ヒロの本棚

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【本】平野啓一郎『マチネの終わりに』~繊細な心理描写と美しい文章で語られる、ある愛の物語~

1、作品の概要

 

2016年4月に刊行された、平野啓一郎の長編小説。

2015年3月から2016年1月まで毎日新聞で連載された。

第2回渡辺淳一文学賞受賞。

天才ギタリストの蒔野と、海外で活躍するジャーナリストの洋子の恋を描いた恋愛小説。

2019年11月に福山雅治石田ゆり子が主演で映画化された。

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2、あらすじ

 

若い頃から世界で注目されている天才的なクラシックギターのアーティストである蒔野は、東京でのコンサートの打ち上げで意気投合した国際ジャーナリストの洋子に心を惹かれるようになる。

洋子には婚約者がいたが、フランスに戻ったあともメールとスカイプのやり取りで蒔野に好意を持つように。

バグダッドのテロで一命を取り留めた洋子は、パリで蒔野から愛の告白をされて、彼とともに生きていくことを決意する。

東京で再会し、共に生きていくはずだった2人を残酷な運命が引き裂いていく。

時は流れて、それぞれ家庭を持った蒔野と洋子だったが、お互いの存在は胸の奥で熾火のようにくすぶり続けていた・・・。


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3、この作品に対する思い入れと読んだきっかけ

 

平野啓一郎さんの作品は、昔デビュー作の『日蝕』や『一月物語』などを読みましたがが、難解な印象が強くなかなか彼の作品の良さが理解することができませんでした。

それ以来彼の作品は気にはなっていたもののなかなか手に取る機会がなかったのですが、『決壊』で衝撃を受けて発売当時話題になっていた『マチネの終わりに』を読みました。

美しい文章と表現で紡がれた繊細で大人な恋愛小説。

読了後に強い感動を覚えた僕にとって特別な作品です。

 

 

 

4、感想・書評

①大人の恋愛

恋愛小説と言えば20代や30代が主役のものが多くて、お互いが激しく愛し合ってみたいな内容が多く、性描写が多くお互い骨ごと溶けるような物語になることが多いように思います。

そういった作品も僕は嫌いではありませんが、『マチネの終わりに』では相手の人生歴や価値観、考え方なんかも含めて互いに尊重し合うような、もっと穏やかで大人な恋愛が描かれていました。

蒔野が38歳、洋子が40歳の時に出会い物語の中で5年半という月日が流れていきますが、自愛にも等しいような10代の恋愛、自分の想いを相手に受け入れて欲しいと願う20代の恋愛とは違って、40代の2人が育む愛は相手の心の中に深く染み入るような思慮深い恋愛であったかと思います。

 

若い頃のように勢いよく相手の心の中に踏み込んでいければ良いのだけれど、お互いの立場や心の距離感を慮って踏み込めずにいる。

そんな繊細なやり取りをしながらもお互いの考え方や人間性に惹かれていく。

たった3度しか会ってないのに心の奥底には相手のことが常に存在していて、想い続けているなんてちょっとお伽噺のような美しさですね。

 

40代という年齢に差し掛かって様々な問題を抱え始めた2人ですが、お互いの存在を光としてその「人生の暗い森」を抜けようとします。

それは燃え盛る真夏の太陽のような恋ではなく、初春の朝日のような柔らかく仄かな光だったように思います。

期せずしてプラトニックな関係になった2人ですが、一夜を共にする機会はなかったわけではなくて選択肢の中にあってたまたまそうならずに、肉体的な繋がりより深い精神的な繋がりが2人の間にあったのでしょう。

これまでの人生の中で数多くあった愛の中で決して感じることがなかった想い。

平野啓一郎は、その繊細で美しい文章で2人のそれぞれの愛について語ります。

世界に意味が満ちるためには、事物がただ自分のためだけに存在するのは不十分なのだと、蒔野は知った。彼とてこの歳に至るまで、それなりの数の愛を経験してはいたものの、そんな思いを抱いたことは一度もなかった。洋子との関係は、一つの発見だった。この世界は、自分と同時に自分の愛する者のためにも存在していなければならない。憤懣や悲哀の対象でさえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。そして彼は彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧騒を忘れることが出来た。 

彼と向かい合っていると、何も特別なことのない単なる日常会話が、人生の無上の喜びと感じられるような一瞬がしばしば訪れた。それは、ほとんど不可解とさえ思われるほどの、何かしら奇跡的なことだった。

 この世界は自分で直接体験するよりも、一旦彼に経験され、彼の言葉を通じてもたられた方が、一層精彩を放つように感じられた。その少し歪な繊細さも、段々と理解できるようになってきていて、愛おしくもあり、また時にはおかしくもあった。相変わらずね、と。

 

運命的な出会いから東京、バグダット、パリ、ニューヨークと距離を感じながらも強く惹かれあう2人。

ただ近くにいる男女として求め合っただけではない、魂の奥深い底から求め合うような、お互いでなければ満たされないような深い繋がりが存在していたように思います。

絶望的なすれ違いからどれだけ距離が離れていても、心の奥底に熾火のように温かく燃え続けていたかけがえのない想いはやがて時間と距離を超えた感動的な再会へと2人を導いていったのでしょう。

お互いが本気で求め合い続けていれば、世界が広くてどれだけ離れていても、時間も距離も超えて巡り合うことができるのかもしれませんね。

 

②物語に散りばめられる社会問題、洋子の生い立ち、病と死

いささかロマンチックすぎる物語なのかもしれませんが、「世界中で対立と分断が叫ばれる殺伐とした時代だからこそ、愛し合うことの美しさを、説得力を持って描きたいなと思っていました。エンターテイメントには笑える話や泣ける作品など色々ありますが、僕は普通じゃないくらい一途に相手を思う気持ちの純粋さを表現して、とにかく美しい世界に浸ることができる物語を書きたかった」と、平野啓一郎さんは語っていて、殺伐としたイラク情勢や、リーマンショック、3.11などの社会的な事件や問題を描きながら美しさと純粋さを描いた「恋愛小説」が描かれています。

ツィッターのスペースで自作『本心』のことについて平野さんが語っていた時に、「このような暗い社会状況の中で希望が持てる物語を描きたい」みたいなことを語られていましたが、このように様々な社会問題を描写しながらあえて美しい恋愛を描いたのも、そういった人心が乱れている今だからこそだったのかと思います。

 

インターネットと飛行機などの交通機関の充実によって世界はどんどん狭くなっていっていますが、グローバル化がもたらす功罪もあり、海に向こうで起こったことが自分の生活に影響を与えて圧迫していく。

世界がグローバルになっていくということは、ある意味では自覚しないうちに同じ船に乗せられているような状況のようで、富める国も貧しい国も運命を同じくするものなのかもしれません。

 

洋子は、ジャーナリストという仕事をしていることもありイラク問題、テロ、リーマンショックなど世界で起こる社会問題に直面し、最前線で向き合っていきます。

自らもユーゴスラビアにルーツを持つ映画監督ソリッチと日本人の母親のハーフで、そのルーツをたどる上でユーゴスラビアの崩壊と戦争、母親が長崎で被爆していることなど複雑でデリケートな問題を抱えながら生きています。

そのような複雑で多様性がある生い立ちが、洋子の人間性に深みと思慮深さを与えているように感じました。

知的で人間的にも包容力と落ち着きがあって、40歳を超えても美しく有り続ける洋子。

蒔野がほとんど一目惚れして、ずっと忘れられない存在だったのも無理はありませんね(笑)

蒔野もそんな洋子が惹かれるほどの圧倒的な音楽的な才能を持ちながら、とても気さくで思慮深い魅力的な男性として描かれています。

 

バグダッドイラク問題を取材中に洋子はテロに巻き込まれて、一命を取り留めます。

ビルの中での爆破事件で、エレベーターに乗っていたお陰で九死に一生を得ますが、多くの人々が命を落として、直前までホールにいた自分もあと少しあの場に留まっていたら命を落としていたという経験をします。

人の生き死にとは不思議なもので、あと一歩のところで大きく運命が隔てられたりすることがあるのでしょう。

洋子は後にPTSDを発症してしまい、爆破テロ事件が自らの心に残した傷に悩まされています。

 

人間の精神の構造は複雑で、自分では大丈夫だと思っていても実は隠れた部分が傷ついていたりすることもあるかもしれませんね。

心は血を流したりしないので、どこがどう傷ついているのか自分でもわかりずらい部分があって、それがあとになって自分も思いがけないタイミングでフラッシュバックしてりするのでしょうか。

三谷が犯した罪によって蒔野と洋子の2人は離れてしまいましたが、それだけではなくて洋子が負った心も大きな要因だったように思います。

愛する人に自分が傷ついて病んでいる姿を見せたくない。

蒔野も自らの演奏のスランプを洋子に告白できなかったように、洋子も自らの傷を彼に晒すことができませんでした。

 

洋子がそのようにダイレクトに自らの死の可能性に触れる一方で、蒔野も自らが演奏できない時期を経てデュオを組んだ武知の自死に衝撃を受けていました。

昨日まで元気だった身近な人間がある日突然いなくなる・・・。

年を経るということは、より死が身近になっていくということでもあります。

40代になるということはそういうことで、武知は自死でありましたが病気や介護の問題なども顕在化してきます。

蒔野の師匠である祖父江が病気に倒れたことが2人を引き裂く一因になったことも、40代の恋愛について象徴的な出来事なのではないでしょうか?

身一つで気軽にいられたあの頃とは背負うものの多さが違ってきているのですから。

 

③過去は変えられるのか?

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれぐらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

初めて出会った夜に蒔野が洋子に言った言葉。

「過去を変える」という言葉はこの物語の中で様々な場面で登場して一つのテーマのようになっているようにも思えました。

 

過去を変えるとはどういうことでしょうか?

もちろん一度起こってしまった事柄、事実は変わることはありません。

タイムマシンでもない限り、過去に起こった事実を変えてしまうことはできないでしょう。

 

ただ、未来で新しく手に入れた経験、知見によって、過去に起こった出来事の意味合いを変えていくことは可能かもしれません。

ここで蒔野が言っている「過去を変える」ということは、もちろんSF的な意味ではなくてそういった意味なのだと思います。

例えば、子供の頃に父親に厳しく育てられて周りの子供がもらっているような潤沢な小遣いももらえずに大人に成長して、父親は自分のことを疎ましく思って辛くあたっているのだと感じていた人がいるとします。

 

けれども彼女(彼)は、先の未来で父親が将来的に自立した大人になりしっかりとした経済観念を持って欲しいとの願いを持って育てられたことを知ります。

父の想いを知り、彼女(彼)の教育の成果(もちろん自身の才覚と努力の賜物でもある)で経済的に恵まれて豊かな生活ができている自分を発見した時に、父に疎まれていたという辛い過去は、父に大事に思われていて敢えて厳しく育てられていたのだという苦いながらも愛を宿した幸福な過去に変わっていくことになるのかもしれません。

 

未来に進み、そこで得た知見を持って過去の形を変えていく。

それは決して幸福な形だけではなくて、洋子が幼少の頃に遊んでいた石が祖母の命を奪うような悲劇的なことも起こるのかもしれません。

それでも過去は未来によって干渉されて鋭敏に変化していき、私たちは偶発的にだけではなく、自らの意思を持って過去を自分の望み通りに変えていくことができるのだと思います。

人間は自らの意志で未来を切り開き、過去をも変革して生きていくことができるという、平野啓一郎さんのメッセージでもあるように感じました。

 

洋子と蒔野が最初に出会った東京の夜の記憶。

その過去も2人が進み続けた未来によってより美しく透徹としたものに変わっていきました。

ジャリーラを交えて3人で純粋に音楽の温かな癒しを楽しんだパリの夜も。

未来に進みながらも絶えず過去を振り返り、記憶に新しい命を吹き込み続ける人の営み。

それはどこまでも客体とは相容れない主観的な世界を、物語を生き続ける人間という生物だけができる過去との関わり方なのかもしれません。

 

あの東京での嵐の夜。

悲劇的な別離。

嘘と裏切り。

 

そのような過去を蒔野と洋子がどのように変えていったのか?

ラストシーンでの再会は、そんな2人の明るい予兆を感じさせるようなものでした。

 

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5、終わりに

 

ただその音楽とだけ一つになって、すべてから解放されたかった。時間と旋律とが、一切の過不足なく結び合って流れてゆく美に融け入りたかった。

蒔野のバッハの演奏を聴く洋子の表現ですが、美しくも崇高な音楽を聴いて恍惚とする感覚を美しく文章で表現しています。

平野啓一郎さんの文章はとにかく美しい上に全く無駄がなく、流麗に流れていく清水のように感じられます。

彼の文章で表現されると音楽もみずみずと美しく、心に沁み入ってくるイメージが伝わるようです。

 

『マチネの終わりに』は美しく切ない恋愛物語であるだけではなく、世界に起こっているたくさんの問題や、死生観、人生観など様々なエッセンスを詰め込んだ素晴らしい物語であったと思います。

誰かを深く愛するということは、結局のところその人の人生観や、哲学、倫理、ルーツ、感性を理解して共感していくことではないかと感じました。

 

最後に『マチネの終わりに』とは関係ありませんが、『ある男』が映画化され、『空白を満たしなさい』がNHKで連続ドラマ化される今年は「平野啓一郎まつり」と言っても過言ではないでしょう(笑)

2つの作品がどのように僕たちのもとに届くのか。

とても楽しみです。

個人的にも、平野啓一郎さんの作品を再読しながらまつりを楽しみたいと思います。

 

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