1、作品の概要
2016年に刊行された西加奈子の書き下ろし長編小説。
装丁の絵は西加奈子自身が手がけた。
シリアにルーツを持つ女の子が世界の悲劇と自身の境遇に悩みながらも、愛の実在を求め続ける。
2、あらすじ
シリアにルーツを持ち、裕福な両親の元で養子として育てられたアイ。
両親からたくさんの愛情を注がれて育てられて、美しく聡明な娘に成長したが、シリアや世界の悲劇のニュースに心を痛めて自分だけ幸福でいることに負い目を感じてしまっていた。
高校の数学での授業での「この世界にアイは存在しません」という言葉が呪いのようにつきまとい彼女を悩ませていた。
親友のミナ、夫のユウに心を開いて愛情が何かを実感し、少しずつ自らの存在を肯定できるようになったiだったが、出産のトラブルでそんな2人との関係にも亀裂が入るようになってしまう。
果たしてこの世界に「アイ」は存在するのでしょうか?
3、この作品に対する思い入れ・読んだきっかけ
今回初読でしたが、『サラバ』『漁港の肉子ちゃん』『きいろいぞう』と同じぐらい好きな作品になりました。
西さんの作品はなにか魂を揺り動かされるような力強い感動が込み上げてきます。
この作品にもそんな彼女の人生に対する優しい目線、願いが込められていたように思います。
4、感想・書評
①自分の存在に確信が持てないアイ
「人間は自らが恵まれた境遇にいることでさえ劣等感に苛まされることがある」みたいなことを太宰治が作品の中で言っていましたが、アイも自分が本来政情の不安定なシリアに生まれて貧しい暮らしを贈るはずだったのに、富裕層の両親に養子としてもらわれて何不自由なく暮らしていることに引け目を感じてしまいます。
何故自分が選ばれてしまったのだろうか?
自分が選ばれたことで誰かが選ばれる権利を自分が奪ってしまったではないだろうか?
幸福で愛情に満ちた生活を送りながらも、こういった想いに常にアイは囚われています。
アイはその頃から、自分が「不当な幸せ」を手にしていると、はっきり思うようになった。
このように感じてしまうのは、きっとアイが繊細な感性の持ち主からなのでしょう。
こんな幸運な境遇にいれば「自分はラッキーだ」と感じるのが普通だと思いますが、アイはそうは感じられず、「いつかは自分の幸せは崩れてしまうのではないか?」「シリアの人々が苦しんだり、世界で不幸な事件が頻発しているのに自分だけ選ばれて幸福を享受して良いのだろうか?」といった思いに苛まされています。
最近は「親ガチャ」なる言葉も出てきて、富裕層の親の元に生まれるか、貧困層の親の元に生まれるかで子の人生は全く違ったものになってしまうし、それはガチャガチャをするような運に左右されるという意味で使われたりしているみたいですね。
嫌な言葉ですね(笑)
しかし、世界レベルで考えると日本で生まれたことだけでまだ幸せなほうですし、生物全体で考えたら人間に生まれることができたことももしかしたら幸福なのかもしれないですね。
父母のどちらとも血が繋がっていない不安定な「養子」の立場にあることは、いつか血が繋がった子が生まれて自分はいらない子になってしまうのではないかという恐怖にも繋がっていました。
成長して尚も父と母の系譜、血の繋がったファミリーツリーに自分が属していないことに対して、どこか根無し草でいるかのような不安定な気持ちを抱えていたのでしょう。
だからこそ、ユウとの結婚を経て自分と血が繋がった子供を産むことに希望を感じていたのでしょう。
しかしそれは叶わずに「この世界にアイは存在する」と、自らを肯定し始めていたアイを再び失意のどん底に突き落としてしまいます。
そこからどうやって再び呪いから脱却するのか?
それはこの物語の大きなテーマであったのではないかと思いますし、ラストの感動的な場面に繋がっていくのでしょう。
②ミナとユウとの繋がり
自らを肯定することができず、表現することもできないアイはミナとユウの2人に出会うことで自我を再構築し、最終的に生き直すことができたのだと思います。
アイ=i、ユウ=you、ミナ=みんな=everyoneという意味合いを持たせていた、と作者自身がインタビューで語っていました。
「i=自己」を確立して育むためには、「あなた」や「みんな」が必要ということでしょうか?
「人は一人じゃない」と作者は続けて語っていることの意味はそういうことなんだと思います。
アイが「i=自己」を確立して、「愛」を育むことで自分らしくしなやかに世界と向き合っていくこと。
そうするためには、ミナとユウとの出会いが必要で、他者との繋がりの中でアイは変わることができたのだと思います。
アイはカラフルで強い自己主張と意思決定が求められるNYでの生活より、所属と没個性が求められる日本の学校生活に安息を感じます。
何かを主張したりするより、カテゴライズされて所属感を得たい、ひっそりと築いた自分の居場所の中で生きていきたい。
そう感じていたアイが数学の静謐な世界に没頭していったのも必然だったのかもしれません。
それでも高校でミナに出会い、お互いに唯一の親友になります。
ミナはどこか自由な感じで行動しながら、子供のような無邪気さも併せ持っていてアイにはまぶしい存在でした。
3.11の時にただ1人で東京に残ることに決めたアイの心に寄り添って、肯定したのもミナでした。
2人は精神的に深い部分で惹かれあい、寄り添い合っているように思えます。
ユウはアイにとって初めての恋人で、子供のように屈託がなく誰からも愛される男性です。
色んなことに興味を持ち、フットワークも軽いユウですが、アイが感じていることやろうとしていることに対してしっかりと寄り添い理解しようと努めています。
ユウとの恋はアイの世界を輝かせて、努力の末に血の繋がった子供を身ごもることにも成功します。
結果的にお腹の子の死産で、一度開いたアイの心の扉は再び深く閉ざされてしまうのですが・・・。
③もう一度生まれ直す
自分の人生を幸福を肯定できなかったアイの半生において、周りの人との繋がりの中で3度のブレイクスルーを経験します。
1度目は3.11の時に1人で東京の自宅に残ったことで、今まで自分が不当に免れて災害や事件の渦中に初めていることでアイに大きな変化が起こります。
マグニチュード9.0の地震は、そして煙を上げた原子力発電所の映像は、愛を確実に狂わせたのだった。アイは興奮していた。自身のからだに起こったあの突き上げるような衝撃、横揺れで感じた全身を覆った恐怖を、アイは盲目的に信じていた。
これは自分のからだに起こったことだ。
これは私のからだに起こったことだ。
私の!
アイはほとんどあの体験を「重要なこと」として抱きしめようとしていた。自分が自分であることの証拠として、絶対に手放さずにいたいと、そう思うようになっていた。
もちろん渦中にいたと言っても、東北から離れた東京にいたのではあるし、直接的に津波や地震の被害を受けたわけではありませんでした。
しかし、これまで世界のどこかで起こる悲劇に胸を痛めながらも、自らのその感情に欺瞞を感じていたアイは自らの感情と、悲劇の渦中にいない自分に引け目を感じることはなくなっていったのではないでしょうか?
ミナは言います。
「誰かのことを思って苦しいのなら、どれだけ自分が非力でも苦しむべきだと、私は思う。その苦しみを、大切にすべきだって」
アイはこの時もミナとの関わりの中で、一歩前に進むことができたのでした。
2回目は、ユウと結婚して子供を身ごもったことでしょう。
恋愛を経験して、愛すべき男性と家族になり、自分と血の繋がった子供が生まれる・・・。
それまで自分の両親の家のファミリーツリーに属していないことを引け目に感じていたアイにとって、自分の存在を肯定するためへの大きな一歩であったのでしょう。
アイは自身の生まれた理由を知りたかった。ずっと知りたかった。誰かの幸福を踏みにじり、押しのけてまで自分が生まれた理由を知りたかった。その理由がここにある。まだ数センチにも満たない命の始まりが、私がこの世界にいるための証なのだ。
私はこの世界にいていいのだ!!
自己肯定感。
人間が生きていく上で最も必要な感覚で、何か理由があるのではなくて自分が世界に存在していいのだと感じられるものだと思います。
この自己肯定感が希薄だと、自己の生存に否定的な感情が生まれて自信がなくなり、生きづらさを感じるようになります。
これまでのアイは、自らの出自のこともあり自己肯定感が低く、自分が幸福であることに対して恐れていましたが、ついに自らの幸せを望むことができるようになりました。
しかしその幸福も、お腹の子の流産によって泡のように消えてしまいます。
再び聞こえてきたあの呪いの声。
「この世界にアイは存在しません」
親友のミナとも彼女の妊娠の問題のことで喧嘩をしてしまい、彼女のことを許せなくなってしまいます。
3度目のブレイクスルーは、ラストの場面。
ミナからの愛情のこもったメールに心を動かされるアイでしたが、許せない気持ちと会いたい気持ちが相反して動けなくなってしまいました。
でもユウから「理解出来なくても、愛し合うことは出来ると、僕は思う。」と言われて、ロスアンゼルスまでミナに会いに行きます。
2人で行ったビーチで、アイは下着のまま海に飛び込み、誰もいない朝の海で泳ぎ始めます。
ミナはそんなアイを優しく見守り続けて、やがて生まれたままの姿で海中に潜り母親の胎内のような朝の海でアイは生まれ直します。
海は原始の生命が誕生した場所で、母なる海とも言われていて。
朝は1日の始まりの時間で。
羊水を思わせるようなほの暗い水の中で丸まったアイはまるで胎児のようで。
もう一度この世界で産声をあげるように自らの存在を高らかに宣言したのではないでしょうか。
「この世界にアイは、存在する。」
自己の存在の確立。
悲しみに満ちた世界にも、間違いなく愛が存在しているという確信。
ミナとユウ、両親、そして世界との対峙の中で彼女は呪いに打ち勝つことができたのではないかと思いました。
『i』は、他の西作品にも感じられるような個人の生きづらさに寄り添うような優しい物語であり、作者自身が感じていた世界の悲劇への関わり方、自我の確立と世界との融和を描いた素晴らしい作品だったと思います。
5、終わりに
中村文則が世界との対峙を描くのに対して、西加奈子は世界との融和を繰り返し描いているように思います。
世界がカラフルでそれに混乱して行きづらさを感じる人々が生き直していく。
ーありのままの自分で、この世界で、生きていってもいいんだよー
いつもそんなメッセージが込められているように思います。
中村文則と西加奈子が描く物語は全く違うものだけど、伝えたいメッセージにどこか共通点を感じることがあるのは僕だけでしょうか?
『i』では1人の人生を俯瞰で捉えて、その行きづらさにスポットを当てながらも世界で起こる悲劇を絡めながらもその再生を描いていくというとてつもなくスケールの大きな、尚且つ一人一人の心に寄り添って励ましてくれるような優しさを持った物語だったのではないかと思います。
シリアの現状、世界に「愛」が希薄で思いやりがなくなってきている、個人を大切にすることの大事さなど西加奈子自身が日常の中で感じた問題意識。
そういったものが上手く物語の中で表現されていたと思います。
いやぁ、魂ごと持っていかれるような凄い作品でした!!