1、作品の概要
平野啓一郎の最新長編小説。
朝日新聞で連載され、2021年5月26日に刊行された。
『マチネの終わりに』『ある男』に続き、愛と分人主義をテーマに描かれた。
2、あらすじ
母親を亡くした朔也は、仮想空間のVF(ヴァーチャル・フィギュア)の作成を依頼して、VFを通じて故人である母親の秘められた本当の気持ちに触れようとする。
母親が以前懇意にしていた女性・三好や、母親が好きな作家で個人的な繋がりがあったと推察される藤原亮治との関わりから母親の心のかたちに触れて、やがて自身の出生の秘密を辿る・・・。
2040年の日本を舞台にして、VR、AI、ロスジェネ、貧富の格差、そして自由死についての多岐なテーマを辿りながら綴る、最愛の人の他者性を受け入れていく物語。
3、この作品を手にしたキッカケ・思い入れ
好きな作家の最新作。
中村文則、村上春樹もそうですが、平野啓一郎も作品の刊行を心待ちにしている作家の一人です。
今作は、ホームページで新聞の連載、作品の刊行を知り、楽しみにしていました。
同時代に生きる作家が、これほど興味を惹かれる物語を創造している・・・。
読みたいという強い渇望と共に、何かしらの強い使命感のようなものを感じました。
うん、たぶんいつもの錯覚だけど(笑)
まぁ、いいんです。
もう、僕はそんなふうにして生きていくんです。
4、感想・書評
①20年後という時代と仮想現実
近未来の小説ですが、とてつもないリアリティーだと思います。
例えば未来を書く小説にしても、100年後の未来を書くんだったら、ある程度荒唐無稽なSF小説を書いたりできると思いますが、20年後となるとリアリティが求められると思います。
VR、AI、仮想空間、アバター、ドローンなどのテクノロジー的なことから、自然死にみられる高齢化問題と国の経済の衰退、台風の大型化などの気候の変動、格差の拡大などわざとらしくない程度にさりげなく先の未来が描写されています。
それは、どちらかというとディストピアのような憂鬱な未来ですがとても説得力がある内容でした。
読んでいて「わかるわかる!!きっとこうなるよね!!」って思うような内容でした。
1990年代に村上龍が『憂鬱な希望としてのインターネット』というエッセイを書きましたが、インターネットは最早繋がっているのが当たり前で、それを前提にICT、IOTが推し進められてトイレや洗濯機でさえもインターネットで接続されて支配されようとされています。
うちの子供達なんかの世代ではインターネット(WiFi)が常時繋がっているのが当たり前で、繋がっていない状態がストレスになっています。
1990年代はまだインターネットをする時にパソコンに向かい、接続ボタンを押してから長い時間をかけてブラウザを開く。
「さぁ、これからインターネットをするぞ!!」みたいな気合が必要でした。
それから考えると、スマホの普及を始めこういった情報通信の分野のテクノロジーの発達は目覚しいものがあり、次の20年もVRやAIといったテクノロジーの進化が著しくなるのでしょう。
仮想現実のが急速に発達することで、現実との向き合いかたが変わる。
自分が現実の中で得られないものを仮想現実に求めたり、仮想現実に逃避していくといったことが物語の中でも描かれています。
朔也、三好、イフィーの主要な登場人物の3人もそれぞれに現実世界において喪失、欠損を抱えてその心の空白を仮想現実で埋めようとします。
朔也は、母親が自由死を考えていて、その「本心」を朔夜に明かす前に事故死してしまった。
そんな現実を受け入れることができずに仮想現実の中に母親のVFを作り出して、母親との関係を再構築しようと試みます。
彼自身の仕事であるアバターも、まるで仮想現実の世界のように誰かのかりそめの体として行動する仕事でした。
三好は、幼い頃から貧しい家庭で育ち、義父からは虐待されて、セックスワーカーでお金を稼いでいました。
富裕層(あちらの世界)と貧民層(こちらの世界)の隔たりをずっと意識させられて、こちらの世界の生活から一生抜け出せないと感じています。
現実世界は辛いことばかり・・・。
三好にとって仮想現実とは、嫌な現実世界を逃避して違う自分、違う人生を楽しむことだったと思います。
イフィーは、幼い頃に自動車事故遭い下半身不随になってしまいます。
「あの時、もし跳べたなら」というのは彼自身の願望で、仮想現実世界でかりそめの姿になるアバターのデザインをしています。
アバター同士が乱交する仮想空間「ドレスコード」のことから考えても、現実世界で失ってしまった自分の機能や可能性を仮想現実に求めたのではないかと思います。
このように三者三様に仮想現実に現実世界では果たされない想いを託して慰めとしています。
これからますますインターネットの世界、仮想現実の世界はそういった現実世界の鬱積した想いを晴らしたり、現実逃避をするような場に場になっていくのではないでしょうか?
現実の世界で社会が不安定で格差が大きければ大きいほど、仮想現実の世界が「憂鬱な希望」になっていくのでしょう。
②格差とロストジェネレーション
1970年代に田中角栄が「一億総中流」をうたって、比較的貧富の差が少なかった時代もありましたがバブルの衰退を経て、常に右肩上がりだった日本の経済成長に陰りが見えるようになりました。
1990年代後半から物価が下がり続けるデフレ状態になり、賃金も低下、余計にモノが売れなくなるという悪循環。
2000年ごろに卒業した世代は「就職氷河期世代」とも言われて、その後に「派遣切り」「ワーキングプア」などの社会的貧困問題の主役として語られるようになりました。
NHKの「クローズアップ現代」などでも取り上げられて、「ロストジェネレーション」「置き去りの世代」などと言われて取り上げられていました。
そして、2000年に23歳だった僕はどんぴしゃでロスジェネ(笑)
まぁ、なんとか細々とやっていますが、一歩踏み外すと危険な状況でもあったのだと思います(^^;;
余談ですが、僕は就職活動をしたことがなく、大学生の時に当時のアルバイト先のグループホールで大根切ってたらそこの責任者の人にスカウトされたっていうエピソードがあります。
「○○くん、就職先決まってないならうちで働かない?」
「はい、やります」
秒で就職決まりました(笑)
それでも、1年間は非常勤扱いで金銭面でめちゃくちゃキツかったです。。
多少誇張されている感もありますが、朔也の母親の世代(ロスジェネ世代)がとても生活に困窮していて金銭的に安定した生活を送ることが難しかったことが窺えます。
平野啓一郎もこのロスジェネ世代de、他人事ではない自分の世代としての大きなテーマであるように感じたのでしょうし、貧困は連鎖するという考え方からロスジェネ世代の子供達の行く末についても描こうと思ったのではないでしょうか?
何かの本で読みましたが、親の経済力と子供の学力・年収は相関関係にあるとのデータもあるそうです。
富裕層の子供は富裕層になり貧困層の子供は貧困層になって貧富の差が受け継がれていってしまう。
もちろん一概には言えないかもしれませんが、そういった状況はこの先もっと進んでいってしまう気がします。
日本経済の復活を掲げて、アベノミクスで三本の矢をぶち上げた安倍元総理の政策も、蓋を開けてみると大企業や投資家が潤う富裕層向けの政策であったと批判されました。
一定の効果はあったのかもしれませんが、景気が好転している実感を得た一般市民は少なかったのではないでしょうか?
2021年現在も以前より貧富の差を実感として感じるようになりましたが、平野啓一郎の描く2040年の未来において貧富の格差は更なる広がりを見せていました。
朔也は高校中退したこともあり安定した職に就くことができず、母親が買ったマンションに住まなければ日々の暮らしも成り立たないほどでした。
リアルアバターの仕事も、不安定かつ低収入でいつまで続けられるのか不安を抱えた毎日。
三好は親とも不仲で、仕事も旅館の仕事で低収入だったこともあり常にギリギリの生活を送る毎日。
2人が同居を始めたあとの金銭のやり取りも随所に細かく出てきてとてもリアリティがあります。
団塊ジュニアという言葉がありましたが、この2人はロスジェネジュニアとでも呼ぶべきでしょうか?
経済的にギリギリの毎日を送っていました。
また、貧富の格差が拡がると増えるのが犯罪です。
朔也の唯一の友人の岸谷は同じアバターの仕事をしながら、朔也より厳しい経済状況で暮らしていました。
貧しい生活を強いてくる社会に憎悪を募らせた岸谷は、社会を揺るがすような事件に加担してしまい、逮捕されてしまいます。
この岸谷と朔也の間にはどれほどの差があったのでしょうか?
朔也も後に自分も事件の実行犯に加担していたかもしれない可能性を考え、岸谷自身も朔也を勧誘しようとしていたことを仄めかします。
それは、本当にギリギリのところで貧富の差が拡大して荒廃した社会においては誰もがこのような犯罪に手を染めうることを暗に示しているのかもしれません。
「お前やっぱりいいヤツだな。ー事件に巻き込まなくて、よかったよ。」と、笑みもなく、少し険しい真剣な顔で言った。
僕はその一言に衝撃を受けた。その可能性は自覚していたが、それにしても、僕と彼との運命は、本当にこの透明のアクリル板1枚程度の隔たりしかなかったのだと感じた。
③自由死と生命
この作品で繰り返し出てくる「自由死」というキーワード。
現代社会においても「安楽死」という概念が医療・介護の現場で取り沙汰されていて、もう回復する見込みがない患者の生命を積極的な治療をしないという方針で終わりへと導くというケースも出始めました。
在宅介護でも「延命治療」に対しての命の選択を家族と話し合って、あらかじめ方針を決めておくようなことも増えてきています。
例えば、もし生命に危険がある状態になっても救急車は呼ばずに、かかりつけの訪問診療の先生を読んで最後を看取ってもらう。
もし救急車を呼んでしまったら、例えば人工呼吸器をつけたりしてなんとか医療の力で生命を繋ごうとしてしまう。
本人もほとんど意識もなく身体は辛い状態でただ生かされているだけの状態になり、家族は介護で疲弊し、莫大な医療・介護費がかかってしまう。
その状態をどう考えるか?
命の選択はすでに身近に行われています。
日本の介護は、口で食べられないぐらいに衰弱したら、胃瘻でチューブを入れて栄養を直接胃に注入する。
とにかく生きてもらおうとすることがまだまだ中心ですが、欧米においては口から食べられなくなったら看取りの段階に移行し、穏やかな死を選択する。
水分も無理に摂らなくていい。
そんな考え方が主流で、日本の医療・介護もそういった考え方が徐々に根付き始めています。
でも、そういった状況で何をどう選択するかは家族と本人の自由であると思います。
それは何人も立ち入れない問題で、だからこそ当事者と家族の意思が最大限に尊重されます。
平野啓一郎は、『本心』でこの生命の問題にも果敢に切り込み、「自由死」といったさらに一歩進んだ概念にまで言及しています。
背景にあるのは、やはり国の経済状況。
2025年問題で団塊の世代が高齢化して、この国の医療費・介護費はパンク寸前。
昨今、法改正で様々な対策もなされていますが追いついていないように思います。
これから無駄は徹底的に削られていきますし、社会全体が高齢者に「自由死」を迫るような生きづらい世の中になる可能性も否定できません。
まるで昔の姥捨て山に戻ったかのようですが・・・。
70歳まで働けとか言われて、いざ仕事を辞めてもなけなしの年金しかなく、挙句の果てに周りから自由死をするように暗黙のプレッシャーをかけられる・・・。
これがロスジェネ世代の老後ですか、平野さん(^^;;
いや、でもリアリティーありまくり。
きっとこんな風になっちゃいますねぇ。。
それと医療が発達すると平均寿命が延びて、さらに死時を選びにくくなるので本当に自由死を選択する時代が来るのかもしれませんね。
死の一瞬前に誰と一緒にいたいのか?
現代において生命の誕生は陣痛促進剤などによって、ある程度コントロールできるようになってきていますが、死もコントロールできるようになり大切な人と死の一瞬前に大切な人に看取られる最期を選択することができます。
朔也の母親も、もう十分という想いから自由死を選択して最愛の息子である朔也に看取られる最期を希望していました。
「お母さんはね、朔也と一緒にいる時が、一番幸せなの。他の誰といるときよりも。だから、死ぬ時は、朔夜に看取ってほしいのよ。朔也と一緒の時の自分で死にたいの。他の人と一緒の時の自分じゃなくて。ーそれがお母さんの唯一のお願い。あなたの仕事も、家を留守にしがちだから、お母さん、万が一、あなたがいない時に死ぬと思うと、恐いのよ。わかるでしょう、それは?」
まだ70代でおおむね健康な自分の親に急に自由死のことを言われたら誰だって困惑し、その本心を図ろうとするのではないでしょうか?
朔也にとっても唯一の肉親である母親からの申し出を受け入れることができず感情的になってしまいます。
自由死を希望する母親は今まで自分が知らなかった何かを含んでいる。
最愛の人の他者性を受け入れることが朔也にはできませんでした。
しかし、母親がそう思った背景にあるいろんな出来事を共有できていれば・・・、富田や三好、藤原との関わりで母親の別の分人に触れることができていれば、朔也自身も「縁起」のアプリで体感したようなスケールの大きな死生観を身につけていれば、態度は変わっていたのではないでしょうか?
母親が自由死を言い出した背景は決して単一的な思いつきではなく、彼女がこれまで辿ってきた人生のいくつかの出来事によるものでした。
ボランティアを通じて知り合った似た境遇の女性と、子供を産んで家族になろうとしたこと。
その女性が逃げてしまって、1人で朔也を出産したこと。
おそらく母親はその女性が逃げ出した時に、一度死んでしまったような心持ちになったのではないでしょうか?
でも、朔也を子供を産み落とすことを望み、藤原とも恋に落ちて、朔也のことは心配だけど優しい子供に育ってくれた・・・。
70歳になった時に(確かにこの時に富田が言うように経済的なこともよぎったのでしょう)自分の人生に満足して、肯定的な「もう十分」という言葉が出てもおかしくなかったのかもしれません。
もちろん社会的なプレッシャーが皆無だったとは思えませんし、そういうふうに思い込もうとしたのかもしれません。
人の心は一義的ではなくて、様々な切り口があって、自分が思っている以上にたくさんの方向に広がっているものだと思いますから。
地中で根を張り巡らす大樹のように。
そして、藤原がの小説「波濤」が、母親の死生観に大きな影響を与えたことは想像できます。
幸せの絶頂にあった芸人の命を打ち寄せた波が唐突に、無慈悲に奪い取る。
愛する人を想いながらも、彼は愛する人に看取られることもなく死んでいく・・・。
この結末を読んで母親が感じてた恐怖も、彼女を自由死を決意するように導いたのかもしれません。
④分人主義と朔也の成長
平野啓一郎が提唱する分人主義。
自分を構成する人格は一つではなく、様々な人との関わりごとに人格が存在していて、それら全てが複合的に自己の人格として形成されていく。
と、いう考え方です。
たぶん(笑)
僕の名刺代わりの小説10選にも入っている、『空白を満たしなさい』はこの分人主義が物語に組み込まれて主人公の人間性を、心の有り様を変えていくとても興味深い作品です。
そして、今作『本心』でも「分人」の考え方が物語の中で脈づいています。
一つは、母親が関わった人々から朔也が知らなかった分人を垣間見て、母親の「本心」に近づいていくということ。
もう一つは岸谷、三好、イフィー、藤原などの人々との関わりの中から自らの新しい分人を作り出して、新しい自己を創造して未来へと歩み始めた朔也自身の分人について。
物語の始めを読んでいて、朔也のことが好きではありませんでした。
母親に依存しなきゃ生きていけないとかキモいし、マザコンみたいだし、決断力もないし・・・。
周囲に「優しい」とか言われているのも、他に褒めようがないからじゃないのかとか、割と朔也には手厳しかったですね(笑)
まぁ、ロスジェネJrの僕自身の息子をイメージしていたのかもしれません。
しかし、朔也はとても素直でしなやかな人格の持ち主で様々な出来事に直面しながら少しずつ前に進んでいきます。
いつの間にかそんな朔也に僕は感情移入して、その素直さや優しさに魅了されます。
そして、その健やかさは母親との生活が、母親との分人が、朔也の主人格を作ったのではないかと感じました。
朔也は三好からも察されていましたが、貧困層においては教養や品の高さが伺えたのかもしれません。
そしてそれは、母親との関わりがもたらした福音だったのでしょう。
しかし、自分の多くを占める分人を構築していた母親がいなくなってしまったことで、朔也は色々な意味で自己の再構築を迫られます。
社会的に低い地位で収入も低いリアルアバターという職業。
多くの人から蔑まされながらも、イフィーに見初められて彼の人生が一変します。
イフィーの複雑に絡み合った自我。
そして、高層マンションから眺める風景が朔也に多くのものをもたらします。
他人との関わりの中で違う自分が出現し、その分人に寄り添う形で主人格も変化を遂げていく。
そいういった意味で、他者との出会い、関係性の構築が自分を変化して成長させていく。
イフィーのようなこの世界のピラミッドの頂上にいる人間に触れることで、朔也の分人は混乱を伴いながらも成長して、やがてはこの世界を生き抜く新たな力を彼にもたらします。
三好との関わりも朔夜にとって大きな出来事で、三好との間での分人は朔也の優しさ、人間的長所がつまった分人だったのだと思います。
そして、彼は今ままで「与えられる」ことが多かった立場から、「支え合う」立場を学んだのではないでしょうか?
一方的に庇護される立場から、助け助けられる立場の人間へ。
三好との分人はそのような信頼関係と、支え合う関係性の学びを含んではないかと思います。
そして、三好とイフィーとの分人が、ティリとの分人に繋がっていく。
二人との関わりがなければ朔也はティリとの関係性に、外国籍の若者の教育を支援する仕事に自分が就くという考えにたどり着けなかったのではないでしょうか?
三好とイフィーとの関わりは、ただの恋愛の三角関係だけではなく、多くの実りを朔也にもたらしたのだと思います。
そして、その実りを受ける土壌は、母親との関わりの中で形成された朔也の主人格であり、その健やかさと優しさが彼自身の未来を切り開いたのだと思います。
⑤最愛の人の他者性と向き合い、愛すること
『本心』を読み終わったあとに最初からざっくり読み返しました。
読了後、思ったいくつかの疑念やもやもやがあったのですが、序文を読み返したあとに答え合わせをしているような気分に陥りました。
読み始めに茫獏として象をなさなかった物語の核が突然立ち現れたかのようでした。
人間だけではない。生き物も風景も、一瞬ごとに貴重なものを失っては、また、入れ違いに貴重なものになってゆく。
愛は、今日のその既に違ってしまっている存在を、昨日のそれと同意視して持続する。
鈍感さの故に?誤解の故に?それとも、強さの故に?
時にはそれが、似て似つかない外観になろうとも、中身になろうとも、或いは、その存在自体が失われようとも。ー
それとも、今日の愛もまた、昨日と同じではなく、明日にはもう失われてしまっているだろうか?
だからこそ、尊いのだと、あなたは言うだろうか。
この文章は『本心』を読む前まではただの一般論に過ぎなかったかもしれませんが、この物語を通過したあとでは誰もが素通りできません。
物語の始めに提示されたテーマが、物語を通過していくことによって回収されて文章の意味をさらに深めていく・・・。
2度目にこの文章を読んだときに僕は改めてこの物語に深く感動して、その意味を理解したようにおもいました。(気のせいでなければ)
最愛の人の他者性と向き合うとはどのようなことでしょうか?
私たちはたとえ愛する人であっても、その人の知らぬうちに他者と関わりを持って多くの分人を作り出し、やがてその分人をもって多くの自己変革を成していきます。
私たちは、毎日顔を合わせている愛する人を全身全霊で愛しながら、その人との時間を愛しながらも、愛する人の知らぬうちに別の存在になっていくのです。
それでも、あなたは私を愛してくれるでしょうか?
もしかしたら、あなたの知らないうちに、あなたの望まないかたちに変化してしまった私を。
そして、あなたも私が知らないうちに別の存在になってしまうのでしょうか?
それでは愛とは何でしょうか?
今日、今の瞬間愛してる私は。
明日、別の何かに変わってしまったあなたを愛せるのでしょうか?
最愛の人が自分の知らない一面を持っている。
その最愛の人の他者性と向き合っていく。
藤原が、朔也に対して投げかけた言葉が心に沁みます。
「最愛の人の他者性と向き合う人間としての誠実さを、僕は信じます」
身体的にも、精神的にも常に変化して別の生き物になり続けている最愛の人を愛する。
それは寛容だったり、時には勇敢であったりするのかもしれない。
変化を恐れないということは口にするほどに簡単ではなくて、ましてや最愛の人の変化に向き合って寄り添うことは神の慈愛を持ってさえ難しいのかもしれない。
幼稚園へと送り出した我が子が粗暴な友達の影響を受けて自分の望まない人間へと変化しているかもしれない。
付き合っている彼女にギャルの友達ができて、急にファッションが派手になるかもしれない。
下世話な例えかもしれませんが、そうやって自分の最愛の人も誰かとの分人の関わりの中で変化していくのだと思います。
それを受け入れるにはどうしたらよいか?
僕は自らも誰かと繋がってたくさんの分人を形成して変化していけば良いと思います。
分人が増えていく中で変化していく自分を楽しんで、自分の最愛の人にどういった素晴らしい変化が起こっているのかを理解すればいいと思う。
きっと、ワクワクするでしょう。
自分が知らない時間に知らない人間との関わりが、自分の最愛の人を変化させていくことに。
様々な変化と葛藤の末に残るひとしずくの温かな灯火を。
人は愛と呼ぶのかもしれません。
5、終わりに
平野啓一郎という作家に対して。
2歳年上の作家ですが、ほぼ同世代で僕が大学生時代に芥川賞を受賞して、しかも京大生。
いや、めちゃくちゃいけすかなかったですよ!!
何か嫉妬しまくりでSHITでした。
なんなんですかね?
天が5物ぐらい与えたんかな?
また芥川受賞作の『日蝕』が非常に高尚な内容で・・・。
しかも、当時の平野啓一郎は「日蝕の『蝕』の字も読めない人にはこの作品を読んで欲しくない」とか言ってて(僕の勘違いかな?マスゴミの曲解もあったかもですが・・・)正直あまり印象もよくありませんでした。
文章は美しかったですが、初期の作品は心動かされるものではなくて・・・。
(読み直してみようと思っていますが)
『一月物語』は好きでしたが、それ以来の作品は読んでいませんでした。
彼の作品に再会したのは『マチネの終わりに』でした。
こんなにも人の心の動きの機微や、考え方に対して繊細な描写ができて、尚且つ人生に対して投げかけてるような深みがあるテーマを提示するようなとてつもない作家になっていたのでした。
僕はその時に35歳を超えていて、なんだか昔馬が合わなかった友人に同窓会で意気投合しているみたいな気分になったものです。
平野啓一郎は、現代の三島由紀夫とも言われるような卓越した文章力と、美しい表現を用いて、現代に生きる人々の心のうちにある何かを解き放っていたのでしょうか。
そして、彼が行き着いた分人主義という考え方・・・。
現代文学に於いてこれほどまでに確固たる哲学を持ち得た作家が他にいたでしょうか?
美しく卓越した文章で、独自の哲学から人間の人生観の深い部分、愛について描く・・・。
そして、今作は近未来的な要素も絡めながら、登場する人間たちの物語がとても興味深く描かれている。
もう、何というか非の打ち所が無いですし、何か今作でまた前人未到の高みにまで上り詰めてしまったような印象すらあります。
1975年生まれの平野啓一郎。
1977年生まれの中村文則。
同じ世代の作家ですが、平野啓一郎は三島由紀夫的で、中村文則は太宰のような情緒的な感じがします。
僕も1977年生まれでロスジェネ世代。
何が言いたいかというと、同時代に生きる作家の中で作品の完成度が突出しているような印象があるのです。
今まで、なかなか平野啓一郎の作品の書評が書けなかった理由もその完成度の高さにあるように思います。
何だか、付け入る隙がないという感じがするんですよね・・・。
自分が何を描いているのか完全に理解していて、余白がないような。
それでも、今回『本心』を読んで是非ともこの作品の感想を書きたいと思いました。
この物語の核心に迫れたのかどうか。
取りこぼしもたくさんあると思いますが、自分の想いの丈を表現できたと思っています。