1、作品の概要
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、アメリカの映画。
2024年10月4日にアメリカで公開され、10月11日に日本でも公開された。
2019年に公開された『ジョーカー』の続編。
監督はトッド・フィリップス。
主演はホアキン・フェニックス、レディー・ガガ。
上映時間は138分。
タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」はフランス語で2人狂いを意味し、1人の妄想がもう1人に感染し、複数人で妄想を共有する精神障害のことを言う。
前作から2年後、アーサーはアーカム病院に収監中、ジョーカーの熱狂的なフォロワーの女性・リーと出会い熱狂的な恋に落ちる。
2、あらすじ
前作から2年後。
アーカム州立病院に収容されていたアーサー(ホアキン・フェニックス)は、看守からの厳しい支配と過酷な環境から、かつてのようにジョークを言うこともなく自らの殻に閉じこもっていた。
ある日、熱狂的なジョーカーのフォロワーである女性・リー(レディー・ガガ)と出会い恋に落ちる。
リーは病院に放火をしてアーサーと共に脱走を試みるが失敗に終わり、懲罰室に隔離されたアーサーと交わり、病院をあとにする。
リーとの恋愛と、ジョーカーの熱狂的なフォロワーたちの存在が再びアーサーに自身を与え、5人の命を奪った罪の裁判も彼のショーと化していく。
はたして、アーサーの中に別人格である「ジョーカー」は存在するのか?
傍聴席で見守るリーの前でジョーカーとして登場したアーサーは現実と空想の狭間で法廷を熱狂へと導いていく。
3、この作品に対する思い入れ、観たキッカケ
やっぱ、前作が好きすぎてまさか続編が作られるとは思わなかったけど(続編がありそうな終わり方ではあったけど)、公開を心待ちにしていました。
し・か・もですよ、ハーレクイン役にレディー・ガガが出演するとか、ワクワク感がハンパなかったです。
ただ、一方で賛否両論真っ二つで酷評も多いと聞いていたので、ちょっと不安もありました(;^ω^)
やっぱ、続編って前作がヒットしている分難しい部分もありますからね・・・。
個人的にはめっちゃ良かったですし、考えさせられる内容でした。
4、感想(ネタバレあり)
まずは前作から引き続いてホアキン・フェニックスの名演・怪演を称えたいと思います。
2023年4月にアメリカで公開された映画『ボーはおそれている』で主演を務めた時はお腹ポッコリのオッサンだったのですが、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ではガリガリのアーサー・フレックに。
たぶん体重30~40キロぐらい増減してるんじゃ・・・。
このへんの身体作りからも役者魂を感じます。
アーカム州立病院に収容され、精神病患者として看守から厳しく管理される過酷な日々。
序盤のアーサーは生きる望みもなくしてしまったようで、ほとんど口もきかないような状態でした。
大好きだったジョークを言うこともなく、自分の殻の中に閉じこもってしまていたアーサー。
彼を暗闇から引っ張り出してくれたのは、同じ病院のコーラスグループにいたリーでした。
リーは、ジョーカーの熱狂的なフォロワーで、マレーの頭を銃で吹っ飛ばしたのを「自分がやりたいと思ってくれたことをやってくれた」と肯定し、称賛した上で「自分は1人ではないと感じた」とアーサーに告げます。
生きる屍と化していたアーサーでしたが、ジョーカーとしての振る舞いを理解し肯定してくれる人がいること、自分を理解してくれて愛してくれる女性がいることで大きく勇気づけられて、また元のようなジョークを言ったりする彼に戻っていきます。
この辺のアーサーの変化の演じ方がやはり秀逸でした。
ガガが演じるリーはぶっ飛んでて、病院に放火してアーサーと一緒に脱走を試みるシーンは最高にクールでした。
まさに「フォリ・ア・ドゥ(2人狂い)」と言うべきファンキーさ。
彼女は退院してしまいますが、かつての自信を取り戻したアーサーは弁護士や、TVのインタビューに対してもジョーカーを思わせるようなふてぶてしい態度を取るようになります。
ジョーカー大復活!!
ただリーがついていた家庭環境に関する嘘を弁護士から知らされ、混乱するアーサー。
面会に来たリーは、アーサーの子を身籠ったと言いますが、ここまで嘘が多いと、それも本当か?と思えてきます。
謎の多いキャラクターですが、ジョーカーを崇拝し、彼とこの世界に対して反旗を翻したいという強い想いを感じました。
アーサー・フレックが母親からの虐待の末に笑いが止まらなくなるなどの精神疾患を患い、果てには自身の中に分裂した別人格ジョーカーを作り出した。
本当にジョーカーは存在したのか?
そして、その別人格であるジョーカーがアーサーの自覚のないままに6人の人間を殺したのか?
それが裁判の焦点であり、この映画の核の部分だったかと思います。
自分の生き死にがかかった裁判。
そこでも法廷をショーの舞台と化し、弁護士も解任し、ジョーカーの扮装をして裁判に出頭するアーサー。
調子こきまくりです。
この狂気とも思える振る舞いの裏には、自分の理解者であるリーの存在があったことは間違いないでしょう。
しかし、アーサーは意気揚々と病院に帰り看守たちに手ひどいリンチを受けます。
悪の英雄・ジョーカーとして傍若無人に振る舞っていても、自分は結局、重い精神疾患を抱えたみじめなアーサー・フレックであることを骨の髄まで思い知らされたのではないでしょうか?
翌日の法廷でアーサーは語ります。
「ジョーカーはいない」
衝撃的なひと言であり、ジョーカーの存在を否定することは自らの有罪=死刑を確定させる行為でした。
傍聴席を立つリー。
結局、リーが愛していたのはあくまでジョーカーであり、アーサー・フレックではなかった。
前作『ジョーカー』であれだけ鮮烈に悪のカルトヒーローであるジョーカーを描いておきながら、続編で「ジョーカーはいない」と主人公のアーサー・フレックに語らせてしまう。
ミュージカルシーン云々もありますが、ここが一番の賛否両論になっている場面ではないかと思います。
イエロー・モンキーが主題歌を歌っていたらJAMばりに「ジョーカーはいませんでした!!いませんでした!!いませんでした!!」と歌うところですよね。危うく。
リーの存在はゴッサムシティに無数にいるジョーカーのフォロワーの象徴であり、前作『ジョーカー』を観てジョーカーの破天荒なキャラクターに惹かれた現実の観客の象徴でもあったかと思います。
そこにノーを突き付けた。
ジョーカーなんて存在はいなかったんだと。
僕も正直衝撃を受けましたし、リーのように映画館の席を立てばクールだったかもしれませんね(笑)
もしかしたら『ジョーカー』は続編でジョーカーそのものの存在を否定するところまでがセットで作られた映画だったのでしょうか?
そうだったとしたら、悪魔的としか言いようがありませんし、映画史上に残る盛大な梯子外しになると思います。
個人的にはその梯子外しも含めて、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は良い映画だったと思います。
裁判所が爆破されて、アーサーはリーの元に駆け付けますが、リーはめちゃくちゃ塩対応。
リーはあくまで「ジョーカー」を愛していたのであって、アーサー・フレックのことはどうでも良かった。
対して、アーサーは生身の自分も含めて、アーサー・フレックも愛してくれていると思っていたのでしょうね。
嗚呼、勘違い。
いや、そういうのめっちゃわかるでアーサー。
俺もいろいろあったわ。
そして結末をどう捉えるか?
僕は冒頭のアニメパートがその意味を示唆しているように思います。
自分の影に取って代わられる。
あのアニメは、自分の影のような存在のネクストジョーカーに存在を消されるという結末を示唆していたようにも思えます。
ちょっと受け入れがたいラストではありますが・・・。
もっとジョーカーとハーレクイン=リーが大暴れする展開を予想していましたが、そうはならずに、ジョーカーの存在そのものを否定する。
この映画は何を訴えたかったのでしょうか?
それはSNSなどでみられる過度な偶像の崇拝と、バッシング。
虚像に依存し振り回される大衆の熱狂と狂気を批判していたように思います。
ジョーカーを生み出し、殺したのは誰だったのか?
それは、これを読んでいるあなた自身だったのかもしれません。
5、終わりに
フツーにジョーカーとハーレクインが大暴れする映画を作ったほうがウケは良かったでしょうね。
しかし、そうしなかったところに。
あえて、前作のジョーカーを愛した人たちを裏切ったところに、この映画の強いメッセージを感じました。
メディア、SNSを通じて僕たちは自らの望む怪物を作り出してしまう。
そして、その存在が意に添わなくなった時の手のひら返しの痛烈さ。
そうした振る舞いに対する強烈なアイロニーが『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』という作品であったかのように、僕には思えました。
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