1、作品の概要
『コレラ時代の愛』はコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの長編小説。
同書は1985年に刊行された。
ガブリエル・ガルシア=マルケスは、1967年に刊行された『百年の孤独』が世界的な大ヒットになり、1982年にノーベル文学賞を受賞している。
日本では新潮社より2006年に単行本で刊行されている。
訳者は木村榮一で、502ページ。
2007年にアメリカで映画化された。
村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』で参考文献として挙げられている。
19世紀末から20世紀中頃のコロンビアを舞台に、50年以上初恋の人を待ち続けた男と、彼に関わった人々を描いた。
2、あらすじ
20世紀中頃のコロンビア。
長年連れ添った夫のフべナル・ウルビーノ博士を、自宅での事故で亡くしたフェルミーナ・ダーサ。
72歳の彼女のもとにフロレンティーノ・アリーサが現れ愛を告げる。
時はさかのぼり19世紀末、17歳だったフロレンティーノ・アリーサは、13歳だったフェルミーナ・ダーサと恋に落ち、2人は将来を約束する。
しかし、フェルミーナの父親のロレンソは娘を名家に嫁がせたいために2人の仲を引き裂き、フェルミーナ自身も心変わりしてしまう。
やがて世界的に有名な医師であるフベナル・ウルビーノ博士のもとへ嫁ぐことがを決めたフェルミーナ・ダーサは2人の子に恵まれて紆余曲折もありながらも幸せな結婚生活を送る。
一方、失意のフロレンティーノ・アリーサは他の女性と恋愛を繰り返しながらも、独り身で初恋の相手であるフェルミーナ・ダーサを待ち続ける。
こうして51年9ヶ月と4日待ち続けた男の物語が始まるのだった。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
読んだキッカケは、村上春樹『街とその不確かな壁』でガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』が参考文献に挙げられていたからです。
村上春樹は作中で多くの作品を引用しますが、参考文献として巻末に作品を紹介するのは非常に稀で『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の幻獣について書かれていた本以来だったように思います。
ちなみにこの『コレラ時代の愛』は買うと3000円します。
いや、めっちゃ高い!!
ってなわけで、地元の図書館で予約して借りましたが、市外へ貸出しされていたとのことで、ちょっと待ちました。
いや、これ僕の前に借りてた人も『街とその不確かな壁』読んで借りたんやろな。
って、ニヤニヤしました。
スペースで『コレラ時代の愛』を読んだ方の感想を聞いてましたが、とにかく序盤は意味わかんないし退屈だしでくじけそうでした。
しかし、読み通してみて、半世紀の間の2人の人生を追ったスケールの大きさに胸を打たれました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
あまり前情報なしに読んだこともあり、これなんの話なん?って感じで物語の全容が見えずに序盤は特に退屈でした。
多くの登場人物が出てきて淡々と物語が進んでいく感じで、会話も少なく全く感情移入できないままに読み進めていきました。
フロレンティーノ・アリーサとフェルミーナ・ダーサの初恋のエピソードあたりから少し面白くなってきて、後半は一気に読みすすめました。
ガルシア=マルケスの本を読んだのは初めてでしたが、彼の作品の中でも『百年の孤独』などが最も幻想的な作品だったようですね。
『コレラ時代の愛』では、物語の終盤に女の幽霊が描かれていたりしますが、むしろ写実的な作品で、過去の作品から文体も変更して描かれたようでした。
あとがきにもありましたが、そのように書いた理由としては19世紀末~20世紀中頃の時代を精密に描きたかったことと、半世紀に渡るフロレンティーノ・アリーサの愛の変遷を描きたかったからではないかと思います。
50年という時間の蓄積。
この物語で描かれていたのはまさにこの時間の蓄積で、フロレンティーノ・アリーサ、フェルミーナ・ダーサ、フベナル・ウルビーノ博士の3人を軸に写実的に様々な人たちとの関わりを描いていったのは、そういった「時の重み」のようなものを表現したかったからではないかと感じました。
しかし、フロレンティーノ・アリーサが50年という長い時間をプラトニックに待ち続けたのではなく実に多くの女性と恋に落ちてベッドを共にします。
その数は600人を超えていて、いやそれどうなん?って感じですが彼は手当たり次第といっていいぐらい様々な女性にアプローチをして口説き落とします。
相手が既婚者だろうがお構いなしで、老境に差し掛かっても性欲は衰えずに身元引受人になった14歳のアメリカ・ヴィクーニャにも手を出したのにはドン引きしました。
挙げ句の果てに、フベナル・ウルビーノ博士が亡くなったことを知ると、フェルミーナ・ダーサのことで頭がいっぱいになりアメリカ・ヴィクーニャのことをほったらかしにしてしまいます。
哀れな彼女は、フロレンティーノ・アリーサの愛情を受けられないことに悲観し、若くして命を絶ってしまい・・・。
まさに鬼畜の所業ですね。
神経衰弱気味で、便秘持ちのフロレンティーノ・アリーサですが、フェルミーナ・ダーサに認められる男になるためにも仕事に精を出して、ついには叔父から河川運輸会社のトップの座を引き継ぎます。
そして、フベナル・ウルビーノ夫人として公の場でたびたびフェルミーナ・ダーサの姿を見かけながらやがて、彼女の夫の死を待ち続けるようになります。
しかし、それまでに自分やフェルミーナが病や事故などで死ぬ可能性もあったわけで、老いと衰えの恐怖とも戦いながらの半世紀でもありました。
一方、フェルミーナ・ダーサのほうではフロレンティーノ・アリーサとの恋はほとんど黒歴史といっていいもので、彼のこともこう評しています。
ー人間というよりも、影のような感じの人なのー
人間ですらないって、ひどい言い草ですね(笑)
この言葉からわかるように50年の間彼女を待ち続けたフロレンティーノ・アリーサに比して、フェルミーナ・ダーサはほとんど彼のことはただの過去の亡霊のように捉えていました。
かわいそうなフロレンティーノ・アリーサ。
一喜一憂しながら、自宅もフェルミーナ・ダーサと結ばれることを夢見て改装し、彼女の人生に影のようにつきまとっていたフロレンティーノ・アリーサの愛はもはや狂気とも言えるように思います。
現代ならストーカー認定間違いなしですね(笑)
こうした狂気的といっていいような愛をリアリズムの手法で描かれたのが『コレラ時代の愛』という作品で、今までの幻想的な書き方を控えたのは、彼の常軌を逸した愛が今までの作品の幻想のようだったためではないかと、あとがきにも書かれていましたが僕もそう思います。
フェルミーナ・ダーサは結婚して、何年も旅行に行ったり、家出をしたりした時期もあるものの、フロレンティーノ・アリーサも住むカルタヘナの街に住み続けていて、彼とは何度も顔を合わせたりします。
その間にコレラのパンデミックや、内戦が2人の人生に影を落としていて、同じ街で刻んだ時間の堆積がマグダレーナ川の水と溶け合っていきます。
一緒にはいなくても同じ街で時間を重ねていったことにこの時代を描くことにこだわったガルシア=マルケスの意図があったようにも感じました。
倫理的にあまり褒められた方法ではないにせよ、51年9ヶ月と4日という半世紀を超える長い時間を待ち続けたフロレンティーノ・アリーサの狂気の愛。
紆余曲折の末に、初恋の君の愛を勝ち取りマグダレーナ川を航行する旅に出た2人。
川の流れはまるで時の流れのようで、かつていたマナティーやワニはいなくなり、木は切り倒されて川辺は荒廃した風景をみせます。
時間は流れて、失ったものを感じさせる。
やがてこの川の水自体が涸れてしまうかもしれない。
それは老境に差し掛かって未来に不安を抱く、2人の今後の運命そのものを暗示しているようにも思えました。
しかし、フロレンティーノ・アリーサはそんな不安定な未来、船に起こったトラブルへも、51年9ヶ月と4日前から用意していた答えを用意していました。
「命の続く限りだ」
多くのことを経験して、乗り越えてはじめてたどり着けるような愛の境地。
それは一体どのようなものだったのでしょうか?
2人が多くの出来事を通過して結ばれたとき、退屈にさえ思えた多くの人たちのエピソードが深い意味を持ち輝きを放つような思いがしました。
結婚生活という人生の辛酸をなめつくしたあと、熱情がしかけるさまざな危険や錯覚から生じる手ひどいしっぺ返し、失望の生み出す幻想を越え、愛をも越えて今は平穏な時間を過ごしていた。二人はともに長い人生を生き抜いてきて、愛はいつ、どこにあっても愛であり、死に近づけば近づくほどより深まるものだということにようやく思い当たったのだ。
5、村上春樹はなぜ『コレラ時代の愛』を『街とその不確かな壁』を参考文献にしたのか
最新長編小説『街とその不確かな壁』で、珍しく参考文献として挙げていたのがガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』だったのでしょうか?
他作品の引用なんかは多いですが、巻末に参考文献として挙げるのは稀有で、最近はあまり海外文学までは読んでいなかった僕も俄然興味が湧き、わざわざ図書館で順番待ちをして借りました。
ひとつには『街とその不確かな壁』で語られていたマジックリアリズムについて興味を惹かれたからで、現実にはありえないようなものと現実に存在するものが垣根なく存在するというガルシア=マルケスの作品に惹かれたからでもありました。
(余談ですが、『街とその不確かな壁』でコーヒーショップの女性が『コレラ時代の愛』の2回目を読んでいますが、そんな30代の女性はあまりいないように思いますね(^_^;))
しかし、ひとつ疑問なのがマジックリアリズムについて語るならリアリズムで書かれた『コレラ時代の愛』より『100年の孤独』のほうがふさわしかったのではないかと思いました。
なぜ『コレラ時代の愛』だったのか?
それはこの作品が戦争と疫病をバックグラウンドにして描かれた作品であり、ずっと忘れられないたった1人の女性を想い続ける物語だったからではないでしょうか?
『街とその不確かな壁』では直接的には戦争のことが描かれてはいませんし、疫病についてはイエローサブマリンの少年が「魂の疫病」について語っているに留まります。
しかし、最近のインタビューで村上春樹自身が戦争と疫病について語っていたように、バックグラウンドにそのような神経症的で不安定な世界が存在しており、対極として壁の内側の平穏な世界が描かれていた。
それが壁が魂の疫病から人々を守っているということの意味であると思いますが、そんな不安定な時代だからといって不確かな壁のうちに留まって永遠の安らかさのうちに生きていくのか?そんな心の在り方について問われた物語であったのだと思います。
『コレラ時代の愛』も疫病の蔓延で人々が次々と死んでいき、内戦が世の中を暗くしている中での人間の心と愛のあり方を描いた作品であったと思います。
「ぼく」が「きみ」をずっと忘れずに想い続けたようにフロレンティーノ・アリーサはフェルミーナ・ダーサを想い続け、待ち続けます。
「私」がコーヒーショップの女性に言った「待っていてもかまわないかな?」という言葉はには少し違和感があったのですが、『コレラ時代の愛』を読んで繋がったような気がしました。
それぞれの作品で愛しい人を「待っていた」フロレンティーノ・アリーサと「私」がここでシンクロしたように思いました。
現実と非現実の境目、死者と生者。
それを境目なく描いたのがガルシア=マルケスだと『街とその不確かな壁』で語られていて、壁についての考察が続きます。
それは時と状況によって形を変えていく不確かな壁なのだと。
何が現実であり、何が現実ではないのか?いや、そもそも現実と非現実を隔てる壁のようなものは、この世界に存在しているのだろうか?
村上春樹とガブリエル・ガルシア=マルケスという2人の作家に対する現実と非現実の境目の感じ方。
子易さんの描き方はまさにマジックリアリズムで、現実の中に非現実がリアルに存在しているような感覚でした。
なんせ亡霊が面接するんですからね(笑)
現実と非現実のその境目は不確かで、有機的に変化していく。
時には隔てられているのではなくて、重なり合って多元的に存在するものなのかもしれません。
時間の堆積、時の流れと川の流れ。
そんなところにも2つの作品に共通する要素を感じました。
『コレラ時代の愛』での船旅はまるで時を遡上していくかのような幻想的なものでしたが、『街とその不確かな壁』でも私が川の流れに逆らって歩いていき時を遡って若返っていく場面がありました。
そのように村上春樹が『コレラ時代の愛』から多くのインスピレーションを受けて描いたのが『街とその不確かな壁』だったのかもしれませんね。
これを機会に『100年の孤独』などガブリエル・ガルシア=マルケスの他の作品も読んでみたいと思いました。
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