ヒロの本棚

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【本】平野啓一郎『日蝕』~死と混沌、幻影が垣間見せた一瞬の光~

1、作品の概要

 

日蝕』は平野啓一郎の長編小説。

彼のデビュー作。

『新潮』1998年8月号に掲載され、同年10月に刊行された。

第120回芥川賞を当時の最年少(23歳)で受賞し、話題となった。

15世紀末のフランスを舞台に神学僧の異端との遭遇を描いた。



 

2、あらすじ

 

15世紀末のフランス。

神学をパリの大学で学んでいたニコラは、フィレンツェへと向かう旅の途上で、リヨン司教の勧めにより、とある村に立ち寄る。

その村で、酒と女に溺れた堕落した司祭・ユスタス、ニコラと同じドミニコ会の僧侶・ジャック、そしてリヨン司祭に会ってみるよう勧められた錬金術師・ピエェル・デュファイと出会う。

ピエェルの幅広い知識と、信仰への深い造詣に心動かされたニコラは、他者との交流をほぼ断っているピエェルの家にたびたび訪れ、親睦を深めていく。

ある日、陽も落ちかけた夕刻に森へと出かけるピエェルを見かけたニコラは後をつけ、彼の秘密を覗き見る。

村では異常気象、怪奇現象が重なり、荒んだ村人たちの心はやがてジャックを中心とした魔女狩りへと向かわせるが・・・。

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ

 

5本の指には確実に入るほど好きな作家である平野啓一郎

ただ初期作品、特にこの『日蝕』は若い頃に挫折して最後まで読み通せなかった苦い思い出があり、喉に引っかかった魚の小骨のような存在の作品でした。

いつかは再挑戦してみたいと思いつつ、その難解な作品世界と文体故、敬遠しつつも気になっていました。

 

僕が『日蝕』を買って読んだのは1999年で、文壇に彗星のごとく現れて大学生当時にデビュー作で芥川賞獲った平野啓一郎は、「三島由紀夫の再来」と言われて大変な話題になっていました。

大学生だった僕はなけなしのお金で『日蝕』の単行本を買いましたが、あまりに難解な内容に読み通すことができませんでした。

序盤は主人公のニコラがどういった学問を習っていて、なになに会の聖なんたらかんたらがどうこうしたとかそういうのが小難しい文体で書かれているのです。

今読むと、15世紀末のフランスの状況や、ニコラがどのような思想を持ってどのような立ち位置にいたのかを示すのに必要な描写だったとは思いますが、当時の僕としては「なんゃこりゃ」って感じでした。

 

初期作以降の平野作品は平易な文体、表現が使われるようになり、だいぶ読みやすくなったのですが、やはり初期の作品群で「ロマンティック3部作」と呼ばれている『日蝕』『一月物語』『葬送』は読み通してみたいと思い、今回『日蝕』を気合入れて読みました。

序盤はまたしても「なんじゃこりゃ」でしたが、中盤以降から動き始めた物語に惹きこまれて、日蝕が起こる場面では幻想入り混じる圧倒的な表現に恍惚とさせられ、僕にとってまた一つ大事な作品ができたように思います。。

 

 

 

4、感想(ネタバレあり)

 

読み通してみて、『日蝕』は非常に純文学的な作品だと思いました。

Wikipediaでは純文学とは大衆小説 に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている 小説 を総称するとありますが、『日蝕』はストーリー性や登場人物の娯楽性より、ニコラの葛藤や気づき、そしてのちに「私の裡には、始めて神へと通ずる一条の遥かな道が通ったのである」と述懐しているように自らの裡に起きたある本質的な変化をもたらしたある体験を中心に描いています。

この物語の中心にあるのはニコラを光へと導いたこの世ならざる体験。

霊肉一致の秘蹟

 

序盤のやや冗漫とも言える信仰論や、ニコラの内省がすべて繋がり、世界のすべてと結びつきそこにいるすべての人々の魂を照射し、その在り方を変えてしまったような奇跡的な一瞬。

両性具有者(アンドロギュノス)が魔女として火炙りの刑に処されるその刹那。

まるで聖女のように馥郁たる香りを漂わせ、キリストのように十字架に張り付けられていた両性具有者。

その陽物はそそり立ち精液が迸り。

太陽は隠れて村人は我を失う。

2体の巨人が現れて激しくまぐわう。

 

その瞬間、そこには全てがありました。

生と死。

混沌、汚濁、性、倒錯、幻影、絶望・・・。

そして、世界を遍く照射した光。

私の霊は肉と倶に昇天し、肉は霊と倶に地底に降りた。肉は霊と熔け合った。私は世界の渾てを一つ所に眺め、それに触れた。世界は私と親しかった。私は世界を抱擁し、世界は私を包んだ。内界は外界と地続きになった。同じ海になった。世界が失われて私が有り、私が失われて世界が有り、両つながらに失われ、両つながらに存在した。ただ一つ存在した。・・・そして、私は将に到どかむとしていた。・・・何に?・・・光に、・・・目映く巨大なる、この光に、・・・・・・・・・・・

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↑最後のほう・・・・・・・・・・・って感じになって、忘我の境地のような自我が消失するような特別な瞬間に意識が飲み込まれていくさまを表現しているように感ぜられました。そして・・・。

 

平野啓一郎がこの作品を以って、三島由紀夫の再来と言われた理由が改めて強く感ぜられました。

倒錯と恍惚、美と汚穢。

それが耽美的に言葉によって紡がれていく。

文学という名を冠した芸術。

 

それはどこまでも絵画的で幻想的な情景でありながらも、内省的で哲学的な瞬間でもありました。

ゴヤの「巨人」(彼の作品ではないとの説もありますが)、ルドンの幻想的な絵画、ギュスターヴ・モローの宗教的、神話的な絵画のような、それらを混ぜ合わせたような光景。

その中でニコラが辿り着いたのは忘我の境地であり、世界と一体になる至上の経験でした。

いや、もうこの場面を表現するには僕の語彙が全く追いついてきませんね(笑)

何かしら仏教的な彼岸にも通じるような世界との一体感。

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↑光に触れたあとに出現する空白の2ページ。それは「万物を遍く呑み尽くしたあの巨大で鮮烈な光の中」を表現したものだったのでしょうか?

 

ピエェルと両性具有者の関係は明らかにされておらず、両性具有者が洞窟を出て魔女として捕えられたのも、その処刑の結果黄金の生成が為されたのも、全てピエェルの目論見通りだったのでしょうか?

村の地形や、処刑された広場と洞窟、ピエェルの居との位置関係も何かしらの意味があったようにも思えました。

 

そして、奇しくもゴルゴダの丘で十字架に磔にされてピラトに槍で串刺しにされて殺されたキリストと両性具有者の姿が重なることにニコラは気付きます。

民衆の無知蒙昧が、その小心と無理解が、神の子を十字架に磔にして葬ったという点もゴルゴダの丘のイエスと両性具有者の間に奇妙な符号があります。

まるでキリストの死をなぞらえるように焚刑に処せられる両性具有者。

まるで人類の罪を背負って甘んじてその命を捧げるかのように炎にまかれる両性具有者は、「父よ彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」と、キリストのように叫びそうでした。

 

まるで渦の中心のようにこの物語の中核であったこの焚刑の一事。

その渦の中心に向かって、実は物語の序盤から予感めいた、暗示めいた言葉が随所に散りばめられていたように思います。

過去を振り返って書いているので当たり前ではあるのですが・・・。

 

「太陽の所為か。」

私は独り言ちた。その刹那に、彼方に懸かる偉烈な太陽を眼にして、私にはしゅう然斯様な異端は抑総てこの目眩い円を源として勃ったのではあるまいかと疑われたかである。外でもなくこの光の故に、この雄々しく熾んに赫く巨大な光の故に、其処に秘せられた或る暗鬱な予感の故に、人々は大地を憎むようになったのではあるまいかと、肉体を、その重くろしさを侮蔑するようになったのであるまいかと。

光が強ければ、また闇も深くなると言いますか。

あまりに苛烈に照り付ける太陽ゆえに、やがて大地や肉体を、人々が憎むようになったのでは。

そうだとすると太陽が隠れるその瞬間に何が起こるのか、その光の影に在ったものたちが幻出したのがかの瞬間であったように思います。

 

・・・私は股栗した。被造物が悪として存在しえぬであるならば、この焔が焼残せしめむとしているのは、ただに人の堕落のみではない筈である。それは善悪を遍く孕んだこの世界の根源的な秩序であり、この世界そのものである筈であった。否、独り世界のみではない。眼前の焔の凄まじさは、世界と時間とを両つながらに吞み込むとしていた。そのうねりと目くるめく赫きとの裡に、或る瞬間的な到達の暗示と再生の劇的な予感とを閃かせながら。ー世界の全的な到達と再生。そして、私は、その濃緑の焔の渦中に、幽かに自身の姿を垣間見たような気がした。

ピエェルの家の裏の森の木々が勢いよく茂ってるね~、っていうだけの描写がこんな感じになってしまう平野マジック。

堕落と淫蕩の末に神の怒りを買い、灰燼にせしめられたソドムとゴモラまで引き合いに出されていて、どんだけニコラのイマジネーション豊やねんって話です。

ソドムとゴモラの堕落は即ちこの村の堕落でもありますが、この焔が焼き尽くさんとするのはただその堕落ではなく、世界そのものであり時間をも呑みこもうしている。

世界の全的な到達と再生。

あの瞬間に為されたことの意味がここにも暗示として散見されるように思います。

ただ堕落している人間を焼き尽くす焔ではなく、世界の在り方を変えてしまうような、善悪の彼岸にあるような現象だったのでしょうか。

 

ピエェルはその「結婚」に就いて語る際に、本質が熔け合うと云った。奇異なる詞を用いた。しかも、熔け合って成るところの新しい本質は、なお以前の本質を何等損なうことなく矛盾した儘両つながらに保ち得ると云うのである。そして、「死」の後にこれが真に可能となるならば、有らゆる対立は一なる物質の裡に解消せられる。その時、この一なる物質には、完き存在そのものが、ありありと現れると云うのである。ー

まさしくあの日蝕の瞬間は本質が熔け合うような瞬間であったのではないでしょうか?

その渾沌のとに現れる一なる物質。

完き存在が両性具有者の遺灰から現れた黄金だったとしたら・・・。

ピエェルは、自らの無残な獄中の死も受け入れて、それでも完き存在が現れる瞬間を切望して両性具有者を洞窟から解き放ったのかもしれません。

ピエェルはかの村に住んだ時からその瞬間を思い描き、その因果の渦にニコラも巻き込まれていったように思えてなりません。

 

 

 

5、終わりに

 

掘り下げたらまだまだいろいろ出てきそうな作品なのですが、このへんで筆を置きます。

いやしかし、20代前半でこんな作品を書くってやっぱり平野啓一郎は天才と言わざるを得ません。

でも難解すぎやな~(笑)

 

逆に初期作品を読むことで、中期以降の変化が何を意図していたのか、彼がどこに到達しようとしているのかがわかるような気がするので、『一月物語』『葬送』も続けて読んでみたいと思います。

当時から「日本文学の正統後継者」という言葉がなぜかずっと脳裏にあったのですが、これからも変化と進化を繰り返す、彼の文学に浸っていきたいと願います。

 

蛇足ですが、最新長編『本心』が映画化されるみたいですね!!

いや、あれを映画化できるのか?っていう不安はありますが、まあ楽しみにしたいと思います。

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