1、作品の概要
『去年の冬、きみと別れ』は中村文則の長編小説。
書き下ろしで、2013年に幻冬舎から刊行された。
2014年本屋大賞候補。
2018年に岩田剛典主演で映画化された。
フリーライターの「僕」がある猟奇殺人事件の取材をするうちにその狂気のうちに飲み込まれていく・・・。
2、あらすじ
フリーライターの「僕」は、2人の女性を殺して捕まったカメラマンの木原坂雄大の本を書くために直接取材を試みていた。
木原坂雄大は、2人の女性を燃え盛る炎で焼き殺した罪に問われていた。
歪んだ創作欲と狂気は、K2の人形に結びつく。
人形師、木原坂の姉・朱里、そしておびただしい数の蝶の向こうに映るだれかの写真・・・。
景色の向こうに狂気と欲望が渦巻き、やがて隠されていた真実が蠢き出す。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
『迷宮』『去年の冬、きみと別れ』『あなたが消えた夜に』『私の消滅』『その先の道に消える』あたりが中村文則作品においてミステリー色が強い作品だと思いますが、『去年の冬、きみと別れ』はその中でも1番の傑作ではないかと思います。
仕掛けられた1人称の罠に全ては覆り、より大きな狂気に飲み込まれていく。
人形や、『地獄変』のエピソード。
美という呪い。
彼のミステリー路線のひとつの到達点を描いた作品だと思います。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①模倣される狂気と欲望
木原坂雄大が撮った『蝶』の写真。
傑作と呼ばれるこの作品ですが、群れ飛ぶ蝶の向こうに撮された人影。
ロシア人作家の「真の欲望は隠される」というコメントが実は木原坂雄大自身の本質も見抜いたようなものであり、彼自身が現れたような作品でもありました。
乱れ飛ぶ蝶の向こう側にいたのは、製作される前の人形でした。
誰でもない、命を吹き込まれていない空っぽな存在。
彼のカメラへの情熱も、女性への欲望も、姉への執着も、そして燃え盛る炎で焼き尽くされる女性の肉体も、全てが誰かの欲望や物語の模倣に過ぎなかったとしたら・・・。
木原坂雄大という男自身も空っぽな存在であり、取り込んだ他人の欲望を増幅させていく得体の知れない存在だったのだと思います。
模倣がオリジナルを超えていく。
感染症のように罹患した誰かの思念を自らのうちで増殖させてやがては狂気へと変貌していく。
芥川龍之介の『地獄変』も、妻の人形を作りやがて妻自身より美しい人形を作った人形師の話も。
木原坂雄大が2人の女性を殺すことになったのもその狂気が彼の中に取り込まれて増幅していったからだったのでしょう。
・・・美しくなると思った。彼女が死ねば、彼女を撮った自分の写真が。本物が死ぬことで。
人形師、姉の朱里、ストーカーの斉藤など、どこか壊れてしまっていて違う領域にいるような人間たち。
そんな彼らの狂気と欲望を取り込むことで化物になってしまった木原坂雄大。
しかし、彼の凶行はまた別の化物を生み出してしまうことになります。
②『地獄変』と人形にまつわる美と狂気
『地獄変』は芥川龍之介の短編小説で、『宇治拾遺物語』の『絵仏師良秀』をもとに創作されたもので、絵仏師の良秀が大殿から地獄変相図の屏風を書くように依頼されるが、実際に見たものしか描けない良秀は困惑し、作品を描くために常軌を逸していきます。
燃え盛る牛車の中で実の娘が焼き殺される様を見ながら、良秀は地獄変の屏風を描き終えて、翌日に自殺してしまう。
そんな芥川龍之介の芸術至上主義と絡めて論じられる作品でもありますが、『去年の冬、きみと別れ』は中村文則版の『地獄変』とも言える作品であり、しかし犠牲を払ったわりに優れた芸術作品を描けなかった、木原坂雄大の失敗を描いた作品でもあります。
模倣の模倣。
自らの作品が『宇治拾遺物語』を模倣した『地獄変』をされに模倣したものだと少し皮肉っているようにも取れますが、そもそも創作上の模倣はそこにリスペクトを伴っていれば悪いことではないのではないかと僕は思います。
もし燃えているのが、小林百合子ではなく自分の姉だと知っていたら・・・。
彼は『地獄変』を彷彿とさせるような蠱惑的な作品を撮ることができたのでしょうか?
優れた芸術作品を作るために自らの娘を捧げた良秀。
木原坂雄大は自らの芸術に対して捧げる生贄が小さすぎたのかもしれませんね。
魔性が宿る美、人を狂わせる常軌を逸した何かを備えた何かを創作するために。
神は時には血肉を伴った贄を求めるのかもしれません。
小手先だけの技術だけではなく、作者自身の魂や慟哭そのものが塗り込められた作品に魔性が宿るのでしょうか?
室町時代の人形師の人形も妻の吐血を浴びることによって魔性を帯びました。
③絡み合った2本の糸
『去年の冬、きみと別れ』は冒頭に「M・Mへ そしてJ・Iに捧ぐ」とありますが、資料や手紙を交えながら架空の人物が書いた小説という形を取っています。
M・Mや、J・Iなんて登場人物はいないので、だいぶ混乱しましたが、作中の名前は仮名だとのことなので、木原坂雄大(仮名)=M・Mで、「僕」=J・Iということなのでしょう。
編集者の男は姉の朱里を木原坂雄大自身に殺させて、最後にこの本を「憎悪の表れとして」贈ることで復讐を完成させた。
3回ぐらい読んで、ようやく意味がわかった気がしましたが、すごい仕掛けですね。
この物語の語り手は「僕」であり、編集者の男でもありました。
2人の語り手によって紡がれた物語は、木原坂雄大が起こした2つの猟奇殺人事件を軸に、「人生を完全に間違えてしまった」人間たちの物語でもあったのだと思います。
木原坂姉弟も、幼少期に両親から虐待を受けてどこかで逸脱してしまった。
姉の朱里も周囲の人間を不幸にするような闇を抱えるようになり、弟の雄大も心にブラックホールのような何もかも吸い込んでいくような危うい何かを宿すようになってしまいます。
『去年の冬、きみと別れ』はそのように人生を真っ当に生きられなかった人たちの鎮魂歌のようでもあります。
編集者の男も、弁護士の男も木原坂姉弟に関わらなければ真っ当に生きることができたのかもしれません。
しかし、彼らは出会ってしまい、逸脱した存在に、化物になってしまった。
『僕』と編集者の男を始めとする「人生を完全に間違えてしまった存在」との境界線。
物語の冒頭で雄大が「僕」に言う言葉、「覚悟は、・・・ある?」はそういった境界線を超える覚悟はあるのか。
化物になる覚悟はあるのかという意味だったのだと思います。
朱里(というか小林百合子ですが)が言う「私たちの領域」もそういった意味だったのではないでしょうか?
『冷血』を書いたカポーティのように自らを損なうまでに事件にのめり込んでいく・・・。
ある意味では、「僕」がカポーティになるのかどうかの境界の物語でもあったのだと思います。
「僕」は「覚悟などいらない。僕にはもう、守るものがない」と言いますが、彼を現実につなぎ止めたのは恋人の雪絵でした。
なぜ僕は、木原坂雄大の本を書こうと思ったのでしょうか?
物語の中では深く語られていませんが、自分の平凡な人生に絶望し、自らの倦怠や闇を特別なものと感じ、違う存在に変容して、自分の人生を貶めたいと思ったのでしょうか。
しかし、本物の怪物たちに出会い、何度もその領域に足を踏み入れようとしながら彼はそこまで到達することはできませんでした。
「僕」は本当にそこに至るまでの過程で、真に逸脱して、世界から弾かれた存在になることがどういう酷薄なことなのかを痛いほど理解します。
木原坂姉弟、編集者の男の物語によって。
・・・僕の真の欲望は、破滅的な人生を送ることでもない。荒々しいことを求めることでも、見事な芸術をつくることでもない。安定を求め、時々破滅に憧れ、職業は何でもいいから少しだけ皆から羨ましがられることだと。
最後の編集者の男と「僕」の交流が何か好きです。
大切な存在を亡くして化物になってしまった編集者の男に対して、まだ何も無くしていない僕。
編集者の男は木原坂姉弟によって自らの人生を破壊されて化物になってしまった存在で、「僕」には同じようになって欲しくなかったのかもしれません。
タイトルの伏線回収も最高で、鳥肌がヤバかったです。
僕が本当にきみと別れてしまったのは、去年の冬だ。木原坂朱里を初めて抱いたあの夜。人間をやめ、化物になろうと決意した夜。・・・君の彼氏が、化物であってはならない。そうだろう?去年の冬、きみと別れ、僕は化物になることに決めた。
中村文則の作品の多くで最後に提示される一握の希望。
それは、編集者の男にとっての「僕」の存在であったのではないかと思います。
化物になってしまって、もう以前のように普通の人生を歩めない彼にとって、「僕」は自らが獲得し得なかった普通の幸福を託すような存在だったような気がしてならないのです。
5、終わりに
文庫本にして190ページほどの作品ですが、とてもたくさんのことが詰め込まれていて、集中して読まないと物語の大事なエッセンスがこぼれ落ちていってしまうような気がします。
ミステリー作品としても秀逸だと思いますが、この物語の世界に生きる人々の欲望と人生の明暗を描いた物語でもあったのだと思います。
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