1、作品の概要
2004年9月7日に刊行された。
書下ろし長編小説。
単行本で288ページ。
装丁は和田誠。
深夜の東京を舞台に、23:56から6:52までの一夜の出来事が描かれた。
2、あらすじ
深夜の東京。
デニーズで一人本を読みながら過ごしていたマリに大きな楽器を持った大学生のタカハシが声をかける。
2人にはマリの姉のエリも含めてダブルデートをしたことがあった。
タカハシはトロンボーン奏者でバンドの練習に行くが、ホテル「アルファヴィル」のマネージャーである大柄な女性・カオルがマリに中国語の通訳を頼みに訪れる。
ホテルで男に身ぐるみを剝がされた中国人の売春婦の通訳をして、彼女を慰めて親近感を覚えるマリ。
彼女に暴力を振るった白河、バイクに乗って迎えに来た男、アルファヴィルで働くコオロギとコムギ、そして眠り続けるエリ。
深淵が宵闇に触れる時、異界がその口を開け深い奈落へとエリを引き摺りこむ。
そして夜が明ける時。
マリはなにを見てなにを感じたのだろうか?
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
時系列的に村上春樹の小説の書評を書いていますが、前回書いた『海辺のカフカ』の次がこの『アフターダーク』で再読してみました。
『アフターダーク』は、その実験的な内容もあって個人的にイマイチ好きになれない作品でした。
村上春樹の長編小説としては、動きがなさすぎるし、ファンタジー要素もそれほどなくてなにか中途半端な実験的な作品という印象が強かったです。
まぁ、でも別に好きな作家だからといって全部の作品を好きじゃなくてもよかろうし、ちょっとぐらい外れがあったほうが自然かもみたいに思っていました。
ただ以前Xのスペースで村上春樹的羊男さんと話していた時に、「『アフターダーク』がどうしても楽しく読めない。拒否反応みたいなのがある」みたいなことを話していた時に、「今読んでみると違った印象を受けるかもしれない」と言って頂きました。
確かに『街とその不確かな壁』を読んだあとに『アフターダーク』を読んだら、なにか以前と違った印象を受けるかもしれない、という予感のようなものがありました。
村上春樹の物語の扉を開くマスターキーのような作品をくぐり抜けてあとなら、今まで開かなかった、その世界に入り込めなかった扉も開くことができるんじゃないかと感じていました。
たかが本1冊読み返すのに大仰な話ですが(笑)
それとあまりにもプロトタイプな「僕」の物語を『アフターダーク』に求めるから、違和感があったようにも感じ、いっそのこと別の作家の作品を読んでいるように自分をだましてみたら先入観なく読めるのかもしれないと思いました。
村上春樹じゃなくて、村下夏樹っていう別の女性の作家が書いたんだと思い込んで読んでみる。
馬鹿々々しいですが、これまでの「僕」の1人称の物語から意識を解放するためにはこれぐらいの思い込みが必要だったのだと思います。
なんせ羊男も、やみくろも、カーネルサンダースも出てこないのですから。
やれやれ。
というわけで、よくわからない気合を入れて何度目かの再読をした『アフターダーク』ですが、他の作品にはないこの作品だけが持つ特別な魅力を再発見できたように感じました。
4、感想(ネタバレあり)
①3人称への宿命的移行、視点としての私たち
1人称の「僕」の物語が長らく代名詞だった村上春樹。
『海辺のカフカ』でのナカタさんの章で3人称が使われたものの、全編3人称の長編小説はこの『アフターダーク』が初めてでした。
村上春樹自身が、どっかのエッセイかなんかで「3人称への宿命的な移行」みたいなことを書いていた気がしますが、『1Q84』にも繋がる実験的な試みがこの『アフターダーク』の3人称および俯瞰的な視点での物語の語り方だったのだと思います。
1人称の「僕」目線で書かれる物語は、基本的には「僕」が見聞きしたことしか書けませんが、3人称の視点では自由に視点を変えて描くことができる。
実際に視点としての「私たち」は成層圏を越えてどこまでもはるか上空から地球を見下ろすこともできますし、エリがいってしまったあちら側の世界へと壁抜けすることだってできます。
肉体を離れ、実体をあとに残し、質量を持たない観念的な視点となればいいのだ。そうすればどんな壁だって通り抜けることができる。どんな深淵をも飛び越すことができる。
しかし、『アフターダーク』が3人称を用いた実験的な作品であったとして、エリを観察する際に、なぜ視点としての1人称複数の「私たち」が用いられていたのでしょうか?
それはもしかしたらこれまであくまで1人称単数で自分が壁抜けするという個人的な体験を表現していたのを、読者とも感覚として共有したいと村上春樹が考えたからではないでしょうか?
「あなたにもできる!!簡単な壁抜け!!どんな深淵だって楽々飛び越せます!!お値段たったの1400円(税別)!!」なんてテレフォンショッピングで宣伝されているのを想像してみたりする。
そして実際に、私たちは純粋なひとつの点となり、二つの世界を隔てるテレビ画面を通り抜ける。こちら側からあちら側に移動する。
3人称を用いて俯瞰で語ることによって、一夜の出来事を多くの視点で語ることができるのは、これまでの村上春樹の作品にはなかった新感覚だと思います。
特にエリの異変。
誰も知らないところで、夜の闇の中で起こった怪異の描きかたは3人称でしか描けなかったものだと思います。
②あちら側とこちら側、あるいは現実の世界での境界線
村上春樹の物語で良く描かれるこちら側の世界と、あちら側の世界(異界)ですが、『アフターダーク』でもバッチリ描かれていて、エリは眠ったままブラウン管に映っていたあちら側の世界にいつのまにか移動してしまっています。
マスクをつけた顔のない男がなんらか関与はしていることは確かなのでしょうが、どのような理由でエリがあちら側の世界へ行って、そこで目覚めて、またこちら側の世界へと戻ってきたのか明らかにされていません。
理由はよくわかりませんが、自分たちが属している世界からあちら側の世界への境界線は思っているよりおぼろげで、夜の深い闇の中で時に二つの世界は混じりあい、その境界線は不明瞭なものになっているということを表現したかったのではないでしょうか?
真夜中から夜が白むまでの時間、そのような場所がどこかにこっそりと暗黒の入り口を開く。そこは私たちの原理が何ひとつ効力を持たない場所だ。いつどこでその深淵が人を呑み込んでいくのか、いつどこで吐き出してくれるのか、誰も予見することはできない。
なぜブラウン管の向こうの世界が、白川のオフィスと同じ形をしていたのか?
それも謎ですが、すべてはどこかで奇妙に繋がっている、ということでしょうか?
エリが引きずり込まれたあちら側の世界は白川のオフィスと同じ形で、白川が明け方に見ていたTVとマリがいた「アルファヴィル」の一室でつけられていたものと同じ番組で、マリと一緒にいたタカハシが白川がコンビニに置いた女の子から奪った携帯電話にかかってきた電話を偶然取る。
だから何?と言われるとあれですが、すべては奇妙に繋がっているように感じます。
そして、村上春樹の作品の中でも『アフターダーク』が異彩を放っているのは、このあちら側とこちら側が現実の世界でも描かれているとうことにあるのではないかと思います。
エリがファンタジー要素的なあちら側とこちら側を行き来する同じ時間に、妹のマリはリアリズム的にあちら側とこちら側を行き来するというところがこの物語の妙味ではないでしょうか?
この物語の「核」といっても差し支えないかもしれない、と僕は思います。
一夜のほんの数時間のうちにそれぞれがファンタジーとリアリズムの異なった意味合いであちら側とこちら側を行き来する。
そしてその出来事は2人にとって大きな意味を持ちます。
観念的にも実際的にも。
現実世界でのあちら側とこちら側とは一体どういったものでしょうか?
深夜の東京で闇に属する人たち。
カオル、コオロギ、コムギ、売春婦の女、バイクの男。
彼、彼女らはお天道さまの下で、まっとうに生きられなくなってしまった人間なのかもしれません。
対して、普段は光の下で生きているマリ、タカハシ、白川(異論は認めますが白川はこちら側だと思います)たち。
でも、おそらくその差は紙一重で、気がついたら日も差さない闇に身をうずめているのかもしれない。
「マリちゃん。私らの立っている地面というのはね、しっかりしているように見えて、ちょっと何かがあったらすとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもたら、もうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の方の薄暗い世界で一人で生きていくしかないねん」
コオロギの言葉ですが、普通にOLやっていた彼女がほんのちょっとしたことで深みにはまり、陽の下を歩けないようになってしまう。
幸福どころか、人並みの生活も望めない。
リアリティがありすぎますし、誰でもそうなる可能性があるし、「ちょっと何かがあったら」思うより簡単にすべてが瓦解してますということを示唆しています。
そういった境界線は、じつは頼りないもので明確なライン、壁のようなものはないのかもしれません。
タカハシが言います。
二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際に存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。
『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』が村上春樹の作品の中では100%リアリズムの作品ですが、『アフターダーク』では現実世界でのあちら側とこちら側の境界についての言及が多く、とても興味深い部分でした。
あとにも書きますが、『アンダーグラウンド』で地下鉄サリン事件を通過したこと。
ノンフィクションとして、生々しい現実に向き合ったことが物語の中にしっかりと息づいているように感じました。
あの事件の被害者、そして加害者。
もしかしたらその差はそれほど大きなものではなくて、なにかキッカケがあればどちらにでも傾き得るのではないか?
そんな実感がこの『アフターダーク』の骨肉となっていっているようにも感じました。
新しい一日がすぐ近くまでやって来ているが、古い一日もまだ重い裾を引きずっている。海の水と川の水が河口で勢いを争うように、新しい時間と古い時間がせめぎ合い、入り混じる。自分の重心が今どちら側の世界にあるのか、高橋にもうまく見定めることができない。
わたしたちが生きている世界は、自分たちが思っているほどしっかりと定まっているものではない。
歩いている地面でさえ、いつかその底が抜けてしまうかもしれないし、落ちてしまったあとは這い上がることもできないかもしれない。
そういった現実世界でのあちら側とこちら側が、深夜の東京を舞台に描かれて、エリが吞み込まれたファンタジーとしてのあちら側とこちら側の物語とリンクしていたことが『アフターダーク』の物語としての特異性であると思います。
③タカハシが語るシステムとしてのタコ、紙一重ですれ違う光と闇
タコの話です。
タカハシが裁判の時に想起したタコ。
それは、村上春樹が彼の物語の中で繰り返し描いている冷たく高くそびえたつ壁。
忌むべき「システム」のことだと思います。
「たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。
(中略)そいつはいろんなかたちうかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。
(中略)僕がそのときに感じたのは深い恐怖だ。それからどれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃げられないんだという絶望感みたいなもの。(後略)」
どれだけ逃げても逃げられない。
コオロギも、バイクの男も、タカハシもその言葉を違った場所、違った時間で口にします。
繋がっている。
この小説のひとつのテーマが「どれだけ逃げても逃げられない」だったとしたら、この小説はダークなものでしょうが、そういった現実に存在する深い闇を描いた作品でもあると思います。
「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」
善悪は別として巨大な何かに絡めとられて、深海の奥深くに脆弱な個人が沈められていく。
それはまさにオウム真理教の実行犯が裁かれていくさまを見ていた村上春樹が感じていたことだったのではないでしょうか?
裁かれて当然だし、情状酌量の余地などない。
でも。
あまりにも一方的すぎる。
彼を裁くものが大きく強すぎる。
裁かれて当然だし、裁かれている人間に対しての同情はないのだけれど、そのシステムが冷たく強固であることに村上春樹は戦慄を覚えたのだと思います。
そして、彼と自分の間にどれほどの違いがあったのだろうか、とも考えたのかもしれません。
僕も、隠している「ドジっ子魔女」というロリ巨乳もののエロDVDがいつタコの足に絡めとられる怯える毎日なのですが・・・。
④マリが夜をくぐり抜けて手に入れたもの、夜明け前の同僚
19歳。
マリは、大人になる一歩前の不安定な年齢。
そんな年頃の少女が、夏目漱石『坑夫』みたいに違う世界に踏み入れて、通り抜ける。
19歳という年齢にも大きな意味があると思います。
『ノルウェイの森』で直子とワタナベが19歳であったように。
19歳であることの不安定さ。
カオルはマリに語ります。
「思うとか思わないとか、そういう問題じゃないんだよ。19歳であるってのはそもそもそういうことなんだ。あたしにだっていちおう19のときはあったんだから、それくらいはわかる」
マリがわずか数時間の間に体験して得たもの。
それは一言で語るのは難しいと思いますし、今後生きていくうえで必要な秘蹟を手に入れるような輝かしことでもなかったかと思います。
ただ、「くぐり抜けた」印象が強くあります。
そしてラストシーンでのエリとの関わり。
どことなく明るい未来を想起させられるような展開です。
2人がながい夜をくぐり抜けて、輝かしい朝の光のしたで再会できる場面を思い浮かべてやみません。
そして、そういった場面をあえて描かずに予兆を描写して終わる村上春樹の文学が好きです。
5、終わりに
いやー、素晴らしかった。
『アフターダーク』は苦手な作品でしたが、今回再読して、その魅力に気付くことができました。
自分にとっては、刺身を食べられるようになった時と同じぐらいのパラダイムシフトでした。
やはり、時系列的に、その時代の出来事と共に物語を振り返るのは面白い。
単体で読んでいたら気付けない何かがそこにはあるように思う。
『アンダーグラウンド』以降、村上春樹作品で描かれる闇は深く濃密で。
物語に深みを与えているように思います。
「逃れられない」というメッセージ。
村上春樹自身も、自らを追いかけてくる影のような存在と戦っているのかもしれないおもいました。
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