1、作品の概要
『イン ザ・ミソスープ』は、1997年に読売新聞社より刊行された村上龍の長編小説。
1997年1月27日~7月31日まで、読売新聞の夕刊に連載された。
1998年に読売文学賞を受賞。
1998年に幻冬舎より文庫版(304ページ)が刊行された。
外国人向けの風俗街のアテンドをするケンジが、どこか奇妙なアメリカ人・フランクのアテンドをしたことで事件に巻き込まれていく。
2、あらすじ
英語が堪能な20歳のケンジは、英語力を活かして東京で外国人向けに風俗街をアテンドする仕事をしていた。
年の瀬の東京でアメリカ人のフランクから仕事を依頼されるが、奇妙な点が多く、嘘をついているような言動も多く見受けられていた。
新宿で起こった女子高生のバラバラ殺人事件、ホームレスの焼死事件・・・。
日本人離れした殺し方、フランクが持っていた血痕のついた1万円札、徐々にフランクに疑いを持ち始めるケンジは彼からある警告を受ける。
そしてある夜、フランクは凶暴な本性をケンジの前で解放するのだった・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
『イン ザ・ミソスープ』は、ツィッターの「名刺がわりの小説10選」にも選んだ好きな小説です。
個人的には村上龍のキャリアのピークだったのではないかと思っている作品です。
発売された当時は、神戸連続児童殺事件もあり、世間でこの作品が話題になっていました。
『ラブ&ポップ』もそうですが、いつも時代のアイコンとして存在感を発揮する村上龍の物語。
『イン ザ・ミソスープ』はその最たるものであったように思います。
4、感想・書評
①サイコスリラー小説としての『イン ザ・ミソスープ』
『イン ザ・ミソスープ』は多面性がある小説で、ただのサイコスリラー小説というだけではなくて、日本の現状への批判や、人と人との繋がりに関しての何かの提示だったり、様々な要素を描いている作品であると思います。
しかし、サイコスリラー小説としても秀逸な仕上がりで、常軌を逸したシリアルキラーであるフランクの異常性や、脅威が描かれています。
フランクの異常性、悪意に関してケンジは早い段階から気付いていました。
フランクが抱える傷と心の空洞。
それが悪意に繋がるようなイメージを抱いていたのだと思います。
ケンジは、自らもそのような悪意を持っていた時期があって、だからこそフランクの危険さを理解できたのかもしれません。
フランクに感じるのは底のない空洞だ。その空洞からは何だって出てくる。
フランクの持つ得体の知れなさ。
暴力性や、サディスティックさや、残酷さを感じるわけではなく、普段は親しみやすい外国人といった感じなのですが、奥底に深い空洞が広がっています。
最後のほうに自身の生い立ちをケンジに語る場面がありますが、早くから殺人事件を犯し、精神病院に入れられて脳の手術を受け、やがて家族からも捨てられる壮絶な過去を打ち明けられます。
普通の家庭に生まれながら、7歳の時に2人の人間を殺した殺人鬼。
精神科医は、フランクが赤ん坊のころにミルクをあまり飲まなかったことでのカルシウム不足や、兄たちのホラームービーが原因と分析しましたが・・・。
実際は、フランクのようなサイコパスは一定の確率でこの世の中に生まれてくるものなのかもしれません。
理由もなく。
なんの因果も理由もなくそのような人間が生まれてくるというのは理解し難く耐え難いことかもしれませんが、
②日本の現状を批判する作品
『イン ザ・ミソスープ』は日本の現状や、歴史的なあり方を批判する作品でもあります。
日本特有の曖昧さ。
はっきりとした意思表示をしなくても、相手の遠まわしな意思表示を忖度する。
京都の人が帰って欲しい時にお茶漬けを出すみたいなエピソードはその最たるものでしょうか。
そういった共同体での緩やかな共同認識をこの作品は激しく批判しています。
伝えようという意志がなければ、伝わらない。そしてフランクが現れる前のこの店は、伝えようという意志がなくても、あ、うんの呼吸で物事はひとりでに伝わるものだというこの国の象徴のような状態だった。そういう中でずっと生きてきた人は緊急時にパニックになって、言葉を失い、殺される。
ドメスティックな緩やかな共感では危機の時には生き残れない。
必要なのは危機意識と、決断力。
しかし、この国は過去に多民族、他国家に侵略された経験がないから自分たちが殺されて、民族そのもの、文化そのものまで抹消されてしまうかもしれないという深刻な危機感を抱くことができない。
危機感のなさは、決断力を鈍らせ、危機察知能力を著しく低下される。
正常性バイアスが、さらに起こりうる危機への対応力を鈍らせていく・・・。
ある意味では東日本大震災での福島原発の事故は必然だったと言えるのでしょうか?
この小説は未知の事態への対応力の著しい低下、この国の危機管理能力の低さ。
そこから起こりうる決定的な危機。
それを予見していたように思えます。
村上龍自身はこういった危機管理意識が高い人間で、平常時に最悪の最大を想定してしまうようなタイプの人間なのですが、ケンジのキャラクターにも作者自身の人間性が引き継がれていて、常にアンテナを張り巡らしていて、少ないヒントからフランクの異常性に気づきます。
③ケンジとフランクの緩やかな繋がり、日本人の好ましい曖昧さと優しさ
ケンジとフランク。
友情の一歩手前のような緩やかな連帯感というか、つながりというか。
殺人鬼のフランクのことを交番に駆け込んでタレ込むかどうかという場面で、警察に言わないと決断するケンジ。
それは、友情とか共感ではないけど、何かそれに似ているような生暖かくて緩やかな感情でした。
それは、日本的な曖昧な優しさで。
世界的にみてどの民族も持ち得ないような、温かさであったりするのだと思います。
有史以来、侵略された経験、文化や言語を奪われるような痛切な支配を受けたことがない稀有な国家。
第2次世界大戦後のアメリカの、GHQの支配もジェントルなもので、日本独自の文化を奪うようなものではありませんでした。
そういった国に生まれ、生きた人たちだけが持ち得るような独特の優しさと柔らかさ。
それは危機管理意識の欠如と隣り合わせであるのかもしれませんが、奪われたことがないがゆえの優しさだとしたならば、それはこの国の美徳のひとつと考えても良いように思います。
フランクが飲みたかったミソスープ(味噌汁)は、甘くも辛くもなく、包み込むような曖昧さで。
まさにこの国の象徴と言えるような存在のスープであったのだと思います。
この国を覆っているヌルさと曖昧さ。
それはミソスープのようにこの国に根付き、この国特有のルールを規定するようなものであったのかもしれません。
ケンジとフランクのやり取りの中で、この国の現状と背景を鮮やかに描き出した村上龍の筆力は、見事の一言に尽きます。
5、終わりに
読んでいた時が、ちょうど年末で『イン ザ・ミソスープ』が今年読んだ最後の本になりました。
いや、なんで最後にこんな刺激的な小説を、と思いましたが。
奇しくも、小説の舞台も年末の新宿で、現実と物語がオーバーラップしました。
村上龍もこの作品を書いているときに神戸の連続殺人事件が起きたとあとがきで語っていましたが、時に現実と物語は密接に関係して、せめぎ合うものなのかもしれませんね。
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