ヒロの本棚

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【本】夏目漱石『こころ』~罪と死の影を抱えながら~

1、作品の概要

 

『こころ』は、夏目漱石の長編小説。

初出時は『心 先生の遺書』であったが、後に改められた。

1914年4月20日~8月11日まで、朝日新聞に連載。

1914年、岩波書店から刊行された。

彼岸過迄』『行人』に続く、過去三部作の最後の作品となる。

新潮文庫版は2016年までに718万部売れており、文学作品として日本史上最も売れた作品。

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*写真は集英社文庫版で、イラストはデスノートなどで有名な小畑健が担当している。

 

 

 

2、あらすじ

 

●上「先生と私」

「私」は鎌倉の海水浴の折に先生と出会い、家に遊びに行くようになる。

妻帯者の先生は定職を持っていなかったが、余裕のある生活をしていた。

豊富な知識と、独自の哲学を持ち、厭世的な先生に惹かれていく「私」だったが、先生は「私」と一定の距離を置き、こころの奥に何かを抱えているようであった・・・。

先生はそのうちに自分が抱えている事柄をそのうち話してくれると「私」に約束したのであった。

 

●中「両親と私」

大学を卒業し、父親の病気もあって帰郷した「私」だったが、世俗的で働き口の話などばかりの実家に辟易していた。

働き口のことで先生と手紙とやり取りをしていたが、いよいよ父の具合が悪くなり、遠方の兄と義弟を呼び寄せる事態となった。

そんな折に届いた先生からの遺書のような手紙(というにはあまりに分厚い文書)を読んで、「私」は東京行きの列車に飛び乗った。

 

●下「先生と遺書」

先生の手紙で構成される、第一人称で過去を振り返る話。

両親を亡くし、その財産を貪った叔父と決別して、東京に出てきた先生。

下宿先は未亡人と、その娘のお嬢さんの女2人の世帯であった。

お嬢さんに惹かれていく先生は、友人のKをよんどころない事情から同じく下宿させるが、複雑に絡み合った恋愛模様からそれぞれの運命は変調を来す・・・。

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ

 

日本の文学史上に名を残す傑作。

読書ブログなんて立ち上げているヒロ氏なら、当然14回ぐらい読んでいるんだろう・・・、とか思われるかもしれませんが、バッチリ初読でした。

なにげに夏目漱石はあまり読んでなかったんですよねぇ・・・。

しかし、前々から気になっていた作家であり、『こころ』は読んでみたい作品でした。

 

 

 

4、感想・書評

①私と先生の関係性、なぜ私は先生に惹かれたのか?

「私」は、鎌倉の海で海水浴中に先生の姿を見かけて声をかけて懇意になります。

何か目立った長所があるわけでもなく、厭世的で物静かな先生に「私」はなぜ惹かれたのでしょうか?

それはこの時から先生が抱えている秘密と闇の深さを、「私」が直感のようなものから嗅ぎ取っていたからなのでしょう。

 

『こころ』は「上・中」が第一人称で未来の視点から描かれた話であり、序盤から先生がすでに亡くなっていて、先生の妻がその理由をいまだに知らないことも記されています。

そうして、先生の最期を知ってのちに「私」はなぜ自分が先生に惹かれていたから、近づこうとしていたかを述懐しています。

私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければならないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかもしれない。

もちろんそれだけではなくて、先生の深い思慮や、ものごとの考え方などに惹かれた面はあったとは思うのですが、究極のところ「私」が先生に求めていたのは、その胸の奥に秘めた深い闇でした。

 

そして、先生がのちに手紙に書いているように、「私」が先生に対して何を求めて懇意になっているのか、先生は理解していました。

その上で、「私」のことを近しい存在と認めて、妻にさえ明かさなかった(愛する妻だからこそとも言えますが)自らの罪と闇を、「私」に開示することを決心します。

あなたが無遠慮に私の腹の中から或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。

しかしそれは自らの命の灯を吹き消すことをも意味していました。

 

先生ははじめ自分と懇意になりたいと頻繁に遊びに来る「私」にそっけない態度をみせますが、それは「私のような者に近づいても何も得るところはない」という想いからの行動でした。

しかし、そうだからといって「私」のことを疎んでいるわけでもなく、だんだんと受け入れていき他の誰を疑っても、「私」のことは疑いたくないというような特別な存在に感じるようになっていきます。

先生は偽悪者として振舞っていても、本質はナイーヴで優しく愛に飢えているような人間だったのだと思います。

人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを。手をひろげて抱きしめる事のできない人、ーこれが先生であった。

 

この一文を読んで、本当に切なくなりました。

親族に裏切られて、人に対して疑いを持つようになり、それでも心の奥底では人との繋がりを愛情を求めていた先生。

ハリネズミのジレンマ」じゃないですけど、他者の愛情を求めながらも自らの心のトゲを引っ込めることができない。

そんな切なさを持った人物で、とても優しくて繊細な人間であったが故に裏切りから変容してしまい、素直に愛し合うことができない人間になってしまった・・・。

そんな運命の皮肉を感じました。

 

②家族との関わりの中で炙り出される私の人間性

「中 家族と私」では、家族との世俗的なやり取りから、どこか浮世離れした先生の特異性がありありと感じられるようになります。

母親は、「私」が先生を敬愛しているのをみて、社会的地位があり収入もあるのだから先生と呼ばれているのであり、そんな人物なら息子の良い働き口も紹介してくれるだろうという思い込みをします。

まぁ、確かに常識的な考え方かもしれませんが、先生はそのような存在ではないですし、そんな価値観を持った母親をはじめ家族たちには先生のことを説明するのは難しいと思えます。

 

そういった権威や、社会的地位に対する無知さ。

盲目的な崇拝。

そんな世俗的で了見の狭い感覚を、夏目漱石は皮肉として描いているようにも思えます。

 

「私」の兄などは先生の対極に存在するような人間で、権威主義実力主義的で、自分に自信があって目に見えるものだけを信じているような存在です。

先生が抱えている罪や、ナイーヴさや、物事の捉え方などはきっと何の評価にも値しないものであったのでしょう。

しかし、そういった家族の実際的な価値観が、却って先生の特異性や世俗離れした考え方を浮き彫りにしていったように思います。

 

この章では先生と私の直接的なやり取り(手紙と電報を除けば)はありませんが、先生から離れて彼のことを知らない第3者の評価を聞くことは、私にとって先生との関係性を見つめ直すことにつながっていったように思います。

 

③先生が抱えていた闇の正体

この小説の最初の部分から、繰り返し触れられてきていた先生が抱える闇。

その正体は、先生の妻にすら開示されず、それが故に夫婦関係に亀裂が入ったほどでしたが、それでも先生は自らの心の中に巣食っている昏いなにかを彼女に伝えることは決してありませんでした。

むしろ、妻だからこそ、真っ白な心を持ったお嬢さんだからこそ、その心を穢したくなかったという先生の繊細で思慮深い愛情が故だったように思います。

 

とても、不器用で頑なで、繊細な感覚と精神を持った先生。

もう少し狡猾に、図太く生き抜いていられたらと思いますが、そんなふうに生きることを彼の魂が許さなかったのでしょう。

そんな不器用さと純粋さ。

NIRVANAカート・コバーンらの早逝したロックミュージシャンみたいだと思います。

 

だからこそ、自らのエゴイズムがもたらした悲劇的な結果に、倫理から外れたように思える言動に耐えられなかったのでしょう。

実際にKのお嬢さんへの恋心の告白を聞いたあとの先生は非常に狡猾な策略家であり、巧みにKの心理を把握し、コントロールしながらお嬢さんを手に入れたのでした。

果たしてKはどのような気持ちだったのでしょうか?

 

最も信頼していた親友である先生にさえ裏切られたがゆえにより深く世の中に絶望したのでしょうか?

そして、あてつけのように自殺してみせ、先生が狡智の末に手に入れたささやかな幸福を穢し、呪いを与えようと?

そうではなくて、Kは深い諦観の中で自らの命を絶ったように僕には思えます。

 

そもそも失恋を前に、彼の心は挫折で真っ二つに叩きおられてしまっていて、壊れかけていたのではないでしょうか?

そうして、風に吹き消される寸前だった彼の命の蝋燭の灯火を吹き消したのはやはり先生の息吹だったのだと思います。

Kは自らの死を先生に背負わせる気はさらさらなくて、潔く退場するつもりだったのかもしれませんが、先生の繊細な感性は彼の死を自らの罪と心の枷のように感じ、生涯忘れることはありませんでした。

 

そうして、常に感じていたKの死の影に囚われてやがて彼の死に殉ずることになってしまったのでしょう。

明治という時代の終焉、先生がその最後に対しても殉じたのはこの物語にとってもうひとつ大きな意味を持っていたのだと思います。

 

繊細な感性を持った純粋な人間ほど、こういった自らの心に巣食う闇に、汚穢に耐えられなくなってしまうのでしょうか?

憎まれっ子世にはばかると、と言うとどこかチープかもしれませんが、厚顔無恥人非人ほど図太く生き抜いていくのかもしれません。

儚く美しい存在ほど永らえることは難しいのかもしれません。

世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

 様々な近代文学の作家が対峙したエゴイズム。

夏目漱石もまた、その宿命的退治が逃れられませんでした。

 

 

 

5、終わりに

 

平易な文章でありながら、深い問いを投げかける夏目漱石

刊行から100年以上の時を経て尚、『こころ』が人々の心を捉え続ける深い物語であるその理由がわかったよう思いました。

どれだけ世の中が変わろうとも、人の想いは、煩悶は、エゴイズムは不変なものです。

そういった変わらない人間の主題に果敢に触れて、しかも平易な文章で誰もが親しめるような物語を創造した夏目漱石はやはり稀代の文豪であったのだと思います。

 

ツィッターで懇意にして頂いている方が、僕が好きな作家・平野啓一郎さんの文章が夏目漱石に似ていると言われていて以来気になっていた作家でしたが、確かに平易な文章ながら奥行が深いところや、ここぞという時に簡潔な文章で秀逸な心理描写・情景描写を為しているところなど似通った部分があるのかもしれないと思いました。

特に『空白を満たしなさい』以降の平野啓一郎の文章は平易さと簡潔さを意識しているように思いますし、実はそういった文章を書くことはとても難しいことなのではないかと思っています。

 

平易でかつ、無駄がなく、それでいて美しい文体。

それこそが夏目漱石の文章で、多くの人々に読まれて心に深く刻まれるようになった物語を描けた所以のように思います。

 

hiro0706chang.hatenablog.com

 

 

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