1、作品の概要
『門』は、夏目漱石の長編小説。
1911年に春陽堂より刊行された。
1910年に104回にわたり、朝日新聞にて連載されていた。
『三四郎』『それから』に次ぐ前期三部作の3作目の作品。
1973年に『わが愛』というタイトルで、1993年に『門-それから』というタイトルで、それぞれドラマ化された。
路ならぬ恋の末に結婚した夫婦の、薄暗い日常を描いた。

2、あらすじ
宗助は大学時代の親友・安井から妻・御米を奪い、周囲から後ろ指をさされながら結婚をしたという暗い過去を持っていた。
夫婦には子供がなく、流産、死産を繰り返していた。
安井を裏切った罪の意識から、世間から隠れるようにひっそりと東京で暮らす2人。
宗助は、父の死後財産の整理などを叔父に任せていたが、その叔父も死に、弟・小六の学費を打ち切られる事態となる。
小六から相談を持ち掛けられても、問題解決に積極的に取り組まずに弟からも呆れられていた宗助。
自分の家の大家で、資産家の坂井と懇意になるが、彼の口から意外な人物の名前を聞き、宗助は大きく心を乱すが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
最近、夏目漱石が気になる作家の1人で、『三四郎』を少し前に読んだので、前期3部作を読んでみようとブックオフに行きました。
『それから』が置いていなかったので、順不同ではありますが物語に直接的なつながりはないようでしたので、110円で売っていた『門』を買って読むことにしました。
読んだあとに調べてみたら、『それから』は友人の妻を奪う話で、『門』は奪ったあとの話というふうに、同じ物語ではないもののテーマが地続きのような感じでしたので、順番に読めば良かったと後悔しました。
4、感想(ネタバレあり)
『こころ』でも描かれていたテーマでしたが、親友の安井を裏切って、彼の妻を手に入れた罪悪感が物語の中心に描かれています。
ただ、激しい葛藤と、罪の意識にじりじりと焼かれているというふうでもなく、夫婦2人でどことなく後ろ暗さを抱えながら、社会の日陰者としてぼんやりと生きているという印象でした。
煮え滾る地獄の池ではなくて、ぬるま湯にずっと浸かっているようなイメージ。
だけど、救われることはなく延々とぬるい苦しみにのたうっているような日々。
激烈な痛みの果てに救いが存在するならそちらのほうが幸福な気すらします。
淡い光に灼かれ続けるよりは・・・。
宗助と御米の一生を暗く彩った関係は、二人の影を薄くして、幽霊のような思を何所かに抱かしめた。彼等は自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んでいるのを、仄かに自覚しながら、わざと知らぬ顔にお互と向き合って年を過ごした。
宗助の大学生時代は利発で、周囲はみな友達といった感じで、家庭も裕福であったので、パリピで陽キャといった印象でした。
まるで、僕の若いころみたいですね。
しかし、親友の安井を裏切り御米と結婚し、周囲からは蔑まれて、父も死に困窮したこともあって、見る影もなく昼行灯のような男になってしまっています。
弟から進学について佐伯の叔母と話すように言われても、のらりくらりとかわしてなかなか動かず。
弟からも愛想をつかされる始末ですが、御米もそんな夫を叱咤するわけでもなく、調子を合わせるようにして生活しています。
序盤は、そんな宗助と御米との淡々としたまるで老夫婦のような日常が描かれています。
宗助は市役所に勤めていますが、それほど多くの給与をもらっているわけではないようで、生活はギリギリで彩りに欠けています。
弟の小六の学費の問題と、叔父に管理をお願いした父の遺産のことで悶々としながらも、問題を先送りにする日々。
物語に動きはなく、退屈な話が続いていきますが、あえて序盤にこれでもかと冗長な展開と日常を描いたのは、劇的な展開でなされた略奪愛の成れの果てを描きたかったように感じました。
そうして、斯く透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤に、塗り付けたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経て昔の鮮やかさを失っていた。互いを焚き焦がした燄は、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活は斯様にして暗い中に沈んでいた。
互いを焦がさんとするような赫赫と燃える愛欲と熱情。
貪るように、嵐がすべてを薙倒すように、2人の人生を変えてしまったのだとしたら。
その先の物語が、物憂く、薄暗いものだったとしたら、これほど空虚なことはないでしょう。
退屈で、窮屈な日常の描写にはこんな呪いが籠められていたように感じました。
『それから』のそれからを描いているという『門』ですが、動的な印象を持つ『それから』に比して、『門』はとてもひっそりとした作品です。
これには、漱石の持病の悪化、健康状態が起因しているのではないかという説もあるようですが、僕が読んだ感想としては、あえて静的でもやもやと煮え切らないような物語を目指したようにも感じています。
燃え上がった情愛の後の、生ぬるい地獄のような日常。
罰なき罪。
宗助が坂井の家でふいに安井と対面し、面罵されて、何もかも捨てて1人で門をくぐり仏門に入るみたいな動的な物語にもなしえたはずです。
しかし、夏目漱石はあえてそうしなかったんじゃないかなと思います。
ドラマティックな贖罪をあえて描かなかった。
贖罪の機会を与えられなかった罪は、永遠に魂の深奥でじゅくじゅくと膿みつづけるのです。
贖う機会を逸してしまった罪というのも、いたたまれなく厄介なもののように思います。
宗助は、安井の名前を聞いた時に彼と再会してわだかまりを解くことも出来ず、仏門をくぐって、その教えと禅の精神の中から救済を得ることもできない。
ただ、どうしていいかわからずに惑い、混乱するだけの、煮え切らない存在です。
彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
神なき人々に、訪れなかった救済。
宗助は門を通る人ではなかったのに、その必要性がない人間でもなかった。
すなわち、救いと教えが必要なはずの人間なのに、そのための覚悟も資格もなく、退くことも進むこともできずに、ただただ門の下で立ち竦む。
いや、辛いっすね。
世間的な評価はわかりませんが、僕としてはとても好きな作品でした。
地味で静的な作品かもしれませんが、奥行きがあって、ある種の人間の深い懊悩が描かれているように思いました。
苦悩だけではなくて、夫婦ののんびりしたやり取りや、宗助と坂井の交流など心温まるような場面もあって良かったです。
彼の頭を掠めんとした雨雲は、辛うじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、色々な程度に於て、繰り返さなければ済まない様な虫の知らせが何処かにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。
最後の方に、こうやってサラっと書かれてましたけどね。
慄然と、背筋が寒くなりましたよ。
今回はたまたま逃れられたけど、彼らの罪は、不安は畢竟頭上に垂れこめていて、運命や理において繰り返される。
いや、こわー。
ずっと逃げて回らなければならない宗助が不憫になりました。
今、漱石を宗助ってタイプミスしましたが、自身の罪科を投影しているの?って一瞬思いましたがどうなんでしょう。
『それから』→『門』→『こころ』って、漱石の全作品をまだ未読な僕は断じることはできませんが、この3作の流れが感じられました。
宗助の罪の行く先が、贖罪も許せなかった魂が帰着するところは、自死しかなかったのか?
贖うことができない罪と、背徳の情愛の先にある薄暗く矮小な日常、その温き地獄に背筋が寒くなりました。
5、終わりに
これは弱さに徹底的に寄り添った物語だと思います。
これだけ徹底的に、繰り返し、描かれた弱さはあまりない。
太宰治の自虐作品を想起させられますし、変に私小説的でもなくて、破滅的な日常が描かれていない分だけ、地獄は深く、救いようがないように思います。
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