不確かな壁』で長年繰り返し描いてきたこのテーマに決着をつけた村上春樹は、次の長編小説では、三人称を用いた総合小説のような人生そのものを俯瞰で捉えるようなスケールの大きい物語を描くのではないかと予感しています。
④直子的存在
多くの村上春樹作品の中で描かれている『ノルウェイの森』における直子のような存在や、直子がいた山中の施設である阿美寮的な存在。
ツィッターで村上春樹といえばこの人!!という「村上春樹的羊男」さんが、『街とその不確かな壁』について文芸評論家の重里徹也さんと語った90分のスペースで語られていたことですが、これまで多くの村上春樹作品の重要な鍵となっていた要素ですし、『海辺のカフカ』でも物語の鍵となるような事柄になっていました。
アーカイブで聴けるので、ぜひぜひおすすめですよ~。
村上春樹のこと以外にも太宰治の話や、小川洋子の話も出ていて興味深かったです。
ただし、『街とその不確かな壁』のネタバレありですので要注意!!
『海辺のカフカ』で描かれている直子的存在は佐伯さんであり、過去に激しく惹かれ合っていた恋人を亡くしてしまったことで彼女は生きる意味をなくしてしまっています。
お互いの家族も親密で、幼い頃から一緒に育った相手と自然に恋に落ち、深く愛し合う。
直子とキズキの関係をほうふつとさせますし、自殺と事故死という違いはありますが、深く愛し合った恋人が若くして亡くなってしまうという点では共通しています。
この世にたった一人しかしない最愛の相手を亡くしてしまった悲しみ。
癒えない深い傷。
病んでしまった魂を抱えたまま、深い闇を抱えている女性。
そんな直子のような存在が村上春樹の作品で繰り返し描かれていて、主人公はそんな相手に恋に落ちますが、本当の意味でその女性の心を手に入れることができずに深く傷つき混乱することになります。
カフカ少年も佐伯さんに、佐伯さんの中にいる15歳の少女に激しく恋をすることになります。
現実的にみれば15歳の少年と、50歳を過ぎた女性なのですが、メタファーを通して佐伯さんは母親であり、15歳の少女でもあり、カフカ少年はかつて佐伯さんが愛した15歳の少年『海辺のカフカ』でもあります。
ナカタさんが入口の石を使って入口を開けたことにより、過去と現在、現実と夢は混じりあい、その境界を朧げにしていき、カフカ少年と佐伯さんは求め合うようになっていきます。
しかし15歳で入り口の石を使って半分の影を失ってしまっていた佐伯さんは、やがて失われていく運命にありました。
⑤阿美寮的な存在である森の奥
『ノルウェイの森』に出てくる阿美寮も深い森に囲まれたどこか現実離れした場所でしたが、『海辺のカフカ』でも森の奥にある世界が、現実(生)の世界からあの世(死)の世界へ境界のようになっています。
あるいは死の世界そのものでしょうか?
時間が意味を持たず、全てが停滞している世界。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『街とその不確かな壁』の壁に囲まれた街のようでもあり、時間が意味を持たないというところも、強い喜びも悲しみもなくただただ穏やかな世界であるというところ共通点を感じました。
森の奥の世界はまるで日本神話においての黄泉比良坂のように感じました。
イザナギは死んてしまった妻・イザナミを取り戻すために死の世界へと降りていき、連れ帰る途中で禁を破って彼女の姿を見てしまい、醜くなったイザナミから逃げて、この世とあの世の境目を岩で塞いでしまうという物語。
カフカ少年もイザナギのように現実の世界へ帰るときに「決して後ろを振り返ってはいけない」と言われるところなんかもこの黄泉比良坂の物語を彷彿とさせられました。
カフカ少年は現実の世界に戻ることを決意しますが、佐伯さんは時の流れがない別の世界に行ってしまいたいと願い続けていて、実際に入口の石の力で別の世界に行き、自らの影を半分そこに置いてきてしまいました。
ナカタさんも教師からの暴力がトリガーとなって現実の世界から離れたいと願って、結果的に影の半分と、知識や記憶を失うことになってしまったのでしょう。
影の半分、本体と影という違いはありますが、前述の2作品の現実世界と阿美寮的な存在の別世界を行き来することで、大事な何かを失ってしまうというところに共通点があるように思います。
⑥カラスと呼ばれる少年とナカタさんとカフカ少年の関係性
『海辺のカフカ』は村上春樹の作品の中でも謎が多いとびきり難解な作品ではないかと思います。
別に謎は謎のままで読むのも全然いいのですが、「これはどういう意味なんだろう?」とかいろいろ考えてしまいますね。
ミステリー小説とは違って明かされないままの謎も多くて、そのモヤモヤ具合も僕としては村上春樹作品の魅力だと思っています。
まずカフカ少年とずっと一緒にいる「カラスと呼ばれる少年」は何者だったのでしょうか?
チェコ語でカフカはカラスを表す言葉であることからも、カフカ少年自身の影のような存在だったように思います。
カフカ少年の行動を揶揄するようで、どこか状況を整理して導いているような「カラスと呼ばれる少年」の言葉は、どこか『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『街とその不確かな壁』の影に似ているように思います。
自分しか頼る存在がなく、相談する相手がいなかったカフカ少年が生み出したオルターエゴ=作られた別人格だったのではないでしょうか?
一人称から二人称に切り替わり、主体と客体が入れ替わる。
視点の切り替えが興味深かったです。
しかし、最後のほうでカラスがジョニー・ウォーカーさんを攻撃していたのは?
って、疑問が湧くのですがそこはメタファーがアレでほにゃららしてなんちゃらで・・・。
つまりよくわからなかったです(笑)
カフカ少年の章と、ナカタさんの章の時間的なラグも興味深かったですね。
カフカ少年の章で起こったことが、あとのナカタさんの章で補足説明されている感じが面白い書き方だと思いました。
カフカ少年が血まみれで記憶が飛んでいた時(第9章)は、同時刻にナカタさんがジョニー・ウォーカーさんを刺殺(第16章)していた。
この辺の物語の構成がとても巧妙だと思います。
そして、時間の歪みの中に意識は呑み込まれ夢と現実は汽水域の淡水と海水のように混じりあって、カフカ少年が佐伯さんと交わりいくつもの存在が重なり合っていく・・・。
そんな場面(第29章、31章)の裏では、ナカタさんが入口の石を手に入れて入口を開けて(第32章)いました。
ナカタさんはカフカ少年にとってどのような存在だったのでしょうか?
結局2人は出会うことはありませんでしたが、ナカタさんは不思議な何かに導かれるようにカフカ少年を助けるような働きをします。
最初はナカタさんがカフカ少年の影?とも考えましたが、それは違うようですし、一度あちら側に行ってこちら側に戻って来た人間だけが担えるような役割があったのでしょう。
むしろナカタさんは佐伯さんと同類の影が半分しかない存在で、結果的には2人でカフカ少年を導いたように思います。
(ちなみに猫のオオツカさんが、昔会った半分しか影がない人間は佐伯さんのことだったのでしょうか?中野区で田村家の近くだし)
⑦血について
『海辺のカフカ』の重要なキーワードのひとつに血があると思うのですが、物語の中で重要な役割を担い何かを暗示していると思います。
カフカ少年の父親=ジョニー・ウォーカーが刺殺された時に流された血は、ナカタさんではなく、カフカ少年が浴びることになりました。
父親を殺すという直接的な行為からは逃れても、流された血はカフカ少年に降りかかり、父親の血=遺伝子は息子に受け継がれるというような呪いのようにも感じられました。
大島さんがかかっている病気も血友病という、血液が凝固しなくなる病気でした。
彼がスポーツカーの色のことを話している時にスポーツカーに赤が多い理由が語られて「赤は血の色だ」と言い、たとえ危険が伴っても自らが緑色の車に乗っている理由を「緑は森の色だ」と語りました。
何かやはり血の話題が多いように思いますね。
そういえば『ノルウェイの森』の表紙の色も赤と緑ですが・・・。
以前、装丁(金色の帯だったかも?)に満足していなかったみたいな話を読んだような気もするので関係はないのでしょうか。
さくらと夢の中で交わったあとにも両手にべっとりと血が付着していたという描写があり、最後はカフカ少年が佐伯さんとの別れの場面では彼女の血を飲むことになります。
『父を殺して、母と姉と交わる』という予言成就の場面で全て血が出てくるのがなんとも象徴的です。
血は家族、血縁関係(姉とは血が繋がってないけど)をあらわすメタファーだったのでしょうか?
他の作品でもよく「血が流れた」みたいな表現は多いですが、『海辺のカフカ』において特に多用されていたように思います。
⑧カフカ少年がくぐり抜けたものと『坑夫』
作中では、前述の「エディプス王」を始めギリシャ神話やら、マクベスやらたくさんの物語や名言が引用されています。
村上春樹の作品の中でも最多ではないかと思える程の引用が、『海辺のカフカ』をより奥深く難解な物語にしているように思います。
その中でも個人的に印象的だったのが、夏目漱石『坑夫』の引用。
僕は未読ですが、失恋した青年が流されるままに炭鉱で働くようになりますが、特に成長もなくだらだらと流れるままにそこにある物事を見続け、結局以前と変化がないままに炭鉱から戻ってくるという話でした。
もしかしたら『海辺のカフカ』自体が『坑夫』と同じような作品であるという意味かと以前は思っていましたが、今回再読してむしろ以前の村上春樹の作品が『坑夫』の主人公のような感じで、様々なことをくぐり抜けるけれど結局何も変わらない状態のまま、起こった出来事を通過して日常に回帰していくというある種自己作品に対するアイロニーであるように思えました。
右肩上がりな経済や社会に迎合せず、あえて「何かを克服して成長する物語」を回避してあくまでシニカルでクールな物語を描いてきた村上春樹。
しかし、バブルの終焉から、地下鉄オウムサリン事件、阪神淡路大震災という彼にとっても日本という国家にとっても歴史に残る大事件を経験し、それまでのデタッチメントからコミットメントへとその立ち位置を変化させたように思います。
この物語で何故15歳の少年が主人公になったのか?
一番の大きな理由は成長譚が描きたかったからではないかと思います。
もちろん市井のマッチョな物語ではなく、彼流にアレンジされた現代を生きる15歳が世界とコミットメントするまでの物語。
とても難解な作品であり、単純な成長譚を描きたくなかったからこそ内容はどんどん難解で謎に満ちたものになっていったようにも思えます。
年齢は違いますが、1997年に神戸で児童連続殺人事件を起こした14歳の酒鬼薔薇聖斗のことがイメージにあったのだと思います。
複雑な家庭環境、閉塞感を強めていく社会で変質していく子供たち。
そんな損なわれてしまった、魂を病んでしまった、「問題を抱えた子供たち」の世界との和解を描きたかったのではないか。
神戸出身の村上春樹がこの事件に何も感じなかったとは思えませんし、大きな衝撃を受けたのではないかと思います。
カフカ少年もカッとなって(それほど深刻ではないにせよ)学校で何度か暴力沙汰を起こしたことがあり、まかり間違えれば悪い方に向かってしまうことも示唆されているように思います。
彼が辿った道のり、ぐぐり抜けたものは、父親からの暗い予言と呪い、自らの出生と母親への愛情飢餓、そして入口を開けて森の奥へ入っていき、終わりのない平穏さと安寧の中からこの無慈悲な現実の世界に戻ってくることでした。
その過程でたくさんの出会いがあって、血が流れて、あるものは命の灯火を吹き消しました。
そんな過程でしなやかな竹のように、重みや衝撃をしなるように受けて耐えうるような最も身につけることが難しい種類の強さを彼は獲得することができたのだと思います。
彼の背中を押したものは何だったのでしょうか?
カフカ少年はギリギリのところをくぐり抜けたのだと思いますし、最後まであの世界にとどまっていた可能性も、自らの生命を破壊していた可能性もあったのだと思います。
彼の背中を押したものは、彼が一番心底から欲しがっていたもの。
愛情だったのだと思います。
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」
佐伯さんの言葉は、カフカ少年に生きる理由をくれました。
猥雑で不寛容で暴力的なこちらの世界での生きる理由を。
カフカ少年は成長しましたが、それは物の見方が180度変わるとか、考え方がガラッと変わったとかそんなふうなことではなくて、もっと静かで、でも確かな変化と成長だったように思います。
見た目はそんなに変化していないかもしれない(『坑夫』の青年のように)けど、彼は世界の一部になる準備ができている。
描かれたのは「世界との和解」だったのだと思います。
でもそれは簡単に言語化できるものではなくて。
揺れ動く感情や痛みの果てに近くできるもの。
「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにできないものだから」
大島さんのお兄さんが伝えたかったこと。
本当の答えはことばにできない。
自分で経験して、くぐりけていくことでしか獲得できない。
物語。
物語の力。
言葉ではなくて物語でしか伝えられないこと。
村上春樹が『海辺のカフカ』を通じて伝えたかったメッセージはそういったことではないのかと思いました。
彼は言う、「ハワイにトイレット・ボウルと呼ばれるスポットがある。そこでは引き波と寄せ波がぶつかって大きな渦ができているんだ。便器の水のうずみたいにぐるぐるとまわっている。だからワイプアウトしていったん底に引き込まれると、なかなか浮あがってこられない。波の具合しだいでは、ひょっとしたらそのまま二度と浮びあがれないかもしれない。でもとにかく君は海の底で、波にもまれながらじっとしていなくちゃならないんだ。あわててじたばたしたところでなんともならない。かえって体力を消耗するだけだ。実際にそういう目にあってみると、こんなにおっかないことはちょっとほかにはないね。でもそういう恐怖をいったん乗りこえないことには、一人前のサーファーにはなれない。死と二人きりで向かいあって、知りあって、それを乗りこえていくんだ。その渦の底で君はいろんなことを考える。ある意味では死と友だちになり、腹をわって話すことになる」
5、終わりに
いやー、とても難解な作品で感想を書くのもなかなか大変でしたが、何度目かの再読をして個人的に村上春樹の作品の中でも一番好きな作品になりました!!
魅力的な登場人物と謎めいたストーリー。
村上春樹らしさを保ちながらも、少年と老人を主人公にして、1人称と3人称をうまく使い分けながら書いたこの作品は彼の作品のひとつの到達点でもあったかのように思えます。
↓ブログランキング参加中!!良かったらクリックよろしくお願いします!!