1、作品の概要
『透明な迷宮』は平野啓一郎の短編小説。
2014年に刊行された。
全6篇からなる。
表題の『透明な迷宮』をはじめ、どこか官能的で陰鬱な物語が収録されている。
2、あらすじ
①消えた蜜蜂(『早稲田文学』2014年秋号)
山陰地方のとある村で暮らす別宅として家を借りて暮らしていた僕。
彼は、物静かな郵便配達員のKは他人の筆跡を完璧に真似ることができるという特技を持っていることに気づく。
やがて月日が経ち、Kは人々を驚かせるある事件を起こしてしまう。
②ハワイに捜しに来た男(2013年11月、伊勢丹新宿店でのイベントで配布)
人捜しの依頼を受けてハワイに来た男は、依頼人から探してほしい人物の名前も顔も一切の情報を与えられず、手がかりは自分に似た男ということだけだった。
途方に暮れる男の前に自分のことを知っているという女が現れるが・・・。
③透明な迷宮(『新潮』2014年2月号)
ブダペストでの奇妙な一夜。
岡田とミサは数人の男女と共に監禁され、裸のまま交わることを強要された。
屈辱的な一夜の記憶に苛まされながらも、ミサを愛そうとする岡田。
彼はミサとともにその記憶を塗り替えようと試みるが・・・。
④family affair(『新潮』2013年10月号)
登志江は父親を自宅で看取り、遺品を整理していた時に押入れから本物の拳銃を見つける。
困惑する彼女は、姪の葵と拳銃を捨てることを相談する。
⑤火色の琥珀(『文學界』2014年3月号「火を恋う男」改題)
老舗の和菓子屋の跡取りの男は、火に対して欲情する倒錯的な性癖を持っていた。
女性に対して性欲を感じることができずに火に囲まれながらくらす男。
やがて彼は自らの体にタバコの火を押し当てて、悦びを感じるようになる。
⑥Re:依田氏からの依頼(『新潮』2013年7月号)
劇作家の依田は、自動車事故で恋人を亡くし、自らも重傷を負い奇妙な体験をするようになった。
作家の大野は、交流のあった彼から自身の奇妙な体験を作品化するように依頼される。
3、この作品に対する思い入れ、
数年前に読みましたが、内容もほとんど忘れてしまっていて、ツィッターで懇意にさせて頂いている方がツイートしているのを見て再読してみました。
6篇の短編の中でも『透明な迷宮』『火色の琥珀』『Re:依田氏からの依頼』には強い印象を受けました。
平野さんの作品は最近の長編小説を中心に読んでいましたが、少し前の短編、中編の小説も読んでみたいですね。
平野啓一郎という作家の引き出しの多さを感じさせられるような短編集でした。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①消えた蜜蜂(『早稲田文学』2014年秋号)
田舎の農村で起こった奇妙な事件。
ハガキを自ら書き写して、原本を家に保管して、自分が書き写したものを郵送する。
しかも段々とハガキの内容を検閲し、「悪」や「憎」などのネガティブな言葉を削除して不完全な文章のまま郵送してしまう。
Kはハガキ代はインク代は自腹で、莫大な費用と手間をかけてこのような何のメリットもない犯罪行為をしていたのです。
ほとんど感情の揺れもなく、他者と交わることがなかったKですが、やはり蜜蜂が消えてしまったこと。
その事件にまつわる諍いがKの心の中に暗い怒りのような何かを宿してしまっていたのでしょうか?
「なんでそんなことを?」
局長はさすがに厳しい口調で言った。その時だった。Kは、全身を震わせて立ち上がると、手に留まったままだった蜜蜂を叩き落とした。その顔は、僕がこれまでに見た中でも、最も人間的なKの表情だった。しかし、そこにありありと表れていたのが、随分と長い時を経たであろう怒りであったことが、僕をやるせない気持ちにさせた。
②ハワイに捜しに来た男(2013年11月、伊勢丹新宿店でのイベントで配布)
短くて奇妙な話ですね。
第一人称で語られる話で、その視点、記憶、立ち位置そのものがぼやけて不可解になっていく様が良いです。
記憶も定かではなくなってきている語り手の物語を読んでいると、初めての土地で道に不案内な運転手のタクシーに乗っている時のような心もとなさがあります。
③透明な迷宮(『新潮』2014年2月号)
ブダペストで起きた屈辱的な悪夢のような一夜ですが、その記憶を塗り替えて新たに愛を育もうしますが、岡田とミサ(美里)の中ではそれぞれその一夜の出来事の意味合い、解釈にズレがあったように思います。
岡田の中では、ブダペストでの一夜は1年前の震災から続いていた透明な迷宮の袋小路の一つだったと解釈していて、突発的なアクシデントだったということだけではなくて、震災後のモヤがかかったような何かに囚われているような状態から導かれた終着点のように感じられていたのではないでしょうか?
最後にもたらされたその屈辱と悪夢をミサ(美里)と2人で上書きしたいと願いますが、ミサ(美里)が岡田と日本に帰らなかったのは、フィデリカの存在だけではなくてそんな岡田のウェットな愛情を受け入れることができなかったのかもしれません。
もしあの夜の屈辱を、復讐へと変える方法があるとするならば、それは、見物人たちの目の届かぬ場所で、二人で真に愛し合うことことだけだった。それだけが、あの頽廃に供した行為を貶め、その感興に水を注す唯一の希望のはずだった。
ミサ(美里)がいなくなってしまったことで、二人で真に愛し合うことであの夜の屈辱を乗り越えることができなくなった岡田は、ミサ(美里)を憎みながらも求め続ける日々を送り続けます。
彼の意識は、透明な迷宮を彷徨いながらブダペストの屈辱の夜から逃れることができなかったのでしょう。
再会したミサ(美咲)との情事をビデオで撮ることで、仮面の男女の視線を忘れることができた岡田でしたが、ミサ(美咲)が姿を消してしまったことでまたしてもブダペストの記憶に囚われるようになってしまいます。
そして、美里と美咲が双子であったことを明かされて・・・。
どこまで、振り回されているのでしょうか(^_^;)
全てを知った岡田は果たして美里と美咲のどちらを愛していたのか?
ブダペストの悲劇的な夜を共有している美里なのか?
それともより長い時間を共に過ごして何度も愛し合った美咲なのか?
人は、たった一つのエピソードのために、誰かを愛するのだろうか?愛を受胎するのは、二人の間の出来事なのだろうか?そうではなく、相手の人格を全体として愛するのではないか?
ある悲劇的なエピソードを愛情で別の何かによって、記憶を上書きすること。
そして、別の上書きされていない記憶も他の記憶と混ざり合って新しい記憶へと変容していく。
最後に美里が岡田との交わりをビデオで録画したのも、自らが抱えるブダペストの一夜の記憶を上書きするためだったのでしょうか?
そんな愛情と記憶の変質について描いた作品だったのだと思います。
④family affair(『新潮』2013年10月号)
村上春樹の短編小説にも同名のタイトルがありましたが、「家庭の問題」みたいな意味の英語みたいですね。
内容もさもありなんで、父の遺品を整理していたら拳銃が出てきて、長女・登志江、次女・ミツ子、長男・宏和、姪・葵の4人が絡んでひと悶着あります。
拳銃の存在がありますが、人が一人死ぬと一人分の空白ができて、その人が今までせき止めていたものが溢れ出してくるのではないでしょうか?
その空白から溢れ出してくる何かの影響を大きく受けるのが家族であるのだと思います。
⑤火色の琥珀(『文學界』2014年3月号「火を恋う男」改題)
三島由紀夫『仮面の告白』を彷彿とさせるような、倒錯的な性を語った一人称の告白体の物語です。
中・長編でこういった雰囲気の小説を書いたら、純文学的な大傑作小説が生まれるのではとちょっと思いましたが、なんとなく平野さんはそういう作品は書かないだろうなって気がしました。
個人的には『火色の琥珀』がこの短編小説集の中で一番好きな作品でしたし、近代小説の純文学テイスト全開の作品で何か読みながら「お、おおぅ!!イエア!!」などという意味不明な声が漏れそうになりました。
掲載されたのが『文學界』だったのも頷けます。
主人公の「私」は、老舗の和菓子屋の3代目で家も裕福なのですが、父親が外車を乗り回して外で愛人を作っているようなとても派手な遊び方をしているという家庭環境で、芸大出身で夢見がちな母と父の関係は歪で、彼の倒錯した性的嗜好とこの家庭の環境に何か相関関係があったようにも思えます。
しかし、家庭がうまくいっていなかったら子供がすべて倒錯した性癖を持つようになってしまうのかというと、もちろんそのようなことはなくてそこには「私」の素養もあったのだと思います。
「私」は女性の裸に夢中になる周囲と比して、一向に性的興味が湧かない自分に疑念を感じていましたが、小学生の時に「秘密基地」が炎に包まれるのをみて初めて手淫をなして、自らの性癖をまざまざと思い知らされるのでした。
『仮面の告白』でも、絵画の「聖セバスチャンの殉教」がキッカケで自らの性癖を主人公が理解する瞬間がありますが、それと重なるようでした。
そして、今し方の炎に、私の夢中で動かす手の中のものが包み込まれ、焼かれる様を思い描きながら、その苦痛の想像に、生まれて初めての忘我を知りました。
端的に、なおかつ下品に言うと「おちんちんが炎に焼かれて痛くなる想像をしながら、初めてオナニーしちゃいました」ってことですねぇ(^_^;)
いや、それはアカン!!しかも小学生ですか・・・。
でも、「私」は無口ではあるけど別に人間が嫌いなだけではなくて、性的対象が炎なだけではあるんですよね。
んー、でも十分ヤバい奴な気もしますが・・・。
「私」は愛と性欲の相違についても語りますが、これがなかなかに興味深いです。
愛について純粋である瞬間もあるのかもしれませんが、時を経て状況が変化していくことで変容していくことはあるのだと思います。
時には海辺に打ち捨てられた古いベンチみたいに時の洗礼を受けてゆっくりと風化していくことも有り得るのでしょうし、別の何かに取って代わられるようなこともあるのかもしれません。
いかに性欲が純粋でもそれはしかしただの本能であり、生理的反応であるだけなので、やはりどこにもたどり着くことができないのでしょう。
人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、はるかに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
炎にしか性的興味を持てない「私」でしたが、自分に好意を寄せる女性が現れて、肉体的な関係を持つことを思いつきます。
もしかしたら女性、も、愛せるのではないかという試みでしたが、まるでバイ・セクシャルであるかの試みのようですね。
しかし、やはり彼は女性の肉体に性欲を感じることができずにアロマキャンドルを焚いて、火に興奮しながら彼女を抱くという方法を思いつきました。
いや、マジで最低ですね。。
他の女性のことを考えながら彼女を抱いて、名前を間違えちゃう男ぐらいに最低ですね。
私は、彼女との行為中、ただひたすら、火を見つめながら、そういうことを思い出していました。彼女を、火のメタファとして、言わば火の代理と見倣そうと努めていたのです。
自室での事故で大火傷を負い、生死の境をさまよっても「私」と火の関係はますます蜜月を迎えていきます。
その上で、私はやはり、目の前の火を愛おしいと感じました。既に結ばれ、また結ばれることを恐れつつ夢見る私たちの関係は、より深まったのだと今では確信しています。
しかし、火は何かしら蠱惑的な魅力があり、人を魅了するような何か危ういものがあるように思います。
多様で美しくて、時に暴力的な火。
人間にとって、奥底に眠っている潜在的な何かを引きずり出すような。
何か抗し難い魅力をもったものなのかもしれません。
もちろん安易に近づくと自らも焼き尽くされるような危険を伴っているのではありますが。
⑥Re:依田氏からの依頼(『新潮』2013年7月号)
とても不思議で魅力的な短編でした。
どこかSF映画の『TENET』を彷彿とさせるような話であり、時間という概念について考えさせられました。
不完全に切り貼りされて作られた物語ゆえの空白と謎がとても興味をそそられます。
事故前から予兆があったので完全に重ね合わせるのは違うかもしれませんが、事故での脳の損傷をきっかけに超常的な能力が突然に開花するサヴァン症候群を思い出しました。
依田氏が得たのは能力ではなく、時間の流れの不順による苦悩だったのだとは思いますが・・・。
僕が好きなディジュリドゥ奏者のGOMAも事故をキッカケに突然絵が描けるようになったそうです。
ただし、自分の記憶の消失と引き換えに。
依田氏は自らが付き合っていた女性であり、事故死した涼子について考え続けます。
近くにいすぎてわからなかったことも、遠くから眺めてみることで分かり始めることもあるのだと思います。
私は、ある仕方で、涼子という人間を改めて理解しつつあった。
凡庸な思想は、人間の唯一性への憧れを唆し、交換可能性にヒステリックに抵抗する。しかしその実、愛とは、誰でもよかったという交換可能性にだけ開かれた神秘ではあるまいか。
最も遠い行為のようだが、芝居にも愛と同様に、そういうところがある。
私は特殊すぎる。恐らく、涼子も特殊すぎた。
依田氏が閉じ込めらている地獄のような時間の檻。
三島由紀夫の「サド侯爵夫人」の演劇に絡めながら語られる人間模様とともになにか薄ら寒いような判然としない不穏さを感じた物語でした。
5、終わりに
2012年に刊行された『空白を満たしなさい』の後、2016年の『マチネの終わりに』の前に刊行された『透明な迷宮』ですが、再読してみて心に響く作品が多々ありました。
三島由紀夫、平野啓一郎の作品の書評を書いていると、やたらに引用が多くなるのですが、それだけ美しく意味深い文章が多いからです。
書き写している時もPCのキーボードを叩く指が、ピアノの鍵盤を叩いているかのように音楽的に文章が流れていきます。
文章を書き写すということは、とても興味深いことで、その作家の文章のリズムやクセを一番深く理解することができるように思います。
句読点ひとつとっても作家によって全然違っていて、文章、文体の面白さに心を躍らせます。
今までそうたいして熱心な読書家でもなく、今もたいしたことはないのですが、文学をアウトプットするという行為の難しさとしんどさ、そしてその有意義さを感じています。
書評を書く事はとてもしんどいですし、ブログの記事の中で一番時間がかかるのですが、たとえアクセス数が芳しくなくても自分の中では満足度が高く今後も続けていきたいですね。
そして、自分の文章も色んな作家の文章に触れることで洗練されれば良いなと思っているのですが、なかなかそう簡単にはいきそうもないですね(笑)
平野啓一郎という作家は、僕が知る限り現代の作家の中で一番美しい文章を書く作家だと思います。
美しく音楽的な文章に乗せて、深い思索と複雑な感情が描写されていく彼の作品をこれからも追いかけていきたいと思います。
まだこの世界に読みきれないほどの素晴らしい物語があると思うと、心が躍りますし、生きる希望が湧いてきます。
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