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【本】平野啓一郎『富士山』~あり得たかもしれない人生の中で、なぜ、この人生だったのか?~

1、作品の概要

 

『富士山』は平野啓一郎の短編小説集。

2024年10月17日に新潮社より刊行された。

『富士山』『息吹』『鏡と自画像』『手先が器用』『ストレス・リレー』5編からなる。

単行本で184ページ。

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2、あらすじ

 

①『富士山』

40歳で独身の加奈はマッチングアプリを通して津山という男に出会う。

放送作家の彼は、他人に合わせることが上手な人間だったが、いまいち何が本音なのかわからないところがあった。

コロナ禍で会えない日々が続いた2人だったが、旅行に行くことになり久々に再会するが・・・。

②『息吹』

かき氷屋が満席だったため、たまたまマクドナルドで聞いた大腸内視鏡検査。

念のために検査を受けてみると、初期の大腸がんが見つかり一命を取り留めた息吹。

しかし、彼の意識はかき氷屋でかき氷を食べた現実を認識してしまい、分裂し始める。

③『鏡と自画像』

虐待されていた過去を持つ男は、誰かを殺して死刑になることを望み、架空の新宿区役所職員にどうすれば死刑になれるのか問い続けていた。

ナイフを手にし、殺人の計画を実行に移そうと美術館に入った男は、1枚の絵を目にする。

その絵、ドガの自画像は彼の人生に大きな影響を与えていた。

④『手先が器用』

「ともちゃんは、やっぱり手先が器用ね」そう子供のころに祖母にかけられていた言葉。

母は冷淡だったが、その言葉に励まされていた。

⑤『ストレス・リレー』

人から人へと感染していくストレス。

小島はシアトルから持ち帰ったストレスを、そば屋の店員の娘にぶつけ、彼女の母親の亮子も娘のストレスに感染してしまう。

そんなストレスの連鎖を断ち切ったのがルーシーだった。

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ

 

好きな作家の1人である、平野啓一郎の新作短編小説集ということで買って読みました。

推し作家の新刊を、待ちわびて手に入れて、読み始めるときのワクワク感は何ものにも代えがたいですね。

『富士山』は装丁もとても好きな感じで、パケ買いではないけど、余計に新刊への期待が膨らみました。

「あり得たかもしれない人生の中で、なぜ、この人生だったのか?」テーマは、初老の僕にだいぶ刺さりました。

「あの時、ああしていれば・・・(ああしていなかったら・・・)」みたいな岐路は長く生きているとたくさん出てくるものですよね。

そんなあり得たかもしれない、もうひとつの人生に寄り添う5つの短編小説でした。

 

 

 

4、感想(ネタバレあり)

 

まずは、『富士山』特設サイトに掲載された、作者・平野啓一郎からのメッセージ。

正座して3回ぐらい声に出して読み上げたいぐらいの素晴らしいお言葉。

あり得たかもしれない幾つもの人生の中で、何故、今のこの人生なのか?──幸福の最中にあっても、不幸の最中にあっても、この疑問が私たちの心を去ることはないだろう。誰かを愛するためには、自分の人生を愛せないといけないのか? それとも、自分の人生を愛するために、私たちには、愛する誰かが必要なのか? 些細なことで運命が変わってしまう。これは、絶望であるかもしれないが、希望でもあるだろう。私たちの善意は、大抵、ささいなもののように見えているのだから。私たちが前を向くきっかけは、確かに、どこにでもあり得る。

平野啓一郎

 

AERAのインタビューを読みましたが、この短編小説集はそんな「運」や「偶発性」に焦点を当てています。

たまたまのことで、人の一生は大きく変わってしまう。

そんな不条理。

運命の一言で片付けていいのでしょうか?

そして、本当に今のこの現実が現実と言えるのか?

そんなことを考えさせられた短編小説集でした。

 

①『富士山』

いきなり1ページ目からこの文章にドキッとさせられました。

コロナ禍でしばらく会ってなくて、画面越しではなくて対面したときの、生々しさにどことなく違和感を感じるのがうまく表現されています。

画面越しではない久しぶりの対面で、お互いの言葉が何となく露わな感じがした。

 

結婚願望がありながら、なかなか相手が見つからずに交際中の津山とも結婚を考えながらも、いまいち彼の本心をつかめないと感じている加奈。

まあ、結婚はしてみないとわかんない部分はありますよね(;^ω^)

でも、一生を共にするかもしれない相手なんだし、慎重になりますよね。

 

しかし、2人が旅行に行く途中に、誘拐されているかもしれない少女を助けに行くかどうかで決別して、そのまま彼と別れてしまった加奈。

少女のSOSサインは本物で、加奈は彼女を誘拐犯から助けますが、少女の態度もいまいちアレだし、彼女の母親からも連絡ないしでやるせない感じでしたね(;^ω^)

加奈としては、一緒に新幹線を降りて少女を助けに行って欲しかったのに津山はそうしてくれなかった。

 

いやー、僕だったらどうしたでしょうかね?

なんの確証もないのに新幹線を降りられたかどうか・・・。

降りなかったことで責められても辛い。

津山が何を考えて、何を感じていたのかの描写はなかったですが、加奈を真剣に愛していたことを伺わせる描写もとこどころありましたし、やりきれない思いをずっと抱えていたのでしょう。

あの時、彼女と一緒に新幹線を降りていたらいまごろ二人は・・・。

 

その思いが、新幹線を降りなかった後悔が、津山を殺人鬼から小学生2人を庇い、刺殺された行動に駆り立てたのだとしたら・・・。

そんなことは関係なく、誰かのために命を張れる人間だったのだとしたら・・・。

これ以上ない最高の結婚相手との出会いを逃してしまったかもしれない。

それはやるせない運命の岐路でした。

 

②『息吹』

この本の中で、1番好きな短編小説かもです。

終わり方はバッドエンドを想起させられてとても苦しいのですが。

年齢的に40代の男性とその家族の話だったりするので、共感する部分も多かったです。

 

情景描写と心理描写をこれほど巧みに美しく描ける作家は平野啓一郎しかいない、と言い切ってしまいそうになるこの素晴らしい1文。

窓に蝟集する初夏の眩しい光は、網膜を通して彼の内側にまで差し込み、その心の影を濃くした。世界が明るいほどに、不安な人間の心が一層暗く翳るのは、心理的と言うより、そうした言わば光学現象なのかもしれない。

 

息吹はたまたまかき氷屋が満席で、代わりに入ったマックで聞いた大腸内視鏡検査の話がきっかけで自分も検査を受けて、なんと初期の大腸がんが見つかり一命を取り留めたという話。

普通だったら「いや、ラッキーだったわ!!」で済む話だと思いますが、息吹は「かき氷屋が満席だった。ただそれだけで人間の生命が左右されていいのか?」という思いに捉われ始めてしまいます。

これ以後何回もかき氷屋が出てきて、かき氷小説のようになりますが、人間の命を左右するような大事な物事が、ただかき氷屋が満席だったという些末なことで左右されていいのか?という問いかけのように思えます。

 

「いいんです!!」川平慈英のように言ってあげたいところですが、あまりに大きな岐路を経験してしまった彼の精神は分裂し始め、ついには自らの中に存在するかき氷屋が満席ではなく、かき氷を宇治金時を食べた詳細な記憶に気付きます。

もちろん錯覚だとは思いますが、彼にとってそれは実感を伴った確実なものでした。

実は自分は本当はかき氷を食べて、いまごろがんの末期で病床にいて、今見ている光景はVRかなにかの技術で写された仮想現実なのではないか?と感じるようになります。

 

いや、すごいこと考えますね平野さん。

でも、ほんの些細なことで運命を左右された人間というのは、そんなふうに精神を苛まされてしまうこともあるのかもしれませんね。

ましてや、これから仮想現実の技術が発展していけば、どこが自分の本当の現実なのかがわからなくなってしまう、そんな錯覚も生じないとは限りません。

 

自分が生きているのは、本当の現実じゃない。

あなたのパートナーがそんなことを言い出したら、どう振る舞いますか?

気味が悪いですし、こちらまで発狂してしまいそうですよね・・・。

息吹の妻・絵美も、彼の妄執の世界に飲み込まれそうになります。

 

そして、ラストは読んでて苦しくなりました。

ああ、ベランダでぶら下がってたんだね・・・。

些細な偶然で命拾いをした現実を受け入れきれずに、自ら命を絶ってしまう息吹の最後はとても皮肉なものでした。

 

③『鏡と自画像』

これは、だいぶ中村文則的なダウナーで狂気を感じさせる作品で良かったです。

幼いころから虐待されていた男が、誰かを殺して、死刑になりたいと願うようになる。

妄想の中での中田さんとのやり取りとか、気色悪さ抜群でした。

この短編小説集は、コロナ禍、マッチングアプリSNSによる性加害、VRなどいろいろ今日的なテーマを盛り込んでいますが、虐待もそのひとつでしょう。

 

すんでのところで、彼に凶行を思いとどまらせたのはドガの自画像と、それに付随する美術教師との思い出でした。

その美術教師、ドガの自画像との出会いがなければ、美術館で為されていたかもしれない無差別殺人。

チェーホフは怒るかもしれませんが、弾丸の発射ならぬナイフは人を殺すことはありませんでした。

 

美術教師自身も彼との出会い、ドガの自画像にまつわるやりとりで人生を変えられていました。

1つのちょっとした出来事が、実は双方の人生を大きく変えてしまっていたという物語の構図が面白かったです。

 

そして、自画像を描く時に鏡を使うエピソード。

自分自身と、鏡に映った自分と、描かれた自画像。

自己の分裂と増殖。

男は、ある種のイマジナリーフレンドのように、鏡にうつった自分に話しかけ続けていたようにも感じ取れました。

 

④『手先が器用』

冷淡だった母親。

でも、優しく「手先が器用」と褒めてくれた祖母のおかげで知美は自信をつけて、より良い人生へと進むことができたのでしょう。

誰かが認めてくれる、ささいなことでも褒めてくれた、という記憶はかけがえのない自身へと変わっていき得るのだと思いました。

 

⑤『ストレス・リレー』

現代のストレス社会を具現化したような物語。

この物語を読んで、なんかのお店でブチぎれているオッサンの姿なんかを思い出して、怒鳴られた店員のストレスはその後どうなったんだろうな、なんて思いました。

ストレスへの耐性や、どこまで引き摺るかは、個人的な資質や育った環境にも依存するような気がしますね。

両親の振る舞いも重要でしょう。

親がすぐにキレまくっている姿をみると子供もマネをしちゃうと思うので。

 

その点ルーシーは、鷹揚であり、自分のリラックスタイムを作ったり、周囲にあるものに心を動かされて癒される感性の持ち主であるがために、伝播されたストレスを中和し、アンカーとなることができました。

ここで、ストレスの病根を食い止めた彼女は英雄であると言えるのでしょう。

つまり彼女は、文学の対象であり、小説の主人公の資格を立派に備えているのである。

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5、終わりに

 

短編小説を起点に、新しいステージへと移行することが多い平野啓一郎

『富士山』は、どうやら彼の第5期の初作となりそうな感じがします。

今作のテーマは「あり得たかもしれない人生の中で、なぜ、この人生だったのか?」という、人の人生や、運命に関する深い考察をもとにした物語でしたが、第5期は、もしかしたらそのような人生や、運命に対して深い省察を促すような作品群になるのではないか、という予感がしました。

 

現在は、200~300ページぐらいの中編を書いているという平野啓一郎

今後も彼の動向に目が離せません。

 

そして、映画、ドラマなどとのメディアミックスの相性が良い平野作品。

これまでにも『マチネの終わりに』『ある男』『空白を満たしなさい』などの作品が高質で原作ファンも納得の出来になっていましたが、2024年11月8日に池松壮亮主演で公開される『本心』も傑作の予感がありまくりで楽しみです。

新刊発売、映画化と、しばらく平野啓一郎作品の話題が尽きませんね!!


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