1、作品の概要
『コインロッカー・ベイビーズ』は1980年に刊行された村上龍の長編小説。
書き下ろしで、上下巻で刊行された。
彼の3作目の作品で野間文芸新人賞を受賞した。
日本のサイバーパンク作品の先駆けとして、多くのクリエーターに影響を与えた。
2、あらすじ
母親にコインロッカーに捨てられながら、生き延びてこの世界に産声をあげたキクとハシ。
施設で育った2人は、長崎の廃鉱の島の桑山夫婦にもらわれて歪みと世界への憎悪を抱えながら高校生に成長する。
ハシの失踪をキッカケに上京し、「薬島」と名付けられた東京のスラムに潜入したキクはハシと再会する。
ハシは音楽の才能を生かして有名なシンガーになるが、キクは過失から実の母親を撃ち殺してしまう。
立場も考え方も違う2人だったが、やがて共鳴するように想いが交わっていく。
13本の塔への復讐。
東京の街に2人の憎悪が降り注ぎ始める・・・。
3、この作品に対する思い入れ
初めて読んだのは大学生の頃だったでしょうか?
内容はほぼ忘れていて、なんだか強烈な印象だけ残っていました。
村上龍の代表作のひとつであり、時代を切り取ったような鮮烈な作品。
刊行から40年以上経った今読み返しても、真夏に水平線に沈む夕日の残光のように、強烈な情念と感性の迸りを感じるような小説だと思います。
『AKIRA』をはじめとする日本の「サイバー・パンク」シーンの先駆けとなった作品。
友達の受け売りで、「サイバーパンクっぽいね」とかよくわかんないまま使っていたのですが、近未来SF+反体制みたいな感じらしいっすね。
消えない傷跡みたいに、抜けない刺みたいに、いつまでも僕の心に刺さり続けている物語です。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①資本主義社会へのアンチテーゼ
こう書くとベタ過ぎて恥ずかしいのですが、『コインロッカー・ベイビーズ』は資本主義社会へのアンチテーゼであり、急速に近代化し資本主義が全てを飲み込んで社会の在り方を変えていくことへの反抗が描かれていると思います。
キクとハシの生い立ちがそのもので、コインロッカーに捨てられるという1980年当時の社会問題になった事件を背景にしながら、そうやって生き延びた子供たちが社会に対して復讐していく様を描いています。
1980年と言えば、高度経済成長期からバブル期に突入していく移行期。
関係ないけど、僕は3歳でした(。・ ω<)ゞ
当時の日本に漂っていた「熱」
何者かになって、どこかにたどり着こうとする、そうすることができるっていう確信を持った人たちが溢れていた右肩上がりで、日本全体が渇望に満ちていた時代。
「渇望に満ちる」ってなんだか変な日本語みたいだけど、僕の印象としてはそういう時代でした。
そして、村上龍という作家は常にそういった「時代性」を敏感に感じ取り物語に反映していきます。
「高度資本主義社会」の象徴として描かれる13本の塔=高層ビル群ですが、聳え立つ塔というと「バベルの塔」をイメージしますし、栄えて増長し続ける人間たちにいつか鉄槌が下されるメタファーとして描かれているように思います。
聖書に描かれている「バベルの塔」ですが、神の領域に近づこうと建てた塔が神々の怒りをかい、人々の言語をバラバラにしてしまったというエピソードがありましたね。
それは、後にコインロッカーを子宮として育った2人の嬰児たちの復讐を示唆していたようにも思います。
17年前、コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたのものが徐々に姿を現わし始めた。どんな声に支えられて蘇生したのか、思い出した。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。
②ハシの物語
コインロッカーで産まれたハシは、強い自閉的傾向を持ち、自らの箱庭を世界を壊されることに強い拒絶を示していました。
体も虚弱で社会性に乏しかった彼は、キクと共に精神科医から受けた催眠で精神的な落ち着きを取り戻します。
しかし、生来音への天才的な才能と感性を持ち合わせていた彼は偶然かけられた他の催眠術によって消えていたはずの精神科医からの催眠の記憶と、その時に使われた音を思い出し、たくさんの音を通じて自分の魂を揺り動かしている音を探すようになります。
健康的な肉体を持ち、精神的なアンバランスさを抱えながらも真っ直ぐに成長していくキクと比して、ハシはより多くの歪みを抱えていて何度も生まれ変わり変化していきます。
彼は今だったら何らかの発達障害や高機能自閉症の診断がなされたかもしれませんが、そういった障害を持っている方が与えられる天与のギフト=音楽的才能が彼にももたらされています。
島を離れたハシは、その才能で過去を消し去り生まれ変わりたかったのでしょう。
コインロッカーに捨てられた過去も、キクへのコンプレックスも、桑山やタツオらの関わった人たちとの記憶も全て捨て去って。
しかし、ポップスターとして成功してメディアに消費されていく彼は精神を蝕まれていきます。
自らの自覚もないままに。
ミック・ジャガーのように舌を切る描写や、強迫観念からパートナーのニヴァを刺す場面なんかは往年のパンク、ロックのスター達のことを思い出されました。
ハシと二ヴァをシド&ナンシーになぞらえるのは多少誇張しすぎかもしれませんが(^_^;)
音楽を商品として消費されて、磨り減って使い棄てられるハシ。
これもメディア、ポップカルチャー、資本主義といった近代化に伴って消費されていく音楽を表現した鋭敏な村上龍らしい表現だったと思います。
そうしてダメになってしまったハシはこの狂ったシステムを、社会を、街を、破壊し変容してくれる何かの到来を待ち続けます。
この街はブヨブヨに膨れ上がった銀色のさなぎだ。巨大な蝶はいつ飛び立つのだろうか。地面からの熱気をさなぎのまゆが包み込む。いつかそれが爆発するだろう。
③キクの物語
キクはハシと比べたら健康な肉体に恵まれ、幼少期の混乱はあったものの、健やかに育ったと言えるのかもしれません。
けれど根底には破壊衝動が渦巻いていて、来るべきカタストロフィに向けてその狂気は彼の精神の奥深くで眠り続けていました。
ガゼルがキクに教えた「ダチュラ」という言葉も、時限爆弾のようにキクの体内にセットされ来るべき日に全てを破壊するために時を刻み続けるようになります。
ガゼルの生い立ちや廃墟に住み続けている理由は明かされていませんが、彼との関わりの中でキクは棒高跳びをはじめて、破壊をもたらす「ダチュラ」を知ります。
ある意味ではキクのメンター的な存在だったのかもしれませんし、彼もまたこの世界を憎み続けて破壊を願う者だったでしょう。
廃墟になった街を眺めながらガゼルは何を思っていたのでしょうか?
過失から母親を殺してしまい、キクの精神はとても危うい状態に陥りますが、山根をはじめとする少年院(刑務所?)の仲間との関わりの中で精神のバランスを何とか保つことができるようになります。
キクは奇しくも育ての母親である和代と、実の母親の2人の母親を失うことになります。
自分をコインロッカーに棄てた母親。
産みの母親を殺すことはキクが抱いていた憎悪の解放であり、その結実であるように思いましたがそこで物語は終わりませんし、彼は憎しみを糧に再び立ち上がります。
誰に?
何に対しての憎しみ?
それは、コインロッカーに自分を棄てた母親への憎しみというより、そんな状況を作り出した現代社会に対しての全体的な憎しみだったのだと思います。
ダチュラ。
全てを破壊するおまじない。
キクはアネモネの助けを借りて脱獄とダチュラの入手を企てます。
全てを破壊するために。
自分が最も欲しいものが何かわかってない奴は、欲しいのものを手に入れることが絶対にできない。キクはいつもそう考えている。
キクは自分が何を欲していて、どこにたどり着きたいのかを常に明確にイメージしていたのでしょう。
きっと、彼が産まれ落ちた瞬間から。
銀色の、鉄の子宮の中で。
④破壊せよ。2人の物語が交わる時。
キクにもハシが必要だったのだ。
キクとハシは肉体と病気の関係だった。
肉体は解決不可能な危機に見舞われた時病気の中に退避する。
物語の中枢は、コインロッカーで産み落とされた2人の嬰児と、彼らの憎しみと破壊ですが、キクとハシの2人の関係性も物語の大きなファクターになっています。
精神的な双生児のような2人にしかわかりえないような、特殊な繋がりこそが冷たいコンクリートの壁に楔を打ち込む熱と力になったではないでしょうか?
ハシがキクに守られたように、キクもハシに守られていて。
お互いが離れていても、「コインロッカー・ベイビーズ」として精神は繋がり続けて、現代社会を破壊することに対してそれぞれの場所で共闘し続けている気がします。
キクとハシの関係は、『AKIRA』の金田とテツオのようだと言っている人がいましたがそんなんだっけか?
『AKIRA』も久々に観直してみたいですね。
ハシはコンプレックスから過去の記憶を全て消し去って、キクのことも消したいと願って、でもそれでも彼の存在から逃れられずにアネモネを手に入れることで凌駕しようとも考えます。
過去の記憶を全て捨て去って生まれ変わろうとしながらも、キクのことだけは真夏の太陽みたいに強烈に焼き付いて、ハシの中から消えていかなかったのでしょう。
当然。
同じコインロッカーという子宮から産まれた兄弟なのですから。
終盤にかけて、キクとハシはお互いに離れているのですが、まるで魂で呼応するように同じイメージと思考を共有するようになります。
破壊と殺戮。
13本の塔と無数に作られた鉄の子宮の破壊のイメージ。
何一つ変わっていない。
誰もが胸を切り開き新しい風を受けて自分の心臓の音を響かせたいと願っている、渋滞する高速道路をフルスロットルですり抜けて疾走するバイクライダーのように生きたいのだ、俺は跳び続ける、ハシは歌い続けるだろう、夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、俺達はすべてあの音を聞いた、空気に触れるまで聴き続けたのは母親の心臓の鼓動だ、一瞬もやすみなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つだ。キクはダチュラを掴んだ。十三本の塔が目の前に迫る。銀色の塊りが視界を被う。巨大なさなぎが孵化するだろう。夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊たちが紡ぎ続けたガラスと鉄とコンクリートのさなぎが一斉に孵化するだろう。
このラスト近くの文章がめちゃくちゃ好きで。
いや、基本的に村上龍の文章って句読点で区切りながら長々続いてめっちゃ読みにくいんですけど、時々ハッとするような詩的な文章が書かれていて、それがとてつもなく物語の中のイメージとリンクして爆発的に脳内を麻薬物質のように駆け巡るんです。
強制的にイメージの可視化をする文章みたいな。
限りなく透明に近いブルーみたいな。
読んでいる人間の脳とか魂とかに理屈を超えて刺さる物語だと思います。
コインロッカーに子供を棄てる母親たち。
そして、そこが川や海ではなくて、コインロッカーであったということ。
鉄の子宮。
あちら側とこちら側。
薬島のようなスラムと、富んだ十三本の塔。
全てを飲み込んで濁流のように進み続けて、物語はキクとハシを中心に渦を描いていきます。
その憎しみの渦の中にダチュラが投げ込まれた時に全ては破壊され、リセットされます。
ハシの箱庭、ガゼルが住んでいた地下の廃墟、そして・・・。
そこに連なるのは破壊された十三本の塔と近代化された資本主義社会そのものでした。
その中で産まれたハシの新しい歌とはどういったものだったのでしょうか?
5、終わりに
大学生の時に読んで、「なんかすげぇ!!かっけー!!」って思った『コインロッカー・ベイビーズ』ですが、今回言語化するのはわりとしんどくて時間がかかりました。
そもそも書評とか書いて言語化する意味あんの?
「なんかすげぇ!!」でよくねぇ?って言われると、「そだねー」って言うかもですが、それでも物語の中まで掘り下げることは自分の内面も掘り下げることに繋がるし、言葉や表現が先鋭化していくようにも感じることがあります。
別にそんなしんどい楽しみ方をしなくても良いと思うんですがね(^_^;)
まぁ、でもブログで書評を書く事は僕のライフワークになりつつあるし、今後も続けていきたいですね。
『コインロッカー・ベイビーズ』の書評を書くことで、僕が村上龍という作家のどういう部分が好きなのかということが自分なりにはっきりとわかった気がします。
なんとなくかっけーで読んでましたが、彼ほどイメージを誰かの脳裏に詩的に映像として送り込む文章、物語を書く作家はいないと思います。
暴力、快楽、放熱そういったものが強烈に脳裏に刻み込まれる。
そういった鮮烈さを伴った物語を描ける作家は村上龍の他にいないのではないでしょうか。
うだるような暑さの中でコインロッカーで産まれたキクとハシ。
物語は常に夏と暑さを感じされるようでした。
今年の夏も暑かったですが、そんな熱の中で、世界を破壊すべく放たれた灼熱のような憎悪の物語を読めたのは僥倖だったのだと思います。
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