1、作品の概要
『顔のない裸体たち』は、平野啓一郎の中編小説。
『新潮』の20005年12月号に掲載され、2006年3月に刊行された。
野外露出を撮影するという異常な性癖を持つ男女をルポタージュのような形で描いた。
2、あらすじ
半年ほど前にあったセンセーショナルかつ滑稽なとある事件に関わった吉田希美子(よしだきみこ)と片原盈(かたはらみつる)は、とある出会い系サイトで出会い体の関係を持つようになる。
自分たちの行為をカメラに収めることに喜びを感じるようになった二人の行為はエスカレートして、野外での露出を試みるようになる。
暴走し続ける自己承認欲求と性的欲望は、取り返しのつかないカタストロフィを引き起こしてしまう。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
ツィッターで懇意にさせて頂いている(と、僕は思っている)方とのやり取りで読んでみたいと思いました。
ちなみに『透明な迷宮』と混同していました。
いや、同じ裸ネタですしね(笑)
平野啓一郎のイメージからおおよそ遠い破廉恥な事件を扱った『顔のない裸体たち』ですが、ルポタージュのような手法で描いた中編小説で、とても実験的な作品でありました。
架空の奇妙な事件を通して、顕在しはじめていたインターネットを通じた事件のリスクや、現代を生きる人々の自意識の問題を描きたかったのでしょうか?
何にせよ、とても印象的で考えさせられる作品でした。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①ルポタージュのような中編小説。なぜこのような題材をこういった形で描いたのか?
自らの性行為を写真や、動画に残すことに喜びを感じる性的に倒錯したカップル。
『顔のない裸体たち』は、そんな2人が起こし、世間を騒がせた(おそらく)架空の事件を描いた物語であります。
しかし、小説と言いながら文章はまるでルポタージュのようで、第3者の「筆者(平野啓一郎であるかどうかもわからない)」が事件の背景や、吉田希美子=ミッキーと、片原盈=ミッチーの生活歴や、行動歴を分析しながら各々が抱えていた問題や、事件に至った因子を探るといった内容でした。
ちょっと読みながら、「ん?これってもう普通にルポタージュを書けばいいんじゃないの?」って思いましたが、ルポタージュは現実の事件、現実の人間を追うのに対して、小説は創作でありどこまでも架空の人物、事件を扱うことができるという差があることに思い当たりました。
ぶっちゃけ、「平野さんはなんでこんなエッチで変態な事件のルポタージュ風の小説を書いたんだろう?」って疑問でしたが、彼があえて小説としてこの作品を書いたこと、そしてインターネットを題材とした自意識について描いたことで自分としては少し納得することができましたし、『顔のない裸体たち』という物語の存在の必然性について感じることができました。
それに性的なことに対して触れているのに、官能的な要素は感じられず、性欲強めのオッサンでも生理的な嫌悪を感じるような描写が多くー。
まるで、白衣を着てゴム製の手袋をした平野啓一郎が、2人の人生と事件とモニターの向こうにいた顔のない裸体たちをメスで解体していくようなー。
そんな様子を想像してしまう何かが、透徹とした冷たい視線が感じられました。
物語の内容に触れるより前に、「なぜこの作品が描かれたのか?なぜ小説という表現でなければならなかったのか?なぜこのタイミングで描かれたのか?」というたくさんの「なぜ?」に触れるのは僕も初めてでした。
でもこの「なぜ?」に対して自分なりの答えを見出さないと、この作品の本質に触れることができないようなそんな気がして考え続けてみたのです。
それほど『顔のない裸体たち』は平野啓一郎の作品の中でも特殊で、実験的な作品で、軽く一読しただけではその真意にたどり着くことは容易ではないように思えました。
作品が発表された2005年から2022年現在まで、インターネットの発達はとても目覚しく、私たちの生活にはなくてはならないものでもはや「ネットに接続する」という意識に常にネット空間に繋がりながら生きいるような生活になってきていると思います。
そんな中で僕も時おり、手が滑って性的な画像や動画が掲載されているサイトを見かけてしまい、あくまで文学的な興味から文学的に閲覧してしまうことがごくごく希にあります。
それは、太陽のせいだったり、高度資本主義社会のせいだったり、前世から続く業(カルマ)のせいであったりするのですが、それはさておき自らの裸体をインターネット上にアップしている女性を見かけたりすると「何のためにこんなことをしているのだろう?」という疑念に駆られます。
それは趣旨を変えると、「何でこんなことができてしまうのだろう?」という問いになりました。
たとえ顔が隠されていたとしても、男性の僕でも、不特定多数の人間に対して自分の裸を(しかも無償で)見せるなんてことは考えられません。
最近、逮捕されたユーチューバーみたいにお金目的でそのようなことをする人もいるかもしれませんが、あまりにも無防備で、思慮が足りないように感じます。
平野さんも、もしかしたら僕のように手が滑ってそのような匿名の裸体を目にしたのか、あるいは類似した実在の事件のニュースを目にしたのかでこの物語を書くに至ったのではないでしょうか?
そして、そのようにあきらかに社会から逸脱した行為に至るまでの経緯にはどのような事が起こって、どのような心理的な変遷があったのか。
そういったことを炙りだしていきたくて『顔のない裸体たち』を書いたのではないかと思いました。
キーワードは、作中に太字で何度も書かれていた「本当の自分」だと思います。
ネット上の自分は、もうひとりの自分(ALTER EGO)であり、アバターのような存在。
吉田希美子としては絶対にできないことが、ミッキーとしてはできてしまう。
そんな一種の乖離がこのような世間を驚かせるような事件を引き起こした。
そしてこのような事件を引き起こしたネット空間に由来するペルソナが、現代を生きる人たちのまっとうな感覚を狂わせて、本来起こり得なかったような病理を生み出している、そう平野啓一郎は言いたかったのではないかと僕は思いました。
また平野啓一郎という作家を考えるに当たって、彼の作品の時間軸を考えることもこの作品を読み解き、光を当てるに必要なことだと思います。
『顔のない裸体たち』は彼の6作目の小説で、デビュー作で芥川賞受賞作『日蝕』からの第1期(ロマン主義3部作)から、第2期(短編・実験期)で発表されました。
普通、作家の「~期」って死後に批評家何かが名付けると思うのですが、自らテーマを持って自覚的に活動しているというところが素晴らしいですね。
ちなみに第3期(前期分人主義)は『決壊』『ドーン』『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』、第4期(後期分人主義)は『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』『本心』になります。
『顔のない裸体たち』は、『決壊』でみられたようなインターネットの繋がりが事件に発展していく要素や、『本心』のアバターでみられるような代理としての自分や仮想のもうひとつの人生の要素に繋がっていくような布石になったのではないかとも思います。
人間がインターネットという善悪の彼岸へたどり着き、その自意識を際限なく増殖させ始める。
そのグロテスクさが現実の世界においても受肉したのがミッキーとミッチーが起こした事件だったのではないでしょうか?
初期の重畳な文体から平易な文体に切り替えて、現代的なテーマを扱いながら人間の自意識や本質について触れ始めたのも、「分人主義」の作品でより現代的なテーマを扱い人間の存在と本質を扱う上で経るべき必要な過程だったのではないかと思います。
5、終わりに
まぁ、賛否両論出てしかるべき作品だと思いますし、単体で読むと「なんじゃこりゃー」感満載な作品だったかと思います。
しかし、後の平野作品の大きな実りにとって必要な実験であったのだと思いますし、丹念に掘り下げられた個人の生活歴、思想などとても興味深い作品でした。
個人的に、心の中で平野啓一郎さんのことを「平野のアニキ」と呼んでいるのですが、これを機に当ブログでは声高に叫んでいきたいと思います「平野のアニキィィィィ!!!」と。
三島由紀夫を彷彿とさせるような幽玄かつ耽美な文章。
様々な社会的なテーマを盛り込みながら文学として物語を機能させながら、読み手を彼岸にまで連れて行くような筆力。
これからも彼の作品を楽しみにしています。
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