1、作品の概要
『まく子』は、2016年に刊行された西加奈子の書きおろし長編小説。
2019年に映画化された。
鄙びた温泉地に住む少年と、一風変わった少女との交流を描いた。
2、あらすじ
観光でなりたっている田舎の温泉地に住む小学5年生の慧。
彼は成長していく自らの身体や、愚かしい周囲の言動に辟易していた。
ある時、慧の両親が営むあかつき旅館で住み込みで働くようになった母娘。
娘のコズエはその美しさと不思議な言動でクラス中の人気者になる。
コズエのことが気になる慧はある時彼女から秘密を打ち明けられるが・・・。
3、この作品に対する思い入れ
森絵都『カラフル』を読んだ時に、この作品はぜひ子供にも読ませたいと思い実際に長男が読んで、非常に感銘を受けたようでした。
『カラフル』は児童文学でキャッチーさもありながら生きること、成長していくことに対しての強烈なメッセージが込められていました。
『まく子』もはじめは児童文学として書かれていましたがうまくいかず、西加奈子自身が感じている世界に対しての疑問をぶつけることで、子供でも大人でも楽しめる作品が完成したのだと思います。
大人になりたくない子どもたちに、そして大人になりたくなかったかつての大人たちに読んでもらいたい、そう思いながら書きました。 西 加奈子
作者の西加奈子からのメッセージですが、すごく沁みる言葉ですし、この物語の本質をあらわしたような言葉だと思います。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①自らの変化について戸惑う慧
小学5年生の慧は、自らの成長に戸惑っていて、ずっとこのままでいたいと願っています。
1学年で10名ほどしかいない閉鎖的だけど暖かな環境。
かつて男女の隔てもなく仲良かったみんなが『性』の目覚めとともに分断が生じてしまう。
女子の生理や、男子の精通。
昔みたいにいたいのに肉体も精神も変化してしまう。
そのことに耐えられない、慧の心は悲鳴を上げています。
「ミライやドノのこと、尊敬できる?あんな大人になりたいなぁって思う?ぼくはあんな大人になりたくないよ、絶対になりたくない!どうしてこのままでいられないんだ。ぼくは大人になりたくない。なのに体がどんどん変わっていってる。ぼくは大人の男に近づいている。嫌なんだ、嫌なんだよ、すごく。」
自分の父親をはじめ、まわりの大人のことを尊敬することもできない慧。
大人になることに希望を持てない彼は、周囲との間に壁を作って自らの壁の中に閉じこもってしまっています。
僕にも覚えがあります。
急速に大人になっていくことへの恐怖、同性の幼稚さへの嫌悪、異性が遠く冷たい存在になっていくことへの違和感。
そうして成長して大人になってどこにたどり着くのか?
最後は灰になって死んでいくだけ。
祭りのあとに燃やされてしまう神輿のように。
そんな生命の儚さ、いや無意味さ。
慧は、生きていく意味に対しても絶望している。
「死ぬためだけのために成長させられるんだよ、ぼくたちは。なんだよそれ、残酷すぎるよ。なんでなんだよ。ずっと、ずっとこのまんまでいさせてくれたらいいじゃないか。ぼくは自分の体が変わるのがこわい。女子のことを変な目で見るようになるのがこわい。大人になりたくない。」
自分が変わってしまうことが怖い。
成長して、何か別のものになっていつの間にか自分が忌み嫌っていた大人に変わってしまう。
そうしてたくさんのことを犠牲にして成長しても、結局は死んでしまう・・・。
そんな慧の絶望を、恐怖を取り払うキッカケをくれたのはコズエでした。
②コズエが語る小さな永遠と大きな永遠
変わらずにいたい。
ずっと永遠に変わらない自分でいたい。
そんな誰かの願いを具現化したのが、コズエたちの星の生物だったのかもしれません。
しかし、コズエは、地球での生活と人々との関わりの中で「小さな永遠」の円環を壊して変化していきます。
そして、そのことこそがコズエとオカアサンが望んでいたことだったのでしょう。
祭りの時に2人がいつまでもお互いを呼び合っていたこと。
もう小さな永遠じゃない。
不幸で寂しく完結された円環から脱却して、無限から有限の世界へと飛躍する。
この瞬間も変化し続けている、そんな喜びと高揚が感じられたやりとりでした。
「きっと永遠を望む誰かに。何かが壊れたり死んだりすることを嫌だと思う誰かが、永遠に自分でいたい誰かが、絶対に壊れない自分を、永遠に壊れない自分を、永遠に変わらない世界を作ったんだ。もしかしたらその誰かは、」
コズエはそこで、少し息を吐いた。
「人間かもしれないね」
魂が宇宙レベルで繋がっていて、お互いの粒が交換されることで大きな永遠を形成しているのだとしたら誰かの願いが小さな永遠を、コズエたちの星の生物を創ったとしても不思議はないのかもしれません。
そして、時間が伸び縮みして一方向でないものだなのだとしたらその願いは慧のものであったとしても不思議はないのかもしれません。
コズエは言います、小さな粒(原子?)が覚えている記憶。
たとえ体が滅びてしまっても、想いは残ってこの世界を巡り続ける。
そんな想いのかたまりが魂で、不変に世界を循環し続けている。
それがきっと大きな永遠なのでしょう。
「小さな永遠を終わらせないといけない。」
コズエはにっこりと笑った。
「大きな永遠に、変えないと」
例えば不老不死なんてものがあるなら、それはコズエたちの星の人間のように他の粒との交換を拒んだ摂理から離れた存在なのでしょう。
命も、この風景も、たった今目の前に存在する愛しい誰かも、限りがあってやがて滅んでゆくからこそ美しい。
それはこの世界全体の大きな円環の中で巡り巡って存在する大きな永遠の中の粒たちなのだから。
西加奈子はインタビューの中で自然界に存在しなかった物質で決して分解されないプラスチックについて語っていました。
プラスチックは小さな永遠であり、コズエたちの星の生物のようで、永遠を望む人間たちによって作られたものなのでしょう。
その傲慢さと、摂理に背いた存在の危うさ。
しかし、人間はこれからも小さな永遠を創造し続けるのかもしれません。
この物語と、コズエたちの存在はそういった人間の傲慢さへの警鐘でもあるのかもしれません。
③慧がたどり着いた答え
「慧」の字は仏教用語で真理を明らかに知る力をあらわすそうです。
一般的にも「かしこい」とかの意味もありますが、コズエとの関わりの中でこの世界の真理の一端に触れた彼に相応しい名前でもあるように思います。
コズエとの関わり以外にも馬鹿にしていたドノの言葉や、父親らとの関わり、嫌いだった祭りの意味を知って、慧は自らの変化を受け入れ、変わっていきます。
ドノとのエピソードは本当に心が熱くなるような真っ直ぐな言葉で泣けてきました。
西加奈子の小説にはこんな真っ直ぐで心を震わせるような言葉が出てきていつも涙腺が緩くなってこまります。
「誰かが言うことを、俺は信じるし。それは嘘だって責める前に、どうせ嘘なんだしとかじゃなくって、俺は言葉通り、そのまま受け止めたいんだし。類が虎を見たって言うなら、それを信じるし、状況なんて関係ないし、そいつがそう信じてほしいことを、俺はし、信じるし」
社会的には底辺だとか、クズだとか言われてしまうような存在への優しい眼差し。
そして、そんな存在が発する叫びがそのままこの物語の祈りになっていく。
『まく子』にもそんな瞬間が確かにあって。
いつも西加奈子の物語が発するそんな熱に僕は心を動かされてしまうのです。
成長時のコンプレックスで、でかくて醜悪になっていく金玉に悩む慧。
金玉っていう言葉を30回ぐらい書いている小説を僕は初めて読んだかもしれません(笑)
しかし、そんな息子の金玉の悩みに、自分の金玉を見せて「みんな変なんだ」と説く父親が最高です。
「慧の金玉も変だし、父ちゃんのも変だろ?みんな変なんだよ。みんなオエッなんだよ」
気持ち悪くないよって言うんじゃなくて、みんな気持ち悪くて変なんだっていうのがいいですね。
西加奈子もインタビューで答えていましたが、みんな変なんだっていうので、すごく楽になったみたいなことを言っていました。
みんな少しずつ変わってて、変で、だからそのままでいい。
変なままでいいんだって思うと確かにHENTAIの僕も気持ちが楽になります。
ぼくたちは、誰かと交わる勇気を持たないといけない。
ぼくたちは、ぼくたちの粒を誰かに与える勇気を持たないといけない。あの人はぼくだったかもしれないと、想像する勇気を持たないといけない。誰かを傷つけたらそれはほとんどぼくを傷つけているのと同じことだ。絶対に誰かを傷つけてはいけない。
ぼくはみんなだ。
生命が有限であることを受け入れた上でその限りある命を美しいと思う。
コズエがまいた石つぶみたいにいずれは地面に落ちる。
コズエの「まく」という行為は小さな永遠の否定であり、限りがあるがゆえの美しさの賛歌であったのかもしれません。
慧もそのことを理解して、誰かと交わって、粒を与え合って、この世界を循環してやがて「一なる存在」になることの尊さを感じたのではないでしょうか?
転校生のソラが来たときの慧の態度。
彼女が、放火犯だったと知ってなお彼女の存在を包むような対応が出来たのは
ぼくはソラかもしれなかった。
ソラはぼくかもしれなかった。
だって、ぼくはみんなだ。
って考えられるようになったからだと思います。
それが慧がたどりついた答えだったのではないでしょうか。
5、終わりに
いやー、めっちゃ良かったです。
小学校高学年以上のお子様にもぜひ読んでいただきたい作品ですね!!
ちなみに表紙を含めて作中の絵は作者の西加奈子が描いた作品みたいです。
彼女の絵も好きだな~。
なんか温かくて。
単行本の表紙の隠された石つぶても遊び心あって良かったですね~。
『まく子』を読んで、西加奈子という作家が『サラバ』という作品を通して得たものの大きさを垣間見たように感じました。
『i』を読んだ時も感じましたが、確実に視野が広がって人間の「生」を大きな視点でとらえられるような作家へと変化していっているように思います。
次に西加奈子を読むときは、『サラバ』を読んで感想を書いてみたいですね~。
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