1、作品の概要
2021年10月に刊行された西加奈子5年ぶりの書き下ろし長編小説。
貧困、虐待、過重労働など日本の社会問題、そういった問題に直面する人々の生きづらさと救済を描いている。
主人公の「俺」が高校時代から就職するまでのアキとの日々を振り返る前編と、2人がそれぞれの道を歩んでいく後編で構成されていて、物語のラストよりさらに先の未来から「俺」の視点で物語が語られている。
『i』に続いて装画を西加奈子本人が描いた。
2、あらすじ
映画好きの父親を持つ「俺」は、フィンランドのカルト映画『男たちの朝』の主演俳優アキ・マケライネンにそっくりな深沢暁ことアキに出会う。
アキは背が高くて異様な顔をしていて吃音でうまく他人とコミュニケーションを取れなかったが、いじられキャラとして高校全体の人気者になった。
彼は、極貧の中母親の虐待を受けていたが、本気でマケライネンに憧れて俳優になろうと志し、高校を卒業してアルバイトをしながら劇団の活動をするようになる。
一方、「俺」は父親を亡くし、弁護士の中島さんの手助けも借りながら大学に進学し、TV番組の制作会社に入社する。
かつて親友だった2人は離れ離れになり、それぞれの場所で苛烈な苦しみを味わいながら大人になっていく。
そして2人の人生が再び交わる時、絶望の夜がゆっくりと明けていく・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだきっかけ
先日読んだ『i』がとてつもなく良い作品で、続けて最新作の『夜を明ける』を読んでみたくなりました。
『i』から引き続いて、様々な社会問題を取り扱いながらも、しっかりと個人にフォーカスして生きづらさにスポットを当てて、その救済を描いた作品でした。
「この本を今、この瞬間、手に取れてよかった」と、深い喜びを覚えながらそう感じられる。
そんなすばらしい作品でした。
4、感想・書評(ネタバレありまくるよ!!)
①西加奈子という作家
西加奈子は不思議な作家だと思います。
今作のような凄惨な社会テーマや、『i』のような世界の戦争や災害などの重いテーマを扱いながらもどことなく作品の中に「優しさ」が感じられるのです。
登場人物も、コンプレックスや生まれながらの環境の悪さ(親ガチャの外れ。。)に苛まされているのですが、向けられている目線はどこまでも優しく、物語がギリギリの凄惨な場面に差し掛かっても、淡い光が差してきて少しずつ立ち上がっていくことができます。
優しい人達と優しい物語。
「優」がゲシュタルト崩壊寸前です。
なんで物語が優しいかっていうと、ありきたりですが西さんが優しい人だからなんだろうと思います。
じゃあ、優しいってどういうことなんだろうって考えるとたくさんの答えがあると思うんですけど、ここで注目したいのは「多様性への寛容さ」としての優しさです。
まだそこまで西さんのことを知っているわけではないのですが、幼い頃に海外にいた経験をしているからか、どこか視点が独特で、物語の中でとても「突飛な人々」を登場させます。
「突飛な人々」は社会の中で様々に辛い想いをしますが、そういった人達に対する優しい目線、上からの救済ではなくて同じ場所から「寄り添う」やり方で物語を描いているように思います。
西さんはマクロの視点、俯瞰の目線で人生を見て物語を創造していっているように思いますが、同時にミクロの視点で登場人物の心情や痛みに寄り添っていっているように僕には思えます。
きっとそのことが、西加奈子の小説が持つ「優しさ」であり最大の魅力なのではないかと思っています。
アメトークの「本好き芸人」でオードリーの若林が「クズへの目線が優しい」的なことを言っていたように思いますが、生きづらさを感じてもがいている人たちへの優しい目線がいつも感じられる彼女の物語が好きです。
深い混乱と破壊。
あるいは、世界が終わったかのような悲劇。
それでも物語の最後には希望の光が灯り、彼・彼女らはまた歩き出す。
『夜が明ける』でも、そんな西さんの西さんたる物語が展開されています。
もう本当に心を揺さぶられる傑作でした。
②アキが抱いている問題
アキは、とてつもなくピュアな性格の人間ですね。
でも、そのピュアさって彼の知性の欠如と生育環境によるところもあるのかもしれないと物語を読み進めながら感じました。
アキ・マケライネンの存在を「俺」から聞いてマケライネンになりたいって強く願い、異常な熱意でそう振舞ったこと。
深沢暁としての自分を乖離して、アキ・マケライネンとして生きたい。
それは、自分の人生からの逃避であったかもしれません。
アキは、劣悪な環境で生まれ育ち経済的な余裕がなければ進学も、高収入の仕事に就くことも叶わずにずっと地べたを這い回るような生活を強いられてしまいます。
そこで縋ったのがマケライネンとしての自分であり、劇団「プウラ」の家族だったのでしょう。
アキの純朴な忠誠は、プウラの東国のから信頼を勝ち取りますが、その過剰な執着からやがて疎まれて排斥されるようになってしまいます。
そしてバー「FAKE」へと転がるように自分の居場所を求めて彷徨います。
ずっとアキには自分の居場所がなくて、無条件で愛してくれる家族もいなくて、精神的にも肉体的にもずっと彷徨っていました。
ただただ、自分を受け入れてくれる暖かい場所、愛してくれる誰かの愛情を求めていたのではないでしょうか?
不器用なアキの言動はとても切なくて、本当にささやかで温かいものをずっと求めていたのだと思うと何か身につまされます。
母親がとても精神的に不安定で、父親がおらず、経済的に貧しい中で虐待されながら育ってしまった。
優しいアキはどうにか母親を助けようと、愛されようと振る舞いますが上手くいかず一時は施設にも引き取られ、やがて母親を経済的に助けるために働くようになります。
「俺」は、そんなアキのバックボーンを知らずに友達になり、彼に「アキ・マケライネン」という精神的な居場所を作り、2人は親友になります。
「俺」はちょっと面白い奴がいるぐらいのキッカケだったのでしょうが、アキにとってマケライネンという居場所を与えられ、自分を変えてくれた「俺」との出会いは大きな転換点だったのだと思います。
「俺」も「あんべたくま」の選挙カーに惹かれそうになったのをアキに助けられこともあり、アキに対して親愛の情を抱くようになりますし、アキを何か社会に対してのアンチテーゼのような存在にも捉えていました。
俺はアキに何かを託していたのかもしれない。俺にとってアキは社会に投げつける爆弾だった。優しくて、みっともなくて、無害な奴だったが、アキのような人間が、いや、アキのような人間こそが認められる社会であるべきだという、強い想いがあった。それで俺の生活が変わるわけではない。それでも、アキが世界で居場所を見つけることは俺にとって切実な急務だった。俺はアキを、世界に投げつけた
最後はマケライネンの生まれたフィンランドに辿り着いて、マケライネンの恋人に看取られながら逝ったアキ。
ウズから「これからお前がすべきことを教えてやる」と背中を押してくれたお陰で二エミに会うことができましたが、彼女との出会いにもたくさんの偶然やめぐり合わせに満ちていました。
この世界には不思議な巡り合わせがたくさんあるし、科学では説明できないような奇跡としか言えないような物事がたくさんあります。
生き写しとも言うべきマケライネンとアキの容姿。
「アキ」という同じ名前。
日本人のアキがフィンランドのカルト映画「男たちの朝」を観ることができたのは、多趣味な父親を持つ「俺」に出会ったからで。
そんなアキがフィンランドに行き、ゆかりのあるバーでマケライネンの恋人であったロッテン・ニエミと巡り会う・・・。
これだけの「偶然の巡り合わせ」がこの世の中にどれだけ存在するのでしょうか?
まるで点と線が繋がっていくようにマケライネンとアキの人生の軌跡が重なっていきます。
そして、マケライネンの代表作「男たちの朝」の別の和訳が「夜が明ける」で、アキの名前が「暁(アキラ)」で、暁は夜明けを意味する言葉で・・・。
もう鳥肌ぶわってなりましたよ。
西さんが籠めた『夜が明ける』のタイトルの意味についても幾重もの意味が込められていて、鳥肌が立ちすぎて危うく鳥になるところでした(笑)
いや、失礼(^_^;)
アキは母親から虐待されて、外の世界で望んでいた愛情を与えられず、他者から迫害され続けて、生涯ずっと貧しいままでした。
晩年のロッテンとの日々は穏やかであったのかもしれませんが、彼の人生はただ無残で凄惨なものであったのでしょうか?
彼にも少ないけど幸福な時間はあったのだと思います。
例えば、「俺」との邂逅。
アキが送った人生に意味を与えるのは「俺」がこれから作るアキの人生を撮った作品なのかもしれません。
③「俺」が戦っていたもの。
この物語で生まれた時から貧困層でずっとそのまま貧困層だったのがアキで、かつて貧困層だったけどそこから努力と才覚で抜け出して富裕層になったのが中島さんで、中間層だったのに父親の死を契機に突然貧困層に叩き落とされたのが「俺」だったと思います。
この国でも貧富の差が拡大していき、オブラートに包まれていますが「貧困問題」は加速しつつあります。
経済力=学力=就職=経済力で、金持ちの子供は金持ちに貧乏人の子供は貧乏人にという負の連鎖が生まれているように思います。
格差の拡大。
それは、この国でメディアで報道されているより根強く幅広く起こっている問題であり、西加奈子はそういった社会問題もこの物語の核に据えているのだと思います。
今後、AIによって人間が携わる仕事が減ってきた時に、現在少しずつ顕在している問題は一気に膨らみ様々な事件を引き起こすようかもしれません。
経営者は人件費がかからないためにより富み、特別な技能を持たない労働者は職からあぶれてより弱い立場へと追いやられていく・・・。
ベーシックインカムなども論じられていますが、とにかくそういった次の産業革命は間近に迫っているのだと思います。
そういった状況下でブラック労働、貧困などの問題を取り扱った西加奈子はさすがの慧眼と感性だと思いますし、インタビューで「本当に書いてよいのか?当事者でないためらい」を語っていたのも女性作家ならではの繊細な優しさを感じました。
これが村上龍、平野啓一郎、中村文則らの作家でしたらドヤ顔で書くとことろですね(笑)
↑いや、全員好きな作家さんなんですが!!
『i』に引き続き、ためらいながらも社会に生きる一員として、社会にある諸問題を物語化していますが、何かそういった問題を物語化する流れがとても自然に感じます。
作家性なのかそういう気配りができる繊細さを持ち合わせた人間性なのか、あらゆる種類のテーマが温かくて優しい味のスープのように物語の中に溶け合っているように思います。
「どうか負けないで。祈っています。」
父親を亡くして経済的にも困窮を窮めた「俺」に遠峰から送られた手紙の一文です。
「俺」も遠峯の言葉に勇気づけられて、負けないように世界と対峙する姿勢でトンガって生きていきます。
支えてくれた中島さんもどっちかというと「負けるなよ!!」みたいな昭和的な励まし方で、別にそれが間違ってたわけではないと思うのですが、「俺」は職場の過酷な状況もあり、ちょっと偏屈でギザギザした感じになってしまっていたようです。
それは、「俺」の主観で語られている物語中ではなかなか感じられませんでしたが、後輩の森の視点で「俺」についての印象を語られる時に初めて判明します。
気づいてたと思いますけど、私先輩が苦手で・・・。なんかもう、スーパーごりクソマッチョですよね?あちゃー、やってんなー、って感じ。俺の勝ちか?俺の勝ちだなっていつも言ってる感じ。
だいぶ物語の中の「俺」の視点とかけ離れた森の印象ですね。
この物語の語り手は「俺」で、内容は常に主観で語られます。
「自己を客観視する」なんて言葉がありますが僕はその言葉に否定的で、主観はどこまでも自己と自我で、「自分」は決して客観で物事を自分の人生を見ることはできないのだと思います。
だからこそ人生は物語化していくのだと思いますし、そこに客観性という要素はむしろ野暮なのかもしれませんし、時には事実だの真実だのも何の意味も持たないのだと思います。
「俺」はいつしか自分の境遇をバネに「負けないこと」を大事に思って行動するようになっていました。
それが決して間違っていたとは思いませんし、その「負けない」という気持ちで辛い日々を乗り越えてきたのでしょう。
でも、気持ちが折れてしまった時に。
負けてしまった時にはどうしたら良いのでしょう?
④彼女が示す救済とは?暗かった夜が明けた時
ずっと勝ち続ける。
上昇し続ける。
などということが可能なのでしょうか?
勝つこともあれば負けることがあるのが人生であると思いますし、そもそも勝ち負けだけで論ずる価値観自体どうかとは思いますが。
父親が死んで莫大な負債を負って、生活が一変して「俺」が選んだのは「世界との対峙」であったのだと思います。
勝ち負けの論理で物事を計り、あらゆる物事と争い、対峙していく。
運命を、人を、社会を、あまつさえ自分をも憎んで戦って、戦って、戦って・・・。
でも、負けることだってある。
いつか徹底的に負けてしまった時にどうすればいいのか?
「俺」が考える資本主義社会のゼロサムゲーム的な勝ち負け。
誰かの幸福を誰かが奪うような骨肉の争い。
そんな勝ち負けとは一線を画した価値観の中に遠峰はいました。
言葉では勝ち負けを使っていますが、「俺」の価値観とは一線を画しています。
そして、それは彼女が負け続けて辛酸を舐め続けてたどり着いた答えだったのだと思います。
でも、いつからかな、恨むことが負けだと思うようになった。恨んでたら、恨んでる側が弱いんだって。
強い人は恨まないんでしょう。弱いから、弱さの中にいるから恨むんでしょう。
誰かの、世界の優しさを信じられないのは、その人が弱いからなんでしょう?
僕が最近自分の人生の中で思うことは、「人は勝っている時より、負けている時の過ごし方のほうが大事」ということです。
僕の座右の銘のひとつに「人生は糾える縄のごとし」という言葉がありますが、幸福と不幸は表裏一体でありますし、ランクの差はあっても勝ちっぱなし、負けっぱなしの人生は存在しないと思いますし、波があるのが人生なのだと思います。
幸福な時、うまくいっている時に余裕を持って他者に優しくしたりするのは誰にでもできる行為だと思います。
でも、これが不幸な時、うまくいっていない時だとどうでしょうか?
同じ振る舞いでもハードルが高くなると思います。
だからこそ、人間の人生の価値はうまくいっていない時にどう振る舞うか?、が大事になるのだと思います。
遠峰は、自分の人生がうまくいっていない辛い時期に何かを学べたのではないかと思います。
ブラック企業、ブラック労働なる言葉がありますが、そういった労働を強いられた時にどうすればいいのでしょうか?
簡単にやめるわけにはいかない場合もあると思います。
辞めることによって、再就職が難しくなり経済的に困窮してしまう場合も多いのでしょう。
今の日本において働くことは時に命を削るような強いストレスを心に与えたりすることがあり、死を選んでしまう人たちも時にはいらっしゃいます。
「昔と比べて働くことに対しての気合が足りない。俺たちの頃なんて・・・」と言われる団塊の世代の方もいらっしゃるかもしれませんが、離職する選択肢もなく追い詰められてする労働は一昔前の「がむしゃらに働いた俺たち」の経験とは違ったものだと思います。
でも。
そうやって苦しんでいる人は全くの孤独なのでしょうか?
友達も親も誰も助けてくれない?
国も地方自治体もあてにならない?
そうかもしれないけど。
だけど。
必死に助けを呼んでみたら。
もしかしたら、誰かに届くかもしれない。
誰かが助けてくれるかもしれない。
みっともない?
そうかもしれないけど、それでも声の限り助けを求めたら、誰かに届くかもしれない。
戦うのではなくて、「抗う」。
世界と対峙するのではなくて、融和する。
森が言っていたのはこういうことなのかな?
田沢さんの言葉が胸に刺さります。
これはきっと西さん自身の言葉。
深い深い明けない夜を待ち続ける人達に向けた。
この物語の夜明けに一番書きたかった言葉。
では、書きます。
さん、はい。
「苦しかったら、助けを求めろ」
駄目押しで。
「苦しかったら、助けを求めろ」
5、終わりに
サザエさんがやってる時間に書きながら何度も号泣インザハウスのマザーファッカーでした。
いや、もう西さんの言葉って、物語ってこんなにも魂を揺さぶるのでしょうか?
心の琴線が長渕剛のギターばりにバランバラン掻き鳴らされて幸せのトンボはどこかに飛んでいきます。
ぶっ飛ばされすぎておかしくなっていますが、本当に魂の奥深くまで届くような作品であり、今この世界に生きるたくさんの人達に読んで欲しい物語だと思います。
「夜明け前が一番暗い」という言葉があり、株・投資の世界ではよく使われる言葉なのですが、物事の暗い側面には終わりかけの時期が一番辛かったりします。
株もセリングクライマックスと言い、下げ続けた最後の時期にはさらに酷い下落があり大体そこで個人投資家が売ってしまうのですが、そこが夜明けでトレンドが転換して夜明けが来たりします。
今が暗くて、闇の底にいたとして。
そこから抜け出せない苦しみを抱いていたとしても。
もう少し。
もう少しで夜明けが来るかもしれない。
西加奈子はそう言って僕たちを励ましてくれているようにも思います。
えっと、もういっかい言いますね?
「苦しかったら、助けを求めろ」
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