1、作品の概要
『スプートニクの恋人』は、1999年4月に村上春樹の長編小説。
講談社より刊行された。
書き下ろし。
単行本で310ページ。
すみれに恋する「ぼく」と、すみれが劇的に恋に落ちたミュウとの奇妙なトライアングルの物語。
2、あらすじ
「ぼく」が想いを寄せるすみれは、ある時「平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋」に落ちた。
すみれの初恋の相手は、既婚女性のミュウ。
ミュウはすみれを自分の事務所で働かせて、小説を書くこと以外に興味がないすみれを変えてしまう。
「ぼく」はすみれに想いを告げぬまま彼女の支えになり、他のガールフレンドたちと体の関係を結んでいた。
ミュウの仕事の関係で、ヨーロッパへと旅立ったすみれ。
「ぼく」はギリシャからミュウの国際電話を受けて、すみれのみに起こった異変を知り、彼女の危機を救うべくギリシャへと旅立つ。
あちら側とこちら側、すみれの恋の行方、ミュウの過去・・・。
全てが交わる時、2人の想いは繋がっていく。
3、この作品に対する思い入れ
村上春樹の作品ほぼ全てに言えることだけど、何度も再読している好きな作品です。
『ノルウェイの森』などの例外を除けば片想いと、三角関係(と言ってしまうと世俗的で嫌なのだけど便宜上こう言う)を取り扱った作品で、少し奇妙だけどリリカルな話だと思います。
人工衛星のスプートニクになぞらえた描写が何度も出てきますが、とてもロマンティックですね。
しかし、同時に広大な宇宙空間をたった1機で航行していく様が想像され、ゾッとするような孤独を感じさせられるような作品でもありました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①すみれが落ちた激しい恋
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。
数ある小説の中でもこれだけ印象的で鮮烈な序文はそうはないと思いますし、「それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった」とありますが、読み終えてみるとまさにこの序文のとおりの物語であったことがわかります。
この物語の主人公は22歳のすみれ?と思うところですが、「ぼく」が語る一人称の物語であります。
しかし、紛れもなくこの物語の中心にはすみれという強烈なキャラクターがいて、物語はすみれの「平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋」で始まり、終わります。
作家志望で、オシャレなんかには無頓着で、男性との恋愛経験もなく、ぶっきらぼうなすみれ。
村上春樹の小説には数多くの魅力的かつ個性的なキャラクターがうじゃうじゃ出てきますが、すみれはその中でも異彩を放つどぎつい個性を持っています。
それならすみれを主人公にすればよさそうなものですが、そんなすみれのキャラクターをより鮮烈に見せるためにも、どこかクールな「僕」を主人公にして彼の視点から物語を語らせる必要があったのでしょう。
すみれが初めて恋に落ちたのは、17歳年上の既婚者の女性で、まぁ突っ込みどころが満載なのですが、すみれは初めての恋に夢中になります。
初めて2人が出会った時の会話で、ミュウが文学の「ブートニク」と、ソ連が打ち上げた人工衛星「スプートニク」を間違えたことで、すみれはミュウのことを秘密裏に「スプートニクの恋人」と呼ぶようになります。
ミュウは、すみれが自分に対して恋愛感情を抱いているとは夢にも思わず自分の事務所ですみれを働かせるようになりますが、すみれがスペイン語が得意だったこともあり、輸入のワインなどを取り扱うミュウの仕事を大きく助けます。
そして、電話もない古くて狭いアパートに住んで、男の子のような格好をしていたすみれを変えてしまいます。
いやー、やっぱり好きな人に求められると変わっちゃいますよねぇ。
時には自分の大事なものや、フィロソフィーみたいなものを手放してもいいぐらいに。
恋した相手が求める姿になれるなら、自らを捧げたいと思うのではないでしょうか?
それが初恋で、「平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋」なら尚更でしょう。
「ぼく」はもちろんすみれに恋をしていて、彼女のほとんど唯一と言っていい友人であり、彼女から「スプートニクの恋人」のことを繰り返し聞かされます。
こういうのって、まぁ精神的な拷問みたいなもんですよねぇ。。
でも「ぼく」は冷静に対応し、すみれの傍に居続けます。
まぁ、「ガールフレンド」もいて肉体関係ありまくりだったので、ストイックとは言えないのかもしれませんが・・・。
本来の自分を捨ててまで、全てを捧げて誰かに恋焦がれること。
それは、とても危険なことだと思いますし、その恋の激しさと喪失の悲しみがゆえに、すみれはギリシャの島で忽然と姿を消してしまうことになったのだと思います。
②「ぼく」の立ち位置とすみれとの関係
主人公のはずでが、どこかすみれを引き立てるような感じがするのが今作の主人公の「ぼく」です。
どこか冷静な「ぼく」はすみれを引き立てる存在のように描かれていて、ひっそりと彼女に寄り添っているような印象が強いです。
彼にとってすみれは、(たとえ夜中の3時に電話でたたき起こされても)なくてはならない存在で、想いを寄せていますがきっと恋愛対象に自分はならないだろうという諦めから、彼女に思いを告げることはしません。
女性の読者の方は、とか言いつつ他の女性と寝ていることで彼を批判するかもしれませんし、それはもっともなご意見ですが、それでも「ぼく」のうちに秘めた恋心は広大な宇宙空間で孤独に航行するスプートニクのようであったのだと思います。
ガールフレンドと寝ても結局心は遠くにあって。
自分が本当に親密な関係を築けて、魂の奥深いところで何かを分かち合えるのはすみれしかいないと感じていたのではないでしょうか?
ぼくとすみれは顔を合わせればいつも長い時間をかけて語りあった。どれだけ語り合っても、飽きることがなかった。飽きることがなかったぼくらはそのへんにいるどんな恋人たちよりも熱心に親密に会話を交わした。小説について、世界について、風景について、言葉について。
他の作品の主人公は何かを取り戻すためにあちら側の世界に行って、わけのわからない冒険をしたりしますが、「ぼく」はあちら側の世界に1歩足を踏み入れながら恐怖を感じて、「壁を抜けること」を拒否してしまいます。
他の作品の主人公も頼りなく、時には女性のキャラクターがその犠牲になってしまったり、手を汚したりしますが、「ぼく」はさらに存在が希薄で、ギリシャまですみれのために駆けつけたのは良かったですが、結局あと一歩が踏み込めずに日本に戻ってきてしまいます。
まぁ、あそこで「ぼく」があちら側に足を踏み入れたら確実に1冊では終わらないですが(笑)
正直このまま結ばれないラストなのかな、と思いましたが最後はすみれも「ぼく」の存在の大切さを認識して、お互いに結ばれるようなハッピーエンドでした。
「今どこにいる?」
(略)
「ここに迎えにきて」
このラストの会話って『ノルウェイの森』のラストシーンを彷彿とさせますね。
あの場面では、ワタナベが電話ボックスで緑に電話をして、「どこにいるの」と問われて自分がどこにいるのか答えられない(自らの存在、立ち位置を見失っていることの隠喩?)のだけれど、すみれは自分のいる慣れ親しんだ場所を把握していて、「迎えにきて」と「ぼく」に伝えます。
すみれは、何かを通過して自分を、自分の立ち位置をしっかりと見つめ直すことができたのでしょう?
そのすえに「ぼく」の存在のかけがえのなさに気づくことができたのだと思います。
③ミュウと彼女の奇妙な体験
「ぼく」とすみれ、そしてミュウの不思議なトライアングル。
「ぼく」はすみれに恋をしていて、すみれはミュウに恋をしています。
それで、ミュウは?
彼女の魂の核のようなものは過去にすでに失われしまっていて、誰も愛することはできなくなってしまっていました。
性欲と髪の色とともに彼女の中の大事なものは過去の衝撃的な事件とともに失われてしまっていたのです。
でもそれでも彼女は魅力的な女性/人間であったのだと思います。
とても洗練されていて、知的で、チャーミングで・・・。
すみれが運命的な恋に落ちたのも不思議はないのかもしれません。
ミュウが遊園地の観覧車から目にした自らのドッペルケンガーは何を意味しているのでしょうか?
あのエピソードは村上春樹の小説の中でも特に異彩を放つ奇妙なエピソードですし、何かしら深い意味を帯びているように思います。
ドッペルケンガーと言えば真っ先に思いつくのが芥川龍之介『歯車』です。
あの小説では直接は自らのドッペルケンガーと会いませんでしたが、周囲の人々が見たという自らの複製の存在に芥川は死を予感します。
彼は精神的な疾患を患っていたのでそのまま事実と捉えることはできませんが、もう一人の自分を目にする、またはその存在を感じることはとても異常ですし、なにかとても大事なものを自分の中から失う予兆とも言えるのではないかと思います。
オカルトマニアがっ、とか言われてしまいそうですが(^_^;)
しかし、そのようにしてミュウは自分の中にあったいくつかの核を失ってしまうことになります。
それでも十分に彼女は魅力的で、朽ち果ててしまったギリシャの神殿みたいに荘厳で崇高な存在であったのですけど。
もしかしたら、すみれはそのようにミュウが失った欠落に反応したのではないでしょうか?
ハイエナが死臭に敏感に反応するみたいに。
すみれが自分の物語を描くために求めていたなにか。
どこかで何かの首を切るような呪術的な行為。
それは欠落や喪失とも繋がっているもので、そんな死臭をかすかに漂わせるミュウに本能的に反応したとか言うと考えすぎでしょうか?
ミュウとぼく。
この不思議なトライアングルの最後のピースの穏やかな感じがとても好きです。
恋じゃないけど、限りなくそれに近くて穏やかなもの。
穏やかな春の昼下がりのように凪いだ海を眺めるような穏やかで緩やかな繋がり。
でも、ミュウが口にするように2人は2度と会うことはなかったのだと思います。
『ノルウェイの森』のワタナベとレイコさんの繋がりをなんとなく思い出しました。
④あちら側とこちら側、すみれはそこで何を見たのか?
『スプートニクの恋人』で村上作品の中で特異な点は、ヒロインであるすみれがあちら側の世界に行って、何かしらの経験をして帰ってくるところだと思います。
『ねじまき鳥クロニクル』でワタヤノボルを現実世界で殺すのはクミコだったり、1Q84で手を汚すのは青豆だったりすることで、何かと批判を浴びる村上春樹の物語の主人公たちですが、そういう視点で言うとこの物語の「ぼく」はあちら側に行くことすらしなかったヘタレ野郎だということになりますね(笑)
主人公がである「ぼく」はあちら側へ行くのを踏みとどまり、すみれだけあちら側に行ってこちら側に帰ってくる・・・。
そのことは何を意味しているのでしょうか?
こちら側の世界とあちら側世界というのは『スプートニクの恋人』で繰り返し言及されているテーマだと思います。
すみれは、小説家として足りない何かを手に入れるためにあちら側に行って何かの喉を切ることが求められていました。
僕は小説家ではないのでよくわかりませんが、そういった呪術的な贄のようなものが、多くの人を魅了するような物語には必要なのかもしれません。
「小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」
すみれはあちら側の世界で何を見たのか?
どのようにしてこちら側に生還したのか?
詳細は一切語られませんが、どこかで何かの喉を切って、こちら側に帰還したのでしょう。
あちら側で起こったことが物語の核になりうるような重要な出来事であるはずなのにあえてその部分は描かれずに、主人公が完全な傍観者であるということも『スプートニクの恋人』の大きな特徴だと思います。
とても好きな作品のひとつですが、冷静に考えてこれだけ主人公が蚊帳の外に置かれている村上春樹の作品も珍しいのではないでしょうか?
「ぼく」も、すみれも、ミュウもそれぞれが広大な宇宙空間を航行する孤独な宇宙船でしたが、最後に「ぼく」とすみれは温かに交じり合うことができたのだと思います。
5、終わりに
5回目ぐらいの再読でしょうか?
たぶん。
即買いはしてなくて文庫本(のその中古)で買いましたが、大学生の時にリアタイで刊行されて本屋に並んでいるところをみた作品です。
村上春樹自身も「どこか頼りない作品」みたいなことを何かで言っていた気がしましたし、実際にそんなふうに感じるところもありますが、とても好きな作品ですし、「ぼく」とすみれの関係性がとても好きです。
長くないほうの長編(1冊で終わる長編)って、実は村上春樹の作品にとって中途半端な長さなのかなと思うこともありますが、それはそれで何か余白が多い物語が作られているように思って好きです。
最新作の『一人称単数』が短編小説集だったので、次は書き下ろしの長くないほうの長編が刊行される番でしょうか?
まだ発表はありませんが、また「スプートニクの恋人」のような作品が読めることを楽しみに報せを待ちたいです。
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